建築道具館ー神輿職人・赤穂新太郎の道具展示

P9040066 江戸期、栃木市蔵の街大通り(例幣使街道)中央には川幅一間の清らかな用水が流れていた。江戸初期には町人の飲料水となり貴重な用水の役割を担っていた。

 この用水堀の源は現在の万町交番にあった北木戸口の北方にあった大ぬかり沼から流れていた。

 栃木市史史料篇近世の冒頭に掲載されている「例幣使街道栃木宿絵図」には多数の杭が両岸に打たれている大ぬかり沼が大きく描かれている。

P9040067  大ぬかり沼に注ぐ用水の一つに大杉神社からの湧水が源になっている。

 湧水から大ぬかり沼に流れる堀川は他の湧水と合流して大ぬかり沼がつくられていた。現在は埋めたてられた大ぬかり沼の上を昭和7年に開通した道幅十間の北関門通りが合戦場町に向けて通っている。

 何時、大ぬかり沼が埋めたてられたのか?栃木市役所にメールにて問い合わせをした。栃木市文化課より「天保14年(1843)~明治9年(1876)までの間に埋めたてられた可能性が考えられます」と絵図を検証しての回答があり、「明治9年12月の字引絵図『下野国都賀郡大杉新田図』には、当該場所付近に既に番地が交付されており、人が居住できる状態にあったものと考えられます」と既に大ぬかり沼跡には人が住んでいたという回答を受けた。幕末から明治初期にかけて大ぬかり沼が埋め立てられていったことを記した古文書など新たな史料が見つかれば、栃木市の歴史の流れが明らかになっていくと思えた。

P9040070  大杉神社(栃木市大町14-2)は慶長年間(1596~1615)に天海僧正が深く大神の霊感を感じ、常陸國安波の今宿大杉神社より御分霊を勧請して創建されたと云われている(下野神社沿革誌・明治36年)。

 当時、この一帯が大ぬかり沼、長沼などの湧水から生まれる沼沢地としての景観が霊感を感じさせたのかもしれない。

 この大杉神社の西側は一段盛り上がった地帯を例幣使街道が通っている。

P9040074  鳥居から西側の例幣使街道沿いに出ると、かつて宮師・神輿職人、六代目伊豆守則直こと赤穂新太郎さんの作業場が街道沿いにひっそりと建っている。

  平成10年(1998)に赤穂新太郎さんは亡くなっているが、この作業場にはかつて100年以上継承されてきた鋸(のこ)・鉋(かんな)・鑿(のみ)など586丁の道具があり、電気ドリルは一つもなかった。すべてが手仕事職人の世界であったことを物語っている。

003-2_20200911064201  赤穂新太郎さんは大正5年(1916)に栃木市大町・建具屋「建長」の父、長吉の長男として生まれている。父・長吉は大正3年(1914)に五代目宮師を四代目真坂鉄次郎(栃木市都賀町家中)から引き継いでいた。そして、昭和30年(1955)に六代目宮師を父・長吉から継承されている(吉羽和夫著「神輿職人と技の詩」より)。

 神社の本社をつくるのは宮大工と称されているが、宮師とは建具職人を経て、神社に祀られる小さなお宮や御神輿を専門につくる職人を称している。また、栃木市史では赤穂新太郎さんを宮大工として紹介しているが、それは宮師の誤りである。

026  東京都新宿区高田馬場3―11-2内藤ビル301号室にある社団法人全日本建築士会事務所内に赤穂新太郎さんが持ち、使用していた128種586丁の道具が基本になり、平成2年(1990)に「建築道具館」として開館、展示されている。

 全日本建築士会(会長・上岡秀休)は昭和33年に設立され、中小の工務店、設計事務所の技術者6000名で構成されている。その活動は1・2級建築士受験講座の開催や月間会誌「住と建築」の発行や各種ゼミナーを開催し、木造住宅の伝統を守り発展させていく活動を行なっている建築士の団体である。

Img_00391  「建築道具館しおり」には赤穂新太郎さんのプロフィールを次のように紹介している。

 『赤穂新太郎さんは尋常小学校当時から父親の仕事場の片隅で、見よう見真似の手仕事に就く。早くから鋸や鉋を器用に使いこなしたが、それが四代目、五代目の目にとまることになった。尋常小学校卒業と同時に、本格的な建具づくりを覚え、二十歳を過ぎる頃には、建具全般から各種の家具、また船づくりも手がけた。やがて、五代目のお宮やお神輿づくりを手伝うようになり、建具職人から宮師の道を歩み始める。

  三年の軍隊生活を除いた、三十数年の建具づくりを経て昭和30年(1955)5月伊豆守則直六代になる。六代目になってからの主な仕事は、お宮と神棚、そしてお神輿づくりで、最初に六代銘のお神輿は、昭和30年(1955)東京は芝白金、志田町の注文によるものだった。以来、栃木市内の仕事場で宮師として働く』

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 後継者のいない赤穂さんにとり、生前より代々受け継いできた道具をどうするか思案していた。そんな折に赤穂新太郎さんの技と道具を「最後の職人・御神輿師」(昭和55年、1980年発行)として表した著者の吉羽和夫氏の仲立ちにより、全日本建築士会として道具展示の構想が生まれ、開館について協議が行われた。

 そして、匠の心を受け継ぎ、日本の伝統的な木造建築文化を継承していこうと考えている全日本建築士会として、平成2年(1990)に全日本建築士会付属建築道具館を開館をしている。

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 全日本建築士会スマイルネットには、「この道具館設立を知った会の内外の方々から、貴重な道具の寄贈がつづいています。使い

手の温もりが残る道具を揃えたユニークな道具館として、建築道具館は着実に歩み続けていこうとしています」と紹介され、「単に古いとか珍しいという意味で集められた道具ではなく、使い手に守られ、また鍛えられ、日々その技を木に伝えてきた生きた道具を集めた独特の道具館を目指している」と開館主旨が記載されている。そこには木と向き合う木造文化における道具として価値評価が含まれていると思えてくる。

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 全日本建築士会建築道具館に私が訪問したのは、今から6年前の平成26年(2014)の9月であった。全日本建築士会事務所内の北側と西側の壁一面に道具が展示されていた。

 「国際技能オリンピックの際にフランスの技能士の方たちが見学に訪れたり、近くの小学校の課外授業としてお見えになっていますよ」と私を応対してくれた事務局の人が話してくれた。

017  入って右の南側に白木神輿が展示されているのが目に入った。

 昭和25年(1950)の赤穂新太郎さん作成の習作神輿の展示である。

 吉羽和夫著「神輿職人と技の詩」の中で赤穂新太郎さんがお神輿づくりについて語ってある箇所が次のように記載されている。

 「御神輿ってのはね、御神体の乗物なんですよ。今流にいえば、さしずめ御神体の自動車ってとこだよね。昔は乗物に輿ってのがあったでしょう。それで御神体の輿ってことから、御神輿というよび名がでたんですよ。だから、御神輿は御神体を移動するのに使ったもんで、形としてはお宮のミニ版としてできたんだよね」。

 「移動する輿なんだけど、お祭りのお神輿は落とされるもんだよ。だから、つくりは頑丈でなければならない。受ける力を少なくする仕組みが必要。その役目を斗組(ますぐみ)がしている」

B25342788511  さらにお神輿の構造として、「屋根、斗組み、胴、高欄、台輪の五つからできており、ホゾで仕上げていくことがほんとの御神輿なんです。担がれる御神輿は何といっても建具の華です」と赤穂さんは語っている。

(注)ホゾ組み…ホゾ(凸)を作った材をホゾ穴(凹)を開けた材に叩き入れ木材を結合させる建築技術

 著者の吉羽和夫氏は、当初、建具づくりの名人として赤穂さんに会ったのが、昭和53年(1978)の5月であった。道具の歴史を専門にしていた吉羽氏は栃木市大町にある赤穂さんの作業場に通い、赤穂さんから「実技なしの手の道具とつくりにある技」を学ぶため通っていた。その時、お神輿づくりをしていた赤穂さんからの説明は難解であったと著書に書かれてある。

1244371  それでも昭和55年(1980)に「最後の職人・御神輿師」という表題で赤穂新太郎さんの建具職人から宮師・神輿職人の技と道具について書きあげている。さらに、10年後の平成2年(1890)に建築道具館開館にともなう赤穂さんの技の書籍として「神輿職人と技の詩」を発刊している。その粘り強さと執着に驚かされる。

 著書「神輿職人と技の詩」の中で、赤穂さんと向き合い、著者が関心を深めた箇所が記述されている。それは、「お神輿づくりには、建具づくりにあるすべての技、それより高度な技が求められている。その技を手にお神輿はつくられるが、そこにも固有な技ー建具づくりはとらえられない技が必要で、お神輿づくりならではのものといってよい。それは、動くことを前提にしたものであって、どこに技を集中させるかということをあえて(赤穂さんに)聞いてみた」と赤穂さんに突っ込んで聞いている。

Photo_20200910163301       「赤穂さんからは、『斗組みってこともあるけど、つめていえばホゾの具合、そのホゾづくりに勘どころがあるんだよ』と言って口を閉ざしたが、お神輿づくりにある究極な技が、建具づくりを象徴するホゾ組みあると理解できる」と結んでいる。

 ホゾ組みは木造住宅の軸組み工法として日本の木造建築の技の極意にもつながる見解でもある。

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 『六代目伊豆守則直 赤穂新太郎さんの586丁から』という見出しで展示コーナーの中に解説案内文が掲載されている。

 その内容は、「ここにある道具は、すべてがたった一人のつくり手に属しています。日々使い込まれ、改良されながら昨日まで作り手となり指先となって働いたものばかりです。江戸時代からのものもあり、名匠の手になる逸品もありますが、それがここに集められている理由ではありません。

023  私たちはガラスのケースに陳列して鑑賞する道具ではなく、使い手の技と魂を語ることのできる生きた道具を集め、保存していきたいと考えています』と建築道具館展示の主旨が記されてある。

  展示されている道具は、鋸(13種)、鉋(39種)、鑿(17種)、罫引(6種)、錐(6種)、彫刻刀(5種)、小刀(4種)、そのほかチョウナなど(34種)になっている。また赤穂さん以外の大工さんを中心にした道具が入り口右の西側に展示されている。

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 「神輿職人と技の詩」の中に、赤穂さんが「道具を使うのにはね、力はいらないんだよ。力で削ったり、切ったりしようとするから無理がいくんで、自然に切っていけばいいんだね。削ったり切ったりするのは、手でも腕でもないんで鉋だし、鋸でしょうな。だから、その鉋なり鋸が切れるようになっていればいいんで、力はいらないんだね」と吉羽さんに道具に接っする勘どころ等を語っている箇所等数多く書かれてある。

 「もの言わぬ道具が主役になり、人の技と心を語り始めるとき」と書かれてある建築道具館しおり。

 道具館を見ながら、大工さんなど建築関連に従事している人には手づくりの道具として大変参考になると思えた。しかし、専門外の私には今一つ「人の技と心を語り始めるとき」が見えてこなかったことが正直な感想として残った。 

019  それにしても北関東の小さな街の栃木市の神輿職人の道具が、東京の新宿高田馬場のビルの一室にどうして展示されてあるのか。そのことは何を意味するのか?そう私に建築道具館に展示されている道具から問いかけられたような気持になった。

 吉羽和夫氏の著作本には、赤穂新太郎さん本人の話を随所に盛り込み、建具づくりの基礎から職人と道具についての考察が描かれている貴重な著書になっている。しかし、赤穂新太郎さんがつくったお宮やお神輿の一覧表が著書に記載されていないのが残念なのだ。

 道具を通しての職人像に加えて、栃木で生まれ、神輿職人として生きてきた赤穂新太郎の作品を神社等現地で見てみたいと願うのは自然な気持ちではないかと思えてくる。そこから、赤穂新太郎さんがつくり上げた作品を通して、それを生み出した栃木のまちなどを思い浮かべることができると思えてくるからである。

006-2  栃木市嘉右衛門町例幣使街道沿いにある岡田記念館に総丈170cmの「塗り大神輿」が例幣使街道沿いに展示されている。

 大神輿の前には「万延元年(1860)十月弐拾八日 大工棟梁・平内木隅門人 石川吉蔵」と記された大神輿の縁起が掲示されている。彫工には栃木生まれの孤高の画家・田中一村の父、彫師・田中稲村の師匠筋の後藤流二代目渡辺喜平治正信の名前も記されている。

 そして最後には、「昭和52年1月16日大修復、栃木市大町 建具職・赤穂新太郎」と名前が記されている。赤穂新太郎さんがつくりあげた大神輿ではないが、大修復を行なった大神輿として展示されている。

 この嘉右衛門町岡田記念館大神輿については「目で見る栃木市史」のなかで、栃木宿の木戸の内と外の嘉右衛門町における商圏の対立を背景につくられたと記してあるが、携わった職人たちの名前だけが記載されているだけである。

 名もない職人が手掛けてきた道具や家具類などは生活の中で今も息ずいてきていることをどこか見落としているのかもしれない。職人の道具を通しての技など見落としているものが多々ある。生活に根付いた文化を見つめていくことも必要であると思えてきた。

                     《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「栃木市史史料篇近世」(昭和63年12月発行)/「目で見る栃木市史」(昭和53年3月発行)/「栃木郷土史」(昭和27年9月発行)/吉羽和夫著「最後の職人 御神輿師」(1980年12月河出書房新社発行)/吉羽和夫著「神輿職人と技の詩」(1990年3月データー・システム発行)/吉羽和夫著「職人」(平成10年11月丸善発行)/全日本建築士会「建築道具館」(所在地・東京都新宿区高田馬場3-23-2内藤ビル301、電話03-3367-7281)

〈追伸〉

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 「神輿職人と技の詩」の著者の吉羽和夫氏は、私が栃木商業高校2年の時の担任教諭でした。栃木図書館で吉羽先生の赤穂新太郎関係の著書を偶然に見つけた時、こういう世界で生きていたんだなと驚き、うれしい気持ちになった。

 また、会誌「住と建築」の縁で新宿区高田馬場の全日本建築士会の会議室で吉羽先生と高卒以来に再会し、同席していた赤穂新太郎さんにお会いしたのは、今から35年前の話になる。

 私の名刺を見て、赤穂さんは「万町交番裏に私の同級生だった勇次郎と同じ名前だな」と話したが、「その人は私の叔父です」と応えると、私の顔を懐かしそうに見つめた。どこか山伏の雰囲気のする容姿であったことを覚えている。叔父とは戦友ではなかったのではないかと思えてくる。

 50歳の時、年賀はがきの文面に「家庭菜園を行ない、大地に帰る準備をしています」と書いたところ、吉羽先生から「大地に帰る準備ではなく、大地と共に生きることでしょう」との返信はがきが届いた。「50歳の関所」を迎え、悩んでいた気持ちを見透かされたと思い、高校教諭の鋭さと怖さを感じたことを今でも覚えている。

 平成15年(2003)に亡くなられた吉羽先生が探求した道具の歴史にはとても及ばないが、やれる範囲で歴史を学んでいくつもりでいる。

 参考資料に記載した3冊の吉羽和夫著書の書籍はほかに、「原子力問題の歴史」(2012年2月河出書房新社)・「物づくりと博物館:消えた手仕事の世界」(2002年9月科学新社)・「消える籠職人」(1994年3月玉川大学出版部)・「自然味の職人たち:砂糖・塩・醤油」(1993年1月新日本出版社)・「ワインと博物館」(1986年2月共立)になっている。機会があれば読んでいきたいと思っている。

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映画「ひとりぼっちの二人だが」から浅草・坂本九を見る

20120711224135a431  夕闇が迫るダルマ船の上で、九太(坂本九)とユキ(吉永小百合)が、子供の頃に三郎(浜田光夫)らとダルマ船で海賊ごっこをして遊んだ思い出話をする。

 三郎はユキの兄・英二(高橋英樹)に助けを呼び行った。九太とユキはこのダルマ船で英二を待っていたのだ。

 三郎と九太・ユキの三人は小・中学校と同級生の仲であった。九太はユキに「もう俺たちは子供じゃないんだ。空や川や船や、他のものはみんな一緒だけれど俺たちだけが変わっちまったんだ」と別々の道を歩んでいることを寂しそうに話す。主題歌「一人ぼっちの二人」の歌が流れる。

〽幸せは僕のもの 僕たち二人のもの

 だから二人で手をつなごう

 愛されているのに さびしい僕

 愛しているのに 悲しい僕

 一人ぼっちの 二人

〽幸せな朝がきたように

 悲しい夜が来る時がある

 その時のために 手をつなごう

 愛されているのに さびしい僕

 愛しているのに 悲しい僕

 一人ぼっちの 二人

 (昭和37年、作詞:永六輔、作曲:中村八大、唄:坂本九)

 坂本九の啼きのある哀愁の歌声が夕闇のダルマ船の風景に響き渡る。好きなシーンの一つである。

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 昭和37年(1962)11月公開の日活映画「ひとりぼっちの二人だが」(監督:舛田利雄、脚本:熊井啓・江崎実生)をようやく観ることができた。

 中学2年の時に見た映画だが、吉永小百合らが浅草の街を駆け回るシーンや坂本九との人形劇、夜の花やしき、暗いダルマ船での兄の高橋英樹等印象に残っており、もう一度見たい映画でもあった。とりわけその年の3月に公開された「上を向いて歩こう」は併映の「銀座の恋の物語」に感動してまったく印象に残っていなかった。

 また、吉永小百合については前年の「草を刈る娘」で岩木山の麓をバックに明るく健康的な姿にファンになっていた。もっともこの時期の吉永小百合は「草を刈る娘」の興行収入増加から36年が16本、37年と38年が10本づつつという勤労高校生としての過密スケジュールの中での撮影が続いていたともいわれている。

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 雷門をバックにクレジットタイトルが映し出される中、和服姿のユキ(吉永小百合)が仲見世通り、浅草観音様参拝、浅草寺境内を歩き進む。

 水揚げされる前に柳橋芸者置屋から逃げてきたのだ。柳橋置屋の意を受けたヤクザが浅草寺本堂境内にいるユキを見つけ、連れて行こうとする。そこへ地元吉野組のチンピラがユキを助け、もみ合う。ユキは助けようとしているチンピラの中に小学・中学の同級生の三郎(浜田光夫)を見つける。三郎たちは服装を和服から洋服に着替えたユキを匿う。

  和服姿から洋服姿に変わる吉永小百合は大人から若い新鮮な娘に変わったように見えてくる。

20120712180754e9d1 吉野組兄貴分の内海(小池朝雄)の指示でユキを浜離宮に匿うとして、三郎らチンピラ達はユキを連れ松屋の先の吾妻橋水上バスに乗ろうとする。しかし、他のチンピラに見つかってしまう。三郎とユキら一行は隅田公園から、二天門、浅草寺境内、伝法院通り、そして六区街へと浅草の街をひたすら走り抜ける。

  撮影された昭和37年頃の浅草六区街は戦前・戦後の最盛期の賑わいから寂びれ始めていた風景に映る。そして、ユキを連れた三郎一行は六区街の端の地下にあるストリップ劇場の楽屋へ逃げ込む。

 8cffa75a732e1fc206cf327ff80dea721 モデルとなったのは平成24年(2012)に閉館した「浅草中映劇場」のビルだと思える。「浅草名画館」では昭和30年代の三本立映画を上映していた。そのビルの脇の地下にピンク専門映画館があった。三郎たちはそのピンク専門映画館(映画ではストリップ劇場)の楽屋に入ったことになる。

 地下にある天井の低いストリップ劇場には楽屋で雑役をしている九太(坂本九)がいた。三郎とユキは同級生の九太との再会を喜び、三郎は九太にユキを楽屋に匿ってもらうことにする。

 翌日、組長の命で内海は三郎にユキを連れてくるように指示する。三郎たちはストリップ劇場楽屋にユキを引き取りに行くが、三郎の裏切りを知った九太はユキをつれて逃げる。

201207112250538401   九太と逃げながらユキは「浅草が見たい」と言って、「花やしき」にある上空45メートルの「人口衛星塔」を九太と共に乗る。

 展望車から浅草の街を見下ろしながら、二人は瓢箪池で小便をして怒られたことや露店で働く母親に弁当を作ったこと等を話す。

Mmkhc6pe1  私は花やしきでの「ビックリハウス」や「ジェットコースター」に乗っている。しかし、この「人口衛星塔」は2016年に解体され、とうとう乗らずじまいになってしまった。

  浅草の街を展望しながらユキはいなくなった兄のことを話す。

 九太は「きっと浅草にいるよ。何処へも行けないんだ。浅草の人間は必ず浅草に戻ってくる」と浅草を離れられないことをユキに話す。

G6bzudmg1_20200820134401  九太は浅草国際劇場の裏、鳩小屋のある廃墟のビル屋上にユキを匿う。そこへ組にユキの所在を教えた三郎が来る。ユキを連れて行こうとする三郎にユキは「三ちゃん大嫌い。昔の三ちゃんは優しかった」と叫ぶ。九太と三郎は殴り合う。

 「金もねえ、学校も出てねえ俺たちに掃除でもやれっていうのか。ニコヨンやれっていうのか」とわめく三郎に九太は、「俺だって同じだよ。俺たちはみんな一緒なんだよ」というと「じゃあどうやって生きていけんだよ」と言いながら取っ組合いをする二人。

 「やめて」と絶叫するユキ。「あんなに仲の良かった二人がケンカするなんて、わたし柳橋に戻る」と言って立ち去ろうとするが、吉野組のチンピラが屋上に上ってくるのが見える。三郎はユキを連れて逃げる。

Elt_zbqa1  柳橋芸者置屋の娘・トモコ(渡辺ともこ)も加わり4人で言問橋附近の隅田川の岸で前後策を相談する。そしてこの窮地を助けてくれのは強いユキの兄、英二(高橋英樹)ということになり、ダルマ船の処で待ち合わせすることになる。

 画面から東武電車が隅田川の鉄橋を走っているのが見えてくる。今も松屋から東武電車は発車している。

 ユキの兄、英二はボクサーとして新人戦のリングに臨むことになっていた。ユキの居場所を吐かない三郎は吉野組からリンチ受けていた。そこに英二が現れ、ユキの居場所を聞き出すが、三郎をそのまま放置してダルマ船に向かう。

   ダルマ船で英二とユキは再会する。しかし、英二が三郎を見捨ててきたことにユキは「兄ちゃん大嫌い」と嘆く。ユキが三郎を好いていることを知る。そこに英二を後をついてきた吉野組のチンピラとの格闘があり、英二は新人戦に行く。内海らに八百長を強要されていたが、トモコから三郎とユキが北海道に行ったということを聞き、新人戦に勝利する。ユキと三郎は北海道には行っていなかった。

G6bzudmg2  映画のラスト。深夜の「花やしき」園内。ユキのことでコケにされ、八百長にも加担しなかったことで、吉野組から仕置きされようとした英二と三郎。三郎は「みんな一人ぼっちじゃねか。俺はたまんなくスケに惚れちまった。もう俺は違う、生きてるぜ、血が通ってきたぜ、泣くも笑うも死ぬも誰だって一人じゃいきていけねえぜ」と周りのチンピラ達に話す。置屋の女将きく(楠田薫)が現れ、ユキのことはもういいと内海らに話す。それでも英二に制裁を加えようとした時に佐藤刑事(高品格)が来て内海らを逮捕する。

 英二はユキと三郎に「ひとりぼっちの二人だが、仲良く暮らすのだ」と言い聞かす。九太が主題歌「一人ぼっちの二人」を歌い、「おしまい」と書かれた花やしきの門扉が閉まる。

 映画に登場する浅草の風景は今とほとんど変わっていなく、昭和を残している街が現在もあることを改めて知ることができた。合わせて、58年前の作品とは思えない映画を観ることができたのはうれしい限りだ。斬新でリズムある物語展開の早い映画として仕上がっている。今でも十分に楽しめる作品になっている。

エンターテイナーとしての坂本九

20120711230016a1e1  映画「ひとりぼっちの二人だが」は浅草の風景を背景に走り抜ける若者たちを描いた作品になっているが、舛田監督はもう一つの主眼としてエンターテイナーとして坂本九を発掘しようとして、この映画の中で描いているシーンがある。

 それは、吉永小百合とのデュエットと坂本九のコントを混ぜての歌謡ワンマンショウとである。そこにはテレビ文化の中で登場してきた「若い季節」や「夢であいましょう」に携わってきた坂本九の芸が「浅草」と結びつくかどうか見究めようとして描いているように見えてきた。いずれも人気のないストリップ劇場の小さな舞台でのシーンになっている。

  「ユキと九太の人形劇」では、指人形を操りながら、(九太)「もしもし、あなたはどなたですか?」(ユキ)「わたしは名前を落としてきたの」(九太)「これからどちらへおでかけですか」(ユキ」「わたしは道に迷った子羊です」(九太)「じゃあ思いだすんですよ。まず目を閉じて」…画面がユニークバレー団の踊りとなり、ユキの声が「わたしは逃げた夜の闇の中を」。九太に抱きかかえられたユキがパッチリと目を開く。17歳の可愛い吉永小百合の表情である。

M6tsda5u1 バレー姿のユキと九太は手をつなぎ踊り、歌う。(ユキ)「いつもニコニコしてんのね。悲しいことがないみたい」(九太)歌いながら「♪いろんなことがあるもんさ」(ユキ)「♪うれしい時には」(九太)「♪何にも言わずにポロポロ泣くさ。だから先生に叱られどうしなんだ」(ユキ )「♪それでも学校が好きなのね」(九太)「♪おしゃまなあの娘に会えるから。僕たち二人は同じ組、一緒に机を並べていた」。

 人形を操る場面に戻り、(九太)「別れてひとりぼっちになった時ね、あの娘が好きだって泣いたけど、小さな夜の星」(ユキ)「今、その娘に会ったら何て言う」(九太)「今、どっかの空の下、遠い遠い夢だとさ」とファンタジックにリズミカルに描いている。リズミカルで楽しいシーンとして映し出されている。

 このシーンが暗転で終わると、早朝の雨に濡れた人通りのない六区街通りを歩く三郎が映し出されてくる。舛田監督の寂としての浅草を描きたかったのかもしれない。

 もう一つは坂本九のストリップ劇場舞台でのコントを混ぜての歌謡ワンマンショウである。

 舞台を拭き掃除をしながらユキは九太に「どうして舞台に出してもらえないの?ここにいる人たちよりよっぽど九ちゃんの方が。…楽しかったわ、自習の時間になると九ちゃんが飛び出してきて、飛んだり、歌ったり」。

 舞台に立つ九太「彗星のごとく現れた浅草九太。ハイッ、ハイッ」舞台袖からピアノを弾き始めるユキ。歌い出す九太「♪リズム、リズム、燃えてる、燃えてる、恋のリズム」から黒い花びら、上を向いて歩こうと踊りながら歌う。次のシーンではでは顔の半面が男、反対の顔面は金髪女。一人で演じる九太はラブソングを歌い、「♪アイラ~ブ」と女の口が横に大きく開いて絶叫する。

 このコントが実におもしろいのだ。そこには坂本九が目指していたコメデイ―を含めたステージショウがここにあったと言えるシーンになっている。

   佐藤利明娯楽研究所のブログ「ひとりぼっちの二人だが」では、「人形劇からミュージカルになる展開や、九ちゃん歌謡メドレーショーなどなど坂本九のエンターメントとしての才能をいかんなくみせるシーンは見所である。舛田監督は、本作を手がける際に『坂本九の魅力を引き出すには、コメディアン役が一番』とし、芸人・坂本九をフィーチャーしようと、浅草九太のキャラクターを造った」として高い評価をしている。

  映画での坂本九の芸には、浅草特有の泥臭ささがなくスマートに描かれていると感じた。

Al1024kyuntosuru20140830131941_tp_v1jpgp  前年の昭和36年には浅草出身の渥美清がテレビに登場してきた。「若い季節」で見せた板前の軽い口調の語りや「夢であいましょう」でのスマートなコントを演じる渥美清が浮かんでくる。

 ひょっとして本番生放送での「若い季節」や「夢であいましょう」で直に渥美清と接していた坂本九は、渥美清から学んだものが多々あったのではないかと勝手な想像をしてみる。

 後年、永六輔が黒柳徹子、小沢昭一、渥美清らと企画して日本の芸について勉強塾を開いていった。毎回、坂本九はこの勉強塾に熱心に参加していたと永六輔が語っているのをYouTubeで見た記憶がある。

 もし、昭和60年(1985)8月12日の日本航空123便墜落事故に43歳で巻き込まれて亡くなっていなかったならば、50・60歳代でダニー・ケイばりの歌手、コメデイアンとして日本を代表するエンターテイナーになっていたと思える。今更ながらそのステージショウを観ることができなかったのが残念だ。

「上を向いて歩こう」と「一人ぼっちの二人」

202002071533371   昭和36年(1961)7月21日の夜、大手町産経ホールにて「中村八大第3回リサイタル」で19歳の坂本九が2時間前にできあがった「上を向いて歩こう」をふるえながら歌った。「上を向いて歩こう」は「夢であいましょう・今月の歌」へて大ヒットとなる。1963年には全米音楽チャート一位を記録するなど、レコードは全世界70か国、約1300万発売された。

 作詞の永六輔は初めて産経ホールの舞台袖で坂本九の歌を聴き、「なんだこの歌は…」と坂本九がふざけているとしか思えなかったし、怒って帰ったと言われている。永六輔の作詞が出来上がった時、中村八大はこの歌を坂本九に歌ってもらうことに決めていた。テレビやステージでの坂本九の裏声を多用して歌う「素敵なタイミング」など坂本九の高音を活かす歌唱に託してみようとしていた。

 当日、舞台袖にいたハナ肇と水谷良重(現二代目水谷八重子)は、この歌はヒットすると確信をしたと言われている。同じように客席で手ごたいを感じとったNHKディレクター末盛憲彦は「夢であいましょう」の今月の歌としていくことを決めていった(佐藤剛著「上を向いて歩こう」より)。

Mady81q01  哀調を帯びた作詞とメロデイであるが、坂本九の笑顔で歌う「上を向いて歩こう」はいつしか未来に向けた祈りの歌になっていった。

 只、私にはこの「上を向いて歩こう」より、同じ年の昭和37年(1962)の秋に出来上がった映画主題歌「一人ぼっちの二人」の方が哀しさをストレートに受け止めることができ、好きなのだ。

 60年安保闘争の終焉から挫折した永六輔。歌詞の中での「ひとりぼっち」というフレーズには、離れ離れになっていく仲間や友人への哀切の思いが込められている。「美しい幻想は消えてこそ価値がある」と言明した吉本隆明。この言葉には60年安保闘争の世代には哀愁が漂うが、70年全共闘世代には昨日の友は今日の敵になるという悲しい局面を受け止める言葉になっている。

 泣きたいけど泣いていられない。我慢して歩むんだという「上を向いて歩こう」の作詞より、一人ぼっちだけど、二人で生きる人がいることを噛みしめて歩く「一人ぼっちの二人」の歌の方が、坂本九の歌声と中村八大の切ないメロデイが哀愁を帯びて私の胸の中に迫ってくるものがある。

                 《夢野銀次》

≪参考資料本等≫

ブログ「佐藤利明娯楽映画研究所『ひとりぼっちの二人だが』/永六輔著「昭和 僕の芸能史」(1999年5月、朝日新聞社発行)/佐藤剛著「上を向いて歩こう」(2011年7月、岩波書店発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月、文藝春秋発行)

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テレビドラマ「おしん」佐賀篇にみる嫁と姑

Photo_20200811032302    おしん(乙羽信子)と圭(大橋吾郎)が佐賀の田倉家の墓所の前で手を合わせる。おしんは「お舅さんもお姑さんも中に入ってしまわれて」とつぶやくと「福太郎、恒子って名前もあるよ」と墓石の脇を見ながら話す。

 「お義兄さんとお義姉さんだよ。みんな遠い人になっちまったね。お義姉さんはね、一生ここから外に出ることもなく亡くなってしまったんだって」「へえ、じゃ東京も知らないで?」「東京なんて、とんでもない。この村の中だけで、昔はそういう人とがいっぱいいたんだって」「嫁いびりも当たり前なので?」「何も知らないで嫁に行ったら、こんなもんだと辛抱したんだろうね。たゞ、おばあちゃんはそれまでお姑さんて知らないで暮らしてきたから、お姑さんにしたら自分が嫁としてきたことをおばあちゃんにさせてようとして…。恒子さんだってそうしてきたんだし。おばあちゃんみたいな出来の悪い嫁をもって、お姑さんも気の毒だった」と語るおしんは、「お墓参りができてよかった」と笑みを浮かべながら寺を後にする。大正末期のお姑と嫁との世界を描いた「おしん」佐賀篇の最後のシーンになっている。

6yujgs5n1_20200812053001  昭和58年(1983)新春、三重県志摩半島各地に16店舗を構えるスーパーマーケット創業者の田倉しん(83歳)は、新店舗開店の日に行方を眩まし、孫同然の大学生・八代圭と共に旅に出ていた。

 山形の山奥にあるおしんの生まれ故郷の廃村。雪の中で廃屋となっていた我が家を見たおしんは80年以上の人生で自分は何を得て、何を失ってしまったかを振り返る旅であることを追いかけてきた圭に告げる。圭を伴った旅は山形酒田、東京浅草・日本橋と続き九州佐賀を訪れ、夫・竜三の両親たちが眠る田倉家の墓所にお参りに来ていた。

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 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」は 橋田壽賀子 オリジナル作品として、昭和58年(1983)4月から翌年の3月までに放映された。一年間の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.6%(11月12日)という驚異的な数字を記録し、一大ブームを引き起こした作品。

 新型コロナによる自粛要請とあいまって、栃木図書館から完全版のDVD全巻を借り、第1回から最終回の297回までの「おしん」を観ることができた。

 ウエブ記載のNHK放送史には「山形の貧しい農家に生まれた少女・おしんが、明治・大正・昭和の激動の時代を背景に、さまざまな辛酸をなめながらの女の生き方、家族のありようを模索しつつ必死に生きる姿を1年間にわたって描いた」と紹介されている。

81897bd9a316ff9a96097d3dad3a98231  さらに「原作・脚本の橋田壽賀子は、明治から昭和にいたる激動の時代を歩んできた人たちの生き方を、いましっかり書きとめておかなければ永遠に埋もれてしまうという危機感を抱いていた。週刊誌の投書欄を利用して明治女性の人生体験記とも言うべき手記を集め、丹念な取材を繰り返し、明治女性の生きてきた通のりを、おしんというヒロインに託して日本近代女性史ともいえるドラマを書き始めた」と記してある。

 改めて「おしん」全巻を観て、まさに明治から昭和にかけての時代背景の中で自立していく女性の生き様を描いている。さらに、おしんにかかわる登場人物、浩太やお加代をはじめとして全ての人物にはその時代特有の背景や慣習、しがらみを背負って登場させて物語の筋立てを行ない、丁寧に描かれている感想を抱いた。橋田壽賀子の見事なシナリオだという印象を強く受けた。

 とりわけ、「おしん」全体の作品の中で、関東大震災で罹災したおしん一家が、夫・竜三の生家、佐賀の田倉家に帰り、そこで繰り広げられた竜三の母・お清と嫁のおしんとの諍いという「嫁と姑」の関係を描いた箇所は、放映当時に辛くて観たくなかったことが思い出させる。

 今回DVDを観て、「佐賀篇」には戦争前の日本の家族制度の中における「嫁と姑」の立場、「家」という中での役割などその諍いの要因は何だったのか?という疑問から、「佐賀篇」の筋を追いかけてブログに書き留めていくことにした。

Photo_20200811032204  大正12年(1923)9月1日の関東大震災ですべてを喪った田倉竜三(並木史郎)と妻のおしん(田中裕子)は一子・雄を連れて竜三の生家、佐賀の田倉家に避難してくる。避難用の軍艦で東京から佐賀に戻ってきた。

 当時の佐賀と東京では汽車でどのくらいかかるのか。因みに昭和38年(1958)公開の松竹映画「張込み」の冒頭10分間のシーンで横浜駅から夜行列車に乗った刑事2人は翌々日の未明に佐賀駅に到着するなど、新幹線のない時代の列車時間の長さが描かれている。「佐賀篇」の最後に雄をつれたおしんが佐賀から列車で去るシーンでは、東京までまる3日以上になるだろうなと随分かかったことを想像してみた。 

Photo_20200812053501   佐賀の田倉家はかつては作男を多数おいた大地主であったが、規模は縮小したとはいえ、地主の名家であった。一家は父・大五郎(北村和夫)、母・お清(高森和子)、長男福太郎(北村総一朗)と嫁の恒子(観世葉子)、福太郎の子供4人と奉公人1人の構成になっており、嫁に行った妹・篤子(長谷直美)がたまに帰ってきている。 

Photo_20200811032102 佐賀に帰ったおしんに姑のお清は優しく労わるのではなく、いきなり震災時に竜三のお守り役の源右衛門を死なせたこと、借金までして作業場建築を止められなかったことは嫁の責任だと激しい口撃をおしんに向けてくる。

 食事は長男嫁の恒子とおしんは座敷ではなく、土間で奉公人と一緒に食べることになっていることを知る。嫁の地位は雇人と変わらないことが描かれている。さらに洗い物を手伝おうとするおしんに、長男嫁の恒子は自分の領分であるとして手伝いを断る。

 おしんは、田倉家の慣習は今までの世界と違うことに戸惑いを感じるのだった。

Photo_20200812060901  部屋は明かりのない納戸部屋をあてがわれる。農家の三男であり、厄介者としての立場であることが描かれてくる。そして、遊んでいる土地の開墾など厳しい農作業を夫婦で従事することになる。

 おしんはおしめを洗濯する石鹸や手紙を書く筆や紙を買うお金がないことを竜三に愚痴る。姑のお清は竜三を通しての金銭のねだりに小言を言うのであった。同時に山形の実家からは何の援助がないことにも嫌味を言うのだった。

 台所を預かっている兄嫁の恒子はおしんに、「お義母さんからはぎりぎりのお金しかもらえず、洗濯用の石鹸を買うにも自分ら夫婦、子供たちの分だけで精一杯でおしんさんに石鹸を渡すことができん」と田倉家の財布はお姑のお清が握っていることを話す。

 結婚前のおしんは出髪結として稼ぎ、山形の実家には毎月20円(現在の金額では約10万円、)を仕送りするなど、働いた分が報酬となっていた世界と比較して、生活の不便さを実感していく。

 宇田川満著「嫁と姑」の中で、「嫁と姑の争いの要因として、農家の嫁にとり子供の学用品など嫁が自由に使えるお金がないことであること」で、そのことから実家から援助を受けるなど、お金がないことへの不満が記述されている。家政を仕切っていく財布は姑が握ることにより、嫁に対する強い権限になっていた。姑から宛がいぶちとしての嫁に支給されるという上下の従属関係になっていたということになる。

Photo_20200812053901   竜三とおしんは作男・耕造(隅本吉成)とその妻・佐和(香野百合子)と開墾を始める。佐和は元・島原の女郎で村のつまはじき者であり、佐和とは口をきくなとお清は指示するが、おしんは佐和の人柄を誉め、元女郎のどこが悪いかと言い返す。

 お清の中には、嫁は姑に口答えしないという絶対服従の関係の中で、おしんの口答えは信じられない世界であり、憤慨する。この時のおしんはその人の人柄を素直に見ていくという、東京からきた大正デモクラシーの影響もある女性になっている。しかし、お清からすれば今の自分を否定するということになっている。

 また、佐和に人妻を表す丸髷を結ってあげたことから村内で評判になり、丸髷を結って欲しいとの頼みが姑のお清に届く。おしんもいくらかの小遣いになるので髪結をしたいと言う。お清は「田倉の家は嫁を野良仕事以外に髪結で稼がせるといわれるようになり、田倉の家の恥になる」とおしんを口撃する。

Photo_20200812060101   田倉の生活に我慢ができず、竜三に街に出ていこうというが、有明海干拓で土地を持つという夢を抱く竜三は承知しなかった。おしんは3月のお彼岸の中日に東京の髪結師匠のたかを頼りに雄をつれて田倉の家を出ていくことをきめる。髪結としてやっていける自信がおしんにはあった。しかし、一緒に東京行きを誘った佐和はおしんが妊娠していることを知り、竜三に東京行きを告げたのであった。

 止めに入った竜三ともみ合い、おしんは首から右腕にかけて大けがを負う。ケガから1か月たってもおしんの右腕は思うように動かなくなっていた。町医者に診せたが悪くないという診断であった。お清は竜三におしんと別れろという。働きのない嫁は実家に帰すか、離婚させるのが当たり前の世界であったと言われている。

2_20200811142101   一方でおしんは仲直りした佐和に自分が見てきた母と祖母が「大根飯だってロクに食えない貧しい暮しの中であっても、お互いいたわり合ったり、かばい合ったりして、母ちゃんはおばあちゃんを恨んだりしなかった」と嫁と姑が仲が悪いということは信じられなかったことを語り「逃げ出すことを考えず、可愛がられる嫁にならなきゃね」と佐和に話す。

 おしんの妊娠を知った竜三は離婚をせまるお清に別れないことを言う。だが、おしんが田倉の家を出ようとしたことが分かり、そのことを竜三に責めている時、おしんの妊娠をお清は知ることになる。嫁にやった実の娘も田倉の家で初産することになっており、「一つの家にお産が二つあると、どちらかが欠く(死ぬ)」という忌み嫌う言い伝えがあり、お清はおしんを他所で産ませようとする。大五郎や竜三たちは迷信だとして一蹴する。お清はおしんと口を利かなくなくなる。おしんと逃げようとしたことが分かった佐和は耕造の家から失踪する。

T_20200812061101   お清とおしんの口を利かない関係を心配した長男嫁の恒子は夫の福太郎に告げる。福太郎は「長男農家の嫁は、見ざる・聞かざる・言わざるじゃ。どっちの味方もしないで黙ってほっとけ」と恒子を戒める。

 「嫁30歳まで口要らぬ」と嫁は30歳となるまでモノを言わず、黙って働けといわれる立場であり、「泣く口にはメシが食える」といくら泣くような日々がつづいてもメシは食えるから我慢しろと言われていた(野口武徳著「嫁姑関係」より)。

 他家からやってきたヨソ者としての嫁は婚家の中で労働によって地位を獲得し、跡取りを産むことが責務とされていた。「ツノのない牛」「子を産む道具」(宇田川満著「嫁と姑」より)として 「家」の中での根強い男尊女卑の考えがあったことを作者は描いているのかと思えてくる。

Seiyleqq1_20200812060301  恒子はお義母さんが「一つの家でお産が二つあると、どちらかが欠くという迷信を信じている。山形でお産した方がいい」とおしんにすすめる。それで口を利いてもらえない理由がわかるおしんだった。

 恒子は「今度はただのいびりとは違う。ものもろくに食べさせてもらへんし、畑仕事でん休ませてまらえんで、こき使われたない。お腹の子は育たんじゃろし、おしんさんでん体ば壊してしまうだね。殺される」。おしんは「背筋がゾット」する。

 おしんは竜三に一緒に東京に行こうというが、竜三は10年後に有明海開拓で自分の土地を持ち,雄に残せることにかけているため、東京には行かないことを告げる。

 お清は何としても他所でお産をしてもらうため、同じ村でおしんを預かる家が見つかり、そこに移るようにおしんに告げる。しかし、おしんは田倉の家で産むとして、他所に移ることを断る。「嫁の分際で逆らうとね。親の言うことを聞けんとない嫁ん資格はなか、今日限り嫁とは思わんけ」と激しくなじる。

 おしんは田倉の家の嫁として認知を得るには田倉の家でお産することだと思い、それ相応の姑からの仕打ちに対応していく決意であった。それはおしんの意地だったのかもしれない。

G6bzudmg1_20200812060201  田植えの一番忙しい時期、おしんは身重の体を押して田植えをする。お清は身重の篤子を実家の田倉に連れて帰り、ぜんざいやドジョウ汁などを食べさせ、一番風呂に入れる等、実の娘と嫁との扱いかたの違いを描いている。

 同じ妊婦のおしんをこき使う。実の娘を甘やかすお清と井戸端でぐったりしているおしんを見た福太郎は、働くのは無理だと父・大五郎に意見する。大五郎の指示でおしんは仕事を休むむ。しかし、台所で昼食のうどんを食べようとすると、お清は働かず食べるのかと激しく口撃する。

 翌日からおしんは何があっても仕事を休まず働くのだった。立場の弱い嫁の意地にもにた踏ん張る姿を描いていく。

O_grghr1_20200812061301  やがて稲刈りの季節を前にして産み月を迎える。お清は篤子のお産を家の納戸、おしんには裏の納屋代わりの小屋を使えと指示。

 篤子が産気づくが、ひどい難産となり、竜三が町の医者を呼びにいくことになった。そのため、おしんの産気を見落とすことになってしまった。明け方に篤子は無事出産したが、おしんは家の前で倒れていた。

 目を覚ましたおしんは「女の子を産んだ。誰もいないから一人であの子を産んだけど…小さい身体が精一杯生きていた」と大五郎と竜三に話す。大五郎は「医者が診てくれて、死産じゃったで…。たとえ生まれたとき、息のあったとしても、生きられる身体じゃなかったよ。痩せこけてこまかか子にゃったて、医者が言うとった」と話す。

 おしんは「私、名前つけたんだから…愛っていうの」。たまりかねて竜三はおしんを抱きしめる。

Wjs_qv7q1  恒子は竜三に「おしんさんは地獄ばみたとじゃけん。自分でヘソの緒ば切らんてん」と語り、「同じ女子であがん小屋へ移らんぎ、嫁というとは情けなかもんさい」と怒りもにた言葉が恒子から発せられた。

 竜三は母・お清に「ただ働くばっかりで、食べもんも十分でなかった。佐賀に連れて帰ったの間違いだった」と話すと、お清は「おしんを憎うて辛く当たった覚えはなかとよ。おしんでん田倉の嫁になったら、それ相応のことばしてもらわんば…。恒子も同じ辛抱してきた」と言う。竜三が「母親がロクに食べるもんも食べんで重労働し、衰弱してしもうて」と言えば、「ほかの女子は立派に子ば産んで育てとる。都会の暮しに慣れ過ぎとったよ」と最後は他の嫁と比較し、辛抱するのが嫁の努めであると話す。そこには竜三の妻としてではなく、田倉家の嫁として扱っていることを示している。嫁は姑という「家政」に従うものであるということを言っている。

    篤子母娘が田倉家を去った夜、佐和からの手紙を読んだおしんは竜三に田倉の家をでることを告げる。

Photo_20200812055801  「私も思い切って、ここを出るわ。愛は、生きる力もない身体で生まれてきたのよッ。私ひとりが苦労するのなら、どんな我慢だって出来るッ…。せっかく生まれたきた子供が、産ぶ声をあげる力もなく死んじゃったと思うと…。死んでしまった愛は帰ってこない。あの時から、私はこの家を出る決心をしていたの。ここにいたら、私は、自分のしたいことなんて、一生出来やしない…。お腹の子を無事に育てることさえ、出来なかったんだもん…。明日、雄を連れてこの家を出ます」と決意を話す。

Photo_20200811032203 …おしんは台所にきちんと座り、大五郎とお清に向い「お舅さん、お姑さん、いろいろお世話になりました。今日限り、おいとまをいただきとうございます」と毅然と言い放つ。強烈な印象を受ける場面である。

 びっくりする大五郎であったが、雄を連れて食べていけるのか?と危惧する。お清は「雄は田倉の子だ。あんたは一人で黙って出てお行き」と切り返す。

 「雄のために働きます。雄がいるからこそ働けるのです!」と立ち去るお清に向かって叫ぶおしんの表情は鬼気迫る。台所からその光景を黙って見ている恒子。

2rhtvqx1_20200812060001  翌朝、竜三の「いつか必ずまた一緒に暮らす日がある」という言葉を支えに、おしんは大五郎と福太郎に別れの挨拶をする。二人からは選別金が渡される。

 たゞ、その前に台所に現れたおしんに恒子は雄を連れ出すことを言ってくれた。半信半疑のおしんであったが、待ち合わせの源右衛門の墓の前で恒子と雄を待つ。

Photo_20200812055901  恒子は帯紐を持参して、隙をみて連れ出した雄を抱いてくる。おしんが雄をおぶるのを手伝いながら恒子は、「あたいでん子の親さい。あたいが同じことばすが、やっぱり子供は連れていきたかと。一人じゃ生きられんでも、子供がおっぎ生きらるっもんさい。おしんさんはうらやましか、あたいにはでけんことやるって。お姑さんのことは心配なか。4人も孫のおったけ」と早く佐賀を去ることを促す。

 雄と東京に向かう列車の中で、「思いがけない恒子の行為であった。それは今まで耐えてきたものへの恒子なりの反抗だったのではないだろうか。おしんは嫁の立場の惨めさが身にしみ、そこを抜け出せた幸せをかみしめていた」と奈良岡朋子のナレーションが被さっていく。

 福尾猛市郎著「日本家族制度史概説」の中で、「新参者として入ってきた嫁は、家風への順応を強いられ、これに馴染まぬ場合は、『家風に合わぬ』として追い出されるのである。たとえ離縁に至らないまでも、家風に慣れないことを口実とする姑の嫁いじめは至るところに見られた。これは封建社会における人間相互間の上下秩序、命令と服従の関係が家庭内部にまでしみ込んだ現象とみてよい」と記されている。

 東京からきたおしんを田倉の主婦・お清は嫁として最初から認めていなかった。「家」を通しての嫁でないことがおしんの立場は危ういものとなっていた。また農家の三男の嫁としての期待もなく、穀粒ぶしのおしんには田倉の家風に合わぬ嫁として結論づけていたと思える。

 では、「家風に合わぬ」とはどういうことなのか?宇田川満著「嫁と姑」の中で、「家風とは個々の家の生活慣習であり、他家から入ってきた嫁は異なった考え方や生活慣習を身につけていることから、生活慣習上のギャップが生じ、『家風』という権威ある表現をとって姑の嫁への一方的な監視、攻撃が起こる」と記されている。

Photo_20200811032101  田倉の家を出たおしんは、髪結仕事ができないことから、露店でのどんどん焼き、酒田での飯屋、伊勢志摩で雄を乗せた箱車で魚の行商を始め、やがて「魚屋」・「魚と野菜」を扱う店を開き、販売商いの店を開き進んでいく。

 ドラマ「おしん」佐賀篇の中には、戦前まで続く日本の家族制度の中における「家」という格式の中で生きる女性のつらさや惨めさなどが描かれてきている。両性の合意で結婚できる現在の結婚制度ではなく、戸主、家長の許しのもとで結婚が成立した戦前では「家」の考え方が大きなな比重を示していた。そうした「家」の重さを受けることのない結婚であったが故に、おしん場合、婚家の家で暮らすことは「家政」を預かる姑の力が絶対であるということを見落としていたといえる。

 作者は東京で二人だけで結婚し、都会からやってきたおしんという嫁を佐賀のお姑のいる田倉家に置くことにより、農業という生業としての「家」を提示し、嫁と姑の諍いを通したドラマを描いている。「村の家」としての重さのある家族の中での三男嫁と姑からの「嫁いびり」等、当時の嫁の置かれた状況が表されている。さらに、ドラマでは同じ農家の嫁としての佐和や兄嫁恒子たちの封建制の残る家族制度の中で生きている女性たちをも描いている。とりわけ最後に一子・雄を連れて田倉家を出ていくおしんを助けていく兄嫁恒子の姿は、強く生きる「おしん」をドラマとして盛り上げていっている。この佐賀篇は後半の戦後編の「おしん」での姑となるおしんと嫁・美佐子との商いを行なう家族の生業としての現代における家庭問題を描く伏線にもなっていく。

 生きていくうえで毎日が選択の連続であると言われている。ドラマ「おしん」では選択するとき、家族以外の人がおしんに協力・力になる人物が多く登場してくるのが特徴としてあげられる。俊作あんちゃん、初恋の浩太、加賀屋の大奥様のくにとお加代、髪結の師匠たか、女給染子、源じい、テキヤの健、網元のひさ、兄嫁の恒子、9歳で引き取る初子、雄の戦友の川村等々。いずれもその時代時代の辛酸をなめて生きるおしんの自立しようと歩もうとする姿を見て、協力者・応援者になっていく。そのことが視聴者をも奮い立たせていったところに多くの人に感動を与えたドラマになったのだろうと思えてくる。

 まだまだ日本には隠れた世界、歴史が横たわっていることを実感した。

                         《夢野銀次》

≪参考引用資料著書等≫

橋田壽賀子著「NHKテレビ・シナリオ おしん(1)~(4)」(昭和58年7月~59年3月、日本放送協会発行)/ウエブ「連続テレビ小説『おしん』NHK放送史」/ウキペディア「おしんあらすじ」/福尾猛市郎著「日本家族制度史概説」(昭和47年2月吉川弘文館発行)/野口武徳著「嫁姑関係」(昭和49年2月弘文堂発行『講座家族2』に収録)/宇田川満著「嫁と姑」(昭和34年1月医歯薬出版発行)

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春のおとずれ…杏・レンギョウ・ユキヤナギ

P3220018 〽春のなぎさを あなたとゆくの

 砂に足跡 のこしながら

 はじめて私の 家にゆくのよ

 恋人がいつか 出来たら家へ

 つれておいでと 言っていた父

 夢に見てたの 愛する人と

 いつかこの道 通るその日を

 

111 〽お茶をはこんだ 障子の外に

 父とあなたの 笑う声が

 聞こえてきたのよ とても明るく

 幸せなくせに なぜ泣けてくるの

 母のほほえみ 胸にしみたわ

 帰るあなたの 見送る道は

 おぼろ月夜の 春の宵なの

 「春のおとずれ」(唄:小柳ルミ子、作詞:山上路夫、作曲:森田公一)は小柳ルミ子デビュー3年目21歳の時、7枚目のシングルとして昭和48年2月に発売された曲。

 デビュー当時の小柳ルミ子の曲だが、何故かこの「春のおとずれ」は印象に残っていなかった。最近、スマホをいじっていて偶然に聴いた。ほのぼのとした春の情景が目浮かんできて、快い気持ちにさせてくれる歌になっている。

 ……春のおとずれを感じさせてくれる歌だ。

P3220004

 杏の花が今年も咲いた。薄いピンク色した杏の花にはつつましさを感じる。桜の花のようにきらびやかに咲き誇ることなしに、ひっそりと咲いている。

 30数年前に入院した義父の見舞いに行ったことが思い出された。脳梗塞で話すことができなくなった義父はベットから体を起こし、両手で私の手を握りしめた。「娘を頼んだぞ」と義父の眼が語っていた。義母が傍らで穏やかな顔で見つめていたのが記憶に残っている。

 夫婦ケンカした時に何故かその時の光景が思い浮かび、妻と40数年間暮らしてくることができた。父親の愛情を感じる。

 …庭先に咲く杏の花を見ながら春のおとずれをしばし楽しむ。

 P3220010 早春の陽光をあびて黄色く咲いているレンギョウの花。

 薬用として平安時代初期に渡来したといわれているが、定かではない。

漢方医学では「連翹」と呼ばれ、解熱剤、消炎剤など鎮痛薬に用いらているとのこと。

 4月2日は詩人村光太郎の命日で、この日を連翹忌と呼んでいる。高村光太郎が生前好んだ花がレンギョウであり、告別式で棺の上にレンギョウの一枝が置かれていたことに由来するといわれている。

P3230020  レンギョウの半つる性の枝は歪曲して伸び、下に垂れる。地面に接触した枝から根が出て、新しい株が生まれてくる。

 3年前にその新しく芽生えた株を西側に植えた。小さいながら黄色い花が咲いている。まだまだ小ぶりのレンギョウだが来年はもっと大きく育っていることと思える。

P3220013  小さい白い花を一杯に咲かせるユキヤナギ(雪柳)。南側にあるユキヤナギに白い花が咲き誇る。

 中国原産という説もあるが、日本原産である考えられている。

 1.5mほど伸びて白い花を咲かせるユキヤナギには怖いほど迫力を感じてくる。地面の際から枝がいく本にも枝垂れて、細く、ぎざぎざの葉をつけて育っていく。

 花は、雪白の小さなものを枝全体につける。そのさまからユキヤナギという名がついたといわれている。柳のようにしなやかに風にゆれている姿は貫禄さえ感じてくる。

P3220001 東側の端に花壇を作った。

 今まではほっといていた処。雑草に混じってドクダミやヨモギなどが咲き乱れ、草取りが大変だったので整頓をかねての花壇作りでもあった。

 腐葉土と黒土を混ぜ石レンガで囲っただけの完成した花壇。白い百合の花と曼殊沙華を植えていこう。

 わが家の猫どもが匂いを嗅ぎ、ポン太は早速トイレとして使用している。

P3240027  去年の春、電動耕運機を3万幾らでネット購入した。昨年ジャガイモを作った菜園に堆肥と消石灰を散布して、電動耕運機で耕す。

 ――早い。15坪の菜園を1時間30分で耕してしまった。クワ等で耕していたならば一日半はかかる行程だ。

 電動なので、我が家からコードをつないでの操作になっている。そのコードをうまく処理することが少々面倒だが、それでも早く、体が楽である。もっと早く購入しておけばよかったなと思えてきた。

P3220019-1  これから里芋の畝を作り、4月中ごろに里芋の種芋を植える予定。

 新型コロナウイルスの影響で図書館が閉館になっているのが痛い。調べたいことが多々あるが、今しばらくの辛抱だ。

 東京オリンピックも1年延期が決定してきている。小池東京都知事は東京でロックダウン(都市封鎖)など強力な措置を取らざる得ない状況が出てくる可能性があると言明している。本当に感染が終息することができるのか?

それでも季節は巡り、春のおとずれを我が家の菜園で感じていく日々なのだ。

          《夢野銀次》

 

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上州倉賀野宿を歩く①…飯盛女の墓石「九品寺」

31xyudfphsl1 〽つらくても がまんをすれば

 きっときますよ 春の日が

 あなたの口癖 あなたの涙

   命なげすて 育ててくれた

 子供ごころに 香りを残す

 花は越後の 花は越後の 寒椿

 (「雪椿」昭和62年6月、作詞:星野哲郎、作曲:遠藤実、歌:小林幸子)

Yjimage5 新潟生まれの小林幸子が作詞家星野哲郎に初めて作詞を依頼してできた曲「寒椿」。星野哲郎と小林幸子との間で、10歳で「嘘つき鴎」でデビューしたが、長年ドサ回りなどで苦労した頃、見守ってくれた母のことの思い出が話され、この「寒椿」の作詞が生まれたといわれている。

 星野哲郎が描く作詞には「出世街道」「兄弟仁義」「男はつらいよ」「いっぽんどっこの唄」「風雪流れ旅」など「人の世を生きる様の姿」を描いた歌が多い。「寒椿」は新潟生まれの遠藤実の曲と相まって、薄幸の中で娘を見守る母の姿と我慢強く生きる越後生まれの娘が浮かんでくる歌である。

 「雁会(かりがねかい)の人たちが、本堂脇にたくさんあった墓石の中から飯盛女の墓石を探し出したのです。その墓石をここに設けているのですよ」と飯盛女の墓石を案内してくれた九品寺の住職。果たして、うら若い娼妓にとり、つらくても我慢をすれば春の日を迎えることができたのだろうかと問いかけながら倉賀野宿を初めて訪れた。

P2210076  室町時代の延徳3年(1491)創建の九品寺は高崎市倉賀野町にある浄土宗の古刹である。JR高崎線倉賀野駅から旧中山道に向けて歩いて5分の処にある。

 「飯盛女のお墓はどこにありますか?」と玄関口で尋ねると、住職は私を境内墓地入り口の右側に並ぶ6基の飯盛女の墓石を案内してくれた。

 「墓地に入る処に俱会一処(くえいっしょ)が建っているでしょ」と言って、境内墓地に入る手前の左側に墓石を積み上げて高くそびえる「俱会一処」の塔を示してくれた。「たしか昭和60年頃だったと思います。雁会(かりがねかい)の人たちが本堂脇に放置されていた墓石の中を丹念に飯盛女の墓石をお調べになさっておりました。取り出した飯盛女の墓石5基、後から1基が追加されまして、飯盛女の墓石としてここに設置し供養させていただいております。残りの墓石でこの俱会一処を建てたのです」

P2250025  俱会一処の塔を見ながら住職は、「この墓石の中にはまだまだ飯盛女の墓石が埋もれていると雁会の人たちは思っていたでしょうね。俱会一処はお仏さまになれば、どんな人でもみんな一緒ということを意味します」と話してくれた。

 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができるという俱会一処の塔。これまで訪れた浄土宗の寺院にあったかもしれないが、九品寺の住職に教えられ、初めて俱会一処を知った。

 倉賀野史を調査研究していた「倉賀野雁会」は、「史料による倉賀野史1巻~3巻」等を発行するなど精力的に活動をする地域史研究会であった。しかし、帰路に立ち寄った公民館の方から現在は雁会がないことを聴いた。倉賀野の町を歩きながら歴史的な根拠を示していった活動は倉賀野地域史に大きな貢献を行ったと思えてくる。

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 整然と並べられてある5基の飯盛女の墓石を見る。わずかに「清水屋」以外に読み取ることのできないほど墓石は劣化している。飯盛旅籠の主人が供養して建立した墓石が並んである。できれば案内標識版が建っていれば飯盛女の墓石とすぐ分かるのだが…。

 5基の墓標銘については「文献による倉賀野史第3巻」(倉賀野雁金発行)とブログ「隠居の思ひ記九品寺」を参照して、写真右の墓石から順に記載していく。

①慈教信女位 田澤屋栄之助 娘はま 行歳廿才

 (左側面)越後國三島郡石地宿

 (右側面)文久二找裁七月八日

②歸眞迎観信女霊位 

 (右側面)越後國蒲原郡柴田領沼垂内山木戸村

      角蔵娘よしきく 行年廿四才

 (左側面)寛政八丙辰十二月晦日 施主 永井儀兵衛

P2210071 ③飯元教瀧信女

 (右側面)北越後長岡産、字ハ瀧、幼少より半哺乃た免、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ、死生の風に散りぬ念悼して是を立碑するもの也 施主日野金井 和泉屋主人

 (左側面)寛政十一年巳未四月廿二日

④越後新潟平次娘きく墓

 越後三条浦館村 こよ墓

 越後大宮嶌村 女へて墓

 越後三條久兵衛女りよ墓

 (右側面)へ観了尼享和三 六月三日

      り稀月尼文化三 正月三日

 (左側面)き旭雲尼享和四 二月十九日

      こ頼覚尼享和三 五月廿九日 清水屋

⑤法月妙性信女

 (左側面)文政二卯十一月十五日

 (右側面)越後国長岡中原町 権介娘やの

P2250028  「越後生まれの娘さんが多かったと聞いております」と住職のつぶやく言葉が聞こえた。5基の墓石で名前の刻字されている飯盛女8人はすべて越後生まれになっている。

 群馬県史や太田市史編纂等に携わってきた五十嵐富夫氏は著書「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、「九品寺において発見された飯盛女の墓石26基中、越後出身と記されたものが19基と非常に多く、倉賀野宿では、越後出身の飯盛女が圧倒的に多かった」と記している。発見された26基の墓石については住職も分からないと述べていた。

 九品寺境内以外に保存されている墓石については群馬県立博物館等の学芸員に確認していく必要があるのではないかと思えてくる。

 同じく五十嵐富夫氏の同書では、中山道、奥州道中、日光例幣使道の宿場に越後出身の飯盛女が多かった理由について、佐藤信淵の越後の習俗の『越後国は赤子を殺すこと甚だ少し。その代わりに女子をば、七、八歳以上に至れば夥しく他邦へ売り出す風習とす。故に北越の買婦は一箇の物産なり』ということを引用し、いずれ売ることになるため間引きが行われなかったことを記している。

P2210062  さらに五十嵐氏は「世事見聞録にも『国々の内にも越中・越後・出羽辺りより多く出るなり』とあり、上記の国々が遊女や、飯盛女を最も多く産み出す国としてあげているが、これらの国は雪国であり、みな同じ一毛作地である。一毛作地は関東以西の二毛作地に比べて、夏季に冷害・干害・洪水に見舞われると、それが直撃弾のように一家を悲劇のどん底につき落としてしまう。それでも武士の年貢収納は容赦なく頭上におそいかかる」という一毛作地帯雪国の厳しい環境であったことを記している。

 ③の『版元教瀧信女』の墓石については「瀧は幼年より反哺(はんぽ)のため、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ」と20歳で病にて亡くなったことが刻まれている。「文献による倉賀野史第三巻」の中では、「反哺とは口中にある食物の意で、鳥が幼い時、親鳥に養われた恩返しとして食物を親に与えること、転じて子が成長し、親の恩に報いる孝行という語である。瀧が幼少の頃、苦しい家計を助けるために倉賀野宿の飯売(飯盛)旅籠屋へ身売りされて来たこと、これが反哺という言葉で表現しているのであろう」と記されている。

 P2210074  幼児のころに奉公にあがり、わずか20歳で亡くなっていった瀧に念悼して墓碑を建てた和泉屋の主人は近江国日野の出になっている。近江商人の流れなのか?群馬県出身の俳優の東野英治郎の祖先も近江商人であった。栃木宿も近江商人の出である善野一族があることなど、関東には近江商人が多数移住してきているのではないかと思えてくる。

P2210056   徳川幕府は 人身売買を禁止していた。しかし、10年年季奉公以内ならば奉公を認めることにした。5歳~6歳の幼児や15歳から奉公する名目は年季奉公となっていたが、実質は娼妓としてからだの縛られる身売りになっていた。

  参勤交代などで幕藩体制の維持を図った徳川幕府。そのため5街道をはじめ脇街道に宿場を作り、街道の整備をすすめた。徳川幕府は道中奉行支配の東海道や中山道の5街道や日光例幣使道など脇街道の宿場に公儀御用の旅人と荷物の継立を行なう人馬設置を厳命した。そのための宿場の役割の第一は人馬荷物運搬の継立であり、人馬を常時確保し対応していかなければならなくなっていた。継立を円滑にすすめるためには人夫など経費がかかることになる。宿場の金回りをよくする必要があり、その方策として宿場役人は宿場に飯盛旅籠を設置し、多くの旅人を引き寄せることで宿場財政を豊にしようとした。

 近世女性史研究家の宇佐美ミサ子氏は「飯盛女は飯盛旅籠を巧みに利用し徳川幕府の権力体制である宿駅制度の維持を底辺で支えていた」と指摘をしている。厳しい年貢の取り立てと宿駅制度維持のため、必要とされた年若い娘が身売りという犠牲を強いられていったのだ。

 「文化・文政」など江戸後期の年号が刻まれた墓石が多数ある九品寺から住職にお礼を述べ、山門からすぐの旧中山道に歩みを進めた。

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 中山道倉賀野宿は江戸から12番目の宿場になっている。宿場入り口には日光例幣使道に分岐する標識石塔と常夜灯が建っている。

 私の住んでいる栃木市の大通りは日光例幣使道であり、この分岐点から栃木宿につながっていることになる。「ここからわが家まで何キロ歩けばいいのだろうか?岩鼻代官所もここから近い。今度、例幣使道を歩いみるかな」とふと思い浮かんだ。

 P2210106_20200305064001  倉賀野の宿場の長さは全長11町39間(約1.2㎞)。天保14年(1843)の『中山道宿村大概帳』では宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2032人であった。明治16年の鉄道敷設まで利根川に合流する烏川の舟運河岸として栄えたといわれている(ウキベリアより)。

 飯盛旅籠の数は、新編高崎市史通史篇に天保十三年(1842)の「旅籠屋渡世書上帳」に「旅籠数36軒、うち飯盛旅籠屋32軒、平旅籠屋4軒」と記載され、堅苦しい城下町であった高崎宿旅籠15軒より多かった。1軒2名と定められていた飯盛女だが、超過人を含めると飯盛女の数は70人~80人いたのではないかと推測される。いずれも十九歳がピークの飯盛女は年季明ける前に亡くなっていく定めであったとされている。

 若い娘にとり過酷な環境の中で生きる支えは何であったのだろうか?そうしたことを考えながら旧中山道倉賀野宿を歩いていきたい。 

                《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「文献による倉賀野史第三巻」(昭和62年9月倉賀野雁会発行)/五十嵐富夫著「飯盛女ー宿場の娼婦たち」(昭和56年1月、新人物往来社発行)/ブログ「隠居の思ひつ記・史跡看板散歩ー54九品寺」(2017年7月22日配信)/宇佐美ミサ子著「宿場と飯盛女」(2000年8月、興英文化社発行)

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栃木市万町の近龍寺「涅槃図」を観る

P2240001  「今年の梅の木、お花、いっぱい咲いたわね」と妻が庭先に咲いた小梅の木を見てつぶやいた。「去年、剪定をしたからだ」と私も得意げに話すと、「わたしは白梅ではなく、桃色の梅の木にして欲しいと言ったのよ」と言い返してきた。

 「今年は小梅がたくさん成るな」と実感する。

 去年は5月に退院し、自宅療養のため数少ない梅の実を採ることができなかった。4月末の再検査如何によるが、今年は何とか小梅の実を採り、カリカリ梅を作っていきたい。

P2080026  本堂内左脇には大きな「涅槃図(ねはんず)」の掛軸が飾られてあった。二間(3.6m)四方もある大きな「涅槃図」に息を飲む。

 「2月15日がお釈迦様の入滅の日になっていますが、2月一杯飾っております。江戸後期に描かれたものと思いますが、カメラでの撮影は拡散されるので固くお断りします」と住職は突然の来訪者である私を本堂に案内してくれた。

 栃木市万町にある古刹、浄土宗「三級山天光院近龍寺」。中国の故事に鯉は三段の堰を上ると龍に転じて天に昇るところから、その名が付けられたといわれている。

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 境内には平成22年(2010)に三佛堂(聖観世音菩薩さま、旧地蔵堂のお地蔵さま、子育安産・学業成就の呑龍上人などを祀る)が建立されている。また、北側の墓地には文豪山本有三の墓地などがあり、栃木市在住の著名人のお墓などたくさんある。

 「万町とはヨロズチョウと読むのですね」と小学6年のころ、他県から赴任してきた先生が言ったことが思い出される。私の生家は万町交番裏の東裏通り(通称明治座通り)にあり、家の前には万福寺用水が流れていた。その用水路沿いに近龍寺があった。呑龍さんのお祭りの日には近龍寺に遊びに来て、山門前の出店「煎餅焼き」を食べた記憶がある。

 明治・大正と栃木町の第二小学校、栃木女学校で過ごした女流作家の吉屋信子は、昭和33年(1956)に「暮しの手帖」に「おもいでの町―栃木」を執筆している。

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 令和元年(2019)10月10日の栃木市文化講座「吉屋信子の生涯と作品世界」の中で、講師の元栃木女子高校長、吉屋信子記念会副会長の藍田收氏から「おもいでの町―栃木」が紹介された。講師にその作品が載っている本を訊ねたところ、後日コピーが私のもとに送られてきた。

 「おもいでの町―栃木」には「川のある町」「母校の庭」「町裏」「祭の町」「涅槃図を観た寺」と栃木町で暮らしていた頃のことが、簡潔に執筆されている作品になっている。

 とりわけ「涅槃図を観た寺」では寺の名前が記されていないため、藍田氏に電話したところ「近龍寺ですよ。2月8日に近龍寺へ行けば観ることができます」と教えていただいた。2月8日の早朝、扉が開いている玄関口に立ち、本堂に飾れてある「涅槃図」を観ることができた。

 簡潔に近龍寺「涅槃図」ことが綴られている文章は堂内に飾られてある光景とそれを観る少女の姿が伝わってくる。短い文面になっているので、全文を記載させていただきます。

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おもいでの町―栃木―

 涅槃図を観た寺

          吉屋信子 著

 この小さな町としては堂々たる寺院だった。

 子供のわたしはこの寺で涅槃の絵を見た。

 お釈迦さまが入滅の床に大きなお姿を横たえていられる傍の沙羅双樹(さらそうじゅ)の梢の上に白い月が描いてあった。

 そのまわりに仏弟子と共に、あらゆる獣や鳥も集まってお釈迦さまへの別れを悲しんでいた。虎が両手を顔に当てゝ泣いていた。

 そのなかに〈猫〉だけが居ないのだと聞かされて、わたしは背教者の猫がその時、仲間はずれの堪えていた気がしてかわいそうだった。

 その――金泥と胡紛で描かれた涅槃絵をわたくしはいつまでも眺めていた。

 寺のねはん会のある早春の一日の真昼だった。

       「暮しの手帖34 1956」より

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 広い本堂の本尊左側に飾られてある近龍寺の涅槃図。たくさんの動物たちが描かれている中に左下に猫が描かれている。吉屋信子は見落としたのだろうか?それとも涅槃図には猫は描かれていないという思い込みがあったのだろうか?

 一説によると、沙羅双樹の木に引っかかった薬袋を取りに行こうとしたネズミを猫が邪魔したため、お釈迦さまが薬を飲めず亡くなったということから、涅槃図には猫は描かれていないという。しかし、生きとし生けるものは釈尊の涅槃を嘆くとして、江戸後半期の「涅槃図」には猫が描かれるようになったといわれている。

 P2080020  近龍寺の創立から堂塔伽藍などを記述した八百谷孝保著の「近龍寺雑記」に享保12年(1727)の本堂内の様子を次のように記されている。

 「本堂は西向きに建てられ間口七間半奥行六間半の向拝付である。内陣・外陣・御所の間二つ・次の間二つとなっている。内陣には中央に阿弥陀三尊、脇に可ト上人御影(木造椅子)、代々並びに三界万霊の位牌を安置し、その前に前机をそれぞれ置き、上に燭台、花立、香炉、盛物台銅仏器を置き、前に導師用礼盤をすえる。又、喚鐘、大鏧、鉦鼓、双盤、鐃。鉢等を供えており、まわりには華曼四面、幡六流をかけ、天井からは天蓋をつるしている」

 この文面から本堂内のあでやかさという雰囲気が伝わってくる。

 その豪華な近龍寺本堂内に飾られた涅槃図のお釈迦様は、画面中央、宝台の上に頭を北に向け、お顔を西に向けた姿で描かれている。本堂は西向に建てられていることから涅槃図そのものが「頭北面西」ということで飾られていることになる。西方浄土を連想させるあでやかな掛軸である。静かに首部を垂れる私がいた。しかし、写真に撮ることができなかったのが残念……。

 近龍寺を訪れるたびに向拝堂上に飾られるてある龍の彫り物が気になっていたが、迫力ある龍の彫り物である。彫師は「近龍寺雑記」に文化3年(1806)本堂再建の際に棟上記録から大工13人の名前の次に彫物師棟梁として「秋葉金次郎宗玄」と記されている。何者かはネット検索では出てこなかった。おそらくは東照宮彫刻の流れの中の彫師ではなかったのではないかと推測する。彫師「宗玄」に注視していきたい。

Pb300103  本堂玄関口を出ると、塀に囲まれた墓地がある。墓地内には釜屋系列の四代目善野喜兵衛の墓石がある。「歌麿活を活かした街づくり協議会」によって「案内標識版」が歌麿のゆかりの人物や建物跡地に建てらてある。

 善野喜兵衛は狂歌師「通用亭徳成」を名乗っていた関係で喜多川歌麿が何度か栃木町に来たといわれている。歌麿の大作、肉筆画「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」は豪商善野家の依頼で栃木町で描いたといわれている。しかし、実際に歌麿が栃木で肉筆画を描いたという古文書など史料はなく、推測になっている。

 確証としての史料を探している人はいると思えるが、歌麿の画法など研鑽することより観光キャンペーンとして「歌麿まつり、花魁道中」を栃木市が力を入れて取り組んでいることに疑問もある。市教育委員会から「花魁道中」はまずいということから「歌麿道中」と名称を変えての開催する(令和元年は台風水害のため中止)。吉屋信子が「ときの声」の中で記している人身売買のデモステレーショである「花魁道中」を臆面もなく実施していく栃木市。歴史博物館のない栃木市の歴史への思いをみるようである。

P2240004  2月早春の朝日をあびて「ポン太」は発泡スチロールの箱のなかで佇む。体重6.7キロの大きな猫だが、汚い水を飲んだせいか、口内炎になってしまった。私も入院中に口内炎にかかり、食事に苦労した経験がある。

 3週間に一回、動物病院に連れて行き、痛み止めの注射をしてもらいながら、1月22日に歯を2本抜いた。口内炎を治すための抜歯であったが、結果はまだ分からない。動物病院に連れて行かれるのが嫌で、私の姿を見ると逃げることもある。「お前のために病院に連れて行っているのが分からないのか」と怒鳴ってても、関係ねいといって外に飛び出していってしまう。

 2月はもうすぐ終わる。ジャガイモの畝づくりを始めていくことにする。

           《夢野銀次》

≪引用参考資料本等≫

吉屋信子著「おもいでの町―栃木―」(『栃木の文学収録』収録、平成18年9月栃木県高等学校教育研究会国語部会発行)/一行院住職八百谷孝保著「近龍寺雑記」(昭和45年11月、近龍寺発行)

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千住宿を歩く③ー千住大橋を渡る思い

P1310003    地下鉄南千住駅からコツ通りを経て国道4号線、日光街道に出て右折する。「スサノウ神社」「誓願寺」が並ぶ日光街道沿いの歩道を進むと「千住大橋」が見えてきた。

 歩道を行き交う人たちの中にはチャイルドシートの付いた子供乗せ自転車で急いでペダルを踏んで行く女性たちの姿が目立つ。

  保育園に子供を預けて、これから出勤していくのだと見えた。

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 「…迫力ある橋だ。――歴史を秘めている重さを感じる橋」と、下り車線専用になっている千住大橋を眺めながら思った。

 昭和2年(1927)の春に架設されたタイドアーチ橋の千住大橋。全長92.5m、幅24.2mの千住大橋は関東大震災復興事業の一環として架設され、近代橋梁の名作の一つにも挙げられている。交通量の増加のため昭和48年(1973)には下流側の上り車線専用の新橋が全長502.5m、幅18.9mで架設されている。

Img_20060313t1325560821  天保5年(1834)~天保7年(1836)に発刊された江戸名所図会には、「千住大橋 荒川の流れに架す。奥州街道の咽喉(いんこう)なり。橋上の人馬は絡釋(らくえき)として間断なし。橋の北一、二町経て駅舎(とまり)あり。この橋は、その始め文禄三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、今に連綿たり」と、奥州街道の喉元として記されている。

 橋長66間(120m)、幅4間(7m)の千住大橋を中心に描かれている江戸名所図会。荒川(隅田川)の左岸北側には稲荷の祠、奥の方には日光道中「河原町」と記されている。右岸の浅草南側の橋詰め近くの小塚ケ原には橋の守り神であった「熊野社」や「誓願寺」などが書き込まれている。千住大橋を中心にのびのびと壮大に描かれている図である。

P1310009  千住大橋手前左に「千住の河岸」の標識が建っている。両岸が材木などの集散地として賑わったことが記されている。その標識を左に曲がり狭い道を進むと「熊野神社」が鎮座している。

  …境内には入れない。門扉に鍵が掛けられてあったからだ。門扉の横には熊野神社の案内標識が建てられてある。「大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった」と千住大橋と熊野神社のつながりが記されている。

 境内に入ることができないため、隣家の塀越しから本殿社を拝顔した。こじんまりした質素な本殿社であるが、趣きを漂わせ静寂さを呼び込んでいるように感じた。

P1310011  杉本苑子は「東京の中の江戸名所図会千住大橋」の中で、「前九年、後三年にわたった例の奥州征伐のさい、八幡太郎義家が兵馬を進めて千住の地に至り、荒川を渡ろうとしたとき奇瑞(きずい)があった。そこで鎧櫃(よろいびつ)に秘めてはるばる奉載してきた紀州熊野の権現の神幣(みてぐら)を、川岸に斎(いつ)き祀ったのがこのお社の始まりだという」ことを記している。

 ここでいうめでたいという奇瑞があったと記しているが、どういう現象なのかどうも分からない。

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 熊野神社近辺の路地からは高い岸壁で隅田川を見ることはできない。もと来た千住大橋に戻る。

 昭和2年(1927)鉄橋になった千住大橋を渡り、歩く。橋からは左の隅田川上流が千住水道管に阻まれて見ることができないのが残念。

 竣工された同時期に東京市電が南千住から延長され、千住大橋を渡り千住4丁目まで走ることになる。市電は日光街道を走るため旧日光街道の商店街は一時寂びれることになったという(日光街道千住宿民俗誌より)。

Img8772d9bezik9zj1  橋を渡っている川筋は、徳川家康によって千住大橋が架設される以前には「戸田の渡し」と呼ばれた渡船場であった。当時の奥州道は現在の白髭橋付近にあった「橋場の渡し」を経由していたが、千住大橋が架設されることにより奥州道は千住大橋経由になっていく。 

 架設当時の名称は「大川(隅田川」に架かる唯一の橋であったから、単に「大橋」と呼ばれていたが、67年後に隅田川の第二の橋「大橋(両国橋)」が架橋されることにより、千住の地名を冠した「千住大橋」と呼ばれるようになった(ウキベリア「千住大橋」より)。

  この地が選ばれたのは、江戸城から奥州方面に向かう最短直線コースであったこと。隅田川の川幅が一段と狭くなっており、架設が容易であったと考えられている。そこには家康にとり、新領地の関東支配の強化や仙台伊達藩との好みを深めていくことを考え、江戸に着く早々急いで奥州道の整備をしていくための架設ではなかったかと推測する。

 その後、徳川幕府開設に伴い、5街道の整備が行われ、千住宿は奥州道中、日光道中の初宿となり、幕藩体制を支える宿駅制度を担っていくことになる。

300pxsenjyu_ohashi_old1   幸田露伴は明治40年(1907)に「蝸牛庵夜譂」の中で、「千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかかれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当たるをもて、人馬の往来絶ゆること無くして、たゞ川船、伝馬、小舟の類の帆を張り艫櫂を使ひて上下するのみならば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱を川風に忘れん人等(略)。およそ此処の橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無く、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙しく、浮世の人を載せ去る戴せくるなり」(荒川ふるさと文化館「千住大橋展」図録より)と記している。

 何隻もの小蒸気船が行き交う下流と対比して橋の上流はのんびりとして蛇行する川船の様子を執筆している。下町の工場を支える燃料として、明治期から隅田川沿岸の石炭積荷の往来が頻繁にあったことが伺い知ることができる。

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 千住大橋を渡ると大橋公園がある。歩道際に平成27年に建立された葛飾北斎の「冨獄三十六景、従千住花街眺望ノ不二」の画と顕彰碑が展示されている。

 公園の奥の方に松尾芭蕉が六百里の旅、「おくのほそ道」の始まりの句を詠んだといわれている俳文が記されている「おくのほそ道矢立初の地の碑」の記念碑がある。松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月に弟子の曾良を伴って深川から隅田川を遡上して千住に降り立ち、陸奥へと旅立っていく。

P2070010  俳文紀行「おくのほそ道」には「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別の泪をそゝぐ」「行春や鳥啼魚の目は泪」「これを矢立(やだて)の初めとして、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送るなるべし」と記している。

  千住宿や品川宿など江戸初宿には見送り、出迎いの習俗があり、芭蕉一行を見送る情景が描かれている。なお矢立とは筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具のことだそうだ。また、千住大橋は足立区と荒川区の境になっている。芭蕉一行が隅田川から下船したのがどちらの河岸であったか足立区と荒川区がもめた時期があったと聞く。芭蕉は千住大橋を渡って奥州へ旅立って行ったとは思えない。

P1310026  大橋公園の左の岸辺にかかる階段を昇ると上流からの千住大橋を見ることができた。ゆったりと流れる隅田川の岸辺に降りることができるようになっている。

 「…やっと隅田川を見ることができたな」と胸がホットした。向こう岸からは高い岸壁で隅田川を眺めることができなかったからだ。

 岸辺の護岸通りは橋の真下を通り、下流の護岸岸辺に行くことができるようになっていた。

P2070012     橋の真下には平成16年(2004)に千住大橋下を東西に結ぶテラス連絡橋「千住小橋」という小さな橋が架けられてあった。

 この千住小橋付近の川面にブイが浮かんでいたが、その下に江戸時代の木杭が今なお残っているということを後で知った。確かめないできたことが悔やまれる。次回、何かの折りに橋の下のブイを見つけ、木杭を確認していきたい。しかし、川はけっこう濁っていたので、見えるか分からない。

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 千住小橋を渡ると「千住大橋際御上り場」という板の案内看板が掲示されている。将軍家、日光門主など高貴な人物が利用していた湊を千住大橋際御上り場と言っていたという解説文が記載されている。

 江戸城堀から道三掘~日本橋川~隅田川~千住大橋湊へと船にて遡上し、日光街道への社参する行程があったことが分かった。

 千住大橋の真下に千住小橋があったことは知らなったし、水辺を歩くことができたことは良かった。願わくば江戸時代の木杭も見たかった。

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 下流側から昭和通りにつながる千住大橋の新橋を見る。大きな橋だが何故か愛想のない橋に見えた。

 目線を下流に転じる。ゆっくりと流れる隅田川の右岸の先には白髭橋のある南千住3丁目になっている。美空ひばりの母親、加藤喜美枝が生まれたのも南千住3丁目である。

 幸田露伴の前述の文面の中で、「橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無しく、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙はしく」の通り、大正、昭和の初期にかけて工場の燃料となる石炭を積んだ幅の広い達磨船が運航していた。

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 大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」の中で、ひばりの母、加藤喜美枝が生まれた南千住三丁目界隈のことを次のように記している。

 「大正3年南千住三丁目に生まれた加藤喜美枝の家々は石炭を燃料にしていた。夕食時になると、家々の軒先に七輪を出し、石炭をたいた。まわりの人たちは、喜美枝の家のあたりを汽車長屋と呼んだ。(略)トタン屋根の平屋で6畳2間くらいの小さな家であった。父親の又吉は、牛に大八を引かせて、藁莚(わらむしろ)の袋であるカマスに入れた石炭を売り歩いていた。(略)南千住三丁目には隅田川の水路と陸路から、北は、北海道、福島の常磐、南は九州から、石炭がつぎつぎに運ばれてきた。町には、石炭の卸商や小売商の店が立ち並んでいた」と当時の貨物船である達磨船から石炭が運び込まれてくる様子が描かれている。

P1310021_20200208051501  白髭橋下流へと流れていく隅田川を眺めながら美空ひばりのステージが思い浮かんできた。最初に見た新宿コマ劇場での「美空ひばりショウ」。演出構成は母親の加藤喜美枝であった。

 一番後ろの席に座り観たそのステージ。舞台は下町特有のけばけばしさを感じたが、何よりも美空ひばりの歌声がズシンと胸に入ってきた。一番後ろの客席に座った自分の心に響いてくる美空ひばりの迫力ある歌唱力に感動した記憶がある。

 それでも、…あのけばけばしいギンギンラした舞台装置には驚いた。今思えば、加藤喜美枝が生まれ育った隅田川沿いの南千住三丁目界隈の石炭積卸しの匂いが発散されていたのではないかと思えてきた。

Tower_48664601 〽安い貸間の貼り紙を

 さがし歩いたあの頃は

 お前とお茶を飲むたびに

 マッチの箱が増えてった

 街も賑わう年の暮

 着たきり雀のジーパンはいて

 千住大橋たたずめば

 頬にポツンと小雪が落ちてきた

 何かやりそな顔をして

 なんにもできない俺だった

 (昭和50年10月、作詞:喜多条忠/作曲:叶玄太/歌:石橋正次)

 昭和50年(1975)の青春ドラマ「俺たちの旅」の第11話「男はみんなロマンチストなのです」の挿入歌を石橋正次が歌っている。荒川ふるさと文化館発行の「千住大橋展図録」にこの曲が紹介記載されており、初めて知った。地方出身の若者が抱いたであろうやりきれなさを描いたと図録に記述されてある。

 ユーチューブでこの歌を聴いてみたが、「何かやりそうな顔をしてなんにもできない俺だった」というフレーズが自分のことを言っているようで気に入った。作詞は「神田川」「赤ちょうちん」を書いた喜多条忠だ。千住大橋を渡り歩きながら、なんにもできない若者の焦りと惨めさがにじみ出てくる詞である。

P2070004     もう何年前だろう。40歳前後の頃、高校の同窓会に出席した。その時、高校の演劇部だった女子から、「あなたはこういう同窓会に出席してこない人だと思っていた。ただの人だったのね」と平凡な人物であったと見下されたような気がして、グサリと胸に突き刺さる言葉を受けた。普通の勤め人になっていた自分を言い当ててもいた。その通りですと言い返せなかった自分を恥じることはないと思って黙した。彼女はその時も地域で演劇を続けて頑張っていた。だから演劇をやめた自分に言えた言葉だったのかもしれない。

 千住大橋という大きな歴史ある橋には何かを包み込むような雰囲気がある。隅田川に架かる千住大橋を渡っていった多くの若者たちが昔も今もいる。橋の向こうに見えたものは何だったのだろうか。冷たくもあり優しくもある橋。若い頃に渡っていたら「何やってんだ、夢はどうした!」と叱られたかもしれない、この千住大橋に…。

                           《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

ブログ「江戸図会を読む」/鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会下巻」(昭和50年1月角川書店発行)/杉本苑子著「東京の中の江戸名所図会」(昭和50年12月北洋社発行)/佐々木勝・佐々木美智子著「日光街道千住宿民族誌」(昭和60年10月名著出版発行)/荒川ふるさと文化館「千住大橋展図録」(平成19年度荒川ふるさと文化館発行)/萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」(2013年6月岩波書店発行)/大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」(平成元年7月新潮社発行)

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千住宿を歩く②ーかんかん地蔵・なかよし地蔵尊・めやみ地蔵堂

  かもんじゅくミニ公園内『江戸後期絵図』

P9140058     「分かりやすい絵図だな…。でもこの関札所ってなんだろう?他の宿場町ではあまり聞いたことがない。木戸口のことなのかな」と千住宿江戸後期絵図が載っている「かもんじゅく案内掲示版」を眺めながらつぶやいた。

 旧日光街道千住宿は江戸に物資を運ぶための中継地点として青物市場、通称「やっちゃば」が軒を並べ、賑わいをみせていた。その千住宿場町の一つであったやっちゃば跡掃部宿の通り沿いに、足立区がミニ公園「掃部宿憩いのプチテラス」を平成27年(2015)にオープンしている。

 旧日光街道千住宿通りを歩いていて、ベンチが置かれた小さな公園で暫し休憩する。公園の端に絵図入りにの千住掃部宿案内版あるのを見つける。眺めたこの絵図、どの絵図よりも江戸期の千住宿を表していると思えた。江戸後期と書かれた絵図には、千住大橋から南北に道幅5間の宿通りを経て、左北端日光街道への出入り口までが描かれている。

 Dsc025671 絵図の中に千住大橋を渡るとすぐに「関札所」と記されているのを見つける。現在の京成線ガード附近になる。同じく宿の北端日光街道出入り口、今の千住新橋あたりにも「関札所」と記され、南北の宿出入り口に置かれているのが分かる。木戸口を表しているのではないかと思い、ネットで調べてみる。木戸口ではなく、「高札場と似たような施設で、本陣の利用状況を知らせるものであった」とブログでの解説説明が記載されていた。

 画像がないかなと思ったが、わずかに高札場を小さくしたものということで、具体的な画像は見当たらなかったが、掲示板として立っていた施設だったのだろうかと思えた。

Dsc025681   勝山準四郎著「千住宿と足立」の中でお関札として記載があった。それは、「参勤交代で千住宿を使用する大名は、他家との差合いをさけるため、木の看板のようなような宿札(関札)を三枚作成し、本陣と北は千住5丁目のはずれ、南は河原町はずれにこの『お関札』を掲示した。古図によると関札所は四方を竹矢来で囲われた中に一本太い柱が立っている。関札は本陣と2か所の関札所に掲げられたものである。休泊当日には本陣亭主と問屋場役人が関札下まで出迎え、先導して本陣に案内した」とある。

 大名の出迎え送りはこの関札所で行ったということは、宿場の出入り口を意味しているということなのだ。

 宿場の出入り口にあたる関札所には千住宿本陣や脇本陣を利用する大名や高官の名前が掲示され、他の大名や高官がかち合わないように、また知らないで宿内に入って、宿泊中の大名や高官に無礼が無いように知らしめる意味があったのだ。こうした関札所があったということは,参勤交代で日光街道、水戸街道を通る大名等が数多く千住宿を活用、頻繁に通ったことが伺える。

D0183387_134714591  さらに絵図には神社仏閣が多く記載されている。日光街道宿場通りを挟み、西側には源長寺、慈眼寺、不動院、勝専寺、安養院があり、東側には関屋天満氷川神社、金蔵寺、長円寺、清亮寺と記されている。

 それ以外にも「大千住マップ」ガイドには、千住河原町稲荷稲荷神社、八幡神社、千住神社、千住本氷川神社、千潮金比羅宮、千住4丁目氷川神社と数多くの神社仏閣が存在している。とりわけ何故か氷川神社が多いのが目立つ…。

 家数2,370軒、人口9,456人で成り立っていた千住宿場町。その規模から、神社仏閣数は多いように思えてくる。しかし数多く寺院仏閣のある千住宿には近郊近在から人が訪れる何かがそなわっていたのだろう。磁石のように人を引き寄せた「まち」としての魅力は何か?それは何であったのだろうか?そうしたことを見つけようと思い、宿場町通りを歩いていくことにする。

安養院の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」

Pc120161  宿場通りの北端、日光街道出入り口の手前を左に入ると立派な山門のある安養院。千住最古の寺院と云われている。鎌倉時代執権5代北条時頼が建立、小田原北条氏政の祈願所があったという。関東制覇を目論んだ小田原北条氏の匂いが残っているのか?

 もとは千住元町にあったが、慶長3年(1598)兵火の火災にあい、現在地に移った。

 享保年間に8代将軍徳川吉宗が立ち寄り、その際に吉宗の子が長福丸(ながとみまる)であったことから寺の名を長福寺から長福寺安養院に変えたと云われている。歴代の住職と檀家の努力で江戸末期から明治初期にかけては真言密教の壇林となり、多くの仏弟子を世に送ったともいわれている。

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 中央図書館に向かう道路の右側に安養院の表札が架かった山門がある。その山門から本堂に向かう手前に3体の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」が並んで祀られている。

 右2体のお地蔵さんが「なかよし地蔵尊」。左が寛文4年(1664)、右が寛文10年(1670)の建立ということから、歴史ある古いお地蔵さまということになる。

 嫁や姑の諍いや近隣との関係に悩み苦しんでいた人は「なかよし地蔵尊」を拝み、心の救いを求めたのだろうかと思い描く。お地蔵さまのお顔は穏やかで優しい表情をして親しみがわいてくる。

 …精神的な安らぎを求めていくお地蔵さんなんだ。

Pc240035 元禄12年(1699)に作られたという「かんかん地蔵」。

 自分の体の痛い(病んでいる)部分と地蔵の同じ部分や地蔵さまの頭を石で叩くと良くなるといわれ、このときに出る音から「かんかん地蔵」と呼ばれている。このため、叩かれた部分がへっこんでいて、顔がすり減り、のっぺらぼう状態になっている。奇妙な姿をしたお地蔵さまだが、人々の苦痛を引き受けている尊いお姿に見えてくる。

 わが家の飼い猫「ポン太」が口内炎になり医者通いをしている。早速かんかん地蔵さまの右側の口辺りに置かれてある小石で「かんかん」と叩いてみて、早く治ることを祈願する。

Pc240037_20200104142401    お地蔵さまは、お釈迦さまが「自分の亡くなった後の衆生(しゅじょう)の苦しみを助けよ」と後を委嘱された仏さまといわれている。

   お地蔵さまへのお経の中に147字の『地蔵軟偈(じぞうなんげ)があり、地獄の責苦を代わりに受けるという「代受苦」という文言がある。お地蔵さまが身代わりになって引き受けようとする。そのお姿に誓願をする(太田久紀著「お地蔵さんのお経」より)。各地にある「身代わり地蔵尊」の基になるお経ということになる。

 リュウマチや神経痛で痛む人がお参りして、小石でお地蔵さまの頭や体を叩き、治癒を痛みが和らぐことを祈願したのだろうと思い描く。

 安養院境内には庶民の苦しみや苦しさを救うものとしてお地蔵さまがいることを知ることができた。

長円寺「めやみ地蔵堂」

Pc240028   戦災で焼失した千住通り沿いの中で、伝馬屋敷の面影を今も残している横山住宅。昔トイレで使った再生紙の浅草紙の問屋でもあった。

 横山住宅の脇には長円寺に続く参道があった。参道入り口脇には「石地蔵」が置かれていた(子育て地蔵)。この参道は大正の終わり頃まで両側にからたちの生垣が続いていた。このことから参道の奥にある長円寺は『からたち寺』と言われ、親しまれていたお寺であった。

Pc120193  長円寺の山門横には足立区教育委員会案内版がある。「新義真言宗の当寺は、寛永4年(1627)出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶ。後に、賢俊が開山する。9代将軍家重の享保年間16世栄照の代は、殊に栄えた」と記されている。

 古来より山岳信仰の対象の湯殿山の行者が庵を結んだとある。松尾芭蕉は『おくのほそ道』における湯殿山の部分について、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記し、『語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな』と句を詠むにとどめている。出羽三山には行ったことはないが、どこか神秘に満ちた句である。芭蕉は深川から隅田川を伝い千住大橋で舟を降り、奥州へ旅立っていった。この日光街道千住宿を通っていった松尾芭蕉一行。…その姿を思い浮かべるのも歴史散策の面白さである。

Pc240013_20200104093601   長円寺山門左横に「子育て地蔵堂」がある。通称「めやみ地蔵堂」と呼ばれ、古くから目を病んだ人たちがお参りに来ることで知られている。もともとは参道入り口、横山家住宅の脇にあったのが現在の処に移ってきているが、それが何時頃なのかは分からない。

 花や線香をあげる人はもとより、参道先の千住宿通りにある絵馬屋で買い求めた「向い目」という柄の眼病祈願の経木千住絵馬が数多く奉納されているのが目につく。

 お堂の扉には鍵が掛けられており、中のお地蔵さまは暗くて見ることができないのが残念だ。これも「めやみ地蔵尊」と言われる由縁なのかと勝手に思ったりしてしまう。

Pc240011  お堂の前横に後生車(輪廻車)が立てられている。

 …初めて見る後生車。木の角柱の一部をくりぬき、車輪状のものをはめ込んで心棒を通したものになっている。なかば朽ちかけているように見えたが、車輪は勢いよく回った。

 後生車は亡き人を供養するものと一般的に言われている。千住の「めやみ地蔵尊」は眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊であることから、その願いをする際に車輪を回し祈願するということなのだと思える。お地蔵さまに直接強く祈願を伝えるということなのか。

 しかし、足立史談会編集の「足立区歴史散歩」と「千住歴史ウオークガイドブック」の「長円寺、後生車」の紹介では「お百度参りの数取り道具である。上に回すと来世で、下に回すと今世で願いが叶うという言い伝え」とだけ記している。この車輪を回しながらお百度参りの数取りができるのか?具体的なイメージが浮かばない。――分からない。「千住街の駅」で地元の古老に尋ねると「数取り道具という記述は間違っているのではないか」という指摘があった。

 どうも胸におちないため、足立区にメールで問い合わせたところ、足立区郷土博物館の学芸員の方から「後生車(輪廻車)」の回答が寄せられた、分かりやすいメールになっているので、前半を省略して記載することにする。

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 回答メールでは、「(後生車・輪廻車)は念仏を唱えることと同じ効果、功徳があるとされるもので、お参りの際に回すものということだと思います。しかしながら、人々がこれを使用していくにおいて、様々な解釈で信仰されることとなります。そして、その土地、その場で言い伝えられ、様々なバリエーションができるということになります。

 勢いよく回して、ぴたりと止まると極楽往生できる。回し終わったときに逆回転すると地獄に落ちる。また上に回すと来世で、下に回すと今生で願いが叶うなどです。

Pc120191   ただし、お百度参りの際に回すということはあっても、後生車では直接その数はわかりません。ここに、小石や串を置く。あるいは何かに結ぶなどしないと数はとれないかと思います。地蔵堂前に置かれているのは、地蔵尊へのお参りの際、念仏を唱えるということだと思います。後生車については、とくに地蔵尊に限るものではありません。ただ、念仏を唱えるという点では、地蔵尊は身近な仏であると思います。

 長円寺の地蔵は、眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊なので、その願いをする際に、車を回したものと思われます(足立区郷土博物館学芸員)」と後生車の基本的な考えを教えていただいた。しかし、お百度参りの数取り道具については、後生車だけではできないという見解であった。お百度参りの道具であるという規定から頭が混乱してしまう。千住史談会の再考を促したい。

Pc120188  日本民俗学会理事の井之口章次氏は「お地蔵さんと神信仰」の中で、水神との関連から、木村博氏が「後生車を廻すことが手を洗う代わりになる。川瀬垢離(かわせごり)と同じ意味合いものだ」ということを聞いたことを紹介し、「そのとき、川の水をすくってかける動作と、地蔵車を下から上に廻す動作とに、何かしら共通点があるように感じた」と記述している。

 車輪を回すことが、川の水で身を清め祈願する行為でもあるという。いろいろな解釈があるのだと思えてくる。それでもお地蔵さまに眼病治癒を願うことには変わりがない。後生車を回し、祈願をしていく。それで良いのだと思い、気持ちが落ち着いた。

Pc240039  クリスマスを迎え、餃子1人前100円、デコレーションケーキが1500円と宿場町通り商店街は活気に満ちていた。

 千住宿通りの北端には接骨医院として江戸時代から有名な「名倉医院」の旧診療所、長屋門などの建物が保存されている。一日に300人~500人の患者が受診したと云われている。この千住4丁目、5丁目には「なかよし地蔵尊」「かんかん地蔵尊」「めやみ地蔵尊」「名倉医院」と並んでいる。

 近代の「病い」は医学的に除去、征服されるものであるという考えが根底にある。しかし、江戸時代の「病い」とは、なだめ、鎮めるものだと捉えられていた。そのため薬種や医師による治療とあわせて医療信仰が盛んに行われていた。それはたんなる地蔵信仰ではなく、当時においては医療そのものであったと言うことができる。

 身体の痛み、眼病、精神疾患等を癒し、鎮めることを求め千住宿に足を運んできた人がたくさんいたのだ。そうしたことから千住宿には人を引き寄せる磁石の一つとしてお地蔵さまを含めた医療関連の施設が多く存在していたことが分かってきた。まだまだ千住宿には人を引き寄せる磁石があるように思え、さらに歩いていくことにする。

                       《夢野銀次》

≪参考引用文献等≫

佐々木勝・佐々木美智子著「千住宿民俗誌ー宿場町の近代生活」(昭和60年10月名著出版発行)/勝山準四郎著「千住宿と足立」(昭和56年6月足立史談会発行)/足立史談会編集「足立区歴史散歩」(1992年6月学芸社発行)/「千住宿歴史ウオークガイドブック」(2016年3月千住文化普及会編集発行」/太田久紀著「お地蔵さんのお経」・井之口章次著「お地蔵さんと神信仰」(昭和59年10月大法輪閣発行「地蔵さま入門」に収録)/岩波文庫「芭蕉おくのほそ道」(1979年1月岩波書店発行)/足立区郷土博物館配信メール「後生車・輪廻車について」(令和元年12月受信)

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千住宿を歩く…水戸街道、清亮寺「槍掛け松」「解剖人墓」

Pc120164  栃木駅から東京都心にでるには、東武日光線・伊勢崎線に乗車し、北千住駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて行くことになる。

 電車が北千住駅手前の荒川鉄橋をガタンゴーン、ガタンゴーンと響かせながら渡りきると、すぐに右側車窓から高架線下にある寺院の屋根瓦が見えてくる。「何というお寺さんなのだろうか?」と通過する度に思っていた。

 東武伊勢崎線高架下にある寺院は「清亮寺(せいりょうじ)と称し、旧水戸街道に面し、元和5年(1619)身延山久遠寺末として創建された千住地区では唯一の日蓮宗の古刹であることが門前に立って分かった。

Pc150001  旧日光街道千住宿の賑わう商店街を北に歩く。名倉医院の手前に、「東へ旧水戸佐倉道・北へ旧日光道中」と書かれた分岐点標識から右に入り水戸街道沿いを歩いて行く。

 荒川でこの旧水戸街道は途切れてしまうが、幅6mの水戸街道を歩いているのだなと実感する。常磐線高架線の下を通り、荒川土手堤を後ろに見て、左側の高い塀沿いに歩くと東武伊勢崎線高架が見えてきた。高架線手前の左側に清亮寺山門があった。

 清亮寺は日光街道から分岐した水戸街道最初の寺院になることになる。

Pc120176 どっしりとした山門をくぐると正面に本堂が建っている。

 本殿の建物は「天保4年(1833)に再建の総檜造りで、随所に江戸期の建築様式を遺しているすぐれた建造である」と足立教育委員会作成の案内掲示板に書かれてある。

 正面から見る本堂はコンパクトではあるが、風格を備えた歴史を感じさせてくる。総檜造りのもつ木目の柔らかさが本堂建物全体を包んでいるように感じられ、優しい建物に映ってきた。

Pc120166  寺院の逸話「槍掛け松」として、関東大震災前に撮影された「ありし日の槍掛け松」の写真が境内参道脇に掲示されている。

 樹齢350年の松の木は昭和20年に枯れて、今はない。屈曲した松の枝は街道の向こう側の民家まで伸びていた。そのため、参勤交代で通る大名行列の槍を倒さなければ通過できないことになる。槍持ちにとり槍を倒すことは許されないことになる。松の枝を切ることになる。

Pc150007  水戸藩主、水戸光圀は張り出した枝を切るには惜しいとして、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば槍を倒したことにならないという粋な計らいをした。

 以来、この松は「槍掛け松」と称され、ここを通る大名行列は、門前で松に槍をかけて休むようになったと云われている(案内掲示版説明文より)。

 なんだか昔話を聞いているような気がするが、どこかほのぼのとする感じがしてくる。文政4年(1824)頃には江戸参勤の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住宿を往来したと云われている。奥州街道からくる大名は混雑する日光街道を避けて、水戸街道沿いで東上した大名を数多かったと云われている。

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 本堂手前の境内右側に庵造りの休憩所が設けてある。境内にベンチが置かれてている寺院はよく見かけるが、休憩場をわざわざ設けている寺院はあまり見かけない。これも「槍掛け松」の由来なのかと思えてくる。

 早速休憩所のベンチに腰を下ろして境内を見る。墓地内に樹木が多いのに気が付く。昔日の想いを浮かべて欲しいと寺院側の優しい配慮を感じた。本堂と墓地の裏手には荒川の土手堤が見えた。荒川の対岸には死刑執行を待つ服役者のいる小菅の「東京拘置所」がある。明治維新直後には小菅県が置かれ、囚人をも収容していたが、小菅県が廃止されると小菅集治監に変わる。荒川がなかった時代は非常に近い距離にあったことから清亮寺に囚人墓地が設けられた。

 清亮寺には4基の囚人墓地が昭和46年頃まであったが、東武線の複々線工事に伴い豊島区の雑司ヶ谷霊園に移され、解剖人墓だけが境内に残った(「江戸四宿を歩く千住篇」より)。

Pc120173  「解剖人のお墓は何処にありますか?」と箒を持って本堂裏手から現れた寺院の人に尋ねた。その人は私に無言で「解剖人墓」と刻字されている墓石を差し示してくれた。

 本堂の左手にある解剖人墓。明治3年から4年(1870~1871)にかけて、この寺で医学解剖された死刑囚の遺体を葬った墓である。

 墓石は前後に2基ある。後列にある「解剖人墓」の右側面には明治5年申2月建立と刻まれ、左側面には「取刀」としての3人の医師の名前が刻まれている。

 前列の墓石は墓碑として昭和42年6月に建立されたいきさつと11人の解剖された人の名前、年齢、村名、戒名が記されている。

Pc120174  解剖人墓と記された前列の墓石には、「明治初年日本医学のあけぼのの時代、明治3年8月当山で解剖が行われました。人のふわけさせる者などだれもいないころでした。被解剖者はすべて死罪人でした。執刀は福井順道が一人、大久保適斉が九人、亜米利加人ヤンハンが一人、いずれも日本医学のパイオニアたちでした。

 それら解剖された死罪人の霊をとむらうべく墓を明治5年2月建てましたが、破損してきましたのでここに新しく石碑を建立しました。昭和42年6月当山二十七世日香」と記されている。

 下段に記された被解剖者の戒名には「皆刃信士」「受刃信士」といずれも「刃」の入った戒名になっている。「斬首刑」ということを現わしている。また、年齢では55歳の一人を除き、あとは20代から30代と壮年層になっている。

Pc120169  かつての牢獄は不衛生からくる牢死者を多く輩出していた。しかし、解剖するには内臓を含めて壮健な者を望んでいく。そのために死罪人が人体解剖に最も適していたことになる。

 以前に壬生町を観光ボランティアの案内で歩いた時、黒川のほとりで死罪になったばかりの遺体を壬生藩の蘭学者が解剖を行ったことを聴いている。医学の発展の陰で死罪人の遺体が付与されてきたことを改めて知ることができた。

 水戸徳川家は参勤交代を行なわない江戸常駐の定府大名であった。そのため国許である水戸と当主の居住する江戸との間で緊密に連絡を取り合う必要があった。水戸街道には徳川家専用の施設(小金の水戸御殿等)が多数設けられていた。

Pc150015  江戸と水戸との連絡が緊密であったが故に「戊午の密勅」をめぐり、水戸領内から藩士、百姓、郷士らが小金宿を中心にその数1万人規模が集結し、「南上」といわれた抗議行動が江戸水戸藩邸、幕閣に対して起こった。安政の大獄で井伊直弼はこの「南上」からの危機感を踏まえ、幕閣の強さを示すために水戸藩に重い処罰を与える。そのことが「桜田門外の変」を生み、時代は急激に変化をしてきた。

   水戸街道はどこか幕末争乱の街道につながっていくような気がする。吉村昭の「桜田門外ノ変」で水戸藩家老の安島帯刀が幕府から処罰されるところがこう記されている。「評定所で申渡し(切腹)をうけると、ただちに処刑のため伝馬町へ護送された。牢屋敷に入ると、安島(帯刀)の駕籠が、まず仕置き場へ入った。牢役人の合図で駕籠が素早く旋回させられた。安島が眼をまわしたしたところを小役人が駕籠の外に引きずり出しして、ただちに首をはねた。切腹の判決であったが、斬首されたのである」と斬首する際の手立てをリアルに描いている。土壇場での斬首ではなく、いきなり眼をまわさせての斬首には井伊大老の憎しみが混じっていたのではないかと思えてくる。

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 江戸四宿(東海道品川宿、日光街道千住宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿)の一つ千住宿は日光街道の初宿となり、水戸街道の分岐する宿駅であった。「日光道中宿村大概帳」には天保14年(1843)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けれ、家数は237軒、人口は9,456人であったとその賑わいが記されている。

 旧日光街道の千住商店街を歩いていくと、人、人で現在も賑わっている商店街。どこからこの賑わいが生まれてくるのかを知りたくなってきた。飯盛女のいる旅籠なのか、街道を往来する武士や近在の農民なのか?

 ――千住宿をもっと歩いていこうと思う。

                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「江戸四宿を歩く」(2001年12月、街と暮らし社発行)/「千住宿歴史ウォークガイドブック」(2018年3月、NPO法人千住文化普及会発行)/吉村昭著「桜田門外ノ変」(平成2年8月、新潮社発行) 

 

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生きていく姿が光り輝くー映画「キューポラのある街」から

自分の進路ー「学ぶこと」とは

201607241539501~苦しい時には見つめてみよう 仕事に疲れた手のひらを

~一人だけが苦しいんじゃない みんなみんな苦しんでる

~話してみようよ語り合おうよ 積もり積もった胸のうちを

(「手のひらの唄」昭和31年作、詞:伊黒昭文・曲:寺原伸夫・昭和39年に坂本九がレコード化)

 トランジスター工場内を案内説明した女工(吉行和子)は食堂でジュン(吉永小百合)に、「働いて勉強するってね、(定時制高校)面白いわよ。学校にいろんな人が集まるでしょう。だからみんなで助け合うのね」と、昼休み「手のひらの唄」を合唱する職場のコーラスの歌声が聴こえてくる。合唱する女工たちを見つめるジュン。 

 「♪悲しい時には見つめよう 汗にまみれた手のひらを」と歌いながら商店街を自転車で帰宅するジュン。そこには自分の進路(就職して定時制高校に通うこと)を決めたジュンの15歳の少女の明るい笑顔がある。

1387372523545223002261  昭和37年(1962)4月公開の吉永小百合主演の日活映画「キューポラのある街」をDVDで観る。

 監督はこの作品がデビユー作品となる浦山桐郎。原作は早船ちよ、脚本は浦山桐郎と師の今村昌平との共同執筆。ブルーリボン賞作品賞受賞作品。キネマ旬報ベストテン2位。主演の吉永小百合もブルーリボン賞主演女優賞などを受賞し、大きく飛躍するきっかけになった作品。浦山監督も、この作品で第3回日本映画監督協会新人賞を受賞した。

 中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女。高校進学を目指すジュンだが、職人気質の父・辰五郎(東野英次郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。

Imgp31811  自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任の原田先生(加藤武)の助力で修学旅行に行けることになった。

 しかし、ようやく 再就職した父親は、待遇不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかかる。

 ジュンや弟のタカユキ(市川好郎)が親しくいている級友の一家が北朝鮮に帰還することになり、そこでの一家の苦悩する姿や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、就職、自立して働きながら定時制高校で学んでいくことに意義を見出していく(ウキベディア参照)。

03311   映画の冒頭、荒川の鉄橋を電車が大宮に向けて走るシーンにナレーションが重なる。

 「今や世界第1になったマンモス東京の北の端から荒川の鉄橋をわたるとすぐ埼玉県川口市につながる。河ひとつのことながら、我々はこの街の生活が東京と大きな違いを感じる。500を数える鋳物工場。キューポラという特色ある煙突。江戸の昔からここは鉄と火と汗によごれた鋳物職人の街なのである」と川口市内を見下ろしながらキューポラの見える荒川土手道を中学に通う生徒たちをバックにメインタイトル『キューポラの街』が映し出される。

 今村昌平とともに「幕末太陽伝」の助監督を務め、日活を退社していた川島雄三監督に浦山桐郎はどうしても試写を見せたく、探し当て見せることができた。見終わった川島雄三は、「俯瞰(ふかん)のカットが4つばかりありましたが、あれはいけない。みだりに人を俯瞰してはなりません」と語り、細かく演出について批評した(田山力哉著「夏草の道」より)。

P61300381  「俯瞰」とは上から人を見下ろすという意味がある。そのシーンが4つあると川島雄三は批評している。川口市街地を見下ろすシーンなのか?登場人物を見下ろしているシーンがどこなのか?…私にはわからない。

 この作品を観ながら、一つ一つの画面に真剣に向き合って撮っている監督以下スタッフ、出演者たちの厳しい姿勢、真剣さがひしひしと伝わってくるのを感じた。とりわけ、吉永小百合の目の鋭さと走る姿の足の太さが印象に残った。回りの環境やそこに生きる人々を見つめ、自分に負けないで生きようとする少女の表情が良い。

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  修学旅行にいかず、学校へも登校しなくなったジュンに担任の野田先生(加藤武)は、「勉強したって意味ないもの」と言ったジュンに、「生意気言うんじゃないよ。受験勉強だけが勉強だと思ったら大間違いだぜ。高校へ行けなくとも勉強はしなくちゃいかんのだ」と怒り、こう諭す。

 「いいかジュン。働いても、何やってもだな、そんな中から何かを掴んで理解して、付け焼刃でない自分の意見を持つ。そいつを積み重ねていくのが本当の勉強なんだ。定時制へ行ったっていいじゃないか。それも行けなきゃ通信教育受けたっていい。気持ちさえありゃ何処でどうやったって勉強できるんだ」と、仕事を通して学んでいくこと、生涯教育の本質を語る野田先生。早稲田大学を卒業後、文学座に入る前の一年間、大久保の中学校で英語教師をしていた加藤武ならではの語りに説得性を感じた。

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 授業の作文の中でジュンはこう綴る。

 「わたしには解らないことが多すぎる。第一に貧乏なものが高校へ行けないということ。今の日本では中学だけでは下積みのまま一生うだつが上がらないのが現実だ。下積みで貧乏でケンカしたり酒飲んだり、バクチを打ったり、気短かで気が小さく、その日暮しの考え方しかもっていない。みんな弱い人間だ。もともと弱い人間だから貧乏に落ち込んでしまうのだ。すると貧乏だから弱い人間になってしまうのか。わたしにはわからない」

 わたしが中学を卒業するときに担任の先生は、「いいか、同窓会は20年間開かないこと」と言った。どうして?そして…そうか。と頷いた。当時、50名いたクラスの中で半数が就職者であった。進学組とのギャップを埋めるには相当の年月が必要なのだと、その先生の言った言葉が今も残っている。

北朝帰還事業ー離散する家族

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 川口駅前で北朝鮮に帰る人たちへの歓送会が映し出される。ジュンとタカユキ姉弟は級友のヨシエ(鈴木光子)と弟のサンキチ(森坂秀樹)を見送りに来る。しかし、北鮮に共に行かぬ日本人母親(菅井きん)がサンキチに会いに来た時に、会うのをとめるヨシエらの姿をジュンは見つめる。そこにはつらい家族たちの姿が描かれている。

 1950年代から1984年にかけて在日朝鮮人とその家族による日本から北朝鮮への集団的は帰還事業が行われた。この時期、在日朝鮮人も生活に困窮する者も多かった。生活保護者の削減や犯罪の削減を背景として日本政府や政党などもこの帰還事業をすすめ、日本人妻2000人を含め、10万人近くが北朝鮮に帰還したといわれている。

 新潟行きの列車の中でサンキチは母親を恋しがり泣きじゃくる。在日朝鮮人の父親(浜村純)は、「母ちゃんと暫くいろ、そして来たくなったらいつでも来いよ、俺、働いて住みよくしとくから」と言って、大宮駅からサンキチを川口に帰す。しかし、母親は別の男と結婚し、すでにいなくなっていた。あれから50年の歳月がたっている。帰還した人たちはどうしているのか?

E2c578731   牛乳を盗んでいたタカユキとサンキチは牛乳配達少年に見つかる。小舟で逃げる二人に川ふちから、「馬鹿野郎、お袋が病気だからアルバイト(牛乳配達)やってんだぞ。畜生、お前らのお陰でよ、お前らのとった分だけ店からひかれて、俺ア一銭にもなんねえんだ。薬も買えねえ時だってあるんだぞ。馬鹿野郎!」と叫ぶ。タカユキが「銭払いやいいんだろう」と言い返すと、少年は「畜生!銭なんかで…恥ずかしくないのか、お前ら!」。

 ――ぐさりときてうなだれる二人。貧しくとも恥ずかしくないのかというセリフには人としての誇り、尊厳に突き刺さってくるシーンである。

 川口駅見送りの改札口でサンキチはタカユキに、「二人で飲んだ牛乳代、これで返してくれ」とお金を渡す。受け取ったタカユキも「辛いけど謝っておく」と言う。笑顔で見合わす二人に何故かホットしてくる気持ちになってくる。

「考える少女」から「頑張り続ける女優」

Cltqsevyaeuddw1 ジュンが職場見学から家に帰ってくると、ひさしぶりに笑いながら酒を克己(浜田光夫)と酌み交わす父親(東野英次郎)と母親(杉山徳子)がいた。父親が元の職場に復帰することが決まった祝いの酒であった。「これも組合のお陰なんだな。ジュン県立高校へ行けるぞ」と話す父親にジュンは働いて定時制高校に行くことを告げる。高校進学をすすめる父と母にジュンはこう言うのだ。

 「あたいは父ちゃんに頼らなくてもいいような生活をたてるつもりなの。これ(就職して定時制高校に行くこと)は家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間はすくなくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの。いろんなこと、社会のことや何だとか。そしてその日暮しじゃなくて、何年でこうするという計画をたてて生活したいの」。

 これを聴いた克己は、「そうか、おばさん、偉えやジュンは、しかしお前よくそういうこと解ったもんだな、よっぽど考えたんだな」と感心する。ジュンは「いろいろな人が教えてくれたのよ、まわりの人みんながさ」と照れながら笑顔で話すジュン。

C100_33urayama1  監督浦山桐郎は吉永小百合をジュンの役に起用するという日活の方針にイメージに合わないとし、不満であった。そこで撮影に入る前に吉永小百合に会う。「貧乏というものについて考えてごらん」と突き放すように吉永小百合に言う。吉永家の生活を支えている16歳の吉永小百合にとり「貧乏」とは最も得意とするところであった。やがて撮影の中から吉永小百合の頑張る姿と演技にジュンの役柄を固めていった。

 この子(吉永小百合)の一番いい点は真面目に考えることであり、そこでジュンを考える少女という面でつくってみようと私は思ったからである。役に対する固定観念を俳優に押し付けないで、俳優の内部から出る本気の表情をもとにして役をつくって行く方法を確立していく(関川夏央著「昭和が明るかったころ」より)。

 以後、浦山桐郎は「非行少女」の和泉雅子、「青春の門」の大竹しのぶなど新人女優を掘り出していく監督として評価されるようになっていたが、54歳の若さで亡くなる。

190px1  実際の吉永小百合も石黒ジュンと同じ道筋を歩んできた。家計を支えるための女優業で高校を卒業することができなかった。そのため、20歳の時に早稲田大学の資格認定試験を受験、難関を合格して、昭和40年(1965)の3月に早稲田大学第二文学部史学科を受験し、合格する。多忙な俳優業をこなしながら大学に通い学んでいく。そして、昭和44年(1969)3月に卒業する。卒論は「アイスキュロス❝縛られたプロメテウス❞とアテナイ民主政についての一考察」であったという。

 仕事をしながら学んでいこうとする石黒ジュンの姿勢は、そのまま「吉永小百合」としての「考える少女」から「頑張る女優」になっていく姿に重なってくる。浦山監督が見通した通りの女優を今日まで持ち続けているといえる。

Hqdefault2  サンキチが北鮮に向かう朝、ジュンとタカユキは川口の陸橋からサンキチの乗る列車を見送る。就職試験に向かうジュンと新聞配達をするタカユキ。二人が川口の陸橋を走るところで映画は終わる。 

 その時代を必死に生きていく姿を描いた映画は色褪せることなく、時代を超えて私に訴えてくるものがあると教えてくれた映画だ。

 昭和30年代頃から活躍した女優が姿を消していく中で、吉永小百合だけがどうして現在も主演映画を撮り続けられるのか。「吉永小百合の映画は面白くない」「パッとしない」「人気を支えているのは団塊の世代のサユリストたちだ」など批評や意見も聞かれる。それでも主演映画を撮り続ける、その頑張りに凄さと本気で生きることを感じる。「北の桜守」の中でのトラック荷台でおむすびをほうばるシーンなど必死に生きる姿が描かれいる。いつまでも頑張って光り輝く女優であって欲しいと願う。

                         《夢野銀次》

≪参考資料本≫

田山力哉著「夏草の道 小説浦山桐郎」(1993年1月講談社発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月文藝春秋発行)/シナリオ協会編「日本シナリオ大系4」(昭和49年5月マルヨンプロダクション発行)

 

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