令和4年5月……夏野菜の植え付け完了

100_0825   「やっぱり野球場はいいな」…令和4年5月1日(日)曇り空の下、春の栃木県高校野球春季県大会を観に栃木県営球場に行く。

   文星芸大付高と栃木工業、佐野日大高と白鴎大足利高の準々決勝2試合。宇都宮の清原球場よりこの県営球場の方が間近に観戦ができて好きなのだ。それと小学校時代に夏の高校野球栃木県大会にこの球場に通ったころが思い出され懐かしい気分に浸ることが出来る。それがいいのかもしれない。

100_0828  佐野日大高の監督、麦倉洋一氏が三塁側ベンチに立っている。平成元年(1989)の夏の大会で佐野日大高の投手として甲子園に初出場。その年のドラフト3位で阪神に指名され、入団。平成4年(1992)に右肩を故障し手術を2回受けるも肩が回復せず、平成6年(1994)6月に現役引退。平成29年(2017)4月より母校の佐野日大高校の監督に就任している。

 佐野日大高は現オリックスの田島大樹を擁して春の選抜高校野球に出場し、ベスト4に進出している。前年の水戸で開催された秋の関東大会では水戸市営球場に往き、横浜高校に勝った試合を観たのが懐かしく思い出される。田島投手が投げた時、満員の観客席がどよめきと傍で観戦していた横浜高校ファンの人がため息をついたのが聞こえたのが記憶に残っている。

 麦倉監督を擁して一日でも早く甲子園出場を果たして欲しいと願っている。

100_0839  毎年、5月の連休前後が家庭菜園は忙しい時期なのだ。しかし、今年は咳き込みが激しく、「コロナにかかったかな?」と疑いをもち、行きつけのクリニックで抗体検査を受け、陰性と判断され、その後PCR検査を市内の病院で受け、「陰性」と判断された。

 そうしたこともあり、家庭菜園に集中できず、気分的に落ち込んでもいた。

100_0844  ジャガイモの種イモをホームセンターに買いに行ったところ、「男爵」の種イモは売り切り、残っていなかった。遅すぎたのか…。

   他の2店のホームセンターを回ってみたが、同様に売り切れていた。わずかに残っていたメークインとキタアカリを3キロ購入して帰ってきた。

   3月5日ごろには男爵や他の種イモは店頭から無くなっていたのだ。2月中に購入することなのだと分かった。  

100_0843  「なら、スーパーの男爵イモを買って植えればいいのよ」と妻は簡単に話した。

 「そうするか」と思い、スーパーで古そうな男爵イモ7個を購入し、ジャガイモの畝の一番右端に植えた。

  「芽が出るのがほかのメークイン等から遅れて出てくるのだろう」と思った。しかし、芽はメークインやキタアカリと同時に出始めた。

  「だから言ったでしょ」と妻はわが意を得たりと誇らし気に話す。間引きを終えたジャガイモ。間もなく花が咲き始める。

100_0831  毎年2本植えている「ゴーヤ」と「ミニトマト」。

   今年は腎臓の数値が気になりあまり食べられないということで苗を一本づつ植えた。苗2本のゴーヤだと出来すぎた時,ジュースにして飲んだり、隣り近所に分けていた。しかし、それでも余ってしまい始末に困ってしまっていた。

100_0835   「トマトとバナナは避けた方が良いですよ」と血液検査で腎臓の数値が良くないことが分かり、獨協医大病院内科の医師は私にこう助言をしてくれた。

   亡くなったすぐ上の兄は長年にわたり人口透析を行い、苦労したのを見ていた関係で腎臓機能悪化は「がん」と併せて心に食い込んでくる。

  健康に留意しながら生活するというは良く分かるが、自分の体と心の健康をたかめていくには日常をどう過ごしていくのか、課題として迫ってくる。

100_0833  一番前列が小玉スイカ。黒皮小玉が一番右。他の2本は赤小玉スイカ。黄色小玉は今回はやめて赤小玉にしている。苗がまだ小さいため風よけカバーをかけて保護する。

 その後ろがピーマンのインゲン、2本づつ植える。そして三列目がナス。今回のナスの苗はスーパー「ヤオハン」店頭の花屋で初めて購入した。しっかりした苗に見えてので購入した。

100_0837   ヤオハン店頭の花屋でナスとあわせてキュウリの苗も購入した。

   右側のイチゴの畝の前に支柱を組みキュウリの苗を植えた。初めてヤオハン店頭の花屋で購入したナスとキュウリ。いずれも夏野菜の定番だが一番人気の野菜だ。今年もしっかり実が成ってくれることを願う。

   今年のイチゴの出来はあまり良くない。実が少なく、苗も大きくならなかった。イチゴのプランナーからの苗を今年は一番東側に植え付ける。土壌があまり良くないが、やってみていくことにする。

   間もなくサトイモの芽が出始める頃になってきている。

100_0848     ポン太が白い猫に2週間前に襲われ左足を噛まれ腫れている。医者からは足の関節の処に毒が回り長引くと云われている。

 外猫はこうした負傷はやむ負えないことなのかもしれない。妻が足の切断もあるのか心配している。もう少しポン太が気が強く立ち向かっていく猫ならばな……。

  猫の喧嘩は先に尾っぽを見せて逃げ出した方が負けである。

                      夢野銀次

 

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2022年春…花が咲いた庭木と国会図書館に行く

100_0781  畝の土色の表面が白い色に変わってきている。3月14日に植えたジャガイモが間もなく芽を出してくる兆候だ。その向こうにある農家の畑には菜の花が一面に咲きほころびている。

 先日隣保班の農家の奥さんが十二指腸がんで亡くなられた。71歳、まだ若い。以前に乳がんで入院、退院してきてお見舞いのお礼に来てくれた。私もがん治療して3年が経過した。5年間は要注意ということで2か月に一回、獨協医大病院に検査に行っている。がんは死に至る病なのかと実感する。

 「毎年、菜の花が咲くころ奥さんを思い出すわね」と門送りの際に隣に立っていた近所の奥さんがつぶやいた・

100_0765  それでも今年も杏の花が咲いた。

 昨年の秋,剪定を行い、枝が少なくなっている。これで杏の実が成れば申し分ないということだ。

  南には両脇にユキヤナギ、真ん中に黄色花のレンギョウが咲き始めた。

 漢方医学では「連翹」と呼ばれ、解熱剤や消炎など鎮痛薬に用いられていると云われている。私はまだ使ってはいない。

100_0770  詩人の高村幸太郎が愛したと云われ、4月2日の命日を「連翹忌」と呼んでいる。高村幸太郎の告別式で棺の上にレンギョウの一枝が置かれ、御見送りをした。

 西側のレンギョウは4年前に半つるで枝別れした小枝を植えたもの。

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   どうやら一人前のレンギョウの花木に成長した感じがする。

 これから毎年大きく成長し、黄色い花を咲き続けていくように労わりながら見守っていく。

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 同じよう西南の角にレンギョウの小枝2本とユキヤナギ小枝一本を植えた。

 一本の枝から花が咲き始めた。

 西側のレンギョウの小枝だったと思う。

100_0758  白い小さな花弁が集まり、大きなユキヤナギへとなっている。以前鹿島神宮で観た「さざれ石」にどこか似てきている。

 それにしても何と迫力のある白いユキヤナギの花であると感心する。

100_0744   

 西側から「ポンタ」が私をうかがっている。4月で10歳を迎えるが、体重が7.5キロ。8キロにならんとする重いねこである。毎晩、私の布団の上に乗っかってくる。「重い!」と蹴っ飛ばすと掛け布団脇に寝る。

14歳のすっかり高齢になった「銀太」は私の枕元の脇で寝る。

間もなく暖かくなる季節を迎える。

Photo_20220331114901  ある時、ユーチューブで倍賞千恵子が歌う「オホーツクの舟唄」を偶然に聴いて、同じメロディーの「知床旅情」を上回る、その迫力に圧倒された。

 この歌が「地の涯に生きるもの」(昭和35年10月公開映画)の主題歌であることを知った。原作戸川幸夫の『オホーツク老人』の映画化で、知床半島に猫だけを相手に一冬をすごす男の物語。 三枝睦明と久松静児が脚色し、「警察日記」の久松静児が監督し、遠藤精一が撮影した森繫プロ第1回の作品(森繁プロ作品はこの作品だけ)。

Photo_20220331115001  旅行読売2022年3月号には、「流氷に閉ざされた冬、知床半島の漁師小屋、番屋をひとり守る村田彦市老人を森繁久彌が演じている。自分のために書かれた小説と、戸川幸夫の『オホーツク老人』にほれ込み、森繁は自分のプロダクションを設立して映画化を実現。辺境に生きる者の過酷な運命、厳しい自然と闘う老人の孤高の魂を描いた作品」として紹介されている。

 この映画のビデオVHSを是非観たいとの思ったのだが、ツタヤではVHSのレンタルは扱っていなかった。知人はビデオデッキを貸してくれると言ってくれたが、せっかちな気性のため検索していくと国会図書館で「地の涯に生きるもの」のビデオを観ることが出来ることを知った。

 3月29日に朝早く国会図書館に行く。

 100_0751 初めて国会図書館内に入った。まず利用者登録カードを作成し、国会図書館内に入る。一階におりて音楽映像資料室に行き、ビデオで映画「地の涯に生きるもの」を観ることができた。

 国会図書館にはレストランがあり、弁当持参は必要なかったことも知った。

 映画「地の涯に生きるもの」と森繁久彌については別にブログに描いていくつもりだが、ビデオを観ていて、渥美清らしい役者が漁師役で森繁久彌とからむシーンが画面に現れた。予想しなかったことでびっくりした。

Photo_20220331123701  …渥美清が出ているのか?どこにも記載がない。最後の映画のキャストの中に渥美清の名前がなく、ウキペディアのキャストの中にも渥美清の名前がない。私の見間違いなのか? 確かに渥美清なのだが…。

 ユーチューブで検索していくと、2007年3月11日にNHKBS2で再放送されたドキメンタリー「渥美清の肖像・知られざる役者人生」の中で渥美清と森繁久彌が出演している「地の涯に生きるもの」中のシーンが紹介されているのを見つけることができた。 

 Photo_20220331114903 番組のナレーションでは渥美清はこの映画で映画界への足掛かりをつかんだことが語られている。

 …やっぱり渥美清は出演していたのだ。

 そのシーンは三男が生まれた彦市役の森繁久彌に漁師役の渥美清が「あんまり口から泡吹いて怒るでねえ。お前もタラバガニになっちまうぞ。こう横這いに」とからかいながら去っていくワンシーンである。

 このシーンについて映画評論家の佐藤忠男は「脇役でちょこっと現われて、全体の雰囲気とは関係なくでかいツラをしている。何かこう目立つおもしろいコメディアンであると注目していましたね」と番組内で語っている。

 森繁久彌は渥美清が浅草での舞台での渥美清に着目し、無名の渥美清(32歳)を出演させ映画界へと導いたといわれている。その作品の中に森繁自身が大金を費やして制作した昭和35年度(1960)映画「地の涯に生きるもの」に無名の役者として渥美清を出演させていたのだ。森繫久彌の渥美清を育てるという姿勢を感じることができて何だかうれしくなった。

 翌年、昭和36年(1961)の加藤大介原作、久松静児監督の「南の島に雪が降る」にはキャストの中に渥美清の名前が登場してくる。同時にテレビでは昭和36年(1961)から「若い季節」「夢で逢いましょう」に出演し、映画テレビで活躍の場を広げていくことになる。

 渥美清にとり確かに映画、テレビへと登場していく足がかりとなるキッカケの映画になったと言える。

100_0752  国会図書館前の桜は満開だった。

 帰路に図書館前の桜を撮っていたら25歳位の女性が寄ってきて「私が写っているか確認させてください」といきなり私のデジカメをのぞき込んできた。了解なしに撮ったと思ったのか。撮った覚えは私にはない。初めての経験だが、その女性は黙って立ち去っていった。写っていませんとか、すいませんでしたとか、何も言わずにだ。非常に気分が悪くなった。しかし、まッいいか。念願のビデオを観ることができたし…。

 後は映画「地の涯に生きるもの」と「オホーツクの船唄」「しれとこ旅情」を通して森繁久彌が描こうとした世界に迫っていくことにする。

                 《夢野銀次》

 

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巴波川散歩6…沼和田「弁天橋」から横堀「春日神社」を歩く

『栃木河岸船頭唄』

1)日光街道 たかみで通る

  小山泊りは まだ陽が高い

  間々田ながして 古河泊り

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

2)栃木河岸より 都賀舟で

  流れにまかせ 部屋まで下りゃ 

  船頭泣かせの かさ掛け場

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

3)向こうに見えるは 春日の森よ

  宮で咲く花 栃木で散れよ 

  散れて流れる 巴波川

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

Photo_20220309090903   昭和30年代に栃木市のある蔵の中から出てきた歌詞に民謡師匠がメロディーをつけたと云われている。歌詞は江戸時代に描かれたもので当時の巴波川舟運を思い浮かべることができる。

   二番は舟底の浅い都賀舟で巴波川を栃木河岸から船頭泣かせのかさ掛けを経て部屋河岸まで下る。Photo_20220309090902 三番は江戸からの物資を積んだ都賀舟を綱手道から引いて春日神社の森を見ながら栃木河岸を上っていく船頭唄になっている。ほのぼのと川の流れの中での情感が浮かんでくる歌詞になっている。

  栃木市街を流れる巴波川(うずまがわ)では観光客むけに遊覧船に乗って、NPO法人・蔵の街遊覧船の船頭さんが竿を操り巴波川ほとりを案内してくれる。最後に「栃木河岸船頭唄」の栃木河岸が出てくる二番、三番を謡う。私はまだこの遊覧船に乗ってはいないが、巴波川を歩くたびに笠をかぶって竿を操る船頭さんを観ることができる。

  ずっと以前にこの「栃木河岸船頭唄」の歌詞を見た時、「〽船頭泣かせのかさ掛け場」は巴波川の難所を意味しており、何処のことを謡ったのか?知りたいと思っていた。

  巴波川橋畔、塚田歴史伝説館となりにある「蔵の街遊覧船」受付事務所を訪ね、歌詞にでてくる「かさ掛け場」は何処なのか訊いてみた。「部屋河岸に笠を掛ける場のことを言っていると思います」と法被を着た女の方が一つの言い伝えとして応えてくれた。そうかな…? 私には「船頭泣かせの」歌詞から船頭にとり巴波川の下り難所の処のことを言っていると思えていたのだが…。

旧巴波川沿いにある「沼和田村字笠懸(かさかけ)」

Photo_20220309090901   「ここの巴波川はな、今は沼和田の弁天橋から春日神社にかけて真っすぐに流れてきているけど、昔は急カーブでの流れだったんだ。巴波川の流れを真っすぐに直したんだよ」と以前に横堀に住む古老の人から聴いたことがある。

  もう一度、古老の人に横堀付近の巴波川について尋ねてみた。

  古老の人は「昭和48年9月沼和田地区農業構造改善事業」実施前の字名が記されてある沼和田村地図と昭和40年代に廃川となった沼和田地区の旧巴波川の写真2枚を見せてくれた。

  字名が記された地図には現在の巴波川の流れになる昭和12年以前の旧巴波川の流路も記載されていた。

  地図の右の弁天橋から緑色で新巴波川を記して旧巴波川の流れを比較してみた。以前の旧巴波川は乙状に流れていたことが分かる。そして左に急カーブして流れる旧巴波川の右岸に「笠懸」と記されてある字名を見つけることができた(赤で囲む)。「船頭泣かせのかさ掛け場」はここのことを指して謡っているのではないかと思えた。

 2_20220309090901 念のため栃木市河川課の窓口で字名が記載されている「大正13年沼和田地引絵図」の地図台帳を閲覧し、同地区旧巴波川沿いに「笠懸」と記載されてある字名を確認した。沼和田河岸から横堀春日神社付近までの旧巴波川は急カーブして流れており、歌詞にでてくる難所としての「船頭泣かせのかさ掛け場」に合致する。

  ただ、ここ「笠懸」付近での巴波川舟運事故や難所であったこと等栃木市史にも記載がなく文献資料があれば確証できると思えるのだが…。

沼和田弁天橋から旧巴波川沿いを歩く

100_0643   3月の晴れた日、暖かい風に誘われて沼和田愛宕神社脇から巴波川沿いに足を踏み出す。岸辺に立ち、ここに沼和田河岸があった処だなと思い浮かべる。巴波川沿いをさらに進み、弁天橋に来る。橋の欄干から下流に直線に流れていく巴波川を眺め、横堀の春日神社まで巴波川沿いを歩いていくことにした。

100_0720   橋を渡り、50m先を右折すると明治2年創業のうなぎ料理の老舗「釜屋」がある。旧巴波川沿いにある釜屋には600坪の池がある。

  うなぎを注文し、30~40分待つ間、鯉が泳ぐ広い池を眺められるようになっている。 地下水を汲み上げた池になっているが、かつては旧巴波川が建物そばを流れ、湧水を活用して池を造ったのではないかと思える。巴波川沿いにはたくさんの湧水があったことの名残りでもある。その湧水により巴波川の川の水は透き通り急流になっていた。

  栃木町を一望する太平山の山麓にある六角堂連祥院の本尊は記憶力を拡大させてくれる『虚空菩薩』になっている。虚空菩薩のお使いがうなぎなのだ。そのため、この太平山近辺や栃木の人々はうなぎを食べないという風習が強く残っていた。ところが幕末元治元年(1864)4月から5月にかけて太平山に帯陣した水戸天狗党400人はしきりにうなぎを食べた。それで栃木町の人もうなぎを食べるようになったといわれている(川島正雄著『蔵の街とちぎと太平山』より)。

  うなぎは水戸天狗党の「おみやげ」なのか。うなぎは海から利根川、渡良瀬川、思川、巴波川、永野川をたくさん昇ってきた。何よりも川の水が今よりもきれいであったことを物語っていると言える。

100_0656   釜屋の道なりに沿って歩くと釜屋の池から流れてくる用水が巴波川に合流している。ここがかつての旧巴波川が新巴波川に合流している名残りの処になっている。

  鉄道の廃線地域を歩くこともあるが、川の廃川沿いを歩くのも不思議な感覚を呼び覚ますものだと感じる。

  栃木県土木史では「昭和7年度の中小河川改良事業の制度化を契機として、利根川水系でははじめて『巴波川・永野川改良工事』が(栃木県議会)採択された。当時の巴波川は上流部の栃木市街地と下流部において洪水氾濫が生じていた」と藤岡町付近における渡良瀬川開削工事完了後の巴波川の河川改良工事着手の記載がある。

   巴波川改良工事については「巴波川改修は、最下流部下都賀郡部屋村(現栃木市)より下都賀郡寒川村(現小山市)地内永野川合流点の間を大正11年度以降県費工事により実施したのを受けて、次いで昭和7年度より継続国庫補助工事により遂次上流へと工事を実施し、昭和12年度完了した」ことが記載されている。洪水氾濫からの治水改良工事として弁天橋から春日神社間の流路は昭和12年に乙状から現在の直線に流れる巴波川に変わったということになる。

100_0666   巴波川と合流するところから下流に向かって歩いていくと金橋という歩行者専用の橋がある。幅の狭い不安定なこの橋を渡り、向こう岸、右岸に渡り、田圃のあぜ道を通り、かつての「笠懸」地帯を歩く。

  昭和48年9月沼和田地区農業構造改善事業でそれまで廃川となり残っていた旧巴波川は土地改良工事によって埋め立てられて田圃に変わった。

100_0675   左側が巴波川が流れていた城内村諏訪郷地、右側が沼和田村笠懸付近の田圃。道路を境に右側の沼和田地区の田圃が一段高くなっている。沼和田の耕地は水はけが良かった田圃と云われてきている。

  古老から見せて頂いた昭和40年頃の笠懸付近の旧巴波川の写真。右前方には春日神社の森が薄く写っている。3 すでに昭和8年~12年の河川改良工事で開削された新巴波川は流れていた。 しかし、昭和48年までこの旧巴波川は廃川として残っていたことには驚かされる。流れが途絶えた川であっても湧水で川水が漂っているのが写されている。湧水が多かったことをこの写真は提示している。

  左側の巴波川が流れていた城内村諏訪郷地には三軒の水車小屋があったと前述の古老が話してくれた。水路を引いての水車小屋は栃木舟運における争いの種にもなっていた。

  もともと灌漑用水としての巴波川は農民にとり死活問題であった。舟運をめぐる栃木河岸船積問屋との争いから3月から8月にかけて農繁期における舟運は日光御用、幕府命の物資などやむ負えないことを除き舟運禁止の取り決めになっていた。巴波川は湧水が多いことから秋から冬にかけても豊富な水流になっていた。その水流を活かして沿岸には25の水車が設けられてあった。

  水車には水量を多くすることから堰が設けられ、川幅が狭められていた。破損した水車堰をめぐり、栃木河岸船積問屋と沿岸村々とは補償をめぐり多々話し合いが持たれていたと栃木市史には記されている。

横堀春日神社と太太神楽

100_0713   巴波川川べりの土手堤から降りて春日神社境内に入る。境内は田園地帯になっていることから物静かな雰囲気が漂っている。

  すぐそばを流れる巴波川舟運では、栃木河岸船頭唄の歌詞にも登場するように船頭たちにとり横堀春日神社を栃木到着の目印にしていたと云われている。

  境内には、権現造桧皮葺の本殿、方形造瓦葺の幣殿・拝殿の他、神楽殿・社務所などがあるが、拝殿の江戸彫り物の処に「宇都宮市彫刻師園部信之助」と刻字されているのが目についた。いずれこの彫師についても調べてみたい気持ちになる。

100_0701  栃木市がネット発信をしている「栃木市の維持向上すべき歴史的風致」では次のように横堀の「春日神社」を紹介している。

  「横堀春日神社の主祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコ)である。承応元年(1652)大森信濃守藤原頼直が将軍徳川家綱の身上安泰を祈願して、大和国三笠山より勧請したものとされ、徳川家の安泰も願って祈祷を行い、その祈祷札を将軍のお手元に納めたことから将軍家の崇敬が篤く、三つ葉 葵の紋章の使用を許されたと伝えられる。

  藤原頼直は、慶安3年(1650)に家綱の傅役となり、家綱は翌年の慶安4年(1651)に第四代将軍となる。しかし、その翌年の承応元年(1652)には、将軍家綱の母である高島御前(お楽の方)が亡くなり、頼直は高島御前の誕生の地(下野国都賀郡高島村:現栃木市大平地域高島地区)の近くである横堀地区で家綱の身上安泰を祈願したといわれている。

  この地区に住む大森家に残る古文書によれば、寛文5年(1665)12 月には松長山久遠院大森寺を開山(参道の二の鳥居の柱には「寛文五年」との刻印がみられるが、後に、神仏分離政策による廃仏毀釈廃寺となる)、寛文6年(1666)8月には春日宮へ横堀村の吾妻新田 50石を寄進したとある」

  大平町高島地区や横堀地区には四代将軍徳川家綱の生母高島御前にまつわる逸話は多い。とりわけこの春日神社は家綱の傅役であった藤原頼直によって創建され、三つ葉葵の紋章の使用を許された徳川家と関係の深い神社になっている。

100_0697   境内参道の右側には神仏分離政策による廃仏毀釈で廃寺となった「松長山久遠院大森寺跡地」の石碑が建てられてある。かつては春日神社と大森寺が同一境内にあったことが記憶されている。

  毎年、4月10日の例大祭には横堀太々神楽が奉納されている(令和2年、3年はコロナ禍で上演をしていない)。太太神楽は江戸時代から奉納されてきたといわれており伊勢国(現在の三重県)から伝わったものといわれている。与田流(依田流)であり、式射・幣舞(祭主の舞)・ 翁の舞・春日の舞・猿田彦の舞(天狗の舞)・岩戸開きの舞・恵比須(事代主命)の舞と火吹の舞・稲荷の舞・大国主命の舞(大国舞)・八幡の舞・山の神舞の十一座の演目が上演される(「栃木市の維持向上すべき歴史的風致」より)。

  昭和56年大平町(現栃木市)無形民俗文化財に指定され、現在も保存会の人たちにより太太神楽は奉納されている。10年前にこの神楽を観たが、延々と続く神楽で「堪忍して」と思った記憶がある。現在ではもう一度太太神楽を観てみたい気持ちになっているが…。

  長年太太神楽を舞う人や例大祭を執り行うには地域の人々の支えが必要であり、今日まで継承されてきていることに歴史の重さを感じる。このことから神社を中心にした村落共同体の営みや有様について学ぶべきものが多々あると思えてくる。

100_0689   横堀春日神社脇を流れる巴波川は下流の高島、本橋、寒川を経て部屋河岸から渡良瀬遊水地に流れていく。

  道路整備と併せて河川改良工事により川の流れが変わる。昔の姿が懐かしいという気持ちと、氾濫など自然災害と向き合う中から、川は変化してきていることを踏まえなければならない。昔日の面影を何処かに残している風景もある。それを懐かしむ気持ちはあっても良いと思える。川をめぐる周辺住民としての生活をしていく営みなど考えていこう。

  横堀春日神社脇から見える巴波川。…もう少し、渡良瀬遊水地まで歩いていくことにする。

                          《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

川島正雄著「蔵の街とちぎと太平山」(1998年12月自家発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/「とちぎ歴史ロマンぶらり旅―道と水路を訪ねて」(2004年3月、下野新聞社発行)/「栃木県土木史」(平成13年3月、栃木県土木部発行)/「栃木市歴史的風致維持の向上計画・第2章栃木市の維持向上すべき歴史的風致」(令和3年3月改定、栃木市配信)

 

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宮沢りえ-自らを切り拓いてきた女優

Photo_20220209105403   今年(2021年)の1月からNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映が始まっている。源頼朝亡き後、北条義時を中心に開拓領主である鎌倉幕府御家人13人の権力争いを作者の三谷幸喜があまり深刻にならずホームドラマのように軽いタッチでどう描くのか楽しみな放映だ。

  このドラマに主人公北条義時の父、北条時政の後妻、きよ(牧の方)役で宮沢りえが出演している。京育ちということであでやかな姿での登場である。見るからに華やかな和装姿の宮沢りえ。久しぶりにふくよかな宮沢りえを見る思いでうれしくなる。

Photo_20220209105503   歴史上では武蔵国における武蔵国の武士団を統率する留守所総検校職(武蔵国の武士団棟梁)畠山重忠に対して武蔵国衙の武蔵国務職に任じられ行政権を掌握したいという北条時政による権力闘争を背景に畠山重忠の乱がおこる。

  きよ(牧の方)の畠山重忠謀反という讒訴を聞き入れた北条時政は、重忠の嫡子重保を誅殺した後に元久2年(1205年)6月22日に武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で北条時房(義時の異母弟)・和田義盛を大将とした幕府軍がわずか130騎の畠山重忠軍に対して攻め滅ぼす(畠山重忠の乱)。

  さらに、同年閏7月、きよ(牧の方)と時政は将軍源実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を新将軍擁立の計画をする。しかし、この計画を知った子の北条政子・義時姉弟による反撃を受けて、閏7月20日に時政出家し伊豆に流される。きよ(牧の方)は夫の北条時政とともに伊豆へ追放されたが、平賀朝雅に嫁いだ娘が公家と再婚すると、娘夫婦を頼って京都で暮らしたのだといわれているが…。一男三女をもうけたきよ(牧の方)は、夫の北条時政を通して権力闘争に加わってくる様を宮沢りはどう演じるのか?楽しみだ。

Photo_20220209105404  「今度、朝日ヶ丘にリハウスしてきました白鳥麗子です」と転校生を演じた「三井のリハウスCM」に14歳で出演。数多くのCMに続々登場してCMタレントガールとしてスタートする。

Photo_20220209105401   15歳の時、昭和63年(1988)に映画「ぼくらの七日間戦争」で映画ビュウー。平成3年(1991)にはNHK大河ドラマ『太平記』での「藤夜叉」役を真田広之の相方を務めた18際の宮沢りえ。YouTubeで「大河ドラマ太平記」全49回を観ることができた。ドラマでは足利尊氏の庶子・直冬の母として博幸の女をふくよかな姿で宮沢りえは演じている姿に好感をもつて見ることができた。

  そして平成3年(1991)に写真集『Santa Fe』(篠山紀信撮影)には18歳宮沢りえのオールヌード写真集を発行し、155万部以上のベストセラーとなる。

  しかし、順調に歩んだ宮沢りえの芸能界の活動は19歳の時「人生最高のパートナーにはなれなかった」と語り、貴乃花との婚約を破談にする。自殺未遂や映画の降板が取り沙汰され、マスコミからのバッシングを受けCM依頼の減少するなど厳しい局面に立たされる。21歳から22歳にかけてテレビドラマ「北の国から」のショウ役で出演したが、23歳の1月に逃げるようにロスアンゼルスに居住を移し、芸能界から一時姿を消した。

  「女帝 小池百合子」を著しているノンフィクション作家石井妙子は「宮沢りえ 彷徨える平成の女神」の中で、「事実上、芸能界を追放されたようなもので、痛々しい旅立ちでした」と宮沢りえの音楽プロデューサー酒井政利が語っていたことを記している。この「宮沢りえ 彷徨える平成の女神」はネット配信で読むことができ、宮沢りえについて正面から書かれている。たくさん宮沢えりを知ることが出来た著書である。

Photo_20220209105505  平成7年(1995)の「『北の国から '95秘密』22歳で元AV役で純の恋人のシユウ役で出演。メークの関係からか怜悧なキツイ表情が印象に残っている。しかし、黒板五郎(田中邦衛)と雪の中、髪の毛が白く凍っている中での露天風呂入浴シーンは開放的な美しさを感じる。

 五郎の石の家にて一夜を明かすシユウ。暖炉の前で五郎の膝枕の中、「昔のこと消せる消しゴムがあるといい…」とつぶやく。シユウの過去にこだわる純に父親の五郎は、「純… ゴミの車に乗るようになってから、お前、年中手を洗うようになったな。お前の汚れは、石鹸で落ちる。けどな、石鹸で落ちない汚れってもんもある。人間、長くやってりゃ、どうしたって、そういう汚れがついてくる。お前にだってある。父さんなんか、汚れだらけだ。そういう汚れは、どうしたらいいんだ?」と純に迫る。己の過去の汚れを抱えて生きていく人生の中での優しさを問いかける印象深いシーンになっている。

Photo_20220209105304  宮沢りえは、平成13年(2001)8月公開『釣りバカ日誌12 史上最大の有給休暇』(監督:本木克英)出演の後に平成14年(2002)11月公開の山田洋次監督作品「たそがれ清兵衛」に井口清兵衛(真田広之)の幼馴染朋江役で出演する。

 襷掛けや立ち振る舞いなど今までにない凛とした演技で平成14年度(2002年度)キネマ旬報ベストテン主演女優賞を受賞する。29歳の宮沢りえにとり新たな日本の実力派女優としての旅立ちとなった映画になる。

  因みに「キネマ旬報ベスト・テン」は、アメリカのアカデミー賞よりも古い歴史を持ち、その年の称賛すべき作品や映画人を多面的に選び出している賞であり、最も信頼に足る映画賞という評価も受けているといわれている。

Photo_20220209105302  平成15年(2003年)キネマ旬報2月下旬号の中で受賞した宮沢りえがインタビューに応える記事が載っている。

 「私にとって朋江は憧れの女性であり、理想でもありました。自由に生きられなかった時代にあってそれに反発することはないけど、自分の価値観をしっかりと持って強く生きて行く女性ってカッコいいなと思ったし、感情をあまり出さない分、かえって思いが強くなったり、心の中でふくらんでゆくものがより大きくなったりもしたんです。最初は不安もあっていろんなことを考えたりもしたんですが監督にだんだんと剝がされて行って、さらけ出してしまった自分が心地好く感じるようになった。それから余計な考えとかは生まれなくなって、演じていたというよりその場で呼吸したいたって感じがします。緊張した場面では呼吸が薄くなっていくのが分かったし、子供たちのシーンではおいしい空気が吸えたし…」

 朋江を演ずるにあたって苦労したのは日常的な動きだったとかという問いに、「襷をかけるとか、縫物をするとかは当時の女性だとごく当たり前のことですが、私は経験がないからつい手順を考えたりしまうので、他のことを考えながらでも出来るように回数を重ねました。そうした動作を頭ではなく細胞から出来るように準備していたので、行って欲しくないないと思いながら、清兵衛を果し合いに送り出すための手伝いをするという感情と動作が一致しないことを自然に演じられたのだと思います」

Photo_20220209105303  果し合いに行く清兵衛を送りだした後、清兵衛の母、御婆さまより「あんたさんはどちらのお嬢さまですか?」と尋ねられた朋江は、「私は、清兵衛様の幼馴染の朋江でがんす」と応え、涙を浮かべる。…その朋江の表情には清兵衛の帰りを待つという意思が浮かび上がってくる。見事な演技だなと感心したシーンである。

 「動作を頭ではなく細胞から出来るように準備していたので、行って欲しくないないと思いながら、清兵衛を果し合いに送り出すための手伝いをするという感情と動作が一致しないことを自然に演じられたのだと思います」ということからなのか、体を動かすことから演技が始まるといいうことを知った宮沢りえは以後、映画から本格的に舞台に取り組むことになる。

Photo_20220209113601   それは平成15年(2003年)に野田秀樹氏演出の舞台「透明人間の蒸気」に出演し、「あまりの自分の無力さに驚いて、このままじゃいけない。40歳になるまでに、ちゃんと舞台で立っていられる女優になれるよう、心も時間も費やそう」と決意した(スポニチ 芸能「宮沢りえ7年ぶり」記事より)

 その時の宮沢りえとの出会いを野田秀樹が語っていることが前出の石井妙子著「宮沢りえ 彷徨える平成の女神」の中でこう記載されている。

「人に紹介されてアムステルダムで出会いました。とにかく痩せていて、どうしてだろうって。僕は当時、イギリスにいたし、芸能ニュースには疎かったので、あんまり彼女の事情を詳しくは知らなかった。でも、話してみると、とにかく陽気で面白い子だった。舞台に出てもらったのは、それから3、4年後。華奢で線が細い印象がありましたが、舞台に立つと周囲の空間まで支配してしまうオーラがあった。これは演出して出るものじゃないし、訓練してどうなるものでもない。持って生まれたものです」

 野田はその後、舞台女優として宮沢りえを使い続け、「圧倒的に信頼している」と話す。

2018-2  野田秀樹演出による舞台出演によって平成16年度(2004年度)第12回読売演劇大賞最優秀女優賞を『透明人間の蒸気』(野田秀樹作・演出)の演技で受賞する。その後には平成18年度(2006年度)第41回紀伊國屋演劇賞 個人賞(『ロープ』野田秀樹作・演出)、平成20年度(2008年度)第16回読売演劇大賞 最優秀女優賞(『人形の家』)、平成24年度(2013年度)第39回菊田一夫演劇賞 演劇賞(『MIWA』)、平成28年度(2017年度)第25回読売演劇大賞・最優秀女優賞(『足跡姫〜時代錯誤冬幽霊~』(野田秀樹作演出)、『クヒオ大佐の妻』(吉田大八作演)、『ワーニャ伯父さん』)と立て続けに女優賞を受賞している。それ以外にも唐十郎作、蜷川幸雄演出「盲導犬―澁澤龍彦「犬狼都市」より」、清水邦夫作、蜷川幸雄演出「火のようにさみしい姉がいて」等を舞台公演で活躍をしている。凄い演劇女優になっていたのだ。

 私は、この間の宮沢りえの演劇活動については全く知らなく、舞台を観ていない。ブログを描くにあたり30歳代からの宮沢りえの演劇女優としての活動実績を知り驚いた。日本を代表する舞台女優に成長していたことを知った。今後、宮沢りえ出演の舞台公演を是非観ていきたい。

Photo_20220209105301  30歳代の宮沢りえは舞台にシフトを移しているため映画主演はキネマ旬報最優秀主演女優賞の「父と暮せば(平成16年・2004年)」(監督黒木和雄)。「オリヲン座からの招待状(平成19年・2007年)」(監督三枝健起)。第38回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞の「紙の月(平成26年・2014年)」(監督吉田大八)と出演映画が少ないが、いずれも高い評価を得ている映画出演になっている。

Photo_20220209105504  「父と暮らせば」では、主人公の美津江(宮沢りえ)は8月6日に被曝した父親(原田芳雄)を見捨てて火災から逃げねばならなかった過去がある。我が子を亡くした母親からも理不尽な言葉を受け、父親をも助けられなかった悔恨が美津江を縛っていた。3年後に美津江の前に現れた父親は美津江に結婚をして普通に生きていくこと、死者の分まで生き続けることを話す。

 広島弁で語られるテンポのある父と娘の会話はリズム感が漂い温かさを生みだしている映画になっている。そしてラストは原爆ドームの下に咲く二本の白い日日草の花が映し出されるのが感動的なシーンになっている。いずれ美津江も原爆病での死をも暗示していると受け取った。

 フジテレビ「女の一代記」シリーズでは、『瀬戸内寂聴~出家とは生きながら死ぬこと』(平成17年・2005年11月24日放映)では 主演・瀬戸内寂聴を演じて評判になった。

Photo_20220209105405  石井妙子著「宮沢りえ 彷徨える平成の女神」の中で、「りえはこの作品に大変なこだわりを見せ、剃髪するシーンでは自分の髪を実際にそり落とすと言い張り、周囲に止められる。瀬戸内の生涯をそれほど演じたいと思った理由はどこにあったのだろう。瀬戸内寂聴に尋ねた。『本人に聞いていないからわかりませんが、私は家庭の主婦、小説家、出家者と変化していった。変わりたい、新しい人生を歩みたい、という思いが、当時のりえちゃんにもあったのかもしれません』。

 話題性や人気がかつての「宮沢りえ」を支えていた。だが、りえはロスでの日々を経て、演技力のある女優として再スタートを切ったのだ」と宮沢りえの半端でない役作りへの思いを記している。

 「最後の日に出家のシーンを撮ったときには、伽羅の香りに包まれて安堵感に似たものを感じました。役を演じたというよりも、すごく激しい、熱いものが私の身体の中を通っていった、というのが撮影を振り返っての印象です。このような高い、素晴らしいハードルに出合えたことは、役者として、一人の女性として幸せでした。」と宮沢りえはフジテレビ「女一代記」番組にコメントを寄せている。

 このテレビドラマはDVD化されていないため観ることが出来ないのが残念。

Photo_20220209105501  平成28年(2016年)10月公開映画「湯を沸かすほどの熱い愛」(中野量太監督)で宮沢りえは最優秀主演女優賞を獲得している。「たそがれ清兵衛」「父と暮らせば」に引き続き3回目のキネマ旬報最優秀主演女優賞の受賞となる。

 余命3ケ月のガン患者として最後に生きる姿を示していく。一番病いが重くなっている最後のシーンでは水分を徹底的に抜き絶食もしたという。熱く、激しく、役柄を生きてみせる女優・宮沢りえが画面に表れている。ただ、役への思いがストレートに表れると何か異和感が生まれてくる。何故なのか?

 20代後半から30代~40代にかけて宮沢りえは大きな変貌を遂げ、平成を代表する女優へと成長した。『ぼくらの七日間戦争』に起用した監督の菅原浩志は、「スターは常に光を浴びる。その光が強ければ強いほど、濃い影が出るものです。人気がなくなれば手のひらを返され、周囲から人が去っていく。それをりえも体験したと思う。アメリカのショービジネスの世界には、『泳げ、さもなくば、沈む』という言葉がありますが、りえは本当に辛かった時も、必死に泳いでいたんだと思う。そういった経験を経て、表面的なものや話題性を追うのではなく、本質的にいいと思える仕事をしていきたいと考えたんじゃないでしょうか」(石井妙子「宮沢りえ 彷徨える平成の女神」より)。

Photo_20220209105402  透明感のある表情の中から研ぎ澄まされた演技は稀有な表現になっている。かつて吉永小百合は太地喜和子から『あなたはいつも〇のお芝居をしている。たまには×(ぺケ)のお芝居をした方がよい」と言われ、「いい子のお芝居でなくて、悪い女、駄目な女を演るのもおもしろいものよ」と忠告されたことを吉永小百合は「自伝吉永小百合」の中で記している。

 宮沢りえにこの言葉を投げかけてみる。キリっとした研ぎ澄まされた怜悧な女から笑みを絶やさない女の姿を想像する。その笑顔の演技は山田洋次監督『たそがれ清兵衛』の中の村祭りで子供たち遊ぶ宮沢りえの笑顔が浮かんできた。

 大河ドラマ『鎌倉殿13人』の中でのきよ役の笑顔と『太平記』の藤夜叉の「のほほん」として尊氏を慕う姿の中に、遊ぶ演技を学びながら幅を広げていけば、一段と大きく伸び、大女優になっていくような気がしてくる。自らを切り拓いてきた女優-宮沢りえにはそれができると確信する。

                      《夢野銀次》

≪参考引用資料等≫

坂井孝一著「源実朝」(2014年10月講談社発行)/「石井妙子著「宮沢りえ 彷徨える平成の女神」(文藝春秋2019年5月号の「特別読物 宮沢りえ『彷徨える平成の女神』を文芸春秋2021年3月28日デジタル配信」/「(キネマ旬報2003年2月下旬決算特別号](平成15年2月16日発行、キネマ旬報社)/ネット「ウィキペディア 宮沢りえ」、「スポニチ 芸能記事 宮沢りえ7年ぶり主演映画」( 2014年10月25日)/吉永小百合著「吉永小百合 夢一途」(2000年10月日本図書センター発行)

 

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芭蕉、子規も歩いた日光街道―草加の松原

100_0585_20220113133901  東武伊勢崎線「草加駅」を降り、駅前からすぐの交差点を左折し、旧日光街道を北に向けて草加宿を歩く。駅前にはいくつかの保育園などから小さい子供の声が響き渡っている。共稼ぎの多い若い近郊都市という感じを受けた。

  沼地を茅で埋め立てたことから「草加」という地名が名づけられ、開拓した大川図書の「大川図書本陣跡」の石碑が左側に建っている。もっとも草加という地名は、この地が綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説もあげられているなど諸説がある。

  江戸時代の面影が無くなっている旧日光街道沿い宿場跡に建つ「煎餅店」の店先を見ながら歩くと突きあたりに伝右衛門川が流れている。川の向こう岸が綾瀬川に沿った「札場河岸公園」がある。

100_0578   草加市を流れる綾瀬川沿いの草加松原遊歩道の南端に整備された市営公園の「札場河岸公園」。公園入口には芭蕉の銅像が建っている。

  公園内にはかつての「河岸」の面影を今に再現している「札場河岸」がある。綾瀬川は江戸中期頃から、多くの船が行き交ったという。

  江戸時代に野口甚左衛門の私河岸だったのが、安政の大地震により移転したことから、地域の人が河岸場としていた利用されるようになった。その元の野口甚左衛門家の屋号が札場だったことから、いつしか「札場河岸」と呼ばれるようになったと云われている。

100_0600   「札場河岸公園」から綾瀬川にそった日光街道沿いに松並木が1.5キロに渡って施されている。

  草加松原についての案内石碑には「草加松原は寛永7年(1630)草加宿開宿時、または天和3年(1683)の綾瀬川改修時に松が植えられ、江戸時代から日光街道の名所として知られていた。(略)明治維新前後時は、おおむね500本前後の松並木として推移しきた」と記されている。

  しかし、戦後、昭和40年代(1965年~1974年)には、脇の日光街道を通行する車両の排気ガスや道路舗装による根の切断などにより、70本ほどに著しく本数が減っていった。

100_0599   市民の中から松並木保存の声があがる。それを受けて草加市では、平成24年(2012年)に古木・若木合わせて634本の松並木を綾瀬川沿いに復活させて現在の松並木公園遊歩道として整備してきた(草加市ホームページより)。

  こうした松並木保存の動きなどを踏まえ、綾瀬川を横目に見ながら松並木沿いに蒲生大橋に向けて歩いていく。遊歩道になっている綾瀬川沿いの松並木道を散歩やウオーキングを楽しんでいる多くの市民の人に出会うなど賑わいを見せていた。あまりにも整備され奇麗な道になっており、古の街道の面影は浮かんでこなく、少し寂しい気持ちにもなった。

100_0605   「月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人也」。「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」

  元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)深川から舟に乗り、午前10時ころに千住の河岸から舟をあがる。前途、三千里の思いに胸が一杯になり、この幻の世の別れ道に泪をこぼした。

 「『行春や鳥鳴き魚の目は泪』 

是を矢立の初めとして、行道をなをすゝまず」(芭蕉「おくの細道」岩波文庫)。

100_0594   この冒頭の旅立ちの文面は高校の時に出会って以来、リズム感のある文章として胸に刻まれてきて感慨深くになってしまうのだ。

  草加松原にはおくの細道の冒頭の旅立に記されている「矢立」と「百代」にちなみ名を付せた二つの橋が架けられている。その橋の上から眺める松並木と綾瀬川の光景は開放的で素晴らしい。

日光街道、根岸から草加を歩いた子規

 100_0574  「札場河岸公園」には正岡子規と

 高浜虚子の句碑がある。

 『梅を見て野を見て行きぬ草加迄』  

 《子規》

 『順禮や草加あたりを帰る雁』

 《虚子》

100_0587   個人の建立と言われている子規の句碑の背面には、「俳人、正岡子規が草加を訪れたのは明治27年3月。高浜虚子とともに郊外の梅花を探る吟行の途次である。このときの紀行文である『発句を拾ふの記』によれば、上野の根岸から草加まで歩き、茶店に休憩を求め、昼食をとり再び去った。そのわずかな有縁を証す詠句は文芸の街を〇〇する貴重な作品である。ここにその句を刻し、子規を顕彰する。平成5年3月20日」と刻字されている。〇〇の箇所は読み取れなく次回往ったとき確認をしたい。

  明治27年の3月24日に仙台第二高校を退学して子規庵に転がり込んで同居していた高浜虚子を誘い草加に向かう。虚子への俳句の指導を含めての吟行であった。この時歩いた吟行紀行文『発句を拾ふの記』だけが正岡子規が編集長になった「小日本」に掲載された

2510   『発句を拾ふの記』の収録されている改造社版「子規全集第十巻小説紀行小品」を図書館で借りて読んでみる。軽快な文章の流れの中で俳句が挿入されており、面白く読むことができた。

  この書を読んで根岸の「子規庵」から草加に向けて日光街道を歩きたいと思ってきた。しかし、コロノ禍のため妻より外出禁止が出されており歩きまわることが出来ない。よって、ブログにて「発句を拾ふの記」全文を掲載して、その行程を辿ってみる。

正岡子規著『発句を拾ふの記』

  亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方の人に打ち任せて、我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪わんと、同宿の虚子をそそのかして薄曇る空に柴の戸を出図。

   梅の中に紅梅咲くや上根岸

   松青く梅白し誰が柴の戸ぞ

   板塀や梅の根岸の幾曲り

 千住街道に出ずれば、荷馬、乗馬、肥車、郵便車、われもわれもと春めかして、都に入る人、都を出ずる人。

  下町や奥に梅さく薬師堂    虚子

  肥舟の霞んでのぼる隅田かな  同

  大橋の長さをはかる燕かな

  燕やくねりて長き千住道

市場のあとを過ぎて、散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつつ、行くにもとより目的もなき旅一日の行程霞みて、限りなき奥街道直うして千住を離れたり。茶屋に腰かけて村の名を問えば、面白の名や。

  鶯の梅島村に笠買はん

 野道辿れば上州野州の遠山僅かに雲を留め、左右前後の村々梅あり、藪あり、鶏犬画中に聞こゆ

  いたづらに梅老いけりな藪の中

  雨を呼ぶ春田のくろの鵠かな

  子を負ふて獨り畑打つやもめ哉

  武蔵野や刈田くろに水ぬるむ  虚子

  鍋さげて田螺ほるなり京はづれ 同

  姉妹の土筆摘むなり馬の尻   同

 ささやかなる神祠に落椿を拾い、あやしき賤の女に路程を尋ね、草加に着きぬ。

   巡礼や草加あたりを帰る雁   虚子

   梅を見て野を見て行きぬ草加迄

 八つ下る頃午餉したためて路を返し、西新井に向う。道すがらの我一句彼一句数えがたし。

   ほろほろと椿こぼるる彼岸かな

   一村の梅咲きこぞる二月かな

   栴檀のほろほろ落つる二月かな

   武蔵野や畑打広げ広げ

   茨燒けて蛇寒き二月かな  虚子

   切られたる榎芽を吹く二月かな  虚子

 大師堂を拝みて堂の後の梅園をめぐり、奥の院を廻りて門前の茶屋に憩う頃、春の日暮れなんとす。

   乞食の梅にわづらふ餘寒かな  虚子

   蝶ひらひら仁王の面の夕日かな 同

   しんかんと椿散るなり奥の院  同

   梅咲て仁王の面の赤さかな

   梅散て苔なき庭の夕寒し

   日影薄く梅の野茶屋の余寒かな

   夜道おぼろに王子の松宇亭を訪う。

   春の夜の稲荷に隣るともしかな

 最終汽車に乗りて、上野の森月暗く、電気燈明かなる頃、山づたいに帰り来る夜の夢、寝心すやすやと周公もなければ美人もなし。

 《明治27年の3月24日》

子規の吟行文と写生

011   根岸の子規庵から日光街道に出て、千住大橋を渡り、「市場のあとを過ぎて、散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつつ」と、千住のやっちゃ場を通り、梅嶋村などあちこちに咲く梅を眺めながら日光街道を歩いて往く。

  草加に着き、鰤(ぶり)の昼食をとる。『発句を拾ふの記』の中に記載されていないが、「鰤くふや草加の宿の梅の花」という鰤を食べた句が「寒山落木3、明治27年春」に載っている。

 Photo_20220113130801  それから西新井に引き返し、西新井大師堂に参拝して引き続き廃寺になっている延命寺の江戸六阿弥陀仏(現在の恵明寺足立区江北2丁目)を見て、「野の道や梅から梅へ六阿彌陀」(寒山落木3、明治27年春記載)と詠み、そこから王子の伊藤松宇(俳人、王子製紙、渋沢倉庫などの渋沢財閥の幹部社員)を訪ね、最終の汽車で上野に帰る。こうして歩きながら名所旧跡を見て俳句を詠む、吟行としての紀行文になっている。

  吟行とは俳句をつくるために、景色のよい所や名所旧跡などに出かけて行くことを意味するが、この子規と虚子の草加吟行文については、「近代的吟行の記念すべき初回である」という説もあるということを草加市ホームページに記されている。「写生」を基調とした吟行文ということなのかもしれない。

 Photo_20220113130901 「子規全集十巻」には草加の梅を吟行し『発句を拾ふの記』に引き続き、子規は上野公園を散策する『上野紀行』(明治27年8月)、根岸周辺の音無川、三河島周辺散策の『そぞろ歩き』(同年8月)、挿絵画家中村不折を伴って歩く『王子紀行』(同年8月)、川崎大師から六郷橋、蒲田、池上本願寺を歩く『間遊半日』(同年11月)、芋坂団子を詠った「根岸名物芋坂団子売る切れ申す候の笹の雪」が載っている『道灌山』(32年10)など、吟行文を記述していった。

Photo_20220115064801   以前にテレビドラマ「坂に上の雲」をDVDで観ながら正岡子規役の香川照之を気に入り、正岡子規著の「病牀六尺」「仰臥漫録」等を読み、正岡子規の文体にはリズム感がありその文章は明るいと感じていた。それはどこか吉田松陰の「東北遊日記」に似ているなと思っていた。

  3年前、入院病室で司馬遼太郎の「花神」を読んでいると吉田松陰と正岡子規の文体が似ていることを司馬遼太郎が記している箇所にぶつかり、「やっぱりな」とうれしくなったことが思い出される。

  司馬遼太郎は「花神」の中で、吉田松陰と正岡子規の双方の文体が似ていることを次のように記している。「異常ほどあかるいその楽天的な文体、平易な言いまわし、無用の文章の少なさ、そして双方とも大いなる観念のもちぬしでありながら、実際に見たものについて語るときがもっともいきいきして多弁になるという点などが共通でいた」と記し、「双方とも近世日本が生んだもっともすぐれた教育者である」と高い評価している。

  二人とも幼少期より漢文を読み、旅をしながら見ていくという強い行動力を持ち合わせていたことがいえる。

20_20220113130901    この明治27年3月24日の草加への梅見の吟行の前の2月に子規は挿絵洋画家中村不折と出逢い、すぐに「小日本」へ中村不折の挿絵を掲載する。当時の新聞の挿絵が浮世絵系統が多く、洋画家系の採用は思い切ったものと評されている。

  子規は手帳と鉛筆を持って吟行を試みていた。いったん戸外に出て散策すれば、まだ言葉にまみれていない場所や事物は無尽蔵にあり、途上の俳趣―平凡な景色―との出合いに満ちている世界を求め、描いている。

  伊集院静著「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」の中で、「子規は『写生』確立にむかいはじめた。目に映った風景、実景をそのまま俳句にする味のようなものを悟った時期であった。しかし、山と積まれた創作句を見つめて、子規はどうもこれは間違いだと感じはじめた。子規は不折の作品に惚れこんだ時から、不折に画法とその精神を問いた。

  不折は応えた。『あるものを見たままに描くのでは写生になりません。見た時の感想、例えば奇麗な花と思ったこころを描くのが写生です』。

  子規はそれまでおぼろにしかわかっていなかった『写生』の本質を、この青年画家との会話から見出した」と記している。

  ……これなんだよな。

Photo_20220113130802   小学4年のころから、私は絵に夢中になり頻繁に写生に出かけていた。描いた絵はいずれも展覧会で入選していたことも励みになっていた。しかし、6年生のある時に展示されている風景写真を見た。『自分が描いている細かい風景画は写真にはかなわない』と心に衝撃が起こり、気持ちが萎えてしまった。以後、私は写生に出かけることもなく、絵は描かなくなった。

  この時、「写生」という本質、自分が心の中に感銘などの思いをもった風景を描くということ知っていたならば、違う角度から絵に向きあえたかもしれないと思えてきた。

  正岡子規を読みながら、「銀次のブログ」を描いていく際に忘れてはならないこと。――歩いて、『見ること』『体感すること』の中から学び、自分のこころを見てブログに表していくことが肝要であることを、今一度自分に言い聞かせていくことにする。

                                             《夢野銀次》

≪参考引用文献等≫

岩波文庫[芭蕉おくのほそ道](1979年1月、岩波書店発行)/山本健吉著「奥の細道」(1989年2月講談社発行)/草加市ホームページ「おくのほそ道の風景地 草加松原」/改造社版「子規全集第十巻」(昭和4年10月発行)/ウエブ正岡子規著「寒山落木3、明治27年春」/司馬遼太郎著「新潮文庫 花神」(昭和51年8月、新潮社発行)/伊集院静著「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」(2013年12月、講談社発行)

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河と彫刻-春日部のまちを歩く

「カスバの女」を歌う藤圭子

 「♪涙じゃないのよ 浮気な雨に~」と歌が始まる「カスバの女」は昭和30年(1955年)5月、作詞:大高ひさを、作曲:久我山明、エト邦枝によって映画の主題歌として発表されたが、映画は制作されず消えていった。

  昭和42年(1967)に緑川アコがカバーしてレコードを発売するとこれがヒットとなり、以後竹越ひろ子、ちあきなおみなどが歌い、広く知られるようになっていく曲。昭和56年(1981)12月公開映画『セーラー服と機関銃』の冒頭でブリッジをしながら「♪涙じゃないの~」と17歳の薬師丸ひろ子も口ずさんで歌っていた。

Photo_20211214142502   昭和45年(1970)10月23日、渋谷公会堂における「歌いつがれて25年、藤圭子演歌を歌う」の実況録音盤CDの中に、19歳の藤圭子が歌う「カスバの女」が7曲目に収録されている。

  緑川アコやちあきなおみの歌はゆったりと歌いながら人生を捨てたような哀しさとけだるさを感じる。しかし、19歳の藤圭子が歌う「カスバの女」を聴くと、若い娘があどけない顔から突き刺すような目つきで男と女の暗い世界に夢を捨てないで生きていく姿が浮かび上がってくる。

  その夢の中にはセーヌ河があり、赤い風車ムーランルージュのステージで踊る娘たちがいる。19歳という娘ざかりと哀しさが入り混じった不思議な歌唱になっていて味わい深い歌曲になっている。

春日部市内を流れる大落古利根川(通称古利根川)

  「♪セーヌのたそがれ瞼の都 花はマロニエ シャゼリゼ 赤い風車の踊り子の~」(「カスバの女)作::大高ひさし、作曲:久我山明)。 

100_0310  春日部市街地の東側を流れる大落(おおおとし)古利根川。農業排水を落とす幹線排水路の意味から大落古利根川と言われているが、川の畔から眺める通称古利根川の流れは、かつての大河利根川の残像かのように悠然と流れている。

    日高昭二著の「利根川 場所の記憶」の中に医師でもある俳人の水原秋桜子が昭和19年春日部市になる前の昭和初期粕壁町付近の古利根川を著した「古利根川の岸辺」の文章が紹介記載されている。

100_0486 「『K画伯は、ここの景色と巴里郊外の景色とが、非常によく似ていると言われます」。若い中学の先生は、橋の欄 干にもたれながら、こう私に説明してくれた。私はセーヌ河と古利根川とが似ることに興味をおぼえて、指さされたままに下流の方を見渡した。なるほど西洋の画ではこういう景色を見たような気がした。

100_0481  その日の夕日は、もう町の家並みにかくれて、雲ひとつない空をなごやかに色付けていた。渡り鳥の群が二つ三つ声をおとして頭上をすぎて行った。幅70メートル程の古利根は、十分な水量を湛えて気持ちよく澄んでいた。はるか下流にもうひとつ橋が見え、そこまでの西側が粕壁の町裏である』

  粕壁町の安孫子病院に医師として勤務しながら古利根川に接した水原秋桜子。パリ郊外を流れるセーヌ河と似ているという古利根川……パリに行ったことのない私は、川幅70メートルの古利根川がパリに流れていっているような旅情を誘う情景が浮かんできた。

古利根公園橋の彫刻

100_0496  初めて訪れた春日部市……。

  旧日光街道かすかべ大通りを歩く。舗道には『粕壁宿案内』、『問屋場跡』、『本陣跡』などの案内標識が目につく。

   市民から史跡標識設置の要望で建てられたと郷土資料館の学芸員の方が話をしてくれた。その春日部市郷土資料館で『粕壁宿模型図』を眺め、芭蕉が宿泊したと云われる東陽寺に参拝し、市民文化会館、図書館と『匠大塚』の脇道を通り抜け古利根川畔に立った。

100_0488    静かに流れる川面を見ながら川沿いに沿って川上に足を運ぶ。

 赤い風車の代わりに麦わら帽子をイメージした高いアーチのモニュメントがある古利根公園橋が見えた。古利根川の静かな佇まいとは対照的に、なにやら近代のきらびやかな外観を呈した公園橋に辿りついたような感じがした。

100_0378    ウキペディアでは、『春日部市制30周年にあたる昭和59年に完成した古利根公園橋。街の中心を流れる古利根川に架かる全長79mの橋上公園で、「光と風」をテーマに、市の特産品である麦わら帽子をイメージした高さ14.5mのモニュメント、橋上ステージ、ブロンズ像6体などで構成するこの橋は、市政30周年(昭和59年)を記念してできた公園橋』と紹介されている。

 さらに、公園橋にある6体の彫刻はすべて青銅製の単身の人物像で、「彫刻のある街づくり」を目指した春日部市として平成2年から3年にかけて設置されていると記されている。

100_0516    千野茂『フォーム』・舟越保武『茉莉花』・山本正道『思い出』・桑原巨守『夏』・佐藤忠良『ジーンズ』・斎藤馨『春陽』と若い娘・少女を中心にした彫刻群になっている。

  中でも『夏』と『春陽』の少女の塑像が新鮮な感じを受けた。

   『夏』の作者、桑原巨守は『輝く太陽、爽やかな涼風、咲き乱れる野の花高原にすくっと立つ少女。私の抱く夏のイメージを彫刻にしてみました』とコメントを表している。はち切れそうな健康的な作品群になっている。

    公園橋から古利根川を見る。公園のベンチに腰をおろし、くつろいだひと時を甘受する。

新町橋と古隅田川

100_0383   公園橋の上流に新町橋が見える。

  新町橋は、江戸時代に大橋と呼ばれ粕壁宿から杉戸宿に向かう日光道中、古利根川に架けられた橋。幕府が費用を負担し、長さ16間(約29m)、横3間(約5m)の板橋で、高覧が付いていた。

  橋の畔は上喜蔵河岸跡になっている。わずかにマンション駐車場の脇に河岸跡の石垣が残っているが、郷土資料館の『粕壁宿模型』で表している上喜蔵河岸周辺の方が往時の姿を思い浮かべることができる。

100_0525  古利根川に注ぐ岩槻から流れてくる古隅田川が見える。かつては川の流れは今とは逆に、古利根川から古隅田川に流れが注ぎ、元荒川へ満々と水が流れていた大河であったという。ちょっと想像できない。

  …中世から徳川時代にかけての関東地方の川筋は『利根川東遷事業』によって大きく変化している。そのため、利根川と古利根川、隅田川と古隅田川、荒川と荒川放水路、中川など中世と現代では区別がつきにくく、難渋してしまう。

最勝院と千住馬車鉄道

100_0527   古隅田川に架かる十文橋を右に見て、左折し最勝寺山門に着く。

   真言宗のお寺で華林山慈恩寺最勝院といい、本尊に千手観音をまつる。境内にある立派な鳥居をくぐると春日部重行公之墳墓がある。

   案内版には春日部重行公は天皇を護衛する武者所番衆として新田義貞に仕え、後醍醐天皇の建武の新政を支持した。

100_0392   新田軍として討幕に参加し、鎌倉、箱根、京都、島根、九州など各地で幕府軍と戦う。特に鎌倉の戦いでは戦功を挙げ、延元元年(1336年)に後醍醐天皇から下河辺荘の一部である武蔵国春日部郷 (現在の埼玉県春日部市内牧地区の一部)と上総国山辺郷 (現在の千葉県千葉市緑区の一部)の地頭に任命された。同年6月30日、重行は北朝側の足利尊氏軍と京都鷺の森で戦うが敗戦し自刃した (延元の乱)。

   遺骨は長男の家縄が春日部に持ち帰り最勝院へ埋葬したと記されている。 

  春日部市では春日部の祖として毎年ゴールデンウィークに春日部重行公祭を開催している。どれくらいの規模祭礼なのだろうか?

100_0529  山門前の案内版には、『明治時代この最勝院は粕壁小学校(明治5年)や粕壁税務署(明治42年)などに利用され、広い境内は大相撲地方巡業やサーカス、村芝居の興行、各種の武道大会等に利用された。また明治26年に粕壁ら越谷、草加を経て足立区千住までを結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としていた』と昭和61年3月に春日部市として記載している。

 この最勝院山門前の案内文を読んで千住町と粕壁町を結んだ「千住馬車鉄道」があったこと、最勝院山門前が『千住馬車』の起終点であったことを初めて知った。そのため、古利根公園橋左岸に雨宮一正作の千住馬車鉄道のモニュメント『トテ馬車』(記念碑)があることの意味も分かった。

100_0376  明治24年(1891)に上野―青森間の鉄道が開通した。しかし、上野―前橋間鉄道の途中から分岐することとしたため、陸羽街道(旧日光道中)沿線の千住―幸手間の人々は鉄道の恩恵を受けられなかった。

   そのため明治26年(1893)2月7日、千住馬車鉄道が千住茶釜橋から越ヶ谷町までが開通して旅客営業をはじめ、6月1日に越ヶ谷町から粕壁(最勝院付近)まで12人乗りの馬車鉄道が開通した。なお、浅草―千住間、粕壁―幸手間は普通馬車によって連絡をしたという。

28    千住―粕壁間を4時間、一日4往復であった。それでも軌道上を走る鉄道馬車は「ガタ馬車」と呼ばれ普通の馬車に比べると乗り心地がよく、車体も大型化となった。

   当初の計画は千住町中心の仲町に馬車鉄道の停車場を造る計画であったと云われているが、地元から狭い街道筋に馬車鉄道の運行は危険が伴うということで軌道敷設の強い反対があり、千住町の北、今は荒川の土手になっている茶釜橋に停車場を設置した。同じように千住近辺街道沿いにおいても馬車鉄道敷設への反対が強かった。馬車鉄道開設を希望したのは東北本線から外れた日光街道沿いの草加、越谷、粕壁、幸手の地域の人たちであったと云われている。今の東武伊勢崎線の路線を見るとこれも頷ける。

Photo_20211214153101   『春日部市史別冊千住馬車鐡道』によれば明治20年代から30年代にかけて埼玉県内では「忍・行田馬車鉄道(明治34年6月開業)」「伊勢崎・本庄馬車鉄道(明治22年計画のみ)」「入間馬車鉄道(明治32年出願のみ)」「川越馬車鉄道(明治35年5月開業)」など馬車鉄道の運行や計画が数多く出されていた。今の都電も当初は東京馬車鉄道として運行をスタートしたことになる。

   開業後の千住馬車鉄道の経営も思わしくなく、明治29年(1896)に普通馬車鉄道営業を廃止し、翌年6月には全線が廃業した。これを惜しんで草加周辺の資産家らが草加馬車鉄道を設立し、全線の営業を引き継いだ。しかし、明治32年東武鉄道の開業によって明治33年(1900)に廃業となる。明治26年から7年間の短命な馬車鉄道であった。

   馬車鉄道については鉄道史においてどれだけ研究されているか分からないが、地域を結ぶ輸送関連から学ぶ事項が多々あると思えてくる。

粕壁宿から春日部市へ

40  岩槻街道から最勝院山門前を右折すると町並10町25間(約1,130m)、人数3,701人(男1,791人、女1,910人)、家数773軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒(内飯盛女旅籠14軒)、問屋場1ヶ所、人馬35人35疋の粕壁宿になる(天保14年『日光道中宿村大概帳』より)。

  粕壁宿は日光道中(日光街道)の江戸・日本橋から数えて4番目(千住宿・草加宿・越谷宿・粕壁宿)の宿場町になっている。現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿ということになる。江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取ったようである。

100_0351  最勝院山門から歩くと新町橋に抜ける交差点に「高札場跡」の標識がたっている。その先、公園橋西交差点の手前、りそな銀行春日部支店前に峯田敏郎作品『記念撮影―風がー』の彫刻が舗道に展示されている。

 風にとばされる麦わら帽子、そばに佇む少女の塑像。「水平、垂直の形でできている街の中に、快い空気が流れはじめたらと、この形の作品が生まれました。やわらかそうな丸い形の上に座る女性に突然風が・・ そして、帽子が、・・。」と作者の峰岸敏郎氏はコメントを寄せている。

 ――何よりも健康的で未来を見つめているような彫刻作品だと感じた。

 春日部市が平成2年から3年にかけてすすめてきた「彫刻のある街づくり」で設置されてきた彫刻は、古利根公園橋から春日部駅東口、公園西交差点からかすかべ大通り、春日部駅西口市役所にかけて22の作品が展示されている。

 今後、宿場町としての粕壁宿が現代の春日部市と変移していく一つの町づくりとして価値あるとりくみだと思えてきた。

                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「新編図録春日部の歴史」(平成27年10月1日春日部市発行)/日高昭二著「利根川 場所の記憶」(2020年7月翰林書房発行)/ウエブ「まちなかで鑑賞できる春日部の彫刻」/[馬車鐡道の想い出~千住馬車鐡道展](平成15年7月春日部市郷土資料館発行)/「春日部市史別冊千住馬車鐡道」(昭和59年3月春日部市教育委員会発行)/ブログ「カスバの女三木鉱三のうた物語」/ウキペディア「古利根公園」

 

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『孤高の画家田中一村』の墓所と生誕地から雲龍寺を歩く

栃木市旭町「満福寺」…田中一村の墓所

100_0432  「以前の田中家のお墓は一村さんの父親・彌吉さんがお建てになっており、彌吉さんの父・清蔵さんと祖父・喜平さんのお墓の2基でした。しかし、父親の彌吉さんと一村さんの墓石はありませんでした。全国からお参りにお見えになる田中一村ファンのために一村さんの甥にあたる新山宏さんが今のお墓を建てられたのです」と満福寺住職長澤弘隆師は久しぶりにお会いした私に語ってくれた。

  栃木市旭町22-7にある天真言宗智山派満福寺の墓所に眠る孤高の画家田中一村のお墓が新たに建てられていた。立派な奇麗なお墓になっているのに驚いた。以前の墓所より4倍の広さになっていると云われている。

  「田中一村之墓」と刻字された趣のある自然石の墓石。背面には「平成29年9月11日田中一村没後40年新山宏建之」と刻字されている。

100_0435   右側に田中家の墓誌が建っている。

  地域雑誌「グラフ北関」との対談で「田中一村の墓」について長澤住職が語っている内容が満福寺ホームページに載っている。

  その中で、「当初は墓誌を建てるということでしたが、狭いため、私のほうで近くに空いているところがあるので、そちらに新しいお墓を作られたらどうでしょうかと提案し建てられたのが現在の墓所です」と長澤住職は話をしている。

  その墓誌には「田中家墓誌」として田中一村の祖父・清蔵夫婦、父彌吉夫婦と子の姉・喜美子、長男・孝(一村)と四人の弟と妹の名とそれぞれの戒名が記されている。田中一村の戒名は『真照孝道信士』となっている。只、曾祖父・喜平の名前が記載されていないのが気になった。

  左側には一村肖像写真と『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』と一村が詠った俳句が記された石碑が建っている。

100_0434   中野惇夫著「アダンの画帖 田中一村伝」の写真紹介欄で、「昭和30年代半ば一村が奄美の自然のスケッチに熱中していた頃のポートレート。まだ千葉時代の気負いもあり、新たな風土で闘志を燃やしていた気配が感じられる」と記されている。「俳句が記された写生帖には、やはり絵かきの句で、そのまま絵になりそうな俳句も詠まれてある」とし、同書に20句の俳句が載せられている。

  満福寺ホームページ「奄美空港近くの『あやまる岬』へ」に奄美大島を令和元年5月に訪ねた長澤住職は次のように記述している。

  「一村は奄美空港近くの「あやまる岬」にたびたびスケッチに来ていたという。有名な自撮りの自画像風画像は、この『あやまる岬』で撮ったものだと言われている。『あやまる岬』にはアダンの群落もある。代表作の一つ『アダンの浜辺』も、ここに群れ咲くアダンの写生の結実ではないか。『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』の句はここだったのだろう」。

  満福寺にある田中一村の墓所には奄美の人々から供えられた貝殻が置かれてある。その貝殻を見つめるように田中一村の自画写真と俳句が記された石碑が設置されている。思わず「田中一村の世界」を描く配置になっていることに気が付き、頷いた。

100_0430   長澤住職は前述の『グラフ北関』との対談の中で、親族から「私が守れなくなったあと、田中家のお墓はどうなりますか」という問いかけに、「一村さんが眠るお墓ですから無縁墓として片づけるわけにもいきませんので、当山の責任において永久保存します」と答えたことを語っている。

このことから長澤住職の田中一村への思いは並々なら強い決意であることを感じた。

 

田中一村生誕地の特定

100_0458   栃木市蔵の街大通りを北に向かう先に北木戸跡地の万町交番交差点がある。

   その先北関門通りを鹿沼に向けて直線道路を進むと泉町交差点がある。交差点の右側には現在の住まいを購入する際に受け渡し清算で使用した労働金庫栃木支店がある。

  Photo_20211119133602 その泉町交差点を西に左折し、70~80m行ったところが泉町8番地になっている。 田中一村の生誕地として「田中一村記念会」が特定している地域である。

   令和元年(2019)12月に「田中一村記念会(会長・大木祥三)」によって冊子「田中一村画伯の出生地を探るー父・彌吉(稲村)の調査から」が発行されている。

  田中一村の生誕地が、栃木市泉町元市長・金子益太郎の近隣で市川呉服店の北側付近が有力視されてきたが、確証はなかった。

  同書の中では、『孤高の画家として魅了している田中一村は、栃木に生まれ、栃木市満福寺に眠っている。明治41年(1908)7月22日に「栃木県下都賀郡栃木町大字平柳9番地」で誕生し、昭和52年(1977)9月11日に奄美大島の和光園近くの一軒家で69歳の生涯を終えた。一村は、彫刻家の父・田中彌吉(雅号は稲村)と母・セイの長男として生まれ、本名を孝』と紹介され、『栃木町大字平柳9番地』で誕生したことが記されている。あわせて大正3年(1914)1月28日に東京に移転するまで、5年6カ月の間、栃木で過ごしたとしているとしている。

100_0439   彫刻師であった田中一村の父・彌吉(稲村)関連の調査から「田中一村会」会長の故・長谷川建夫氏(田中彌吉の支援者であった長谷川展氏の娘婿)の資料を基礎に、東京に移転する前の田中彌吉一家の住所が「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」であったことが分かったことが記されている。

  この住所を基に元市役所職員による地番指定等の協力を得て、大字平柳になる前の堰場原(どうばはら)の地図を重ね合わせて「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」が「栃木市泉町8番地」であるとし、田中一村の生誕地を特定することが出来たことが記してある。

100_0443   生誕地と特定した付近一帯は大ぬかり沼の名残りである大杉神社から流れる堀川や「朝日弁財天」がある。西側の先の嘉右衛門町は重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けており、古い家並みの中を日光例幣使街道が通っている。通り沿いにたつ神明神社の裏手の樹木等が生誕地付近を覆い、現在の道路を含めてひっそりとした佇まいの雰囲気になっている。

  中野惇夫著「アダンの画帖・田中一村伝」に栃木の田中彌吉の家の様子を、「父弥吉は、稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻家だった。おっとりした性格で、栃木の家にいるころは、広い屋敷の周囲を全部切り払い、草を生やして、コオロギやカジカの鳴く声に独り縁側で耳を傾け、楽しむという風流人だったという」と記述されているような広い敷地であったことが想像できる地である。

  明治26年(1893)に大宮村大字今泉から転居してきた田中彌吉の祖父・喜平(彌吉の父は明治20年に亡くなっている)の生業が不明となっている。しかし、広い家や雲龍寺建立の寄付行為、および彫刻師としての彌吉(稲村)の交流人脈などから彌吉の祖父喜平は裕福な生活であったことが想像できる。

  只、この地での田中家は後日、東京に移転することから借地借家だったのではないかと推測する。

 

雲龍寺「龍の彫刻」と一村の「軍鶏」

100_0446  昭和7年(1932)の北関門通り開通に伴い御堂・水行場が東に10m曳家移転をしている雲龍寺(栃木市泉町18-8)。

  田中一村生誕地からセブンイレブンの裏の裏道を伝い、北関門通りに戻り、南へ少し行った先に雲龍寺がある。セブンイレブンの裏側通りには私が小学校から通った「川津珠算塾」があったが、今は空き地になっている。

100_0455  江戸後期から栃木町の成田山不動尊信仰の3つ講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年(1890)に成田山不動尊雲龍寺として建立されたと栃木市史には記されている。

  明治から大正にかけての雲龍寺境内は、明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で植松義典の弟子であり記者でもあった柴田博陽が、「参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わい」と記しているように特別な賑わいを見せていたと云われている。

  現在の境内はひっそりとしており、境内には明治7年に宇都宮から泉町が購入した山車人形「諫鼓鳥」の収蔵庫が建っている。

100_0453  明治29年(1896)に雲龍寺建立由来の石碑がその収蔵庫の裏側に建っている。石碑の背面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この石碑に刻まれている「田中彌吉」が田中一村の父親なのかどうか検証されてきた。

  前著「田中一村画伯の出生地を探る」の中では、雲龍寺上棟式当時、彌吉は6歳と幼少であった。しかし父・清蔵が亡くなっており彌吉が戸主になっているが、実際は彌吉祖父・喜平が家政を仕切っていたことになる。他に明治24年の本堂欄間には「大宮村大字今泉田中弥吉」と栃木町に転居する前の住所が書かれてあること。明治28年制作された水行場の北側欄間に「発起人栃木町泉町田中弥吉」と書かれてある。このことから雲龍寺境内石碑に刻まれている田中彌吉(弥吉)は田中一村の父親であると断定をしている。

100_0451   雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物は田中彌吉(稲村)の師匠筋になる江戸彫・後藤流二代目渡辺喜平治正信の作になっている。

  田中彌吉(稲村)の実際の師匠は明治44年(1911)に栃木から東京に転住していった三代目渡辺喜平治房吉であったのではないかと推定されている。

  雲龍寺にある二代目渡辺喜平治正信作の龍の彫り物は田中一村が描いた力強い「軍鶏」に似ていると個人的に思っている。

  大正3年、5歳6カ月で東京に移転していった田中一村が雲龍寺にある龍の彫刻を父・彌吉や姉・喜美子に連れられて何回も観ていたことによるのでないかと思える。師匠筋の彫り物を父・彌吉は一村に見せている筈であるからだ。

 Photo_20211119133601  昭和10年の彌吉死亡によって一村は納骨のため満福寺を訪れ、その時に昭和12年4月の栃木市制記念祭りの際に泉町山車人形「諫鼓鳥」を観ていたのではないかと想像する。そして昭和13年に東京から千葉に移転していく。

  戦後昭和22年から昭和33年にかけて千葉から奄美大島に移転する間に一村は「軍鶏」を多数(スケッチを除いて13点、大矢鞆音著「評伝・田中一村」より)描いていくようになる。

100_0461  「アダンの画帖 田中一村伝」に載っていた田中一村「軍鶏の素描」の絵を最初に見た時、何かに似ていると感じた。そうだ、栃木の寺社に掲げられてある「龍の彫刻」に似ていると…。

  睨み見つける目、両脚を踏ん張って威嚇する姿勢は「龍の彫刻」の鬼気迫る姿に似ていると感じたのだ。

  ネットで2021年1月~ 2月末開催の千葉美術館「田中一村」展示会の中の中で、「軍鶏」の題画賛に『荘子』の「木鶏」の故事が記されている作品があると紹介されている。具体的な内容を読むことはできないが、田中一村が軍鶏を描くにあたっての思いがあることが伺えた。

  横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」と安岡正篤に打電したというエピソードで有名だが、木鶏(もっけい)とは、荘子に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさすことを意味するものとしている。

  戦後の千葉寺在住時に南画からの脱却をはかり、写生に取り組むが、相次ぐ公募の落選となり画壇から孤立を深めていく時、一村は力強い軍鶏を描き始め、昭和33年に奄美に飛び立っていく。

  それは幼いころ父親や姉に連れられて度々参拝の際に見た雲龍寺にある鬼気せまる「龍の彫刻」の眼と地元の泉町山車人形「諌鼓鳥」の鋭い口ばしを思い浮かべて描いていったのではないかと推測する。

  孤高の画家としての己を鼓吹することから写生を基礎にした「軍鶏」を描いた一村。このことが事実ならば、軍鶏の絵には「田中一村が生まれ、お墓のある栃木のまち」だけではなく、雲龍寺「龍の彫刻」と山車人形「諫鼓鳥」が影響を与え、力強さを表していったのではないかと思える。

  「栃木のまち」と田中一村の「軍鶏の絵」がよりつながりを見せてくるような気がしてくる。

                              《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

中野惇夫・南日本新聞社著「アダンの画帖 田中一村伝」(1995年4月、小学館発行)/大矢鞆音著「評伝田中一村」(平成30年7月、生活の友社発行)/満福寺ホームページ「当山に眠る孤高の日本画家 田中一村」・「インタビューグラフ北関、一村の菩提寺・満福寺住職に聞く~清貧孤高の日本画家◎田中一村」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繫昌記」(明治32年11月発行)/「田中一村画伯の出生地を探る―父・彌吉(稲村)の調査から―」(令和元年12月、田中一村記念会発行)

 

 

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令和3年の秋―我が家の菜園でイモ堀りに励む

100_0327 令和3年の10月30日。抜けるような秋の青空。「イモを掘るぞ」と己を鼓吹してサツマイモの畝に向かう。

 茎をハサミで切り、シャベルで回りを掘り始める。

 出てきた紅あずま。

 傷をつけずに土を払い、「ヨイショ」とサツマイモ株を抜きとる。

100_0325   …できている。あまり大きすぎなく、形のよいサツマイだ。後は味はどうなのか?

 去年のサツマイモは塊になっていたのがあったが、今年はない。

 紅あずま30本、畝2列で植えた。植える前に苗を3日間水に浸していた。それが良かったのか、苗はしっかりと根付いてくれた。

 もう一つ畝のサツマイモは11月の第2週に収穫していく

100_0332  9本の種イモを植えた「サトイモ」。それに妻が生ごみとして鉢植えに棄て芽がでてきたサトイモの苗。合わせて10本が成っている畝。

 スコップを使い4株のサトイモを掘り出す。

 …出来ている。しかし、小さい。

 泥を払い、親イモと子イモをばらしながら、孫イモがあまりできていない。やはり早かったのかな…?

 残り6本は11月後半に3本堀り、後は正月雑煮用に掘り出す予定。

100_0337  収穫したサツマイモとサトイモを秋の日差しの下に干す。

 ジャガイモは日陰干しだが、サツマイモとサトイモは陽に干して乾かす。

 カビが生えるから。…いいのかな?

 当分は、サツマイモとサトイモを毎日食べていくことになる。

100_0329  ポン太のおでこにできた傷、動物病院でレントゲン撮影をしてもらった。 

 心配した腫瘍でなく切り傷だった。後日、銀太がポン太のおでこに猫パンチをしているの見る。

 …これだな。銀太の爪がポン太のおでこに食い込んで傷になったのだと分かる。

 病院で体重を計ったら8.15キロになっていたポン太。来年4月には10歳となるが、糖尿を注意していく必要がある。

100_0339  縁側の前の花壇を妻が使用することになった。そのため、昨年のチューリップの50個をどこに植えるかと考えた。

 駐車場の南側に60cm幅の花壇を作った。石と硬い土壌でできている駐車場を掘り起こす作業は3日間かかった。

 作りながら、花を植えるのもがいいが、庭木を植えれば、菜園との区切りになるなと思えてきた。

 今年は、チューリップを植えるとするが、来年はまた考えていくことにする。

                      《夢野銀次》

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 令和3年10月―柿・我が家の猫・堂場舜一著「チェンジ」

100_0269  今年の10月も暑い日続いている。昨日(7日)は幾分涼しかったが、今日も30度近く暑い。地球温暖化というよりシナリオ作家の倉本聰が言うように「地球熱帯化」が進んでいるような気がする。

 ……今年も我が家の次郎柿に実がなった。去年より少しだけ多めに実が成っている。しかし、一昨年のように食べきれないほど柿の実はなっていないし、元気が感じられない。

 どうしてなのか?前々から気に病んでいた。

100_0287  夏樹静子の「検事霞夕子」を読んでいると、北海道釧路地検・帯広支部の庁舎から検事霞夕子が、「自宅(東京)の寺の庫裡の裏に一本ある柿の木がたわわに実をつけて、西陽に輝いているありさまが、キーボードを叩いている夕子の目に浮かぶ。小ぶりな実だがなかなか甘く、でも土の養分のせいでか一年おきにしか実らない。今年は収穫の年に当たっていたのだ」と、婿養子の住職の夫吉達から届いた柿と手紙に思いをよせる描写がでてきた。

 柿は一年おきに実をなすのか?この文章を読んで、一年置きに柿の木がたくさん実るのは我が家だけではないことを知り、少し安心した。

 元々、我が家の土地の土壌は良くないと思っている。菜園を耕すたびに小石を拾って10年過ごしてきた。それでも今年は柿の木や杏の木に肥料養分を与えて果実の収穫をしていきたいと思っている。

100_0277  5月の連休の時に植えた茄子。7月、8月とあまり実が成らず,お仕舞いにしようと思っていたら9月半ばを過ぎてから茄子に花が咲き始め実が成って来た。20cm下に元肥を施していたが、茄子の根が肥料成分を吸収しだして、それで実が成り始めたのか?

 去年も同じく9月半ば過ぎからたくさんの実が成りだしている。解らない。以前は7月、8月と毎日茄子を食べたような気がするのだが……?

100_0283  14歳半と高齢の猫になっている「銀太」。

 最近、夜中に唸るような泣き方をするようになった。動物病院の先生は「昼間寝ていて夜中にそういう泣き方をするならば認知症かもしれない」と仰ってくださった。

 ネットで検索すると「10歳以上の高齢猫は、聴力や視力が急激に老化したことによる不安感から、夜泣きをしてしまいがちです。特に認知症や痴呆症にかかっている猫は夜泣きをしやすく、その声は大きく唸るように響き渡るので、近所迷惑になることも。もし愛猫が深夜に一点を見つめながら泣き続けるときには、認知症や痴呆症の疑いがあります。早めに動物病院を受診するようにしましょう」と記載されていた。

 高齢の猫は認知症になること。それも目や耳の衰えから不安になり唸るような泣きをすることを初めて知った。今まで飼っていた猫のほとんどは9歳以下で亡くなっていたから高齢の猫については無知だった。幸い我が家と隣近所とは家屋が離れており夜中に泣いても近所迷惑にはならないということで気持ちは楽でもある。

 夜中に泣いている時は優しく抱き寄せて添い寝をする。薬で治療するか、獣医と相談していくことにする。加齢は私たち夫婦だけではないということなのだ。

100_0286  9歳半の雄猫の「ポンタ」は体重7.85キロと大きい猫だ。

 2か月前におでこから膿が出ていたので動物病院で診てもらった。切り傷だろうという診たてで化膿止め注射を打った。しかし、その後も膿が出る。昨日、動物病院で診てもらったが、切り傷ではなく、おでこの下が空洞になっていることが解った。口内炎からくるがん細胞が炎症をおこして鼻を伝わりおでこに感染している可能性がでてきたのかもしれない。しかし、はっきりとはまだ分からないと動物病院の先生は言った。とりあえず2週間効く化膿止め注射を打ち、2週間後再度化膿止め注射を打ち、がん検査依頼を行い治療を施していくということにした。

 私が膀胱がん,食道がん、下咽頭がんで経過観察中であるが、我が家の猫は歴代9歳の壁にぶち当たってきた。これを乗り越えてほしいと願う私だが、ポン太については成り行きにまかせて動物病院通いをしていくつもりでいる。

Photo_20211008162201  警察小説を数多く書いている堂場舜一の作品の中で、犯罪被害者の支援にあたる「警視庁犯罪被害者支援」のシリーズとして8作目が講談社文庫書下ろし文庫本として2021年8月に「チェンジ」という題名で発刊されている文庫本を読んだ。

 この小説の中で私が住んでいる栃木市がでてくるので一味違っておもしろく読んだ。自分が住んでいる栃木市の街並みをプロの作家がどういう風に描写しているのか、興味をもって読んだ。

 主人公の警視庁被害者支援課の村野秋生が病欠してる捜査二課の八島勝が実家にいる栃木市を尋ね,訊き

Pa2100511  「栃木県栃木市。JRと東武線が乗り入れるこの駅に、村野は昼過ぎに降り立った。栃木市は、市街地に古い蔵が多くあり、それが観光資源にもなっているようだ。駅の北口を出ると、高い建物はあまりなく、広々と空が開けている」。

 駅前の風景は確かにこの通りだ。つづいて八島を話し合う場所の巴波川沿いが次のように記されている。

Pc2500911  「古めかしいデザインの橋を渡ると、その先は遊歩道のようになっている。石畳の道路で、川沿いには柳の木と小さな灯籠。細い川を、遊覧船がゆっくり行くのが見える。こういう川が流れる街は風情があるものだ、と村野は感心した。一方で、急にリアリティのない世界に入りこんでしまった戸惑いを感じる。観光地というのはこういうものだろうが……川の反対側には普通に商店が立ち並んでいて、観光客らしき人たちがゆっくりと歩いている。しかし,『賑わっている』ほどの人出ではないので、川の方を向いて話していれば目立たなく、誰にも話しを聞かれないはずだ」。

 「幸来橋」から巴波川沿いの描写になっているが、風情ある街だとしながら賑わっていないと記すなど、堂場舜一は今の栃木の街を見つめて感覚的に描写をしている。さすがの眼力だと感心をした。

100_0281  10月中頃から11月にかけて「サツマイモ」と「サトイモ」の収穫を行う。

 あわせて、下咽頭がんのスコープでの検査と内視鏡による食道がんの検査が控えている。

 先月の9月17日に膀胱がんの3回目の再発で内視鏡による手術を受け、一週間入院した。その時、病室で「美空ひばりの第15回広島平和音楽祭」をYouTubeで観て感激した。退院後に「銀次のブログ」に「第15回広島平和音楽祭の美空ひばりのステージ」を描いた。一度ブログに描きたかった人だったのだ。

 9月1日に73歳を迎えた。歴史散策と現地学習、家庭菜園、栃木での日々のくらしを「銀次のブログ」に描きながらがんとむきあって生きていくつもりでいる。

                   《夢野銀次》

≪引用書籍本≫

夏樹静子著「検事霞夕子 風極の岬」(2004年4月新潮社発行)/堂場瞬一著「警視庁犯罪被害者支援課8 チェンジ」(2021年8月講談社文庫発行)

 

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美空ひばりの笑顔-広島平和音楽祭のステージ

Photo_20211001133301  「♪バカだな バカだな だまされちゃって 夜が冷たい 新宿の女~」(「新宿の女」石坂まさを作詞作曲)。

 YouTubeで美空ひばりが新宿コマ劇場で歌う「新宿の女」を観聴きすることができた。藤圭子の怨念のこもった突き放す歌ではなく、「だまされちゃって」と笑顔で歌うひばりの歌声の中から、「また騙されちゃったの。でも生きていくわよ」と歌う夜の新宿で生きる「強さを内包した優しく可愛いく包み込む大人の女」の姿が浮かびあがってきた。……優しい眼差しが印象的な画像になっている。

   この「ひばりの大人の優しさ」はどこから生まれてくるのだろうか?舞台から見える新宿コマ劇場に来てくれている観客に向けている笑顔だけだったのか…?

 

第1回広島平和音楽祭『一本の鉛筆』 

Photo_20211001133302   『戦争中、幼かった私はあの戦争の怖ろしさを忘れることはできません。これから二度とあの怖ろしい戦争が起らないよう、皆様と一緒に祈りたいと思います。いばらの道が続こうと平和のためにわれ歌う』と舞台から語りかけ、美空ひばりは『一本の鉛筆』の詞を朗読し、歌いだす。

  昭49年(1974)8月9日に「音楽で平和の心を呼び戻そう」という広島テレビ局企画で開催された第1回広島平和音楽祭(実行委員長古賀政男)。作詞松山善三、作曲佐藤勝による広島の原爆をモチーフにした歌『一本の鉛筆』。松山善三は、この「一本の鉛筆」を美空ひばりさんに歌ってほしいと要望した。

 このことを聞いたひばりは、「この曲を歌うことこそ今の私を生かす道なのだ」と考え、広島平和音楽祭への参加を自らの意志で決めた(新井恵美子著「美空ひばりふたたび」より)。

Photo_20211003053401    平成28年(2016)8月13日配信の朝日新聞ネットコラムに、一本の鉛筆についてこう記されている。「美空ひばりの数多い持ち歌の中でも一見異質な存在の歌だが、ひばりは自選の10曲の6番目に入れているなど大事な歌としていた」。

 この中で自選10曲と記されているが、…ひばり自選10曲とは何か?ネットで検索したが、そのことを表した資料は見当たらなかった。……気になる「ひばり自選10曲」でもある。しかし、何よりもひばりにとり特別な思いのある大事な歌であることには間違いがない。

 この「一本の鉛筆」をひばりの反戦歌であると指摘する人がいる。しかし、私にはひばりが語っているように「戦争が起らないよう平和への祈りの歌」「戦争は嫌だ」と素直に訴えている歌だと思えている。

1  第1回の広島平和音楽祭が開かれた昭和49年(1974)はひばりの歌手人生の転換期だったと言われている。昭和39年(1964)の「柔」、昭和41年(1966)の「悲しい酒」と続いたヒット曲が昭和42年(1967)の「真赤な太陽」を最後に途絶えていた。その一方で前座で歌っていた弟が恐喝などで繰り返し逮捕され、暴力団追放の動きが高まった。昭和48年(1973)ひばりのショーは公共施設の使用を拒否され、紅白歌合戦にも落選,マスコミによるバッシングが続いていた。

 さらには「広島平和音楽祭」に美空ひばりが参加することに、被爆者団体は「暴力団に関係あるひばりに平和の歌なぞ歌ってほしくない」と言いだした。しかし、古賀政男と松山善三は怒った。「この催しは世界に平和を訴える音楽祭である。出場する歌手はどこへ出しても恥ずかしくない実力の持ち主でなければならず、美空ひばりはその点、どうしても欠かせない歌手である」と古賀政男は主張した。歌の実力は暴力団云々とは無関係だと言った。松山善三は「一本の鉛筆だからこそ、平和の心を伝えることが出来るのだ。一本の鉛筆は鉄砲玉より強いのだ」と主張した。しかしそれでも収まらない被爆者団体に「ひばりを推薦したのは私だ。ひばりの平和への思いの強さを聞いてくれ。ひばりはノーギャラで歌うと言っているのだ」と言い放す古賀政男の説明でようやく団体は折れた(新井恵美子著「美空ひばりふたたび」より)。

 「♪あなたに 聞いてもらいたい あなたに読んでもらいたい あなたに歌ってもらいたい あなたに信じてもらいたい 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く~」とひばりにとって公共施設から締め出されて以来、一年半ぶりに公共施設の会場である広島県立体育館にて「一本の鉛筆」を熱唱をした。

  すでにこの時、美空ひばりは東映の専属契約の打ち切りにともない165本の映画出演から芝居と歌の舞台公演「舞台人」として活動していくという方向転換をしていた。そして、歌への思いから、この第一回広島音楽祭を機会に、NHKやマスコミなどとの対決姿勢を改めていくことになる。

Photo_20211001133406   昭和39年(1964)川口松太郎作「女の花道」を皮切りに新宿コマ、梅田コマ、名古屋御園座、明治座を中心に一か月歌と芝居の舞台公演としての活動を主軸に展開を始めていた。

  「(舞台女優として)水谷八重子、山田五十鈴、杉村春子らの大女優のあとを継げるのは、歌が終わって転身したときの美空ひばりしかいないと川口松太郎は語っていた」と西川招平は自著「美空ひばり最後の真実」で川口松太郎が舞台女優としての美空ひばりを高く評価をしていたことを記している。

  映画で培われた演技を舞台女優として直に観客に接していく。そこには観客大衆に対する謙虚な姿勢が求められていた。新井恵美子は「美空ひばりふたたび」の中で、「ひばりの歌が変わるのはこの時(第1回広島平和音楽祭)からだった。歌のうまさは変わらないが、ギラギラした光沢から渋い深みを見せる魅力が増した。バッシングによる人の世の裏を知った大人の心がひばりを変えたのかもししれない」と美空ひばりの歌唱が変わってきていたことを記している。

 広島平和音楽祭への参加は、「一本の鉛筆」を歌うことから「大人の心をもった歌唱」として、大衆と歩むという謙虚な美空ひばりを指し示した意義深いステージになったのではないかと思えてくる。

 

第15回広島平和音楽祭『一本の鉛筆』…愛する人たちに贈る歌

Photo_20211001133401   「♪あなたに  聞いてもらいたい あなたに  読んでもらいたい~」とステージに登場した白いドレス姿の美空ひばりが、第一回広島平和音楽祭の時よりさらに声高らかに会場一杯に響くように歌いだす「一本の鉛筆」。

  第1回の広島平和音楽祭に続き昭和63年(1988)7月29日の第15回広島平和音楽祭に出演し、歌い上げる美空ひばり。YouTubeでこのステージを観聴きすることができた。

  この年、昭和63年の4月21日に「東京ドーム」にて病からの復活コンサートを終え、全国にお礼の公演を行っていた。しかし、ひばりの体調は悪くなっていた。「もう一度『一本の鉛筆』が歌いたい。あの広島で歌いたい」という思いで飛行機に乗った。たまたま同乗していた王貞治氏は体調が相当悪いとお見受けしたと後日語っている。この時すでに歩くのがやっとで段差をひとりで上ることさえ困難な状況だっと云われている。

 翌年の平成元年(1989)の6月24日美空ひばりは亡くなる。享年52歳。

  「♪一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く~」

Photo_20211003063701    音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという(ウキペディアより)。

 新村恵美子は「美空ひばりふたたび」の中で次のように記している。

「15年目の『一本の鉛筆』は以前のものとは全く別のものになっていた。相次ぐ肉親との死別、母、弟二人との別れ、大きな病気、それらはひばりを別人のような深みある人にさせていた。そのせいだろうか。この時の彼女の歌う『一本の鉛筆』は心に沁みて大きな感動を与えるのだった」

  この第15広島平和音楽祭における美空ひばりのステージはYouTubeで「一本の鉛筆」から「愛燦燦」まで全7曲を聴き観ることができる。完璧に歌いきっている大人の優しを内包した美空ひばりがいる。「人にやさしくする心、平和を大切に思う心」として『一本の鉛筆』をはじめとした全7曲を広島平和音楽祭のステージから愛を込めたメッセージとして歌いあげている。他のどのステージよりも美空ひばりという一大歌手の凝縮した素晴らしいステージになっている。

 『一本の鉛筆』は一大ブームにならないが、いつまでも歌い継がれていく名曲になっていくと思える。

《第15回広島平和音楽祭で美空ひばりが歌った歌曲名》

〇『一本の鉛筆』……昭和49年(1974)10月1日リリース。

          作詞:松山善三 作曲:佐藤勝)

〇『みだれ髪』……昭和52年(1987)12月10日リリース。

         作詞:星野哲郎 作曲:船村徹

〇『ひばりの佐渡情話』……昭和37年(1962)10月5日リリース。

         作詞:西沢爽 作曲:船村徹

〇『ひとり旅〜りんご追分〜入り』……昭和52年(1977)11月1日リリ

         ース。作詞:吉田旺、作曲:浜圭介

         (リンゴ追分)作詞:小沢不二夫  作曲:米山正夫

〇『人生一路』……昭和45年(1970)1月10日リリース。

         作詞:石本美由起 作曲:かとう哲也

〇『芸道一代』……昭和42年(1967)9月25日リリース。

         作詞:西條八十  作曲:山本丈晴

〇『愛燦燦』……昭和61年(1986)5月29日リリース。

          作詞、作曲:小椋佳

『みだれ髪』・『ひばりの佐渡情話』

Photo_20211001135701   「♪暗(くら)や涯なや  塩屋の岬 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぼっちに しないでおくれ~」。長期入院、病からの復帰第一作としてレコーディングした記念の歌として紹介して歌う「みだれ髪」。

 「ひばりは高音(裏声)にいいものを持っていると」と作曲船村徹は『哀愁波止場』より半音高い曲で、サビで裏声になるようキーの設定をしている曲とした。作詞の星野哲郎は美空ひばりを塩屋岬の立つ灯台をイメージして作詞したと云われている。ひばりの歌声が私たち心を照らす明かりを「愛の光」として作詞したのではないかと思える。

   同じ作曲の船村徹の「哀愁波止場」がある。しかし、「ひばりの佐渡情話」を東京ドーム公演同様に広島平和音楽祭で歌い、何故か「哀愁波止場」を東京ドーム公演でもひばりは歌ってはいない。何故選曲しなかったのだろうか?

  出だしの「♪佐渡の~」の高音での長い節回しで歌う「ひばり佐渡情話」は浪花節調に聞こえてくる。「♪ 島の娘は なじょして泣いた 恋はつらいと いうて泣いた~」余韻を残しての歌声に哀切を感じてくる。

  昭和37年(1962)10月公開の東映映画『ひばりの佐渡情話』(監督渡辺邦男)の主題歌としてリリースされている。中学生だった私はこの映画を観ているが、主題歌の「ひばりの佐渡情話」が印象に残り、映画のストーリーはまったく忘れている作品である。只、YouTubeではひばりが嵐の中を小舟で柏崎に向かうシーンの一部を観ることができる。 

Sim   むしろ「〽佐渡へ 佐渡へと草木のなびく 佐渡はすみよいか 惚れちゃならない他国の人~』と佐渡の荒涼とした情景から始まる浪花節「佐渡情話」が思い浮かんでくる。

  昭和初期に浪曲「佐渡情話」をレコード化して一大ブームをおこした浪曲師寿々木米若。私が子供のころ「佐渡へ佐渡へと草木もなびく 佐渡はすみよいか」など自然に口ずさんでいた浪曲詞である。

  恋こがれたオミツは柏崎のゴサクに会うため佐渡島から柏崎にたらい舟で渡るが、恋敵シチノスケにたらい舟が壊され会えなくなったオミツは狂う。しかし、柏崎から訪れたゴサクがオミツを治し結ばれる。佐渡島に伝わる島の娘と他国の男との悲恋の民話を寿々木米若は民謡の佐渡おけさを元に浪曲「佐渡情話」を口演し、米若の出世作とした。

  「ひばりの佐渡情話」は浪曲「佐渡情話」の「たらい舟」で荒海を柏崎に向かうオミツ、そして恋焦がれた狂うオミツの悲しさを「♪佐渡の~ 島の娘はなじょして泣いた」と思い浮かべて聴くと美空ひばりの生きてきた姿とオーバーラップし、胸に迫ってくるものがある。……ステージでの美空ひばりは自分の人生歌として歌っている。「哀愁波止場」ではなく「ひばりの佐渡情話」を選曲したのは「たらい舟」で人生の荒海を渡ってきた自分自身を投影して歌ったものと思えてきた。

『ひとり旅~りんご追分~入り』

Photo_20211001133402  「♪見知らぬ町の 古い居酒屋で 柳葉魚(ししゃも)サカナに ひとり呑んでいます~」と軽いタッチのリズムで歌う「ひとり旅」。店に流れる「追分りんご」から「♪りんごの花びらが 風に散ったような~」と「りんご追分」が挿入される。面白い、いい歌だと初めて聴いた私は、この歌を気に入った。

  『ひとり旅〜りんご追分〜入り』は佐良直美が昭和51年(1976)に発表した「ひとり旅」に、歌詞の中に出てくるひばりの代表曲「りんご追分」を曲の間にあんことして挟んだ曲。

  歌詞の中に「♪ひなびた店で いつも呑んでいた 死んだあいつがいたら」と死んだ友を思う浮かべ「りんご追分」を聞きながら「死んだあいつは どこで見てるでしょう~」と亡くなった友を思い浮かべ居酒屋で呑んでいる姿が浮かび上がってきくる歌である。

  作詞の吉田旺はちあきなおみの『喝采』でも亡くなった者への哀惜を作詞しているが、この「ひとり旅」には悲しみをこらえながらどこか明るく呑む若者の姿が描かれている詞になっている。

 「先に逝ってしまったあいつ」と呑む。ひとり旅だが、今も忘れぬあいつと歩んでいる歌だなと思えてくる。そして、ひばりと関わりあい、先に逝った多くの人々に「♪りんご花びらが 風に散ったよな~」と「りんご追分」の歌を贈っているような暖かみのある感情が湧いてくる歌唱になっている。……ひばりの歌声は優しく、じっと胸に迫ってくるものがある。

『人生一路』

Photo_20211001133501    「♪一度決めたら 二度とは変えぬ これが自分の 生きる道~」。病からの再起を賭けた昭和63年(1988)年4月の「東京ドーム公演」の締めの曲としてこの「人生一路」を歌唱した。

  「♪胸に根性の 炎を抱いて 決めた この道 まっしぐら 明日にかけよう 人生一路 花は苦労の 風に咲け~」。

 人生の生きざまを描く石本美由紀のひばりの歌にかける胸中を見事に表している作詞になっている。

『芸道一代』 

   ……「人生一路」が歌い終わる。しかし、ステージは続く。ひばりは私事ですがと断り、今日が母親の祥月命日なので「心の供養として」「芸道一代」を歌いますと話し、歌いだす。

  「♪小粒ながらもひばりの鳥は 泣いて元気に青空のぼる 麦の畑の小さな巣には わたし見ている わたし見ている 母がある 母がある~」と声をつまらせての歌唱に聴こえる。美空ひばりの芸能生活20周年の記念曲として芸の道に生きる女の心情を歌った曲である。

  「(芸道一代の)レコーディングの時、付き添っていたひばりの母は、感動の涙を頬に光らせていたと西条八十は語っていた」と筒井清忠著「西條八十」」で記している。二人三脚で芸能界を歩いてきた母:加藤喜美枝への思いを胸に沁みこませて熱唱する美空ひばりがいる。

『愛燦燦』

Photo_20211001141101  「♪愛 燦燦と この身に降って 心密かな嬉し涙を 流してたりして 人はかわいい かわいいものですね~」。

  「家族愛」をテーマに製作され、ハワイで撮影された『味の素』のCM映像のバックに流れる曲。ホリプロの若いプロデューサー岩上昭彦は「家族愛」のテーマに最も合致していると思われる美空ひばりに歌唱を希望した。「歌謡界の女王」とも呼ばれていた芸能界の大御所であり、無謀とも言えるオファーであったが、ひばりがこのオファーを受諾したため、完成したのが「愛燦燦」(ウキペディアより)。

   CM放映当初は画面にクレジットされずいわば覆面シンガー扱いだったが、声質などからすぐ承知され、発表とともに画面上でもクレジットされるようになった。

Cm    ひばりの「愛燦燦』の唄声が流れる中、荷馬車に乗った一家が、さとうきび畑を耕す姿が映り、荷馬車に乗って帰る一家を映している。『麦からビール、さとうきびから「味の素」。味の素はうまみ調味料です』とナレーションが流れ「♪人生ってうれしいものですね~」と歌が流れる。このCMをYouTubeで見ることができてうれしい限りだ。

 「愛燦燦」は 発売当時は振るわなかったが、その後ロングヒットとなり、令和元年(2019)時点ではひばりのシングル売上で歴代12位にランクインされている(日本コロムビア調べ)。

  ひばりの遺作になった『川の流れのように』と並んでテレビ・ラジオ等で多く取り上げられており、数多くの歌手によってカバーされていることもあって、ひばりの死後も代表曲のひとつとして全世代に親しまれている曲になっている(ウキペディア)。

Photo_20211001133405  「♪ああ 過去たちは 優しく睫毛に憩う 人生って 不思議なものですね ああ 未来達は 人待ち顔して微笑む 人生って 嬉しいものですね~」。

   歌い終わった美空ひばりは蔓延の笑顔を浮かべて客席に一礼して、登場した時と同じようにゆっくり歩き、上手奥の舞台袖に退場していく。

 

人生の歌を歌唱し大衆を愛した美空ひばり

  冒頭の「新宿の女」の優しい大人の歌唱は第1回の広島平和音楽祭をキッカケに体得したものだと分かってきた。さらに、15年後の第15回広島平和音楽祭では、歌うことを愛し、大衆を愛し、家族を愛し、人と共に生きてきたことを自分の人生歌として美空ひばりは歌いきっている。美空ひばりの全精力をステージで表しているといえる。退場する時の美空ひばりの笑顔が実にいい。これが美空ひばりなのだ……。

 第15回広島平和音楽祭の美空ひばりのステージは素晴らしい感動を私に与えてくれた。

                                             《夢野銀次》

≪参考資料本等≫

新井恵美子著「美空ひばりふたたび」(2008年9月、北辰堂出版発行)/「渡辺延志著朝日新聞横浜ネットコラム」(平成28年、2016年8月13日配信)/西川昭幸著「美空ひばり最後の真実」(2018年4月、株式会社さくら舎発行)/筒井清忠著「西條八十」(2005年3月、中央公論新社発行)/ウキペディアより「第1回広島平和音楽祭」「第15回広島平和音楽祭」「一本の鉛筆」「みだれ髪」「ひばりの佐渡情話」「浪曲佐渡情話」「ひとり旅〜りんご追分〜入り」「人生一路」「芸道一代」「愛燦燦」を参考。

 

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