『孤高の画家田中一村』の墓所と生誕地から雲龍寺を歩く

栃木市旭町「満福寺」…田中一村の墓所

100_0432  「以前の田中家のお墓は一村さんの父親・彌吉さんがお建てになっており、彌吉さんの父・清蔵さんと祖父・喜平さんのお墓の2基でした。しかし、父親の彌吉さんと一村さんの墓石はありませんでした。全国からお参りにお見えになる田中一村ファンのために一村さんの甥にあたる新山宏さんが今のお墓を建てられたのです」と満福寺住職長澤弘隆師は久しぶりにお会いした私に語ってくれた。

  栃木市旭町22-7にある天真言宗智山派満福寺の墓所に眠る孤高の画家田中一村のお墓が新たに建てられていた。立派な奇麗なお墓になっているのに驚いた。以前の墓所より4倍の広さになっていると云われている。

  「田中一村之墓」と刻字された趣のある自然石の墓石。背面には「平成29年9月11日田中一村没後40年新山宏建之」と刻字されている。

100_0435   右側に田中家の墓誌が建っている。

  地域雑誌「グラフ北関」との対談で「田中一村の墓」について長澤住職が語っている内容が満福寺ホームページに載っている。

  その中で、「当初は墓誌を建てるということでしたが、狭いため、私のほうで近くに空いているところがあるので、そちらに新しいお墓を作られたらどうでしょうかと提案し建てられたのが現在の墓所です」と長澤住職は話をしている。

  その墓誌には「田中家墓誌」として田中一村の祖父・清蔵夫婦、父彌吉夫婦と子の姉・喜美子、長男・孝(一村)と四人の弟と妹の名とそれぞれの戒名が記されている。田中一村の戒名は『真照孝道信士』となっている。只、曾祖父・喜平の名前が記載されていないのが気になった。

  左側には一村肖像写真と『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』と一村が詠った俳句が記された石碑が建っている。

100_0434   中野惇夫著「アダンの画帖 田中一村伝」の写真紹介欄で、「昭和30年代半ば一村が奄美の自然のスケッチに熱中していた頃のポートレート。まだ千葉時代の気負いもあり、新たな風土で闘志を燃やしていた気配が感じられる」と記されている。「俳句が記された写生帖には、やはり絵かきの句で、そのまま絵になりそうな俳句も詠まれてある」とし、同書に20句の俳句が載せられている。

  満福寺ホームページ「奄美空港近くの『あやまる岬』へ」に奄美大島を令和元年5月に訪ねた長澤住職は次のように記述している。

  「一村は奄美空港近くの「あやまる岬」にたびたびスケッチに来ていたという。有名な自撮りの自画像風画像は、この『あやまる岬』で撮ったものだと言われている。『あやまる岬』にはアダンの群落もある。代表作の一つ『アダンの浜辺』も、ここに群れ咲くアダンの写生の結実ではないか。『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』の句はここだったのだろう」。

  満福寺にある田中一村の墓所には奄美の人々から供えられた貝殻が置かれてある。その貝殻を見つめるように田中一村の自画写真と俳句が記された石碑が設置されている。思わず「田中一村の世界」を描く配置になっていることに気が付き、頷いた。

100_0430   長澤住職は前述の『グラフ北関』との対談の中で、親族から「私が守れなくなったあと、田中家のお墓はどうなりますか」という問いかけに、「一村さんが眠るお墓ですから無縁墓として片づけるわけにもいきませんので、当山の責任において永久保存します」と答えたことを語っている。

このことから長澤住職の田中一村への思いは並々なら強い決意であることを感じた。

 

田中一村生誕地の特定

100_0458   栃木市蔵の街大通りを北に向かう先に北木戸跡地の万町交番交差点がある。

   その先北関門通りを鹿沼に向けて直線道路を進むと泉町交差点がある。交差点の右側には現在の住まいを購入する際に受け渡し清算で使用した労働金庫栃木支店がある。

  Photo_20211119133602 その泉町交差点を西に左折し、70~80m行ったところが泉町8番地になっている。 田中一村の生誕地として「田中一村記念会」が特定している地域である。

   令和元年(2019)12月に「田中一村記念会(会長・大木祥三)」によって冊子「田中一村画伯の出生地を探るー父・彌吉(稲村)の調査から」が発行されている。

  田中一村の生誕地が、栃木市泉町元市長・金子益太郎の近隣で市川呉服店の北側付近が有力視されてきたが、確証はなかった。

  同書の中では、『孤高の画家として魅了している田中一村は、栃木に生まれ、栃木市満福寺に眠っている。明治41年(1908)7月22日に「栃木県下都賀郡栃木町大字平柳9番地」で誕生し、昭和52年(1977)9月11日に奄美大島の和光園近くの一軒家で69歳の生涯を終えた。一村は、彫刻家の父・田中彌吉(雅号は稲村)と母・セイの長男として生まれ、本名を孝』と紹介され、『栃木町大字平柳9番地』で誕生したことが記されている。あわせて大正3年(1914)1月28日に東京に移転するまで、5年6カ月の間、栃木で過ごしたとしているとしている。

100_0439   彫刻師であった田中一村の父・彌吉(稲村)関連の調査から「田中一村会」会長の故・長谷川建夫氏(田中彌吉の支援者であった長谷川展氏の娘婿)の資料を基礎に、東京に移転する前の田中彌吉一家の住所が「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」であったことが分かったことが記されている。

  この住所を基に元市役所職員による地番指定等の協力を得て、大字平柳になる前の堰場原(どうばはら)の地図を重ね合わせて「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」が「栃木市泉町8番地」であるとし、田中一村の生誕地を特定することが出来たことが記してある。

100_0443   生誕地と特定した付近一帯は大ぬかり沼の名残りである大杉神社から流れる堀川や「朝日弁財天」がある。西側の先の嘉右衛門町は重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けており、古い家並みの中を日光例幣使街道が通っている。通り沿いにたつ神明神社の裏手の樹木等が生誕地付近を覆い、現在の道路を含めてひっそりとした佇まいの雰囲気になっている。

  中野惇夫著「アダンの画帖・田中一村伝」に栃木の田中彌吉の家の様子を、「父弥吉は、稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻家だった。おっとりした性格で、栃木の家にいるころは、広い屋敷の周囲を全部切り払い、草を生やして、コオロギやカジカの鳴く声に独り縁側で耳を傾け、楽しむという風流人だったという」と記述されているような広い敷地であったことが想像できる地である。

  明治26年(1893)に大宮村大字今泉から転居してきた田中彌吉の祖父・喜平(彌吉の父は明治20年に亡くなっている)の生業が不明となっている。しかし、広い家や雲龍寺建立の寄付行為、および彫刻師としての彌吉(稲村)の交流人脈などから彌吉の祖父喜平は裕福な生活であったことが想像できる。

  只、この地での田中家は後日、東京に移転することから借地借家だったのではないかと推測する。

 

雲龍寺「龍の彫刻」と一村の「軍鶏」

100_0446  昭和7年(1932)の北関門通り開通に伴い御堂・水行場が東に10m曳家移転をしている雲龍寺(栃木市泉町18-8)。

  田中一村生誕地からセブンイレブンの裏の裏道を伝い、北関門通りに戻り、南へ少し行った先に雲龍寺がある。セブンイレブンの裏側通りには私が小学校から通った「川津珠算塾」があったが、今は空き地になっている。

100_0455  江戸後期から栃木町の成田山不動尊信仰の3つ講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年(1890)に成田山不動尊雲龍寺として建立されたと栃木市史には記されている。

  明治から大正にかけての雲龍寺境内は、明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で植松義典の弟子であり記者でもあった柴田博陽が、「参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わい」と記しているように特別な賑わいを見せていたと云われている。

  現在の境内はひっそりとしており、境内には明治7年に宇都宮から泉町が購入した山車人形「諫鼓鳥」の収蔵庫が建っている。

100_0453  明治29年(1896)に雲龍寺建立由来の石碑がその収蔵庫の裏側に建っている。石碑の背面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この石碑に刻まれている「田中彌吉」が田中一村の父親なのかどうか検証されてきた。

  前著「田中一村画伯の出生地を探る」の中では、雲龍寺上棟式当時、彌吉は6歳と幼少であった。しかし父・清蔵が亡くなっており彌吉が戸主になっているが、実際は彌吉祖父・喜平が家政を仕切っていたことになる。他に明治24年の本堂欄間には「大宮村大字今泉田中弥吉」と栃木町に転居する前の住所が書かれてあること。明治28年制作された水行場の北側欄間に「発起人栃木町泉町田中弥吉」と書かれてある。このことから雲龍寺境内石碑に刻まれている田中彌吉(弥吉)は田中一村の父親であると断定をしている。

100_0451   雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物は田中彌吉(稲村)の師匠筋になる江戸彫・後藤流二代目渡辺喜平治正信の作になっている。

  田中彌吉(稲村)の実際の師匠は明治44年(1911)に栃木から東京に転住していった三代目渡辺喜平治房吉であったのではないかと推定されている。

  雲龍寺にある二代目渡辺喜平治正信作の龍の彫り物は田中一村が描いた力強い「軍鶏」に似ていると個人的に思っている。

  大正3年、5歳6カ月で東京に移転していった田中一村が雲龍寺にある龍の彫刻を父・彌吉や姉・喜美子に連れられて何回も観ていたことによるのでないかと思える。師匠筋の彫り物を父・彌吉は一村に見せている筈であるからだ。

 Photo_20211119133601  昭和10年の彌吉死亡によって一村は納骨のため満福寺を訪れ、その時に昭和12年4月の栃木市制記念祭りの際に泉町山車人形「諫鼓鳥」を観ていたのではないかと想像する。そして昭和13年に東京から千葉に移転していく。

  戦後昭和22年から昭和33年にかけて千葉から奄美大島に移転する間に一村は「軍鶏」を多数(スケッチを除いて13点、大矢鞆音著「評伝・田中一村」より)描いていくようになる。

100_0461  「アダンの画帖 田中一村伝」に載っていた田中一村「軍鶏の素描」の絵を最初に見た時、何かに似ていると感じた。そうだ、栃木の寺社に掲げられてある「龍の彫刻」に似ていると…。

  睨み見つける目、両脚を踏ん張って威嚇する姿勢は「龍の彫刻」の鬼気迫る姿に似ていると感じたのだ。

  ネットで2021年1月~ 2月末開催の千葉美術館「田中一村」展示会の中の中で、「軍鶏」の題画賛に『荘子』の「木鶏」の故事が記されている作品があると紹介されている。具体的な内容を読むことはできないが、田中一村が軍鶏を描くにあたっての思いがあることが伺えた。

  横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」と安岡正篤に打電したというエピソードで有名だが、木鶏(もっけい)とは、荘子に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさすことを意味するものとしている。

  戦後の千葉寺在住時に南画からの脱却をはかり、写生に取り組むが、相次ぐ公募の落選となり画壇から孤立を深めていく時、一村は力強い軍鶏を描き始め、昭和33年に奄美に飛び立っていく。

  それは幼いころ父親や姉に連れられて度々参拝の際に見た雲龍寺にある鬼気せまる「龍の彫刻」の眼と地元の泉町山車人形「諌鼓鳥」の鋭い口ばしを思い浮かべて描いていったのではないかと推測する。

  孤高の画家としての己を鼓吹することから写生を基礎にした「軍鶏」を描いた一村。このことが事実ならば、軍鶏の絵には「田中一村が生まれ、お墓のある栃木のまち」だけではなく、雲龍寺「龍の彫刻」と山車人形「諫鼓鳥」が影響を与え、力強さを表していったのではないかと思える。

  「栃木のまち」と田中一村の「軍鶏の絵」がよりつながりを見せてくるような気がしてくる。

                              《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

中野惇夫・南日本新聞社著「アダンの画帖 田中一村伝」(1995年4月、小学館発行)/大矢鞆音著「評伝田中一村」(平成30年7月、生活の友社発行)/満福寺ホームページ「当山に眠る孤高の日本画家 田中一村」・「インタビューグラフ北関、一村の菩提寺・満福寺住職に聞く~清貧孤高の日本画家◎田中一村」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繫昌記」(明治32年11月発行)/「田中一村画伯の出生地を探る―父・彌吉(稲村)の調査から―」(令和元年12月、田中一村記念会発行)

 

 

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令和3年の秋―我が家の菜園でイモ堀りに励む

100_0327 令和3年の10月30日。抜けるような秋の青空。「イモを掘るぞ」と己を鼓吹してサツマイモの畝に向かう。

 茎をハサミで切り、シャベルで回りを掘り始める。

 出てきた紅あずま。

 傷をつけずに土を払い、「ヨイショ」とサツマイモ株を抜きとる。

100_0325   …できている。あまり大きすぎなく、形のよいサツマイだ。後は味はどうなのか?

 去年のサツマイモは塊になっていたのがあったが、今年はない。

 紅あずま30本、畝2列で植えた。植える前に苗を3日間水に浸していた。それが良かったのか、苗はしっかりと根付いてくれた。

 もう一つ畝のサツマイモは11月の第2週に収穫していく

100_0332  9本の種イモを植えた「サトイモ」。それに妻が生ごみとして鉢植えに棄て芽がでてきたサトイモの苗。合わせて10本が成っている畝。

 スコップを使い4株のサトイモを掘り出す。

 …出来ている。しかし、小さい。

 泥を払い、親イモと子イモをばらしながら、孫イモがあまりできていない。やはり早かったのかな…?

 残り6本は11月後半に3本堀り、後は正月雑煮用に掘り出す予定。

100_0337  収穫したサツマイモとサトイモを秋の日差しの下に干す。

 ジャガイモは日陰干しだが、サツマイモとサトイモは陽に干して乾かす。

 カビが生えるから。…いいのかな?

 当分は、サツマイモとサトイモを毎日食べていくことになる。

100_0329  ポン太のおでこにできた傷、動物病院でレントゲン撮影をしてもらった。 

 心配した腫瘍でなく切り傷だった。後日、銀太がポン太のおでこに猫パンチをしているの見る。

 …これだな。銀太の爪がポン太のおでこに食い込んで傷になったのだと分かる。

 病院で体重を計ったら8.15キロになっていたポン太。来年4月には10歳となるが、糖尿を注意していく必要がある。

100_0339  縁側の前の花壇を妻が使用することになった。そのため、昨年のチューリップの50個をどこに植えるかと考えた。

 駐車場の南側に60cm幅の花壇を作った。石と硬い土壌でできている駐車場を掘り起こす作業は3日間かかった。

 作りながら、花を植えるのもがいいが、庭木を植えれば、菜園との区切りになるなと思えてきた。

 今年は、チューリップを植えるとするが、来年はまた考えていくことにする。

                      《夢野銀次》

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 令和3年10月―柿・我が家の猫・堂場舜一著「チェンジ」

100_0269  今年の10月も暑い日続いている。昨日(7日)は幾分涼しかったが、今日も30度近く暑い。地球温暖化というよりシナリオ作家の倉本聰が言うように「地球熱帯化」が進んでいるような気がする。

 ……今年も我が家の次郎柿に実がなった。去年より少しだけ多めに実が成っている。しかし、一昨年のように食べきれないほど柿の実はなっていないし、元気が感じられない。

 どうしてなのか?前々から気に病んでいた。

100_0287  夏樹静子の「検事霞夕子」を読んでいると、北海道釧路地検・帯広支部の庁舎から検事霞夕子が、「自宅(東京)の寺の庫裡の裏に一本ある柿の木がたわわに実をつけて、西陽に輝いているありさまが、キーボードを叩いている夕子の目に浮かぶ。小ぶりな実だがなかなか甘く、でも土の養分のせいでか一年おきにしか実らない。今年は収穫の年に当たっていたのだ」と、婿養子の住職の夫吉達から届いた柿と手紙に思いをよせる描写がでてきた。

 柿は一年おきに実をなすのか?この文章を読んで、一年置きに柿の木がたくさん実るのは我が家だけではないことを知り、少し安心した。

 元々、我が家の土地の土壌は良くないと思っている。菜園を耕すたびに小石を拾って10年過ごしてきた。それでも今年は柿の木や杏の木に肥料養分を与えて果実の収穫をしていきたいと思っている。

100_0277  5月の連休の時に植えた茄子。7月、8月とあまり実が成らず,お仕舞いにしようと思っていたら9月半ばを過ぎてから茄子に花が咲き始め実が成って来た。20cm下に元肥を施していたが、茄子の根が肥料成分を吸収しだして、それで実が成り始めたのか?

 去年も同じく9月半ば過ぎからたくさんの実が成りだしている。解らない。以前は7月、8月と毎日茄子を食べたような気がするのだが……?

100_0283  14歳半と高齢の猫になっている「銀太」。

 最近、夜中に唸るような泣き方をするようになった。動物病院の先生は「昼間寝ていて夜中にそういう泣き方をするならば認知症かもしれない」と仰ってくださった。

 ネットで検索すると「10歳以上の高齢猫は、聴力や視力が急激に老化したことによる不安感から、夜泣きをしてしまいがちです。特に認知症や痴呆症にかかっている猫は夜泣きをしやすく、その声は大きく唸るように響き渡るので、近所迷惑になることも。もし愛猫が深夜に一点を見つめながら泣き続けるときには、認知症や痴呆症の疑いがあります。早めに動物病院を受診するようにしましょう」と記載されていた。

 高齢の猫は認知症になること。それも目や耳の衰えから不安になり唸るような泣きをすることを初めて知った。今まで飼っていた猫のほとんどは9歳以下で亡くなっていたから高齢の猫については無知だった。幸い我が家と隣近所とは家屋が離れており夜中に泣いても近所迷惑にはならないということで気持ちは楽でもある。

 夜中に泣いている時は優しく抱き寄せて添い寝をする。薬で治療するか、獣医と相談していくことにする。加齢は私たち夫婦だけではないということなのだ。

100_0286  9歳半の雄猫の「ポンタ」は体重7.85キロと大きい猫だ。

 2か月前におでこから膿が出ていたので動物病院で診てもらった。切り傷だろうという診たてで化膿止め注射を打った。しかし、その後も膿が出る。昨日、動物病院で診てもらったが、切り傷ではなく、おでこの下が空洞になっていることが解った。口内炎からくるがん細胞が炎症をおこして鼻を伝わりおでこに感染している可能性がでてきたのかもしれない。しかし、はっきりとはまだ分からないと動物病院の先生は言った。とりあえず2週間効く化膿止め注射を打ち、2週間後再度化膿止め注射を打ち、がん検査依頼を行い治療を施していくということにした。

 私が膀胱がん,食道がん、下咽頭がんで経過観察中であるが、我が家の猫は歴代9歳の壁にぶち当たってきた。これを乗り越えてほしいと願う私だが、ポン太については成り行きにまかせて動物病院通いをしていくつもりでいる。

Photo_20211008162201  警察小説を数多く書いている堂場舜一の作品の中で、犯罪被害者の支援にあたる「警視庁犯罪被害者支援」のシリーズとして8作目が講談社文庫書下ろし文庫本として2021年8月に「チェンジ」という題名で発刊されている文庫本を読んだ。

 この小説の中で私が住んでいる栃木市がでてくるので一味違っておもしろく読んだ。自分が住んでいる栃木市の街並みをプロの作家がどういう風に描写しているのか、興味をもって読んだ。

 主人公の警視庁被害者支援課の村野秋生が病欠してる捜査二課の八島勝が実家にいる栃木市を尋ね,訊き

Pa2100511  「栃木県栃木市。JRと東武線が乗り入れるこの駅に、村野は昼過ぎに降り立った。栃木市は、市街地に古い蔵が多くあり、それが観光資源にもなっているようだ。駅の北口を出ると、高い建物はあまりなく、広々と空が開けている」。

 駅前の風景は確かにこの通りだ。つづいて八島を話し合う場所の巴波川沿いが次のように記されている。

Pc2500911  「古めかしいデザインの橋を渡ると、その先は遊歩道のようになっている。石畳の道路で、川沿いには柳の木と小さな灯籠。細い川を、遊覧船がゆっくり行くのが見える。こういう川が流れる街は風情があるものだ、と村野は感心した。一方で、急にリアリティのない世界に入りこんでしまった戸惑いを感じる。観光地というのはこういうものだろうが……川の反対側には普通に商店が立ち並んでいて、観光客らしき人たちがゆっくりと歩いている。しかし,『賑わっている』ほどの人出ではないので、川の方を向いて話していれば目立たなく、誰にも話しを聞かれないはずだ」。

 「幸来橋」から巴波川沿いの描写になっているが、風情ある街だとしながら賑わっていないと記すなど、堂場舜一は今の栃木の街を見つめて感覚的に描写をしている。さすがの眼力だと感心をした。

100_0281  10月中頃から11月にかけて「サツマイモ」と「サトイモ」の収穫を行う。

 あわせて、下咽頭がんのスコープでの検査と内視鏡による食道がんの検査が控えている。

 先月の9月17日に膀胱がんの3回目の再発で内視鏡による手術を受け、一週間入院した。その時、病室で「美空ひばりの第15回広島平和音楽祭」をYouTubeで観て感激した。退院後に「銀次のブログ」に「第15回広島平和音楽祭の美空ひばりのステージ」を描いた。一度ブログに描きたかった人だったのだ。

 9月1日に73歳を迎えた。歴史散策と現地学習、家庭菜園、栃木での日々のくらしを「銀次のブログ」に描きながらがんとむきあって生きていくつもりでいる。

                   《夢野銀次》

≪引用書籍本≫

夏樹静子著「検事霞夕子 風極の岬」(2004年4月新潮社発行)/堂場瞬一著「警視庁犯罪被害者支援課8 チェンジ」(2021年8月講談社文庫発行)

 

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美空ひばりの笑顔-広島平和音楽祭のステージ

Photo_20211001133301  「♪バカだな バカだな だまされちゃって 夜が冷たい 新宿の女~」(「新宿の女」石坂まさを作詞作曲)。

 YouTubeで美空ひばりが新宿コマ劇場で歌う「新宿の女」を観聴きすることができた。藤圭子の怨念のこもった突き放す歌ではなく、「だまされちゃって」と笑顔で歌うひばりの歌声の中から、「また騙されちゃったの。でも生きていくわよ」と歌う夜の新宿で生きる「強さを内包した優しく可愛いく包み込む大人の女」の姿が浮かびあがってきた。……優しい眼差しが印象的な画像になっている。

   この「ひばりの大人の優しさ」はどこから生まれてくるのだろうか?舞台から見える新宿コマ劇場に来てくれている観客に向けている笑顔だけだったのか…?

 

第1回広島平和音楽祭『一本の鉛筆』 

Photo_20211001133302   『戦争中、幼かった私はあの戦争の怖ろしさを忘れることはできません。これから二度とあの怖ろしい戦争が起らないよう、皆様と一緒に祈りたいと思います。いばらの道が続こうと平和のためにわれ歌う』と舞台から語りかけ、美空ひばりは『一本の鉛筆』の詞を朗読し、歌いだす。

  昭49年(1974)8月9日に「音楽で平和の心を呼び戻そう」という広島テレビ局企画で開催された第1回広島平和音楽祭(実行委員長古賀政男)。作詞松山善三、作曲佐藤勝による広島の原爆をモチーフにした歌『一本の鉛筆』。松山善三は、この「一本の鉛筆」を美空ひばりさんに歌ってほしいと要望した。

 このことを聞いたひばりは、「この曲を歌うことこそ今の私を生かす道なのだ」と考え、広島平和音楽祭への参加を自らの意志で決めた(新井恵美子著「美空ひばりふたたび」より)。

Photo_20211003053401    平成28年(2016)8月13日配信の朝日新聞ネットコラムに、一本の鉛筆についてこう記されている。「美空ひばりの数多い持ち歌の中でも一見異質な存在の歌だが、ひばりは自選の10曲の6番目に入れているなど大事な歌としていた」。

 この中で自選10曲と記されているが、…ひばり自選10曲とは何か?ネットで検索したが、そのことを表した資料は見当たらなかった。……気になる「ひばり自選10曲」でもある。しかし、何よりもひばりにとり特別な思いのある大事な歌であることには間違いがない。

 この「一本の鉛筆」をひばりの反戦歌であると指摘する人がいる。しかし、私にはひばりが語っているように「戦争が起らないよう平和への祈りの歌」「戦争は嫌だ」と素直に訴えている歌だと思えている。

1  第1回の広島平和音楽祭が開かれた昭和49年(1974)はひばりの歌手人生の転換期だったと言われている。昭和39年(1964)の「柔」、昭和41年(1966)の「悲しい酒」と続いたヒット曲が昭和42年(1967)の「真赤な太陽」を最後に途絶えていた。その一方で前座で歌っていた弟が恐喝などで繰り返し逮捕され、暴力団追放の動きが高まった。昭和48年(1973)ひばりのショーは公共施設の使用を拒否され、紅白歌合戦にも落選,マスコミによるバッシングが続いていた。

 さらには「広島平和音楽祭」に美空ひばりが参加することに、被爆者団体は「暴力団に関係あるひばりに平和の歌なぞ歌ってほしくない」と言いだした。しかし、古賀政男と松山善三は怒った。「この催しは世界に平和を訴える音楽祭である。出場する歌手はどこへ出しても恥ずかしくない実力の持ち主でなければならず、美空ひばりはその点、どうしても欠かせない歌手である」と古賀政男は主張した。歌の実力は暴力団云々とは無関係だと言った。松山善三は「一本の鉛筆だからこそ、平和の心を伝えることが出来るのだ。一本の鉛筆は鉄砲玉より強いのだ」と主張した。しかしそれでも収まらない被爆者団体に「ひばりを推薦したのは私だ。ひばりの平和への思いの強さを聞いてくれ。ひばりはノーギャラで歌うと言っているのだ」と言い放す古賀政男の説明でようやく団体は折れた(新井恵美子著「美空ひばりふたたび」より)。

 「♪あなたに 聞いてもらいたい あなたに読んでもらいたい あなたに歌ってもらいたい あなたに信じてもらいたい 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く~」とひばりにとって公共施設から締め出されて以来、一年半ぶりに公共施設の会場である広島県立体育館にて「一本の鉛筆」を熱唱をした。

  すでにこの時、美空ひばりは東映の専属契約の打ち切りにともない165本の映画出演から芝居と歌の舞台公演「舞台人」として活動していくという方向転換をしていた。そして、歌への思いから、この第一回広島音楽祭を機会に、NHKやマスコミなどとの対決姿勢を改めていくことになる。

Photo_20211001133406   昭和39年(1964)川口松太郎作「女の花道」を皮切りに新宿コマ、梅田コマ、名古屋御園座、明治座を中心に一か月歌と芝居の舞台公演としての活動を主軸に展開を始めていた。

  「(舞台女優として)水谷八重子、山田五十鈴、杉村春子らの大女優のあとを継げるのは、歌が終わって転身したときの美空ひばりしかいないと川口松太郎は語っていた」と西川招平は自著「美空ひばり最後の真実」で川口松太郎が舞台女優としての美空ひばりを高く評価をしていたことを記している。

  映画で培われた演技を舞台女優として直に観客に接していく。そこには観客大衆に対する謙虚な姿勢が求められていた。新井恵美子は「美空ひばりふたたび」の中で、「ひばりの歌が変わるのはこの時(第1回広島平和音楽祭)からだった。歌のうまさは変わらないが、ギラギラした光沢から渋い深みを見せる魅力が増した。バッシングによる人の世の裏を知った大人の心がひばりを変えたのかもししれない」と美空ひばりの歌唱が変わってきていたことを記している。

 広島平和音楽祭への参加は、「一本の鉛筆」を歌うことから「大人の心をもった歌唱」として、大衆と歩むという謙虚な美空ひばりを指し示した意義深いステージになったのではないかと思えてくる。

 

第15回広島平和音楽祭『一本の鉛筆』…愛する人たちに贈る歌

Photo_20211001133401   「♪あなたに  聞いてもらいたい あなたに  読んでもらいたい~」とステージに登場した白いドレス姿の美空ひばりが、第一回広島平和音楽祭の時よりさらに声高らかに会場一杯に響くように歌いだす「一本の鉛筆」。

  第1回の広島平和音楽祭に続き昭和63年(1988)7月29日の第15回広島平和音楽祭に出演し、歌い上げる美空ひばり。YouTubeでこのステージを観聴きすることができた。

  この年、昭和63年の4月21日に「東京ドーム」にて病からの復活コンサートを終え、全国にお礼の公演を行っていた。しかし、ひばりの体調は悪くなっていた。「もう一度『一本の鉛筆』が歌いたい。あの広島で歌いたい」という思いで飛行機に乗った。たまたま同乗していた王貞治氏は体調が相当悪いとお見受けしたと後日語っている。この時すでに歩くのがやっとで段差をひとりで上ることさえ困難な状況だっと云われている。

 翌年の平成元年(1989)の6月24日美空ひばりは亡くなる。享年52歳。

  「♪一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く~」

Photo_20211003063701    音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという(ウキペディアより)。

 新村恵美子は「美空ひばりふたたび」の中で次のように記している。

「15年目の『一本の鉛筆』は以前のものとは全く別のものになっていた。相次ぐ肉親との死別、母、弟二人との別れ、大きな病気、それらはひばりを別人のような深みある人にさせていた。そのせいだろうか。この時の彼女の歌う『一本の鉛筆』は心に沁みて大きな感動を与えるのだった」

  この第15広島平和音楽祭における美空ひばりのステージはYouTubeで「一本の鉛筆」から「愛燦燦」まで全7曲を聴き観ることができる。完璧に歌いきっている大人の優しを内包した美空ひばりがいる。「人にやさしくする心、平和を大切に思う心」として『一本の鉛筆』をはじめとした全7曲を広島平和音楽祭のステージから愛を込めたメッセージとして歌いあげている。他のどのステージよりも美空ひばりという一大歌手の凝縮した素晴らしいステージになっている。

 『一本の鉛筆』は一大ブームにならないが、いつまでも歌い継がれていく名曲になっていくと思える。

《第15回広島平和音楽祭で美空ひばりが歌った歌曲名》

〇『一本の鉛筆』……昭和49年(1974)10月1日リリース。

          作詞:松山善三 作曲:佐藤勝)

〇『みだれ髪』……昭和52年(1987)12月10日リリース。

         作詞:星野哲郎 作曲:船村徹

〇『ひばりの佐渡情話』……昭和37年(1962)10月5日リリース。

         作詞:西沢爽 作曲:船村徹

〇『ひとり旅〜りんご追分〜入り』……昭和52年(1977)11月1日リリ

         ース。作詞:吉田旺、作曲:浜圭介

         (リンゴ追分)作詞:小沢不二夫  作曲:米山正夫

〇『人生一路』……昭和45年(1970)1月10日リリース。

         作詞:石本美由起 作曲:かとう哲也

〇『芸道一代』……昭和42年(1967)9月25日リリース。

         作詞:西條八十  作曲:山本丈晴

〇『愛燦燦』……昭和61年(1986)5月29日リリース。

          作詞、作曲:小椋佳

『みだれ髪』・『ひばりの佐渡情話』

Photo_20211001135701   「♪暗(くら)や涯なや  塩屋の岬 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぼっちに しないでおくれ~」。長期入院、病からの復帰第一作としてレコーディングした記念の歌として紹介して歌う「みだれ髪」。

 「ひばりは高音(裏声)にいいものを持っていると」と作曲船村徹は『哀愁波止場』より半音高い曲で、サビで裏声になるようキーの設定をしている曲とした。作詞の星野哲郎は美空ひばりを塩屋岬の立つ灯台をイメージして作詞したと云われている。ひばりの歌声が私たち心を照らす明かりを「愛の光」として作詞したのではないかと思える。

   同じ作曲の船村徹の「哀愁波止場」がある。しかし、「ひばりの佐渡情話」を東京ドーム公演同様に広島平和音楽祭で歌い、何故か「哀愁波止場」を東京ドーム公演でもひばりは歌ってはいない。何故選曲しなかったのだろうか?

  出だしの「♪佐渡の~」の高音での長い節回しで歌う「ひばり佐渡情話」は浪花節調に聞こえてくる。「♪ 島の娘は なじょして泣いた 恋はつらいと いうて泣いた~」余韻を残しての歌声に哀切を感じてくる。

  昭和37年(1962)10月公開の東映映画『ひばりの佐渡情話』(監督渡辺邦男)の主題歌としてリリースされている。中学生だった私はこの映画を観ているが、主題歌の「ひばりの佐渡情話」が印象に残り、映画のストーリーはまったく忘れている作品である。只、YouTubeではひばりが嵐の中を小舟で柏崎に向かうシーンの一部を観ることができる。 

Sim   むしろ「〽佐渡へ 佐渡へと草木のなびく 佐渡はすみよいか 惚れちゃならない他国の人~』と佐渡の荒涼とした情景から始まる浪花節「佐渡情話」が思い浮かんでくる。

  昭和初期に浪曲「佐渡情話」をレコード化して一大ブームをおこした浪曲師寿々木米若。私が子供のころ「佐渡へ佐渡へと草木もなびく 佐渡はすみよいか」など自然に口ずさんでいた浪曲詞である。

  恋こがれたオミツは柏崎のゴサクに会うため佐渡島から柏崎にたらい舟で渡るが、恋敵シチノスケにたらい舟が壊され会えなくなったオミツは狂う。しかし、柏崎から訪れたゴサクがオミツを治し結ばれる。佐渡島に伝わる島の娘と他国の男との悲恋の民話を寿々木米若は民謡の佐渡おけさを元に浪曲「佐渡情話」を口演し、米若の出世作とした。

  「ひばりの佐渡情話」は浪曲「佐渡情話」の「たらい舟」で荒海を柏崎に向かうオミツ、そして恋焦がれた狂うオミツの悲しさを「♪佐渡の~ 島の娘はなじょして泣いた」と思い浮かべて聴くと美空ひばりの生きてきた姿とオーバーラップし、胸に迫ってくるものがある。……ステージでの美空ひばりは自分の人生歌として歌っている。「哀愁波止場」ではなく「ひばりの佐渡情話」を選曲したのは「たらい舟」で人生の荒海を渡ってきた自分自身を投影して歌ったものと思えてきた。

『ひとり旅~りんご追分~入り』

Photo_20211001133402  「♪見知らぬ町の 古い居酒屋で 柳葉魚(ししゃも)サカナに ひとり呑んでいます~」と軽いタッチのリズムで歌う「ひとり旅」。店に流れる「追分りんご」から「♪りんごの花びらが 風に散ったような~」と「りんご追分」が挿入される。面白い、いい歌だと初めて聴いた私は、この歌を気に入った。

  『ひとり旅〜りんご追分〜入り』は佐良直美が昭和51年(1976)に発表した「ひとり旅」に、歌詞の中に出てくるひばりの代表曲「りんご追分」を曲の間にあんことして挟んだ曲。

  歌詞の中に「♪ひなびた店で いつも呑んでいた 死んだあいつがいたら」と死んだ友を思う浮かべ「りんご追分」を聞きながら「死んだあいつは どこで見てるでしょう~」と亡くなった友を思い浮かべ居酒屋で呑んでいる姿が浮かび上がってきくる歌である。

  作詞の吉田旺はちあきなおみの『喝采』でも亡くなった者への哀惜を作詞しているが、この「ひとり旅」には悲しみをこらえながらどこか明るく呑む若者の姿が描かれている詞になっている。

 「先に逝ってしまったあいつ」と呑む。ひとり旅だが、今も忘れぬあいつと歩んでいる歌だなと思えてくる。そして、ひばりと関わりあい、先に逝った多くの人々に「♪りんご花びらが 風に散ったよな~」と「りんご追分」の歌を贈っているような暖かみのある感情が湧いてくる歌唱になっている。……ひばりの歌声は優しく、じっと胸に迫ってくるものがある。

『人生一路』

Photo_20211001133501    「♪一度決めたら 二度とは変えぬ これが自分の 生きる道~」。病からの再起を賭けた昭和63年(1988)年4月の「東京ドーム公演」の締めの曲としてこの「人生一路」を歌唱した。

  「♪胸に根性の 炎を抱いて 決めた この道 まっしぐら 明日にかけよう 人生一路 花は苦労の 風に咲け~」。

 人生の生きざまを描く石本美由紀のひばりの歌にかける胸中を見事に表している作詞になっている。

『芸道一代』 

   ……「人生一路」が歌い終わる。しかし、ステージは続く。ひばりは私事ですがと断り、今日が母親の祥月命日なので「心の供養として」「芸道一代」を歌いますと話し、歌いだす。

  「♪小粒ながらもひばりの鳥は 泣いて元気に青空のぼる 麦の畑の小さな巣には わたし見ている わたし見ている 母がある 母がある~」と声をつまらせての歌唱に聴こえる。美空ひばりの芸能生活20周年の記念曲として芸の道に生きる女の心情を歌った曲である。

  「(芸道一代の)レコーディングの時、付き添っていたひばりの母は、感動の涙を頬に光らせていたと西条八十は語っていた」と筒井清忠著「西條八十」」で記している。二人三脚で芸能界を歩いてきた母:加藤喜美枝への思いを胸に沁みこませて熱唱する美空ひばりがいる。

『愛燦燦』

Photo_20211001141101  「♪愛 燦燦と この身に降って 心密かな嬉し涙を 流してたりして 人はかわいい かわいいものですね~」。

  「家族愛」をテーマに製作され、ハワイで撮影された『味の素』のCM映像のバックに流れる曲。ホリプロの若いプロデューサー岩上昭彦は「家族愛」のテーマに最も合致していると思われる美空ひばりに歌唱を希望した。「歌謡界の女王」とも呼ばれていた芸能界の大御所であり、無謀とも言えるオファーであったが、ひばりがこのオファーを受諾したため、完成したのが「愛燦燦」(ウキペディアより)。

   CM放映当初は画面にクレジットされずいわば覆面シンガー扱いだったが、声質などからすぐ承知され、発表とともに画面上でもクレジットされるようになった。

Cm    ひばりの「愛燦燦』の唄声が流れる中、荷馬車に乗った一家が、さとうきび畑を耕す姿が映り、荷馬車に乗って帰る一家を映している。『麦からビール、さとうきびから「味の素」。味の素はうまみ調味料です』とナレーションが流れ「♪人生ってうれしいものですね~」と歌が流れる。このCMをYouTubeで見ることができてうれしい限りだ。

 「愛燦燦」は 発売当時は振るわなかったが、その後ロングヒットとなり、令和元年(2019)時点ではひばりのシングル売上で歴代12位にランクインされている(日本コロムビア調べ)。

  ひばりの遺作になった『川の流れのように』と並んでテレビ・ラジオ等で多く取り上げられており、数多くの歌手によってカバーされていることもあって、ひばりの死後も代表曲のひとつとして全世代に親しまれている曲になっている(ウキペディア)。

Photo_20211001133405  「♪ああ 過去たちは 優しく睫毛に憩う 人生って 不思議なものですね ああ 未来達は 人待ち顔して微笑む 人生って 嬉しいものですね~」。

   歌い終わった美空ひばりは蔓延の笑顔を浮かべて客席に一礼して、登場した時と同じようにゆっくり歩き、上手奥の舞台袖に退場していく。

 

人生の歌を歌唱し大衆を愛した美空ひばり

  冒頭の「新宿の女」の優しい大人の歌唱は第1回の広島平和音楽祭をキッカケに体得したものだと分かってきた。さらに、15年後の第15回広島平和音楽祭では、歌うことを愛し、大衆を愛し、家族を愛し、人と共に生きてきたことを自分の人生歌として美空ひばりは歌いきっている。美空ひばりの全精力をステージで表しているといえる。退場する時の美空ひばりの笑顔が実にいい。これが美空ひばりなのだ……。

 第15回広島平和音楽祭の美空ひばりのステージは素晴らしい感動を私に与えてくれた。

                                             《夢野銀次》

≪参考資料本等≫

新井恵美子著「美空ひばりふたたび」(2008年9月、北辰堂出版発行)/「渡辺延志著朝日新聞横浜ネットコラム」(平成28年、2016年8月13日配信)/西川昭幸著「美空ひばり最後の真実」(2018年4月、株式会社さくら舎発行)/筒井清忠著「西條八十」(2005年3月、中央公論新社発行)/ウキペディアより「第1回広島平和音楽祭」「第15回広島平和音楽祭」「一本の鉛筆」「みだれ髪」「ひばりの佐渡情話」「浪曲佐渡情話」「ひとり旅〜りんご追分〜入り」「人生一路」「芸道一代」「愛燦燦」を参考。

 

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テレビドラマ「なつぞら」―「戦争孤児」生きること・兄妹への思い

戦争孤児として生きる奥原なつ

Photo_20210912141103   見晴らしの良い傾斜した十勝の丘から写生をしている奥原なつ(広瀬すず)。

  なつのナレーションが始まる。

  「ここは私が育った北海道の十勝です。私の大好きな風景に今日も風が吹いています。Photo_20210912141303 私は子供のころからたった一枚の絵からアニメーションの世界と出会うことになります。

   そして、18の夏。そのなつかしい人が突然私の前に現れました。私はその手に救われたことがあります。昭和20年3月、東京に大空襲があった日、私は逃げ惑う人の波に流され家族を見失いました。避難所の学校にとにかく向かいました。そこかしこに無数の焼夷弾が降っていました。その時、だれかが私の手をつかんだのです。私はその手に導かれたのです。それで生き延びたのです。だけどその日から私の人生は一転しました。

Photo_20210912141201   「俺が誰だか分かるか?」と青年の問いかけに「…ノブさん?ずっとずっと会いたかった」と応える。逃げ惑うなつの手をつかみ、ともにプールに飛びこみ,なつを助けた幼馴染の佐々岡信哉(工藤阿須可)が東京から十勝になつに会いにやってきたのだ。

  戦死した父と空襲で亡くしてしまった母。3人の兄妹で孤児になったなつは父の戦友、柴田剛男(藤木直人)につれられ北海道十勝「柴田牧場」の柴田家で育てられ、酪農をしながら農業高校3年になっていた。

Photo_20210912141001  昭和12年(1937)に東京日本橋料理屋に生まれ、戦争で両親を亡くし、父の戦友に引き取られた戦争孤児の少女・奥原なつが、北海道・十勝で広大な大自然と開拓者精神溢れる強く優しい大人たちに囲まれてたくましく成長する。

  上京後、草創期の日本アニメの世界でアニメーターを目指しながら生き別れになっていた兄妹と再会していく家族への思いの姿を描いていくNHK連続テレビ小説「なつぞら」。

  大森寿美男のオリジナル作品としての「なつぞら」は、平成30年から令和元年(2019)に変わっていった上半期に連続テレビ小説第100作の記念作品として放映された。獨協医大病院の病室から私はこの連続ドラマを朝、昼と2回、毎日観て過ごしていた。

  昭和12年(1937)年8月15日生まれのヒロイン、奥原なつ(子役・粟野咲莉)は兄妹3人で戦争孤児として「浮浪児狩り」に遭い、孤児院に収容される。そこで亡き父の戦友・柴田剛男に引き取られ北海道十勝の酪農家の柴田牧場に引き取られ育つ。妹の千遥は親戚に預けられるが、その後行方不明となる。施設に残った兄の咲太郎(子役・渡邉蒼)は施設を抜け出し、闇市、新宿などで暮らしていく。

  ちなみに「悲しき口笛」「東京キッド」などで戦災孤児の世界を歌や映画で登場したデビュウー当時の美空ひばりも昭和12年生まれであった。横浜の空襲を体験した美空ひばりは第1回、第15回広島平和音楽祭などに参加し、「一本の鉛筆」などを唄い、平和への思いを歌に託していた。とりわけ亡くなる前年の昭和63年第15回広島平和音楽祭での「一本の鉛筆」の歌唱は凄まじい気迫に満ちた声で歌いあげているのをYouTubeで観ることができている。

Photo_20210912141101  アジアや太平洋で膨大な犠牲者を出した戦争。軍人や民間人あわせて310万もの人が亡くなった。戦争末期には、日本各地が空襲により大きな被害を受け、その結果、多くの子どもたちが親を失い、孤児になった。

  本庄豊著「戦争孤児」には、「戦災孤児」「原爆孤児」「引揚孤児・残留孤児」「沖縄の戦場孤児」「混血孤児」とに分け、総称して戦争孤児として次のように記されている。

  「戦争孤児は、そのころ『浮浪児』と呼ばれていた。孤児にとって『駅』は特別な場所だった。東京・上野駅や大阪・梅田駅などには地下道があり、空襲で被災した少年少女たちが夜露をしのぐために利用した。それらの駅は中国大陸からの引揚げ孤児たちの終着駅でもあった」。

 Photo_20210912141403 そして、「過酷な状況だからこそ、本能は『生きる』ことを命じた。生きていくためには食わねばならぬ。食べ物を得るためには、闇市内外を駈けずり回った」。「厚生省の昭和23年(1948)8月1日の『全国孤児一斉調査』によれば、沖縄県を除いて全国合計で、孤児数は12万3512人であり、そのうち約1割にあたる1万2202人が孤児院に入っていた。ただ、この調査は戦後の混乱期のものであり、実際にはこの数倍の孤児がいたと考えられている。養子縁組などにより孤児で亡くなった子ども、この統計には入っていないなど、戦争孤児の全体像を把握することは今日もできていないのが現状だ」と記している。

Photo_20210912141402   当時の新聞には「浮浪児たちは地下道や高架下などをねぐらにして、物乞い、靴磨き、くず拾い、闇市で『使い』『残飯あさり』をして食いつないだ」と言われる。

  闇市(アメ横)がそばにある上野駅の地下道は浮浪児(駅の子)とり唯一のねぐらになっていた。

  また、窃盗団を結成したり暴力団の下働きをする場合も少なくなかった。このことが後の戦争孤児の保護が治安対策の要素を帯びる要因となってといわれている。守ってもらえず、飢えや病気など様々な原因で人知れず死んでいった者も多くいたという戦争孤児たち。収容先の施設は数が限られ、食糧も不足。体罰を行う施設、子どもを檻に入れる施設もあったといわれている(ウキペディア、「NHKスペシャル“駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児」参照)。

  さらに、朝日新聞デジタル記事「国に棄てられた数知れぬ浮浪児」には、「72年前の終戦の後、東京・上野の地下道は浮浪児であふれ、数え切れない子どもたちが餓死し、凍死しました。生きた証しすら残せず、『お母さん』とつぶやき、一人で死んでいった」。

  「浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。『浮浪児に食べ物をやらないで』という貼り紙まで街頭にありました」と過酷な状況の中に置かれていたことが記されている。

 Photo_20210912141301  闇市でためた金は施設の中で盗られたと戦死した父の手紙を届けてくれた柴田剛男(藤木直人)に咲太郎はこぼすシーンもある。施設より駅で暮らす方がましだと、子どもたちは、脱走を繰り返すようになった。

  生きのびていくために大人になってからも「浮浪児」ということで、就職や結婚で差別にあうのをおそれて、妹の千遥のように過去を抹消して生きていくことを選んだ孤児も多くいたと言われている。

  中国残留孤児兄妹の生きざまを描いた山崎豊子原作のNHKテレビドラマ「大地の子」で描かれたように戦争が終わってから放置された戦争孤児たちの苦しめられてきた「長い戦後」を忘れてはいけないことだと思える。

  柴田牧場に預けられた9歳のなつは柴田剛男の義父、柴田泰樹(草刈正雄)に「私をここで働けせてくれ」と自分の生きる場所を哀願する。

  Photo_20210912141302 朝早くから搾乳を手伝うなつを見て、ある日泰樹は闇市のある帯広の町になつをつれていく。そして「雪月」のアイスクリームを食べながらなつに語る。

  「ちゃんと働けば、必ずいつか、報われる日が来る。報われなければ、働き方が悪いか、働かせる者が悪いのだ。だが、いちばん悪いのは、人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は、人を当てにする者を助けたりはせん。逆に、自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるもんだ。お前は、この数日、本当によく働いた。…もう、無理に笑うことはない。お前は堂々と、ここで生きろ。いいな」。この台詞、どこか私の父親の生き方に通じているような気がするのだ。

  卑屈にならず、自分の力を信じて、堂々と誇りをもって生きることを諭す泰樹の言葉には重みを感じる。明治35年(1902)に18歳のとき、孤児の泰樹は一人で富山県から北海道十勝に入植して開拓開墾から酪農をして生きてきた姿が力強く映ってくる。

Photo_20210912141104   小学校に編入したなつに、「東京には家がなくて、外で暮らしている子どもが街にたくさんいるんだって…野良犬みたい暮らしてて、ばい菌とか、怖い病気を持ってるって…」とクラスメートたちがはやし立てる中、「病気だったら、とっくにその子は死んでるよ。東京から北海道までって、どのくらい離れてと思ってんだよ」と、山田天陽の言葉でクラスメートたちは押し黙る。

 Photo_20210912141404  なつの絵に対する影響を与える天陽との出会いだ。農業と酪農をしながら山田天陽(吉沢亮)はベニヤ板に馬の絵を描き続け、若くして夭折していく姿を描いていく。それは十勝鹿追町で開拓農民として馬の絵をベニヤ板に描き続け、32歳8か月で夭折していった神田日勝をモデルとして登場させている。

  北海道河東郡鹿追町にある神田日勝記念美術館館長の小林潤氏は、「苦楽を共にした馬の絵をベニヤ板に描き続け、晩年に書き残した《馬(絶筆・未完)》は、日勝独特の描き進み方を明示する未完という名の完成作品とも言えるものだ。『生活の歌をキャンバスに叩きつけていく』と生き様を描きつつなつぞらに散った日勝の作品は、今なお多くのファンを魅了し続けている」と日勝美術館配信コラムに戦後十勝の青年画家、神田日勝作品をご鑑賞をくださいと記している。
 同じくなつの農業高校での演劇公演は戦後の帯広農業高校の演劇活動をモデルにしているといわれている。

  ドラマ「なつぞら」は北海道十勝、開拓者の姿だけではなく新劇、アニメ映画など戦後の新宿を中心にした文化へと続いていくドラマになり、幅広く展開させていくことになっていく。

 天丼の味から生きていく基になる家族

Photo_20210912141501   「…千遥、だよね?」となつ(広瀬すず)の呼び止めた言葉に頷く妹の千遥(清原果耶)。なつと夫の坂場一久(中川大志)たちが制作する会社「マコプロダクション」に娘、千夏を連れてきたのだ。

  高校卒業後、なつはアニメーターを目指して上京し、出会った兄、咲太郎(岡田将生)の住むおでん屋「赤い風車」で店主の亜矢美(山口智子)らと同居し、東洋動画に勤め、助監督の坂場一休と結婚、一女をもうけていっていたのだ。

  昭和50年(1975)1月、37歳になっていたなつは子育てとアニメーターとして「マコプロダクション」に移り「大草原のソラ」の作画監督をしていた。「娘が、ソラのファンなんです。どんなところで作っているのか、見てみたくなって」と言いながら帰ろうとする千遥になつは、どこにいるのか教えてほしいと懇願する。神楽坂で「杉の子」という料理屋をやっているから、そこに客として来てほしいと言って帰っていった。

_jpgquality70typejpg  数日後、なつは兄の咲太郎(岡田将生)や光子(比嘉愛未)、信哉、放送局に勤める柴田家の一番下の妹、明美を伴い、「杉の子」に緊張した面持ちで客として訪れる。

  店内カウンターに腰をおろしたなつたちは、兄妹であることを伏せての客のため気まずい雰囲気の緊張感の漂うシーンになっている。

  ビールを頼んだ咲太郎は、「女将さんですか?女将さんが料理を作るのですか」と千遥に声をかける。「(頷いて)私は料理人ですから」とカウンター内で割烹着を着た千遥が応える。「……最後に天丼が食べたいのです」と天丼を注文する。天丼へのこだわりは、以前に浅草で再会したなつと天丼を食べながら、父親が作ってくれた天丼の味が忘れられないと天丼へのこだわりを描いていた。

Photo_20210912141203  「…これだ…これだよ…ずっと探してた天丼は!戦死した父親が、料理屋をしていて、昔作ってくれた天丼と同じ味なんです。どうして女将にはそれが作れたんでしょうね」と話す咲太郎。横で天丼を作っている千遥を見つめながら、なつは「違う。…母さんだよ…天丼作ってくれたのは」と忘れていた天丼を思い出したことを話す。

  千遥の立っている調理場が遠い記憶にある調理場と重なり、そこに立つ父が天ぷらを揚げ、その横で母が天丼を作っている情景が浮かびあがってくる。このシーンが実にいい。

 Photo_20210912141204 「お父さんが揚げた天ぷらを横で働いていたお母さんが、だしを取って、たれを作って…思い出した。…女将さん(千遥)が…それを作っている母に似ていたから…それで思い出したのかもしれません」と話しながら天丼を食べるなつ。

  このシーンの母親役の割烹着姿で天丼をカウンター超しに差し出す戸田菜穂の笑顔の表情がいい。「大地の子」の割烹着を着た田中好子も良かったが戸田菜緒の暖かな笑顔の母親も良い。戦争孤児にとり亡くなった母親が料理を作る温もりのある姿に……私の涙腺が緩んでしまう。咲太郎となつにとり父親と母親への思いがこめられているシーンになっている。

  店を出るとき、なつは戦死した父親の手紙をそっと千遥に渡す。その手紙の最後には、父親が親子5人で浅草を歩く絵が描かれてあった。なつにとり絵に命を吹き込めることのできるアニメーションへの道へ進むきっかけになった絵であった。

 Photo_20210912141202  後日、なつを「お姉ちゃん」と呼び、結婚する際に隠していた戦争孤児であったこと、兄姉がいることなどを話し、離婚してでも娘の千夏に嘘をつかず、ともに恥ずかしくのない生き方を選ぶことを話す。

 「お姉ちゃん……私の力になってくれる?また、家族になってくれる?」となつに問いかけるる千遥。 なつは、「千遥はもう自由になっていい……誰にも嘘をつかず堂々といきていい……これからもまた一緒に生きよう……ねえ、千遥」と言いながら千遥の手を握りしめる(木俣冬ノベライズ「NHKテレビ小説なつぞら」参照)。

  義母と離婚の話し合いの中で、千遥にとり料理の師匠であった義父がなつたちの父親と同じ浅草の料亭で板前の修業をしていたことが解る。料亭の名前は分からなかったが、咲太郎は同じ料亭で修業していたから天丼の味も同じなんだという思いを語る。

  離婚が成立し、料理屋「杉の子」を義父から味を受け継いだ千遥が「杉の子」を譲り受けることになる。

Photo_20210912141401   話し合いが終わった後、北海道から柴田剛男が心配で上京してくるが、解決したことを知り、戦友から託された思いに終止符をうったことに安堵する。

  同じように信哉も離婚の話し合う前、なつと咲太郎に、「空襲から1年近く、みんなと家族のように過ごした日々が…あれがあったから、それからどんなことにも耐えられた。これで自分の戦後が終わるんだ」と、再び兄妹で生きていく基になる家族への思いを語るシーンなど胸に響いてくるものがあった。

 Photo_20210912141002  さらに、後日「杉の子」で新宿に戻ってくる亜矢美(山口智子)に再会するなつ。

  千遥の作った煮物を食べながら一番だしと二番だしの話になり、カウンター内から千遥が「二番だしは、出し殻を煮詰めて材料も足すから更にコクと風味が出るの」と話すと、亜矢美はなつ兄妹三人に、「うん。まあ、言ってみれば私たちみたいなもんかしら。人生の二番だし。自分の人生一生懸命生きてく中で、コクと風味の二番だしがあるわけでしょう。でも一番だしの本当の家族のことは決して忘れない。だってそっから来てんだから。一番だしがあって二番だしがある…」となつ兄妹に生きていく基は家族にあると話すシーンなど家族への有様が描かれ、好感の持てるシーンになっている。

Photo_20210912141102   「なつぞら」最終回のラスト、…十勝の草原の丘を歩くなつたち親子が映し出される。

  夫の坂場一久(中川大志)が「いつか君たち兄妹の戦争を描いてみたい」と話すと、なつは「私たちの戦争?」。一久は「過酷な運命に負けずに生きる子供たちをアニメーションでリアルに描いてみたい」とその抱負をなつと娘、優に話す。

  「一久となつはおよそ10年後にこの夢を叶えます」と内村光良のナレーションが流れる……。坂場一久のモデルといわれている高畑勲が監督した昭和63年(1988)公開スタジオジブリ制作の「火垂る墓」を指してテレビドラマ「なつぞら」は終わる。

  北海道の開拓精神を基に、アニメーション制作へと進むなつを主人公を中心にして、戦後文化の流れを背景に多彩な登場人物との出会いが織りなすドラマになっている。そして、戦後30年を経て戦争孤児の生きざまから家族への思いを描いた優れたテレビドラマであると改めてDVD全巻を観て感動した作品である。

                        〈夢野銀次〉

≪参考引用資料本等≫

大森寿美男著・木俣冬ノベライス「NHK連続テレビ小説なつぞら上・下」(2019年8月NHK出版発行)/「NHKドラマ・ガイド連続テレビ小説 なつぞらpart1・part2」(2019年8月NHK出版発行)/本庄豊著「なつよ、明日を切り拓け」(2019年9月、群青社発行)/本庄豊著「戦争孤児」(2016年2月新日本出版社発行)/「NHKスペシャル “駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児~」(2018年9月21日・2018年8月12日に放送、NHKオンデマンドで配信)/神田日勝記念美術館館長小林潤著「なつぞらに生きた神田日勝」(2018年5月30日、神田日勝記念美術館配信コラム )/ネット配信「朝日新聞デジタル>記事・国に棄てられた数知れぬ浮浪児」(2017年8月18日)

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倉賀野宿を歩く②…五貫堀川・飯盛女と倉賀野河岸

100_0168  JR高崎線倉賀野駅のホーム端から一本のレールが高崎本線から分かれて東方に伸びているのが見える。JR貨物施設「倉賀野駅貨物基地」続く側線レールである。

 一昨年の11月に倉賀野駅ホームに降りた時、石油貨物列車が側線に沿ってゆっくり移動していくのが見えた。久しぶりに長い連結貨物列車を見たような気がした。貨物列車が東にある倉賀野貨物基地に続いていることを後で知ることになった。

 貨物基地につづく側線レールのもとは岩鼻軽便鉄道であった。明治13年(1880)に陸軍は当初、製造所からの製品の輸送は、倉賀野河岸烏川の舟運を主に利用していたが、高崎線の開業後は、倉賀野駅との間に荷馬車を走らせるようになった。この荷馬車輸送から岩鼻軽便鉄道が生まれた。

 現在では輸送の主力はトラックに変わり、貨物列車をいまではあまり多く見られなくなってきているのを実感する。

100_0171  コロナ禍の影響で2年半ぶりに両毛線高崎経由で倉賀野駅を降りて駅南口に立った。

   駅前にある倉賀野小学校の塀に倉賀野宿の案内地図が掲示されていた。その先に暗渠となっている五貫堀川がある。

 五貫堀川は長野堰幹線用水路を倉賀野で分水し、烏川にむけて流れ、この地域 の水田を潤し用水路。暗渠化される以前は、水車が設けられ、魚獲りも出来たといわれている。

 100_0174 階段で暗渠になっている五貫堀川に降りることができるようになっている。さっそく五貫堀川に降りて、烏川に向けて歩く。

  飯盛女の墓石のある九品寺の屋根を右手に見ながら歩き、足元の下には水路が流れているということだ。何だか川底を歩いているような気がしてきて、変な感じになってきた。

100_0177  中山道五貫堀川に架かる「太鼓橋」を川底から見上げる。  

 「新編高崎市史通史編3」では倉賀野宿中山道沿いにあるこの太鼓橋のことを、「(宿場の)下町と中町の境の堀(五貫堀川)には長さ三間(約5.4m)、幅一丈(約3m)の橋が架けられていた。この橋は享保18年(1733)の洪水や天明3年(1783)の浅間山大噴火の影響などで何度か架け替えられたが、享和3年(1803)には宿内の旅籠屋が溜銭積金200両余を出金し、江戸木材木町の石工石田屋太右衛門に依頼して石橋を架け、太鼓橋とよばれた」と記述されている。

100_0211  旅籠屋溜銭積金200両とは飯盛女の玉代の一部の積立金であった。血の出るような飯盛女の浄財金で「太鼓橋」を造ったということになる。

  石橋アーチでできていた「太鼓橋」。板橋から石橋に掛け替えられてから昭和10年(1935)の道路改修で取つぶされるまで、百三十三年間、石橋の太鼓橋は往来する旅人や多くの飯盛女を見ていたことになる。

E0073751_9103081  「中山道倉賀野宿の飯盛女は、宿の中ほどにある太鼓橋から下を流れている川に鐚銭(びたせん…ほんのわずかのお金)を投げて拍子をうって拝むと、その日はお茶をひかないと信じられていた。お茶をひかないというのは、花街の用語でお客が来ることを意味している。したがって、夕方ともなれば飯盛女が行列をつくって太鼓橋に集まり、その夜、多くの客が登楼することを祈った」と、五十嵐富夫氏は「「飯盛女―宿場の娼婦たち」で記している。

100_0209  上州(群馬県)倉賀野宿は江戸時代、中山道の江戸日本橋から12番目の宿場で、日光例幣使街道の分岐点に当たる宿として賑わっていた。また、烏川に江戸との物資輸送の河岸もあって繁栄していた。

 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、飯盛旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった。

100_0180  しかし、天保6年(1835)の宿内の大火から家の復興がなされていないため、享保3年(1718)には家数は500軒、旅籠の数は64軒以上となり、飯盛旅籠には150人~200人と多くの飯盛女がいたと云われている。4軒に1軒は飯盛女のいる旅籠となり、倉賀野宿全体は花街のようを呈していたということになる。

 100_0179 それは、旅人だけではなく、烏川舟運による倉賀野河岸の隆盛による。船の乗組員の水主(かこ)や荷物の積み降ろしや倉庫や船に運ぶ『小揚人足』など多くの河岸関連の労働者が倉賀野宿の飯盛旅籠で遊興や宿泊など利用していったからである。

 「太鼓橋」を上に見ながら五貫堀川をさらに下流に歩いていくと民家へ入ってしまいそうな石段が右側にあった。そこを上がったところにあるのが三光寺稲荷神社。倉賀野宿の旅籠屋やそこに働く飯盛女たちのから厚い信仰を集めていた。

100_0185  境内には、「明治42年、倉賀野神社に合併された時に、ここにあった社殿は前橋川曲町の諏訪神社に売られ、常夜燈と石玉垣は倉賀野神社に移築された。しかし、町の人の夢にお稲荷さん現れて、『元のところに戻りたい』と泣くということから、昭和11年に再建され冠稲荷になった」という案内標識が立っている。

 200人近くいた飯盛女の生国は大半が越後生まれであったと言われている。

 15歳で10年年季奉公として三国峠を越えて倉賀野宿の飯盛女になって働いた。しかし、年季奉公契約においては、契約は奉公人となる女性本人ではなく、人主(親か家長)と請け人と雇い主の間で交わされた。つまり、女子は奉公に行きたくなくても、奉公契約によって親や家長の決定に従わざるを得なかった。これは奉公という名の人身売買契約であった。

100_0186   ブログ「隠居の思ひ記、女郎が架けた太鼓橋」には、「高崎の散歩道 第二集」の中に、倉賀野町にある、他国出身の娘の墓を調査したデータを引用してこう記されている。「出身地を分類すると、26人中19人が越後出身。没年齢では 12~19歳が5人、20~25歳が7人、26~29歳が2人。平均没年齢は、21歳3か月だったという」。

 15歳で10年年季の飯盛女として奉公しても満期の25歳までには生きられなかったということである。

 五十嵐富夫氏は自著「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、「死亡率と人別帳とを比較検討すると、6・7年が飯盛女の耐用年数で、23歳くらいが体力を消耗し悪病に犯されて死ぬ年齢のようである」と記していることから、栄養不足、梅毒などにより生まれ故郷に帰ることなく短い命を喪っていったことになる。

 この三光寺境内稲荷は村人からは冠稲荷と呼ばれ、特に宿の飯盛女の信仰を集めていた。

 社会の底辺に生きている飯盛女にとっては、何かを信仰せずには一日も生きていけなかったのである。その信仰心が玉垣の寄進という形をとったのである。

P2210121  現在の倉賀野神社には三光寺稲荷社に寄進した飯盛女たちの玉垣が移転されて現存している。鳥居横の玉垣には「金沢屋内、里津・ひろ・ぎん」名が刻まれているが、これは玉垣作成の時の飯盛女の名である。倉賀野神社境内にある冠稲荷神社を囲む玉垣には寄進者である飯盛女の名が刻まれている。

 暗渠の五貫堀川を歩いて下っていくと烏川にでることができた。暗渠から奇麗な堀川の水がとうとうと流れ出て烏川に注いでいる。

 1262000_20210713101301  美人画の英泉と歌川広重が合作のかたちで天保6年(1835年)ごろ完成させた『木曽街道六十九次』の中に英泉が描いた『木曽街道 倉賀野 宿烏川之図』の風景画がある。

 烏川は利根川の上流で江戸との間に舟運が開けていた。舟が行きかう烏川を背景に川縁に建つ茶屋が描かれている。小川に張り出した桟で女が束子で釜を洗っている。小川に流れ込む用水(五貫堀川)で子供が網で魚を捕ったり、亀を捕まえたり,水門に上がり遊びに夢中である。茶屋では菅笠と杖を脇に置いて休んでいる旅の女が子供たちの遊んでいる様子に見入っている。一見のどかな風景画に見えるが、烏川舟運と女、子供の明るい姿には違和感を覚えてくる。違う世界の倉賀野宿に見えてくるのだ。英泉は何を描こうとしていたのだろうか?

100_0195  利根川のもっとも上流にあると言われる烏川沿いの倉賀野は、江戸時代は信州や甲州そして越後から農産物や物資が集積され、中山道の途中にあり、また日光例幣使街道の起点でもあって栄えていた。さらに北は渋川、沼田と経て三国峠を越えて十日町に至る三国街道によって越後地方と結ばれており、水路、陸路双方の交通の要所でもあった。宿場の本陣の勅使河原、脇本陣の須賀庄と須賀喜は河岸問屋を兼ねていることから舟運と飯盛旅籠の花街として宿場町として、町全体が繁栄していたことになる(斎藤百合子著『越後から上州に渡った飯盛女と八木節』より)。 

 現在の倉賀野はそうした賑わいを回想することができないほどひっそりとしているが、烏川にかかる共栄橋の麓の倉賀野河岸があった場所に「倉賀野河岸跡」碑と、由来が書かれた「倉賀野河岸跡史跡」の看板建てられていた。「倉賀野河岸由来」の記念碑に は、倉賀野河岸の繁栄の様子が、次のように書かれている。

 「倉賀野河岸由来

100_0189  当河岸は江戸時代初期より利根川の上流河岸として上野、信濃、越後の広大な後背地を控え、江戸との中継地として繁栄を極めたり。三国の諸大名、旗本の廻米を初めたばこ、大豆、葦板等の特産物は碓氷、三國両峠の嶮を牛馬の背で越え、当河岸より江戸へ、また帰り舟には、塩、干魚、荒物等の生活必 需品や江戸の文化を内陸地へ伝え、その恩恵に浴さしめぬ。元禄時代の盛期には上り荷物三万駄、下り荷物二万二千駄を数え、舟問屋十軒、舟百五十余艘に達し、十四河岸組合の河岸となる。然るに明治十七年高崎線の開通によりその使命終わりぬ。時移り川の流れも変わり往古の繁栄は昔の夢となる。われら有志 当時を偲びてこの碑を建つ。

  昭和四十九年甲寅年十月吉日  大山正撰文  前沢辰雄河岸著者  根岸政雄謹書」

 共栄橋の下を通り抜けて烏川沿いから上流に歩いていくと井戸八幡宮がある。その境内に「倉賀野河岸」の歌の碑があった。地元の歌手がこの歌を歌っているとのことだ。ありし日の倉賀野河岸を連想される歌詞になっている。

『倉賀野河岸』

作詞 曽根松太郎  作曲 矢島ひろ明

100_0201 1.八幡様の御神鈴の  音まで賑わう

 倉賀野河岸よ  船乗りたちは、

 無事祈り  夜明け一番 舫網を解く

 晴れて出船の 掛け声たかく

 江戸に舳先を 向けて出帆

 

2.惚れても無駄よ 宿女郎

 俺ら船頭 川風まかせ 

 大杉神社様の 石段で

 哭いて手を振る 可愛い娘 

 紅い蹴出しが 眸にしみる 

 雁も鳴いてる 城の跡

 

3.江戸へは三日 烏川くだり

 上りは十日と 加えて七日

 信州 越後 甲斐の米

 積んで戻り荷 赤穂塩

 始発湊は 終着湊

 河岸の倉賀野 江戸の華  

 平成十二年十月吉日   曽根松太郎 建立 歌 高橋龍治

100_0202  二番の歌詞に出てくる「大杉神社様の 石段で哭いて手を振る 可愛い娘」は倉賀野宿の旅籠に働く宿女郎飯盛女のことを謡っている。河岸で働く男と飯盛女の切ない情景が浮かんでくる。

 その大杉神社はどこにあるのか?井戸八幡宮で祭りの準備をしていた人に尋ねると神社から少し下り、すぐ登り路を上がると左側の民家の庭に「大杉神社址碑」が建っていると教えてくれた。経済的事情で民間に売却されていたということなのだ。

 民家の庭に建つ大杉神社址碑から烏川を見下ろした。広々と烏川の川面が広がって見えた。舟運と旅籠で華やいだ景色の面影はどこにも残ってはいなかった。水上の守り神大杉神社と飯盛女の厚い稲荷信仰の世界は確かにここに残っているのだが、飯盛女たちの姿を垣間見ることはことができなかった。

Netoff_00014065941  私が見たいと思った景色は、黒澤明監督昨品「用心棒」に登場してくる薄汚れた宿場女郎たちの姿なのか?それとも「安永五(1776)年三月、16歳のゆいは中仙道板鼻宿にいた」と書き出しで始まる飯盛女を描いた立松和平著「浅間」なのか?

 天明三年浅間山噴火で被災する村娘ゆいを主人公に描いた「浅間」は、ゆいが3年奉公として板鼻宿で客をとる飯盛女時代の暮しが描かれている。ゆいはここで養蚕の技術を学び、3年奉公の後、村に帰り養蚕をはじめ結婚し、幸福な暮らしを営み始める。しかし、浅間山の大噴火ですべて失う世界を描いた小説になっている。

 歴史の底辺に生きた人々の息吹を捉えるのは小説や映画の世界でしかないのか?

 …河岸と遊女の関連から何が生まれ、現在に育ってきたのは何か? 一つの課題として歩んでいこう。  

                              《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

五十嵐富夫氏著「飯盛女―宿場の娼婦たち」(昭和56年1月、新人物往来社発行)/齋藤百合子著『越後から上州へ渡った飯盛女と八木節』(2014年10月、明治学院大学国際学部附属研究所流域文化圏形成の研究 Ⅲ収録)/宇佐美ミサ子著「宿場と飯盛女」(2000年8月、同成社発行)/「文献による倉賀野史第3巻」(昭和62年9月倉賀野雁会発行)/「新編高崎市史通史編3近世」(平成16年3月発行)/前沢辰雄著「上州倉賀野河岸」(昭和40年11月発行)/ブログ「「隠居の思ひ記 女郎が架けた『太鼓橋』」(2009年3月10日配信)/立松和平著「浅間」(2003年9月、新潮社発行)

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21年6月後半―ジャガイモの収穫

100_0219  3月11日に種芋を植えたジャガイモ。今年は成長が早い。6月21日からジャガイモの収穫を始めた。

 「ジャガイモの植え付けは少なくして下さい」と昨年妻から言われていた。しかし、例年通り4キロのジャガイモを植えてしまった。

 梅雨時のジャガイモ収穫はお天気とにらめっこをしている。

 「本日は晴れ、ヨシャ」。

その日を逃さずジャガイモ堀りを始める。一株づつ手で掘る。

100_0238 「陽にあてたらいかん!」とずーと以前に亡くなった近所の婆様から助言通り我が家の北側の軒先にて日陰干しをする。

  年齢を考えて、来年からジャガイモの植え付けは少なくするつもりだ。北海道の施設に入っている学生時代の学友には「今年で最後のジャガイモだよ」と添え書きをして送る予定。

 少し寂しいけどな…。

100_0225  マルチをしないためか、以前よりサトイモの発芽が遅かった。

 5月下旬に8本の種芋から芽がでた。どうしても一本の種芋からは芽が出てこなかった。掘り返したら腐っていた。

 鉢植えに昨年のサトイモの生ごみから芽がでていた。その苗を植えて9本がそろった。

 ようやく一回目の土寄せを行った。やはりマルチはした方がいいのかもしれないと思えてきた。

100_0231  4月に植えた「キュウリ」「ナス」などからも実がなってきた。

 ジャガイモは8月まで朝食のメインとなる。キュウリとナスも同じく毎日食べていくことになる。

 「責任をとってちゃんと食べていってくださいな」と今年も妻から言われるということだ。

 収穫したジャガイモ、ふんわりと品格が出てきたような気がする。10年間の耕作により土壌の質が良くなってきていると感じる。

 Title7521 このところ、向田邦子作、久世光彦演出の「寺内貫太郎一家」をYouTubeで第一話から観始めている。

 …面白い。昭和49年(1974)の放送開始から高視聴率をあげていたテレビドラマ。その年の第7回テレビ大賞受賞作品になっていることを知る。

 私はまったくこのテレビドラマを観ていなかった。就職したばかりでテレビドラマを観る余裕がとてもなかったからだ。そのため新鮮なドラマとして観ることができている。

100_0233  久世光彦は自著「触れもせで―向田邦子との二十年」の中で、「私は『寺内貫太郎一家』という題名が、自分の手がけたドラマのうちでいちばん好きである。媚びたところがなく、歯切れがいい。堂々と胸を張っているようで、ついでにお腹まで突き出してしまったような滑稽さがある。太った父親を中心に、家族がピラミッドの形に身を寄せ合っている姿が見えるようである」と記し、向田邦子のつけた「寺内貫太郎一家」のタイトルの素晴らしさを絶賛している。

100_0221  放送開始にあたり、墓石の石屋、足の不自由な長女、父親が主人公、ということで局との軋轢があったといわれているが、何がこの作品を面白くさせているのか?

  まだまだ観始めたばかりの「寺内貫太郎一家」、時間をかけてみていくことにしている。

100_0227  イチゴの収穫が終わり、ランナーを新たな畝に移し換えた。

「また来年も実が成ってね」とつぶやきながら作業をすすめた。

 サツマイモの苗も無事根付いて茎が伸び始めている。

 梅雨明けはまだまだだが、しっかりと我が家の菜園を見守っていきたい。

                      《夢野銀次》

 

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21年6月……ニンニクの収穫と冊子「銀次のブログ」

100_0150   6月の半ばを過ぎ、本格的な梅雨の季節を迎えた。そんな晴れた日、ニンニクの収穫を行った。

 昨年の11月にスーパーで購入したニンニク2個を一粒ごとに分けて植えた。

 ニンニク18株を抜いた。

……ヨッシャ!出来ている。やれやれ。去年より実が太いと感じる。半年以上かけてのニンニク栽培。普段は周りの草を採るだけの栽培だが、時間がかかる。

 黒ニンニクはガンの免疫体を作るといわれ、2年前の5月にガン入院から退院してから黒ニンニクを毎朝食べている。

ガンは再発する病として治癒はないと思っている。免疫力を作ることと早期発見を目指している。

100_0159  収穫したニンニクはしばらく陰干しをして乾いたら泥を取り払い、皮をむき保存用のネットに入れて窓際につるして完了。

 チューリップの球根もネットに入れて今年の11月に植える。2年前に花壇にチューリップを植えたくなってホームセンターで10個入りの球根を植えた。

 今年の球根は50個になってしまっている。11月にこの球根をどこに植えたらいいいか、今から考えていかないといけない。

100_0154  毎年、カボチャを栽培しているが、大きいカボチャは料理に困ると妻が言うので、今年はミニカボチャの苗をホームセンターで一つ購入して植えた。

 あとの2本はスーパーで購入して料理して食べたカボチャの種を苗として育てたのを植えた。

 さすがに6月中ごろになると苗は大きく伸びてきて黄色い花が咲き始めて力強さがでてきた。

100_0152  しかし、メシベの花がなかなか咲かないのだ…。

 ようやくメシベの花を見つけ、オシベを採りメシベに自粉する。

これが実に猥褻で面白いのだ。この面白さのためにカボチャ栽培をしているともいえる。

 ミニカボチャ、実がなり始めた。6月末には収穫できると期待している。

100_0215  ある記念館の女性のご主人に取材をかねて2度ほど記念館でお話をした。

 次の日いきなり電話がかかってきて、「あなた本を出しているのね。市役所の人がおしゃっていました。なんで2回目の時に本を持ってこないのよ」怒られた。

 「研究書ではありません。銀次のブログを冊子にしたものですよ」と応えたが、本を出すということは相手からすると私への警戒と尊敬とかが混じり合い、いろいろな考えが湧き起きて感情になって現れたのかもしれないと後から思ってきた。

 10年の間、銀次のブログを描き続けてきた。インターネットで見ることの出来ない友人や知人向けにある一定時期にまとめて冊子にして自家発行してきた。ガンで入院する直前の2018年9月に第3巻まで発行している。

 今年の9月には「銀次のブログⅣ」を発行するつもりでいる。たとえ冊子といえども本にして残すことは大きな責任を感じて発行してきた。間違いも、誤解もある箇所が多々あるが、発行することにより記事への責任が増してきたように感じている。

 私は歴史研究者ではない。歴史ある場所に立ち、そこに流れている歴史を探りたく参考文献などから学習をし「銀次のブログ」としてネットに表している。現地での歴史の匂いなどの体感を何よりも大事にしている。いわば現地学習をしていくという生涯学習を目指しての生活を送りたいからである。

100_0157  「石の上にも三年」ということがある。62歳の時から「銀次のブログ」を描き始めて満で10年たった。そのせいなのか、最近では「銀次のブログ」の中の「建築道具館―神輿職人・赤穂新太郎の道具展示」と「栃商百年誌を読んで」の記事から別の紙面に掲載されるようになってきた。

 赤穂新太郎氏の道具展示をしている「全日本建築士会」の会報「住と建築」に昨年の11月号から4月号まで5回に分けて「銀次のブログ」記載の記事が掲載された。さらに「栃商百年誌を読んで」の記事がきっかけで「栃商同窓会報誌」にある同窓会役員から寄稿依頼があり、「校歌に込められた思い」というタイトルで今年の6月の「栃商同窓会誌報」に、ともに夢野銀次ではなく、本名の柏倉正の名前での掲載になっている。

 「銀次のブログ」もどうやら地域の人から認知されてきたような気がしてきた。しっかりと己の感性と体感を大事に「銀次のブログ」を描き続くけていきたいと思っている。

 100_0167 「ポン太」が日陰で寝ている。

 9歳になっている。体重が7キロと大きい猫なのだが、喧嘩は弱いのだ。それと雷を怖がり、その気配があるとノソノソと台所とか暗い所に隠れるように逃げ込んでいく。

 朝の4時。私の枕もと来て、「ニヤーオン」と泣き、早く起きろと急き立てる。冊子「銀次のブログ」、早く4巻発行の準備をしろと急き立てているようだ。

 楽しみながら「銀次のブログ」の発行準備をしていくとポン太に話しておいた。

                     《夢野銀次》

 

 

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巴波川散歩Ⅴ…岡田嘉右衛門と翁島別邸(上河岸跡)

皆川広照のまちづくり

P2210041_20210609152901     栃木河岸から江戸への43里の巴波川舟運は元和年間 (1615~1623)から日光社参の御用荷物を輸送した頃からといわれている。

   しかし、安政6年(1859)の栃木河岸船積問屋の訴状の中には、『関東御入国以来、諸家様方御荷物はもちろん、商人荷物、栃木河岸よりそれぞれ積送り』と、徳川家康の関東入国(天正18年・1590年8月朔日)から巴波川舟運が行なわれていたことが記載されている(栃木市史より)。

  家康が当時辺鄙な江戸への移封を決めた理由として、物資の流通、河川舟運こそが城下の発展に直結すると考えていたからだといえる。小田原征伐後、家康の家来扱いとなり秀吉より本領を安堵された皆川広照は本城を皆川城から平地の栃木城に移し、栃木の城下町づくりに着手した。

  その城下町づくりは信長の安土城下と家康の江戸城下づくりに倣っていったと思われる。

   広照の「栃木の城下まちづくり」の構想の基になったのは天正10年(1582)に徳川家康の供として安土城に赴き織田信長に会い安土城下を観たことによると思われる(平山優著「天正壬午の乱」参照)。

 安土城下の「楽市楽座」の活況を呈していた市場の賑わいと琵琶湖水運を観たことが影響されていると思えるのである。

212211   栃木町中央を南北に縦断する道幅15間(27m)か10間(18m)の軍事的な大手通りとしての大路。その北口先端木戸口横には市場の神様「蛭子神社」を祀り、市場を開設し、町の賑わいを図る。同時にこの大路は巴波川治水の役割を担うものであった。大雨災害時には放水路の役割があったからである。さらに物資の集散と物流は巴波川舟運が担うこととした。それは安土城下のような活況を呈した人との交流の盛んな町づくりの構想があったと思われるからだ。

  しかし、慶長14年(1609)信濃飯山城城主になっていた皆川広照は改易となり、嫡男皆川隆庸が仕切っていた栃木城は取り壊され、城下町ではなくなる。

  広照の残した栃木のまちづくりは遺臣たちを中心に近江商人が加わるなどして物資の集散地舟運の町・例幣使街道の宿場町・商人問屋の蔵の町として発展し、江戸から明治・大正・昭和へと引き継がれていく。

 平柳河岸から嘉右衛門橋

Pc070077   巴波川舟運遡航の栃木河岸には12の船積問屋が生業としていた。一番奥の上流に平柳河岸がある。

  平柳河岸の船積問屋山崎屋忠兵衛は「水戸様御用生魚売捌所を仰せつけられ生魚類を水戸浜から直接仕入れて魚問屋を企てられて」と栃木河岸船積問屋からの訴状文面など栃木市史に記載されていることから、平柳新地など栃木町木戸外でありながら水戸徳川家と結びついた新興の船積問屋であったと推察される。

   Pc070081 巴波川沿いの平柳河岸跡を歩いていると、平柳河岸跡案内標識板の前で一人で草採りをしているご婦人に出会った。市民講座などでよく見かける人だが、巴波川綱手通りの草採りをボランティアで行っているという。その表情は生き生きとして映っていた。

  その平柳河岸跡の200m上流には江戸時代から架けられてある嘉右衛門橋がある。嘉右衛門橋からすぐ上流の右側(上流からみると左岸)に沿って岡田嘉右衛門別邸「翁島」(おきなじま)の敷地を見ることも出来る。

岡田記念館と翁島別邸

100_0095   嘉右衛門橋先の横には日光例幣使街道が通っている。街道沿いには立派な門構えをした「岡田記念館」が建っている。嘉右衛門新田名主でもある岡田嘉右衛門の敷地内にある畠山陣屋13か村の用人代官をも務めた「岡田記念館」である。

  岡田家は現当主岡田嘉右衛門をもって26代を数える栃木市内屈指の旧家。古くは武士であったが、帰農して江戸時代の慶長の頃、士豪として栃木に移住し、荒れ地を開墾し、嘉右衛門新田という地名を起こしている。代々嘉右衛門を襲名、名主も務め、当地が旗本の畠山氏の知行地となると代官を拝命され、屋敷内に陣屋が設置され今も「畠山代官屋敷」として公開している。4,000 坪に及ぶ敷地内の江戸時代から大正時代までの土蔵・見世蔵・木造店舗などや岡田家伝来の宝物を「岡田記念館」として公開し、展示されている。(公開日は金曜から日曜日)

100_0115   岡田記念館より嘉右衛門橋に戻る手前を右折し、狭い路地を進むと翁島別邸小門がある。巴波川の荷揚げ場跡地に22代嘉右衛門が70歳を隠居所として大正13年(1924)に竣工された翁島別邸。本邸から移り住んで米寿を迎えた当主をいつしか翁という。この別邸を翁島別邸と呼ぶようになった。

 100_0122  大正13年(1924)築の木造2階建て桟瓦葺きの主屋と昭和3年(1928)築の土蔵がある。地元・栃木の工匠らがそれぞれの技を競い合って建てた。ケヤキの1枚板を使った廊下や、樹齢3000年の屋久杉を使った天井、吉野杉の床柱など、建材に贅を凝らし、特にケヤキの1枚板の廊下は、それだけで家1軒が建つと言われるほどの高価なものあると云われている。2階にある「三山閣」からは筑波山、男体山、富士山の3山を望むことができた(ウキベリア「岡田記念館」参照)。

012_main1   栃木駅前の「岡田皮膚科耳鼻咽頭科クリニック」の院長をしている26代目岡田嘉右衛門氏は岡田記念館ホームページに、「当岡田家でも武士の時代が終わりを告げた後、廻船問屋を始めました。鉄道開通によって不要になった約2100坪に及ぶ自家の荷揚げ場があった場所に、私より4代前の岡田家中興の祖とされている22代嘉右衛門が別荘を建てました。別荘の立っている場所は南面に巴波川が流れており、北側にある今は細い流れになってしまった川にはさまれて島状になっており、隠居した当主が住んだため翁島とよばれています」と、「翁島」が建つ前は荷揚場を廻船問屋として活用していたと紹介している。

「上河岸」と呼ばれていた荷揚跡地(翁島別邸)

100_0124   翁島別邸入口には「翁島由来記」が掲示されている。分かりやすく、立派な由緒記になっており感心させられた。

  一部内容を紹介すると、『下野の栃木はかつて・・・巴波川の舟運によって栄えた商人の町である。嘉永4年(1851)生まれの岡田孝一は、隠居してその長男嘉右衛門に家督を譲ったものの、当時足尾銅山の開発に着手した古河市兵衛と誼を結び、東京への産銅の輸送鉱毒解消用石灰の供給などに尽力し、家運を増長させた。栃木から巴波川の舟運で、渡良瀬川より利根川に出て東京へ送り込むことに着目したのは、明治18年(1885)の頃で、その内水路による回漕を請負った。同家の船着場は、町の北部にある当小平町内の巴波川河畔にあって上河岸とも呼んでいる。稚趣に富み、普請好きだった当主は、齢70を迎え別荘建築を発起し、その地を鉄道開通によって、不要になった自家の荷揚場を選んで、巴波川に南面し裏手に水を巡らし約7反(2100坪)にわたる、一画は島にも似せたものである。(以下略)』 

100_0117   由緒記に記されている「岡田家の船着場は、町の北部にある当小平町内の巴波川河畔にあって上河岸とも呼んでいる」を読むと、この地が江戸時代ではなく明治の初め頃から上河岸と呼ばれて舟運業を営む河岸があったことを知ることができた。

  さらに由緒記には、「当時足尾銅山の開発に着手した古河市兵衛と誼を結び、東京への産銅の輸送鉱毒解消用石灰の供給などに尽力し、家運を増長させた。栃木から巴波川の舟運で、渡良瀬川より利根川に出て東京へ送り込むことに着目したのは、明治18年の頃で、その内水路による回漕を請負った」と記されてあるが、足尾からの銅産の舟運業を始めたのは「翁島」を建てた22代嘉右衛門孝一(親愛)としている。父親の21代嘉右衛門親之はこの時には家督を息子に譲っていたのだろう。

100_0113   この上河岸(荷揚場)から足尾から運ばれた産銅が東北本線鉄道の開通前まで巴波川舟運によって東京本所鎔銅所に運ばれて行ったということになる。わずか10余年という短い期間の産銅の舟運業であったと言える。

   石橋常蔵著「栃木人続編・岡田嘉右衛門親之」には「明治10年(1877)古河市兵衛が足尾銅山の開発に着手すると、その鉱石は栃木町から巴波川を利用して東京深川の渋沢倉庫へ運んだ。その舟運を岡田が請け負った」と記述されている。

  産銅の舟運業を始めた岡田嘉右衛門と古河市兵衛と結びつきという関係が今一つ分からないが、渋沢栄一を間にして関係ができたと思われるが、そのキッカケはなんだったのか?そして、巴波川舟運を通しての3者の関係が明治の栃木町の産業発展にどのような影響を与えていったのか?調べていきたい事項だなと思えてきた。

足尾から栃木町への産銅輸送ルート

100_0134   足尾銅山からの産銅はどういうルートで栃木の岡田嘉右衛門の上河岸(荷揚場)に運ばれていったのか?

  ……それは、「栃木県史通史編8」(497頁)の足尾銅産経営諸問題、第一節交通」に載っていた。

  「古河市兵衛が銅山を譲り受けた当時、足尾に通じる道としては、野州路(日光口)と上州路(上州口)の東西両道」と記され、「両道(日光口と上州口)とも駄馬の通行にも困難を極め、多くを人の背に頼っていた」と記されている。

  明治14年(1881)の鷹の巣直利(富鉱)、17年の横間歩大直利の採掘開始で、産銅量の飛躍的増加になり、道路改修が急がれるようになる。東西両道だけでなく、明治16年には東方の古峯ケ原を通る草久村(鹿沼市)、18年には、南東の粕尾峠を通る中柏尾村(旧粟野町)へと足尾と結ぶ道路が開削されていった。

  明治39年7月の日光電気精銅所開業するまでは、荒銅(粗銅)は東京の本所溶銅所へ送っていた。東北線が開通する前の明治17年頃の産銅輸送経路は日光経由の東道・古峯ケ原経由の中道・粕尾峠経由の粕尾道で、いずれも栃木河岸(巴波川)に運ばれ、巴波川舟運により東京に運ばれていた(栃木県史通史編8より)。

  足尾山麓扇状地帯の栃木町巴波川舟運に着目して産銅の輸送ルートを開発するなど古河市兵衛の着眼に感心する。

Photo_20210609153101   足尾町から粟野町鹿沼市を結ぶ県道15号・鹿沼足尾線は標高1120mの粕尾峠、九十九折りの独特の険しさで難所の峠道として知られている。

  私はとても運転に自信がなく行ってはいないが、ネットに映る峠路を観ただけで足踏みしてしまう。ツーリングにはいいかもしれない。

  その険しい粕尾峠を越えて、柏尾村、粟野町を経路して粟野街道を通って栃木町岡田嘉右衛門の上河岸まで荷馬車にて運ばれてきていたのだ。

  巴波川沿いから上河岸跡地に建つ竹林に覆われた翁島別敷地外観を見ながら、鉄道開通前とはいえ、ここを流れる巴波川舟運で産銅が東京に運ばれていた。……歴史の流れを感じてくる。

岡田嘉右衛門親之の肥料価格への挑戦

100_0116   弘化3年(1846)7月に21代岡田嘉右衛門親之(ちかゆき)は片柳河岸問屋の株(権利)を譲り受け、嘉右衛門新田河岸として船積問屋を開始しようとした。その河岸は片柳河岸ではなく以前より船着き仮置き場として利用していた嘉右衛門新田、現在の翁島の地を河岸場にすることとしていた。

  しかし、栃木町河岸問屋より「片柳河岸での河岸問屋ではなく、全くの新規であり商業活動及び運上金上納に響く」との強硬な反対の訴えが奉行所にあり、栃木町がわの主張が認めら、嘉右衛門新田の河岸は実現しなかった(栃木市史より)。

  この河岸場新設の背景には文政年間(1817)以降、嘉右衛門・麻屋茂兵衛らが塩・糠・粕・干鰯の新規商いをめぐり栃木町肥料問屋との争いがあった。

  嘉右衛門親之は名主として、畠山13カ村の肥料の高値に対して、直に生産地及び江戸問屋との取引をすることにより、肥料価格を下げることができるからであった。嘉右衛門方には40か村から「嘉右衛門に江戸や浜から直接仕入れを認めて欲しい」との嘆願書が出され、平川村名主狐塚為蔵にいたっては老中阿部正弘への「駕籠訴」(田中正弘著「幕末維新期の胎動と展開第4巻岡田嘉右衛門親之日記」に記載)もあっての幕府評定所吟味であった。

  しかし、弘化3年(1846)12月の幕府評定所の採決では「嘉右衛門新田においては、塩・粕・干鰯の類、栃木町より引き請け売捌き候、元方からの直仕入れは致すまじく」と、栃木町から仕入れて売るようにと採決が下された。嘉右衛門親之方の敗訴であった(栃木県史、栃木市史より)。

  当初、私は栃木町問屋と岡田嘉右衛門親之の争いは嘉右衛門の商売欲から来るものと思っていた。しかし、この田中正弘氏が書かれてある「幕末維新期の胎動と展開第4巻」の冒頭の「解題」の中で岡田嘉右衛門親之の姿勢を「果敢なる挑戦」として位置づけして、高騰した肥料によって苦しむ農民のために行おうとしたことが分かった。それは自由な商いを求めた岡田嘉右衛門親之の姿勢として浮かびあがってくる。

Img_7853_s1_21   田中正弘編の「幕末維新期の胎動と展開第4巻岡田嘉右衛門親之日記」では、岡田嘉右衛門親之は「株仲間解散令」を活用し、栃木町問屋の独占する糠・干鰯・粕など肥料の販売権に果敢な挑戦の試みと位置づけしている。64521_20210610161001 さらにこの栃木町問屋との争いについては、栃木県史ならびに栃木市史では「天保の改革・株仲間解散令」と直結していることが言及されていないことをも指摘している。

   「田中正弘編 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」は平成24年(2012)に栃木市教育委員会で第1巻が発行されている。岡田親之が記した膨大な日記を田中正弘国学院大学栃木短期大學教授によって翻刻されている書物で、第4巻が平成31年(2018)3月に発行され、1巻から4巻と幕末における貴重な史料書籍になっている。とりわけ、元治元年(1864)6月6日の「水戸天狗党田中愿蔵栃木町焼き打ち事件」の栃木町の状況を記した「親之日記」は一級史料といわれている。

  21代岡田嘉右衛門親之の像は田中正弘氏が「岡田嘉右衛門親之日記第4巻」に次ぎのように記されている。親之像が分かりやすく記されているので引用記載させていただきます。

100_0121   「文政3年(1820)末に呱々の産声をあげた親之の生涯において、江戸で武家に諸芸術を学んだ彼がもっとも充実した活躍をみせる時期は何といっても幕末維新期にあたり。彼はこの間高家畠山氏知行所嘉右衛門新田村の名主役見習いより本役、そして陣屋手代格兼務より隠居後代官に就任し、さらに維新の兵馬騒擾の中で畠山氏の重臣である用人席まで昇りつめた。いっぽう彼は先祖以来継承した二十石余の田畑を耕作し、例幣使道沿い十余軒の店舗貸し・質屋・肥料販売・油絞り業を営業する多角的は実業家でもあった。維新後、彼は家督を譲った嫡男親愛(ちかよし)をして船積問屋営業より回漕会社を設立させ、さらに郵便受取所を開設させるなど、明治草創の目まぐるしく変転する政治組織・制度の改変と文明開化期における新たな西洋文物の洪水を受けとめつつ、近代国家の成立を見届けるように波瀾万丈の生涯を終えた。時に明治24年(1891)4月24日のことであった。享年七十二。初老の頃に軽い脳卒中に襲われた彼は、その後とくに留意して健康を維持し、当時としては極めて長命な生涯であった」

  私はこの「親之日記」全4巻全てを読んではいないが、島崎藤村の「夜明け前」の青山半蔵に似ているように思える。共に名主という役職の中、街道沿いから幕末という世情を見つめ対応していく暮らしなど共通点など多々ある。幕末の栃木の町を見る際には必読書だと思える。

 上河岸にて巴波川舟運を開業

100_0133   明治になって平柳村、嘉右衛門新田、大杉新田、小平柳村、箱森村、片柳村、沼和田村の名主らと結んで塩・粕・干鰯・塩物の直仕入れの商売が始まった。

  栃木町側は明治3年(1870)4月に民部省と弾正台に訴えた。しかし、そんな旧弊はとりあげぬと、こんどは栃木町側が押さえられた。同じく船積問屋として嘉右衛門は晴れて「上河岸」にて巴波川舟運を開業できることになった(栃木市史より)。

  皆川広照が安土城下をモデルにして活気ある栃木町を構築しようとした。しかし、栃木県史のなかで「巴波川の両岸に陸揚げされ、小商いも盛んにおこなわれていた活発な町(栃木)であった。そこで展開される商業は、町内の業種ごとの仲間という排他的は組織、すなわち商人仲間によっておこなわれるものであり、その集合である栃木町としてみれば、その活動は、他の近在の町々と、荷を奪い合い厳しく競い合いつつの繁栄であった」と、記されているような「排他的な商人仲間」による商業活動という閉鎖的な栃木問屋町へと変移してきた。

  栃木河岸に陸揚げされる干鰯等肥料類など高値の商圏を守るための栃木町問屋株仲間の独占商いを打ち破っていく行為は田中正弘氏の言う嘉右衛門親之の挑戦であったと言える。栃木町問屋との争いの中から岡田嘉右衛門親之は皆川広照が描いた栃木の町づくりに共通した排他的ではなく自由な商いを行うことが地域住民にためであるという考えがあったと思う。

  上河岸跡地(翁島別邸)沿いを流れる巴波川は川下の栃木町に流れていく。川には例幣使街道のように嘉右衛門新田や平柳新田を遮る町への木戸はない。岡田嘉右衛門親之は絶えず巴波川の流れを見ながら地域社会が一体であることのことを考えていた人物像が浮かび上がってきた。

                                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本など≫

平山優著「天正壬午の乱」(2015年7月戎光祥出版株式社発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/「栃木県史通史編6、栃木県史通史編8」(昭和57年8月発行)/ウエブウィキペディア「岡田記念館」/「岡田記念館ホームページ」/石崎常蔵著「栃木人続編」(2021年4月発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、第4巻」(平成31年3月、栃木市教育委員会発行)

 

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21年5月ー夏野菜の植え付け

100_0072  5月の連休前に植え付けを行なった夏野菜の苗、苗。

 3月11日に植え付けした「男爵」や「メークイン」から花が咲き始めてきている。

今年のジャガイモの畝はいつもの東西ではなく、南北の長い畝で植え付けを行なってみた。

 「農家が植え付けしているジャガモの畝のようだな」と迫力あるジャガイモの株を観て一人悦に入る。一昨年入院中に妻に間引きを頼んだら、それぞれの株の間引きではなく、その列の畝の間引きと思い、かなりの株が間引きされた苦い経験が思い出されてくる。

100_0082   イチゴに実がなりランナーが出始めてきている。

収穫は妻に任せている。「甘いわね」とイチゴを食べ乍ら妻がつぶやく。

イチゴの形がスーパーで売っている形の良いイチゴになっている。これぞイチゴ哉。

「ようやくイチゴがつくれるようになったな」

100_0032  15年くらい前に初めてイチゴを栽培し、収穫したイチゴを職場に持っていった時のことが思い出されてくる。

  職場の同僚たちはまず、「へえー」と言って苺を一口食べる。しかしその後は無言…。

その時、随分と余ったイチゴを私はただ眺めていた。

今の苺なら全部食べてくれるだろうなと思いを馳せる。

100_0030 苺の手前の畝には「小玉スイカ」の苗3本を植える。

 赤玉、黒玉、黄玉の3種類の小玉の苗。風よけカバーをかぶせる。すぐに小玉の苗は成長する。

 2年前の咽頭がんを患って以来この「小玉スイカ」はうまいのだ。 昨年は菜園で収穫した小玉スイカが少なく、スーパーで常時購入し、毎日食べた。今年は多くの収穫を狙っていく。

100_0081  夏野菜の定番の「キュウリ」「ミニトマト」。支柱を建てる。

 三本のキュウリの苗を植える。網でを施した支柱から枝分かれしていくことを期待する。

昨年は早く枯れてしまったが、今年は多くのキュウリがなればなと思う。失敗しても妻以外に文句を言う者はいないということは気持ちが楽なのだ。

キュウリの隣にはミニトマトを植える。昨年の一本から二本にした。

枝が伸びて五段までいけば、それなりの収穫が見込めてくるのだが…。

100_0037   一番前が「ピーマン」と「シシトウ」を植える。その後ろの畝には「ナス」を植える。

 昨年のナスは7月末頃まで育ちが悪くどうしたものなのかと思っていたが、8月後半になるとすくすく育ち始めて、10月中頃まで収穫できるようになった。やはり我慢したのが良かったのだ。今年も成長を見守っていきたい。

 独特の花を咲かせる「オクラ」。その後ろには「ゴーヤ」。毎年支柱を横に増やしていく。今年もゴーヤジュースをたくさん飲んでいくようになるだろう。

100_0050  妻の希望で「ミニカボチャ」を左側に一本植える。普通のカボチャだと料理が難しとのこと。あとの二本の苗はスーパーで購入しているカボチャの種から妻が苗にしたのを植える。風よけビニールカバーを施す。

 苗は風に弱い。

 サツマイモの苗「紅あずま」を2日間水に浸して植えた。そのせいなのか、苗は枯れることなく根付いたようだ。

 4月10日に植えたサトイモの種イモ。マルチを施せば芽は早く出てくるが、最近は面倒になり、そのまま芽が出てくるのを待つようになっている。

 そろそろ芽がでてきても良い頃だ。

100_0091  4月で14歳になった「銀太」。

 我が家では10歳まで生きた猫はいなかったが、銀太はその記録を破り、長命として成長してきている。

 11年前の12月1日に所沢からここに引っ越してくる車の中で大量に小水した銀太。動物病院に行った時も小水をしてしまう。気の弱い猫なのだ。明け方、私の枕もとで寝ていたが、この頃来なくなった。二階に上がってくるのが億劫になってきたのかな?

100_0089  玄関先の花壇の前に今年も「月見草」の花が咲いている。花言葉は「ほのかな恋」。

 「待宵草」と云われているが、「宵待草」のほうがピンとくる。種もまかずに毎年咲く。庭先にも「月美草」が咲く。庭の草むしりの時に一緒に採ってしまう場合がある。妻が怒る。庭には草が生い茂る。それでも良いという妻。草取りが嫌いなのだろう。

 今年は梅雨入りが早まるとの話。

 梅雨入り前には草取りを終わらせておきたいと思うのだ。

                               《夢野銀次》

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