獨協医大病院に入院します

Pb090124_4 「最低2か月は入院となります。声帯を失うこともあります」と獨協医大病院耳鼻喉科の医師は私に言った。

「2カ月も……」と唖然とする私。

 8月31日の「メディカルとちのき」で人間ドックを受け、食道ガンの疑いがありということで壬生町にある獨協医大病院で検査を受けた。担当の第1外科では「食道ガンの初期で0~1.3,4日の内視鏡手術となります。念のためペット検査を受けてください」。

 ガン検査専用のペット検査を受ける。「下咽頭ガンとリンパに転移していることが判りました。耳鼻喉科に行ってください」といわれ、放射線治療と抗がん剤治療で2か月に入院となった。 

Pb090115_6  「イチョウ並木、綺麗に色づきますよ」と私の検査に実習生としてついた女子医大生が話してくれた。9月下旬に検査が始まった時だ。そして11月12日に入院が決まった。

 放射線治療用のデスマスクを11月10日に行い、あとは入院ということになった。栃木街道から獨協医大病院に続くイチョウ並木は黄色に色づいていた。

  獨協医大病院内部の広さには驚いた。放射線科、口腔科と検査移動で8000歩を記録した日はさすがに疲れた。「検査入院をする」ということも分かるような気がした。

Pb090127_3 外来患者や職員を含めた人が多いのにびっくりする。外来者数は一日3000人。予約なしの検査待ちでは2時間は覚悟するようになった。

 当初は獨協医大病院は栃木県上都賀郡西方町(現在の栃木市西方町)に建設計画であったが、土地収用の関係で現在の下都賀郡壬生町に昭和49年(1974)に開設されたと聞いている。すぐ上の兄と兄嫁もこの獨協医大病院にお世話になり、旅立っていった。

 栃木県には長年、医師養成機関として医科大学がなかったが、下野市の自治医科大病院と並んで2つの医科大学病院が出来上がった。

Pb090123_3

 ~空にむかってあげた手に 若さがいっぱいとんでいた 学園広場で肩くみあって 友と歌った若い歌 

 ~涙流した友もある 愉快にさわいだ時もある 学園広場に咲いてる花の 一つ一つが想い出さ

 ~ぼくが卒業してからも 忘れはしないよ いつまでも 学園広場は青春広場 夢と希望がある広場

 (「学園広場」昭和38年10月、作詞:関沢新一、作曲:遠藤実、歌:舟木一夫)

 イチョウ並木を見ながら学生時代の頃を思い描いた。……舟木一夫が歌った「学園広場」の詩の中に、それはある。入院する11月12日は学生時代に付き合った女性と初めて出会った日でもある。勉学に励まず、学生演劇・全共闘運動と大学のキャンパスを走り回ったあの時の息遣いと躍動感を胸に秘めてガンと向かい合っていく。

 ――イチョウ並木の向こうには栃木街道が通っている。必ずこの道を通って家に帰り、もっと栃木のまちの歴史と幕末を究めていくつもりでいる。

                                     (夢野銀次)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

サツマイモの収穫―栃木市合唱祭を聴く

053  曇りの日が続く10月。

10月20日は朝から快晴。

「よし、今日はサツマイモを獲る」と決める。

 庭先には次郎柿の実が成っている。ここ3日間は毎日次郎柿を食べている。美味しいのだ。毛虫も発生しなかった。しかし、昨年に比べて実が少なくなっている。枝の剪定に間違いがあったのか?

 近所に栃木県の農業試験所に勤めている詳しい人に再度、柿の木の剪定の仕方を聴いていくことにする。

037_2
 5月に25本の金時苗を植えた。

 肥料は「牛ふん堆肥」と「草木灰」で2列の畝とした。堆肥を底肥料として、草木灰を施して畝作りとして耕した。一番東側の敷地で土は良くない所なので、できるかな?という危惧があった。

 ……出来ている。ホッと胸をなでおろしながら一本づつサツマイモを掘りだしていく。この堀だし作業がおもしろいのだ。24年前、初めてサツマイモ収穫でツルの先からサツマイモが次から次と現れた時、感動した。味は全然美味しくなかったが、「家庭菜園って面白いなあ」と実感したことを思いだす。

049 昨年より見た目の良いサツマイモが獲れている。ザルで5個で約50本の収穫高になる。中には虫に食われているサツマイモもあるが、良しとしよう。

 本来は2~3日間でサツマイモを楽しみながら収穫するが、今年は体調との関係で時間をかける余裕はない。

 今年の9月で70歳という年齢を迎えた。生活の中で自分の体調と向き合う時間の比重が多くなってきている。そのことをしっかりと見つめていきたいと思ってきている。

018 今年のナスは10月20日現在まで実が成り続けている。

 「6月から実が成り続けたのは初めてかな」と思わずつぶやく。菜園の西側に移しての畝づくりが良かっただと思えてくる。

やはり連作は駄目であることを改めて実感した。

042 「なんで苗が大きくならないのか?」と8月から「サトイモ」の畝を見ながらつぶやいてきた。今までこんなことはなかったのに…。

  前の家の家庭菜園を見てみると、サトイモの苗がやはり大きくなっていない。「どうしてでしょうか?」と前の家の奥さんに聞いてみた。「暑かったからなのかしら」という応えが返ってきた。

  熱さ対策として朝と夕方にサトイモに散水をしたのだが、それでも駄目だった。それとも一年置きの同じ敷地で行なっている連作が原因になっての不良なのか? 

サトイモの収穫は11月に入ってから行う予定にする。

002_2 10月8日(月・祝)の午後、栃木市文化会館で開かれた「第34回栃木市合唱祭」に聴きに行ってきた。今年で3回目の鑑賞になる。

  栃木市で活動している17の合唱グループが参加して、2~3曲の合唱を披露する。プログラムにそれぞれ構成員が記されている。その数は410人で、ダブって参加している人を除いたとしても400人が参加しての合唱祭となる。それが34年も継続して開催されていることに驚く。確かに高齢者の女性が多いのが目立つが、楽しく緊張して合唱する姿を見るのは気持ちが良いものだ。

  曲目で多かったのが中島みゆきの曲だ。「時代」「糸」「誕生」「地上の星」「ヘッドライト・テールライト」。やはり優れた音楽家なのかと思えてくる。 

005_2 「曲目選定はそれぞれの合唱団の方にお任せしております。合唱連盟で全体のテーマやモチーフはきめておりません」と窓口の関係者が応えてくれた。

  合唱祭最初の曲が「さわやかコーラス」による坂本九最後の曲「心の瞳」。なにより聴きたかった曲で嬉しかった。銀次のブログに記載したテレビドラマ「表参道高校合唱部」で第6話に登場している曲目だったから。さらに「女声コーラスたんぽぽ」による「見上げてごらん夜の星を」も銀次のブログ「名もなく貧しく美しく」で記述した曲目でうれしくなり、身近な合唱曲になった。

  今年の曲目全体から、昨年より「柔らかく、優しく」がでており、「かどや突っ張り」がとれた感じを受けた。出演者にも余裕が生まれてきているのかもしれない。合唱するどの曲も優れた曲目であると改めて感じた。

 

                            《夢野銀次》

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土葬の墓が残る栃木市皆川城内「傑岑寺」と「床とり」

NHK大河ドラマ「篤姫」に映された「座棺」から

005  「わたしを上様のところに連れていくのじゃ!」と叫んで御錠口を超えて走る篤姫(宮崎あおい)。13代将軍家定の棺が安置されている部屋に飛び込む。

 「…上様、なぜそのようなところにいらっしゃるのですか?」と棺に取りすがり、号泣する篤姫。

 平成20年(2008)7月に放映されたNHK大河ドラマ「篤姫、第28回ふたつの遺言」の中で座棺が映しだされていた。このシーンで見慣れた寝棺ではなく、家定が安置されている座棺に違和感を覚えた。…どうしてなのか?

Img_51_2  後日、棺には「座棺(棺桶)」と「寝棺(長方形の平棺)」があることを知った。晒をまいた座棺をテレビで初めて見たから違和感を覚えたのかもしれない。「栃木市史民俗編」の中に、「座棺には一反の晒が巻きつけて座敷に安置する」と記されている通り、画面には晒がまかれている座棺が安置されていた。

  かつては土葬がほとんどであった時代、土葬の場合の埋葬は「座棺(棺桶)」であり、大きさは2尺2寸(約66.6㎝)であったと云われている。2尺2寸から22歳で嫁に行かすなというたとえも生まれたといわれている。法律では土葬(埋葬)は禁止されてはいないが、都道府県で条例等で許可をしない所がほとんどであると聞いている。しかし、栃木市では「土葬は禁止されておりません」と栃木市よりメールでの返信があった。但し、「埋葬(土葬)を行なうときは深さ地下2m以上にしなければならないと施行細則で決められている」とし「墓園や霊園によって土葬を禁止している」という回答であった。土葬を禁止していないという意外な回答であった。土葬は法律では規制できない長年の歴史風習が伴っていることを感じた。

Keirei1  平成22年(2012)3月11日の東日本大震災で多くの犠牲者を出した自治体では、一部土葬が行なわれた。多数の身元確認が困難者、ドライアイス不足、さらには地域の主要火葬場が被災し、交通網やライフラインの断絶、燃料不足などにより火葬が追いつかないという事態が発生した。そのため急遽特例措置の適用をもうけ、宮城県内では6市町村が土葬に踏み切り、1000人以上の方が土葬(埋葬)を余儀なくされたという。遺族からは、「土葬に馴染みがない」「先祖と同じお墓に入れてあげたい」「火葬して遺骨を手元においておきたい」「変わり果てた姿をそのままにした状態で土葬するのは忍びない」等と火葬を希望する人もいた。その後、3回忌を迎えるにあたり埋葬された遺体の掘り起し、いわゆる改葬が行われ、新しい棺に納め直して、火葬場へと送り出したと「墓を掘り起した人々の記録(震災取材ブログ)」に記載されている。ブログには改葬を行なった業者の苦痛も綴れていた。

詣り墓と埋め墓のある(両墓制)が残る「傑岑寺」

001_2_2  栃木市街より皆川街道を西へ5㌔先に栃木市皆川城内町を東北道が通っている。その東側のそばに「傑岑寺(けっしんじ)」がある。当初の傑岑寺は弘治元年(1555)に第2次皆川城主皆川俊宗によって皆川城濠外に西接する谷津山に創設され、翌年の弘治2年(1556)に大平町西山田の大中寺より天嶺呑補(てんれいどんぽ)和尚を招請して開堂されている(建幢山傑岑寺発行「傑岑寺の歴史」より)。

 30年後の天正14年(1586)に傑岑寺は現在地の森山に移転をする。前年の草倉山の戦いでの討死者の慰霊と皆川城の南の出城として役割を担うためであったと云われている。傑岑寺から奥に入った太平山の北側に位置する草倉山の戦いは、沼尻合戦の翌年の天正13年(1585)7月の小田原北条と皆川俊宗の継承者、皆川広照との合戦を云う。

020_2  藤岡方面から攻撃を仕掛けてきた北条方に対して、皆川広照は太平山に陣を構えたが、北条方は太平連山に大軍で突入し、太平山神社を含めた太平山を炎上させた。軍を後退させた広照は、太平山の北の草倉山に陣を移し、100日に及ぶ激しい戦闘を行なった。草倉山は太平連山の中で、最も皆川城に近い山であり、皆川勢にとって背水の陣であったと云われている。しかし、数で勝る北条方の大軍を前に皆川家臣が相次いで討ち死にを遂げていき、広照自身も自害を覚悟するほど劣勢に追い込まれていった。

  戦の情勢を見かねた徳川家康、佐竹義宣によって皆川広照に降伏が勧められ、やむなく広照は戦闘を終息させた。以後、広照は北条方に与するようになる(ウィキベディア「皆川広照」参照)。

  この草倉山の合戦で皆川家臣の大半が討ち死にをした慰霊を弔うために広照は、傑岑寺を草倉山近くの現在の森山に移転を行なった。この辺りに降伏への我慢と弔う姿勢が、改易になった広照を後々まで家臣団が慕っていった要因があるのかもしれない。

  草倉山での死者を葬った千人塚に昭和7年に千人塚の石碑が建てられている。ゴルフ場の狭間を通って、道なき道を進んだところにあるといわれており、私はまだ行って石碑を見ていない。是非、行ってみたいと思っているのだが……。

005_2  由緒ある傑岑寺の石段を登り朱塗りの門の奥に本堂がある。本堂の裏に回ると幸島、猪野、片柳家の詣り墓を見ることができる。

  「栃木市史民族編、両墓制」の項で「傑岑寺(けっしんじ)」について次のように記されている。「山内に21世帯の墓地があるが、そのうち幸島、猪野、片柳各一戸ずつが両墓制をとっている。埋め墓は本堂の南側の陽当たりの良い所にあり、詣り墓は本堂の北側にある。これらは特に寺に貢献した家をいう。この三世帯を除いた18戸は単墓制である」。

  この栃木市史民族編を読んで、かつては土葬(埋葬)であった時代には、埋葬地を埋め墓とし、詣り墓を別に設ける両墓制があったことを初めて知った。そして「傑岑寺」の両墓制を見て、由来など住職に訊ねたが、「確かに本堂裏のお墓のことをお詣り墓と言っていますが、良く分からないのですよ」とはっきりしない応えが返ってきた。

013_2  森謙二著「墓と葬送の社会史」で、両墓制とは、埋葬地(=死体を埋葬する墓地。一般的には「埋墓(うめばか)」と呼ばれている)と石塔を建てる墓地(一般的に「詣墓(まいりばか)」と呼ばれる)が離れて設けられる墓制であると定義し、柳田国夫が問題提起をし、民族学者の大間地篤三によって「両墓制」という名称が与えらえたと記している。

  そして通則的な見解として「埋葬地は死穢の場であり、それを忌避して別に祭地(=霊魂祭祀のための清浄な場)を設けたというものである」と両墓制の意味合いが記されている。また最上孝敬著の「詣り墓」では村はずれの沢等に埋葬し、近場に詣り墓を設けている事例や同じ寺の境内で埋め墓と詣り墓とがあるなど全国の事例紹介が載っている。しかし、肉体と霊魂、石塔の意味合い、地理的な関係や風葬の流れからなど、私には良く分からない世界でもある。もっと良く学ばないと理解できない分野であると思えた。

008_2 傑岑寺境内にある埋め墓は本堂の南側の坂道を上った陽当たりの良い墓地の中にあった。半間(90㎝)四方を石柱の柵で囲われている。囲いの真中に「幸島」と刻字されている30㎝ほどの高さの石塔が建っている。中には石柱の柵のない埋め墓もあるが、全部で幸島家の埋め墓は13基ある。

  しかし、片柳家や猪野家の墓石はあるが、埋め墓は見当たらない。すでに改葬を行ない埋め墓を閉めたのではないかと思えた。この辺のことは良く調べないと何とも言えないことである。石柱の柵は動物たちの墓掘り襲撃を防ぐために設けられたのかもしれないと思えた。

015_3  それにしても柵の中の埋め墓の面積は狭い…。2尺2寸(約66.66㎝)の座棺の中で膝を抱えるように納める遺骸は母の胎内にいる時の姿に似ていると云われている。

  埋め墓の中の石塔に刻まれている「幸島」という家格。江戸期にはこの地の大皆川村は武州金沢藩米倉家の領地であった。野州大皆川村、梅沢村、上永野村、下永野村など12か村9800石を統括する陣屋がi現在の皆川中学校にあったという説もある。そして大皆川村の名主が幸島家であり、屋敷跡が今も残っている。その蔵には皆川地域の貴重な史料が埋まっているのではないかと地元の人が話をしていた。幸島家の全容を記述した本がないものか、探していきたいと思っている。

  幕末には大惣代名主として幸島彦助は「永野村村民屯集事件」において栃木町の米穀商人と永野村村民との間との仲介を行ない穏便な解決にむけて活躍をしている。栃木市史にはわずかな記述になっている。中世皆川家についての研究が進んでいるが、近世から幕末、明治にかけて大皆川村名主の幸島家と武州金沢藩米倉家との関係などこれからの研究が進むことを期待したい。

今も残る土葬の名残りとしての「床とり」

60_05_011_2  葬儀において土葬の穴を掘る役割の者4人を「床とり」と言われている。現在は土葬がないことから穴掘りはないが、棺を運ぶ者を「床とり」と称して呼び名が残っている地域がある。私の住む栃木市大平町横堀地域では今でも、棺を運ぶ者を「床とり」と呼んでいる。昭和40年代まであった土葬の名残りなのである。8年前に転居してきて、葬儀の手伝いの際にこの「床とり」は何なのか分からないでまごついたものである。

  今年(平成30年)の6月に栃木県立文書館の古文書講座を受講した。「倹約の取り決めから見る村と領主」からという題で、「文久三年八月倹約筋被仰渡ニ付村方取極蓮印帳」という古文書館収蔵の「大前村文書」の古文書学習であった。

Photo  この古文書では財政の悪化から領主より村々に「冠婚葬祭の際の振る舞いを簡素にする」というお触れが出され、村から倹約の旨の文書がだされた。その中で「不幸之節、穴掘沐浴之者外一切酒差間敷候」と記され、穴掘り(床とり)以外には酒を飲まさないと記されている。葬儀の際の「床とり」は別格な扱いとしてことが記されていた。何故「床とり」は別格なのか?

  私の住む地域での「床とり」の役割をした者は葬儀の後の直合(なおらい)や精進落としの席では上座に座る習わしになっている。文書館の講師に古文書に記されている床とりについて何故別格なのかを質問をしたが、「民俗的なものでしょう」という応えしか返ってこなかった。――自分で調べるていくことにした。

Photo_2  日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(「関東の葬送・墓制」に収録)の中に「床とり」のことの記述があった。

  日向野徳久氏は著書に「土葬の場合、県南の一部では、死者を埋葬する場所を葬儀当日午前中に施主が、墓穴予定地にゴザを置いてくると、組合の当番の者がこの墓を掘ることを床とり、あるいは床堀りといい、組合のなかから4人が選ばれる」と記している。そしてその役割とは、「床とりは、葬式組の役割のなかで最もぶく(穢れ)のかかりやすい役といわれ、大役である」としている。「床とり(穴掘り)の作業が終わって帰ると風呂が用意されていて、沐浴して身体を浄め、衣服も取り替えて、冷酒・塩と鰹節の削ったもの、それに冷奴で労をねぎらわれる。(略)埋葬終了後の浄めの宴(忌中払いともいう)では、床とり役が上座に着いて施主からお礼の言葉を受ける所もある」と床とりについて記載をしている。葬儀の中心の表舞台はお坊さんになるが、土葬時代の葬儀の中心的な役割が「床とり」であったことが少し理解できるようになった気がした。

563959921612x6121_2   「石工よりも船造りよりも大工りも、頑丈なものを作る奴は墓堀り人夫だ」と言いながらオフェリアの墓を掘る墓堀り人夫が登場する「ハムレット五幕一場」。墓からシャレコウベが放り出され、最後はハムレットを含めた登場人物全員の死で終わることが暗示されている場面である。

  昭和39年に俳優座による「ハムレット」日生劇場公演を姉に連れられて観ている。仲代達也のハムレット、透きとおるような声で歌う市原悦子のオフェリア。それと最も印象深かったは東野英治郎が演じた墓堀り人夫であった。ケラケラと小気味よい口調でハムレットを言い負かすその強さに感じるものがあった。この墓堀り人夫の役は東野英治郎の代表する役になっていることを後で知った。

  高校1年の時に観たこの「ハムレット」で日生劇場と演劇が好きになって、以後の私の人生に強い影響を与えた舞台公演であった。

004  私の住む集落にある共同墓地。同姓名の多い集落で一族の共同墓地から生まれていることを聞いている。昭和50年代頃までは土葬であったが、栃木市保健所より保健衛生上の問題から火葬葬儀にしてくれとの要請があり、土葬から火葬に替えたことを地域の古老から聞いた。以後、現在では火葬骨壺を墓石の下に納めるようになっている。しかし、かつての埋葬されていた共同墓地に立ってみると、土葬時代の墓地の雰囲気が漂い、地域で営まれてきた歴史の風習が匂ってくるような気がしてくる。

  今でも葬儀の際に隣保班として、葬儀場の受付と「床とり」と言われる棺の運びを行なう役を決めている。昨今の社会一般では地域の自治会では葬儀手伝をやめて、葬儀社が全部行うシステムへの移行が進んでいる。また、近隣住民の葬儀への関与がなくなったことにより、世間体を気にしない「家族葬」が増加してきているとも云われてきている。地域共同体において近隣住民と葬儀へ関わりが見直されてる時期にきているのかもしれない。

 集落の中心地にある共同墓地。亡くなってからも慣れ親しんだ地域の人々の近くでねむっていく。――ある面では幸福な終活と言えるのかしれない。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用本≫

「皆川の歴史と文化」(平成27年3月、皆川地区街づくり協議会発行)/「傑岑寺の歴史」(平成21年9月建幢山傑岑寺発行)/「栃木市史民俗編」(昭和54年3月発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/森謙二著「墓と葬送の社会史」(2014年5月吉川弘文館発行)/最上孝行敬著「詣り墓」(昭和55年4月名著出版発行)/日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(昭和54年3月明玄書房発行、関東の葬送・墓制に収録)/震災ブログ「墓を掘り起した人々の記録」/ウィキベディア「皆川広照」

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

高峰秀子「名もなく貧しく美しく」―父に与えた思いとは

NHKテレビ小説「ひよっこ」の描いたもの

0531_031 ~見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

 見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやかな幸せを祈ってる

   手をつなごう僕と 追いかけよう夢を 二人なら苦しくなんかないさ  見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

  見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやか幸せを祈ってる~  (昭和38年「見上げてごらん夜の星を」、歌:坂本九、作詞:永六輔、作曲:いずみたく) 

  昨年(平成29年)のNHK朝の連続テレビ「ひよっこ」(岡田恵和、作・脚本)は昭和30年代後半の青春映画を彷彿させたドラマ仕立てになっていた。東京下町のトランジスタラジオ製作工場に地方から集団就職した女子従業員たちによる「見上げてごらん夜の星を」を合唱するシーンが出てくる。昭和35年に永六輔といずみたくが製作公演した夜間高校を舞台にしたミュージカルの劇中歌を坂本九が昭和38年に歌い、現在も全国の合唱サークル発表会で歌われ続けている曲である。

 「ひよっこ」の中では、銭湯の帰り道を「いつでも夢を」を歌いながら女子寮に帰るシーンも出てくる。昭和38年1月公開日活映画「いつでも夢を」(野村孝監督)に出てくる夜間高校から帰りながら歌うシーンとダブって映し出される。

5d7e1bc11_2   昭和37年の橋幸夫・吉永小百合の「いつでも夢を」や翌年の三田明が歌った「みんな名もなく貧しいけれど」などは、高度成長時代を背景に若者達が貧しさから脱皮し「明日への夢」に向かって生きようとする歌詞で綴られている。

   しかし、同時代を背景にしたテレビドラマ「ひよっこ」の描く世界は違っていたように思われる。ヒロイン谷田部みね子(有村架純)を通して描いた世界は「明日への夢」を求めて進むのではなく、東京で行方不明になった父親を探しながら、「今をしっかり生き、やることをやっていく」という姿を描いていたように思えた。

 それは、貧しい中にも夜間高校を目指すことを決意していく「キューポラのある街」(浦山桐郎監督、昭和37年4月日活公開)のヒロイン「ジュン」(吉永小百合)の生きていく姿を描いた世界と共通しているように思えた。さらには、終戦から昭和34年までの時代、「貧しい生活の中でのろうあ者夫婦の生きる姿」を描いた東宝映画「名もなく貧しく美しく」(松山善三監督、昭和36年3月公開)の中にも「今をしっかり生きていく、やることはやっていく」という「ひよっこ」と同じように生活者としての生きていく姿を見ることができる。

映画「名もなく貧しく美しく」から

F37773391  「私たちは助け合わなければ生きていけません。道夫さん、一生私を助けてくれますか。私も道夫さんのためならどんなことでもします。私たちのような者は一人では生きて行けません。お互いに助け合って普通の人に負けないように」と、ろうあ者同士の置かれた立場を踏まえて道夫(小林桂樹)からの結婚の申し込みを受ける秋子(高峰秀子)。「…ありがとう」と応える道夫。

  昭和36年(1961)1月公開された東宝映画「名もなく貧しく美しく」の二人のろうあ者が終戦間もないがれきの散乱する時代に結婚を決めるシーン。監督は高峰秀子の夫である松山善三。実話を基にして松山善三が脚本を書いた第一回の監督作品である。

  DVDを借りて何十年ぶりかに観た。57年前の作品とは思えないほど、「生きていくこと」への苦しみと辛さから見出していく喜び、嬉しさを名もない庶民の生活の哀感がモノクロ画面に感動的に描かれている作品になっていることが分かった。

13827316_581271235411609_734641218_  両親がろうあ者であることにより同級生と喧嘩の絶えない小学1年の息子への子育ての悩みと苦しみ。さらには素行の悪い秋子の弟により、秋子は絶望し置手紙を置いて家を出ていく。帰宅した道夫は置手紙を読み、大急ぎで追いかける。駅のホームに入ってきた電車に飛び乗り秋子を探す。前の車両にいる秋子を見付ける。気が付いた秋子に車両の窓を通して手話での会話が始まる。

  私が小学6年の時にこの映画を観た時、音声とは違うこの手話によるシーンが強く印象に残ったことを憶えている。

  「僕にはあなたの苦しみがよくわかります。僕たちは夫婦です。何故あなた一人が苦しまなければならないのだ」と車両の窓越しから秋子に手話で話す道夫。「結婚してから今日まで私はあなたに迷惑ばかりで、あなたに何もして上げたことがありません」と応える秋子。道夫は「秋子、あなたは間違っています。結婚した時、二人は一生仲良く助け合ってゆきましょうと約束したのを忘れたのですか。私たちのような者は一人では生きてゆけません。お互いに助け合って…普通の人に負けないようにゆきましょう。そう約束したのを忘れたのですか」と諭す道夫に頷き返す秋子。走る電車の窓から置手紙の破片が舞い落ちる。

  全編で台詞ではなく手話、目や顔の表情やしぐさで感情を表現する難しい演技が要求される。とりわけ、この電車の車両窓越しによる二人の手話による演技は真に迫る夫婦の姿を描いており、「一人では生きてゆけない」という台詞に頷くシーンは胸に刺さるものがある。

O08000491112168720241_3  「給料が安くても二人ならやってゆけるんだとよ。早く結婚をしなさい」と亡くなる一年前に、お袋が言った言葉を今でも時々思い起こす。

  28歳だった私は「痔ろう」の手術で入院した。退院する日に栃木から来た母は私の住む吉祥寺のアパートで一週間過ごした。兄が栃木から車で母を迎えに来る朝、「ご飯はゆっくり食べるんだよ」と私に𠮟った後に諭すように「二人ならやってゆけるんだよ」と言って栃木に帰っていった。

2409795f1   「一人口は食えぬが二人口は食える」ということわざがある通り、確かに母が言ったように結婚すると独身時代の無駄使いがなくなりやっていける実感が湧いた。一人ではないという責任感が生まれたのかもしれない。しかし、この「名もなき貧しく美しく」という映画は「貧しさ」に加え、最初の子どもを死亡させてしまうなど「障害者」というハンデを背負った生活をも描いている。

  小学5年になった二人目の子供、一郎からは「母さんも父さんも耳が悪いから損してばかりいる」と言われる。同居する秋子の母たま(原泉)は一郎に、「だまされたって、損をしたって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか。お前にもいろんなことが分かる時が来る。お母さんたちはいつも下に下にと謝るようにして生きてきたんだから、おばあちゃんは偉いと思うよ」と話す。秋子夫婦だけはなく、当時の多くの庶民はこうした台詞のように「まず、家族がご飯を食べられる」という生活を一番に考えて生きていった姿が映し出されてくる。

9ad40f731_3  しかし、息子一郎は翌日、母親の洋裁仕立て代の引き上げを洋裁店の主人(多々良純)に要求する。言われた主人も秋子の仕立てものの出来具合から今まで安かったことに気が付き、引き上げることを秋子に告げにくる。

 ここには「障害者だから仕方なく我慢する」ということだけではなく、母親の洋裁技術を認めさせていこうとする姿が描き出されている。卑屈にならず己の技術に誇りを持って生きてゆくべきであるというメッセージが含まれていると思えた。

 この映画を観た当時、 53歳の親父はこのおばあちゃんの、「だまされたって、損したって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか」という台詞に共感したと思えてくる。息子一郎の仕立て代引き上げの行動についてはどう思ったのか?「原泉」が演じたおばちゃんの容姿は私の祖母、親父の母に似ているところもある。貧しい中にも我慢して生きてきた父にとり同感した場面だったのかもしれない。

  父は、栃木市明治座で上映中の「名もなく貧しく美しく」の入場券を、自分が経営する製材所従業員全員の30人分を購入し、この映画の鑑賞を勧めている。「あの親父が映画を観るのかよ」といつも黙々と働く父からは想像できないことで、びっくりしたことを憶えている。小学6年生だった私も大手をふってこの映画を観ることができた。

Ea5e43fa8bccbed66f378c0c0c4504da1_3   映画の後半に道夫は、「僕はこの頃、家にいると耳が聞こえるような気がします。あなた(秋子)やお母さんや一郎のことなら全部わかります。私はこの家さえあればどんなに辛い事があっても生きていけます。あなたもそうですか」と問いかける。秋子は「世間の人は私たちに同情してくれても理解はしてくれません。私もこの家の中だけが天国です」。道夫は「僕たち二人は…、十年かかってやっと一人前の夫婦になりました。これからは自分たちが幸せになれたら、ひとの幸せを考え。自分の店を持っていく」とこれからの進む方向を話す。秋子は「そうなったらどんなにうれしい事でしょう」と喜ぶシーンはジーンと胸にこみあげてくるものがある。

 今を生きてきた夫婦の少しだけ余裕が生まれ、前を向いて進んでいこうという姿。だが、この映画の結末は秋子の交通事故の死で終わっている。「最後の終わりが…?」と何ともやるせない思いがした。ただ、この映画のエンディングは二種類あると云う。アメリカ版のラストはハッピーエンドだと云う。どういうラストになっているのか、是非観てみたいと思っている。

高峰秀子が書いた自伝「わたしの渡世日記上・下」

Img_00021    秋子を演じた高峰秀子は「わたしの渡世日記下・ウソ泣き」の中で、この「名もなく貧しく美しく」の演ずる手話の余りの難しさに、この映画が製作中止になるこを願ったことを書いている。そして「実際の手話は荒っぽいため、聾唖者から不満の声が上がるのを承知で、私は見た目に美しく、流れるように優雅な手話に勝手に料理してしまった。ストーリーが感動的だったせいか、手話の料理に対する誹謗の声が聞かれず。私はホッと胸をなでおろした」と記している。そして、「私はおいしい演技をお客さまに食べていただきたくために努力をおしまない『板前』に徹したい、と自分では思っている」と俳優としての演技の位置づけをしている。

  手話という材料を料理したところの独自の手話の演技を生み出し、流れるような手話を見せている。映画に映し出される姿を想定しての演技力を高めていく。高峰秀子の大胆な演技に対する姿勢は生半可なものではなく凄みを感じる。

Ans1268016381   昭和51年2月に出版された高峰秀子著「わたしの渡世日記上・下」には、5歳で映画デビューした高峰秀子の51歳までの役者稼業としての生業と演技、母親との確執の生活、木下恵介、成瀬巳喜男等の監督や谷崎潤一郎、梅崎龍三郎等の著名人らの交流が記されている。出演した作品や映画監督との交流等から日本の映画史の貴重な資料本になっていると思える。

  「同書上・にくい奴」の中に16歳の時に観た映画「小島の春」(豊田四郎監督、昭和16年公開)の中で、ハンセン病患者の役の杉村春子の背中だけの演技に強い衝撃を受けた。そこから  「スクリーンに映る自分自身の姿を、観客席から観客の眼で、第三者の眼で見なければならないと思い、以後は本格的な発声訓練から演技を学び始めた」と記している。

 司馬遼太郎は高峰秀子の顔を見ながら「どんな教育をすれば、高峰さんのような人間ができるのだろう」と言ったと云われている。子役時代から映画俳優して生計をたて始めた高峰秀子は小学校に通うことができなかった。そのため勉強方法は「良いものばかりを見る。良いものをみておけば悪いものがわかる」という人間を見て生きた勉強をしたことを記している(同書下、鯛の目玉)。

0819501_2  そのためか梅原龍三郎が昭和25年、25歳の高峰秀子像を描いた画は「眼窩から目玉がハミ出して描かれており、私にだけ知らない本当の私がいた」と記している画が出来上がる。梅原龍三郎は高峰秀子に「はじめに、目が大きいという印象で描いていたら少しも似なかった。君の目は大きいというよりも目の光りが強いのだな。それで目が大きいという印象を人に与えるのだ」と高峰に語った(同書下・愛の人)。

   梅原龍三郎が描いた高峰秀子画は東京近代美術館に高峰秀子自身によって寄贈、所蔵されいる。問い合わせをしたら、常設展に現在は展示されていない。何時展示されるかは分からないという返答であった。展示された時に是非観てみたいと思う。

  昭和20年代から30年代にかけての興隆を極めた映画界。観客は、「映画を通して自分をみつめたり、その感動から自分を律したりしまうという姿勢がうかがえる。当時の映画は娯楽であると同時に影ではあるが、もうひとつの人生として人々に力を与え、素直に受け入れられていった(同書下・二十四の瞳)」。と、当時の映画が人々に生きる力を与えていったことを記している。

  私の父と母も「名もなく貧しく美しく」を観て、自分たちの歩んできた道を振り返り、生活を律していくことを学んだと思えてくる。

  「ですます調」で書かれたこの「わたしの渡世日記」は、波瀾の半生を常に明るく前向きに厳しい姿勢で生きてきたことを綴り、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞 するなど高い評価を得ているエッセイになっている。...

映画を観た父は30枚の入場券を購入ーその思いとは

C9ynv4ku0ae1bcr1_2 我が家は、戦前は下駄屋と言われ、下駄の仕上げをする下駄職人の家であった。5人兄弟の長男であった父は両親と同居し、母と6人を子供を抱えた大家族であった。昭和23年1月に亡くなった祖父の葬式も満足に出せないほどの貧しい生活であったと叔母からも聞いている。その生活はユーチューブで見ることのできた映画「綴方教室」と類似していたと思える。

  昭和13年の高峰秀子主演、山本嘉次郎監督「綴方教室」の映画は、ブリキ職人一家がその日の食べ物にも窮する極貧状態で生きてゆく生活を描いている。生活を見たままありのままを書くという鈴木三重吉が提唱した「生活綴方教室運動」の中で小学生豊田正子の「綴方」を原作として映画化されている作品である。 

  映画では極貧状態をリアルに描きながら、人間として尊厳を失わないで、明るく生きる一家を描いている。昭和10年代の庶民の暮しが分かり、現実の世界が一家に押し寄せる凄い作品になっている。 

Photo  今回、「名もなく貧しく美しく」の映画を観て、戦後を生き抜いた父が当時、この映画を観てどういう思いをしたのだろうか?

   昭和24年に父は下駄のもとの原材を造る製材所をおこす。「明日買う米の金がなくても材木一本あれば食えた」と子供の私に語っていた。大量の下駄の需要により製材所は当る。順調に伸びることができ、30人の従業員を雇い入れるまで製材所は成長した。工場に遊び行く私には、父は従業員を雇人というのではなく、共に働く者同士として接していたように見えていた。

  昭和36年にこの「名もなく貧しく美しく」を観た父は30枚の入場券を購入するなど強い感銘を受けた。画面に映る一家の生活はそのまま自分のこれまで歩んできた姿、生活でもあったと思い共感したのだろう。購入した入場券には「素晴らしい映画を一緒に働く従業員にも見てもらい、共にやっていこう」という父の思いがあったことを57年たって分かってきた。 

 最後に、 「一郎も来年は中学生になるし、生活もだんだん楽になってきました。来年は小さくても自分の店を持ちたいと思っています。一郎が大学へゆくまで、私たちは一生懸命働かなくてはなりません。あなたの分まで僕が働きます」と「名もなく貧しく美しく」で語る道夫。「そうなったらどんなに嬉しいでしょう」と秋子が応える夫婦の手話は、そのまま私の父と母の言葉になり胸に響いてきた作品であった。 

                                     《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

高峰秀子著「わたしの渡世日記 上・下」(昭和51年5月朝日新聞社発行)/齋藤明美著「高峰秀子の捨てられない荷物」(平成13年3月文藝春秋社発行) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夏野菜の収穫・2018年6月

042_3   この2,3日、梅雨が終わったかのように暑い日が続く。

 今年もジャガイモを収穫しようと我が家の菜園に立つ。雉が水田と用水路の前をゆっくり歩いているのが見えた。「ツー・ツー」と鳴き声が響き渡る。

  雄の雉の前を雌の雉が歩いている。一夫多妻の雉だが、雄は雌の雉の後を歩く。朝の散歩に見えるが、夫婦で仲良く餌取りをしているのかもしれない。

  この近辺、田植えの頃の水田には白鷺の親鳥が雛鳥を引き連れて水田の餌を探している光景が見られる。、間もなく飛び立つ白鷺へと成長していくのだ。

018   「今年はジャガイモいらない。近所の人からたくさんいただき、食べきれないの」と3番目の姉は電話で話していた。毎年送っていたのに残念な気がする。今年の1月に亡くなった義兄は私のジャガイモはうまいと誉めていたのにな…。

  75歳になっても施設の介護の仕事をしている元気な姉。そう言えば義兄は言っていた「子ども3人抱え、女房の元気さが救いだった。倒れたら――俺、やばかったな、子育てなど、どうやっていいかわからなかったもの」、と以前に元気で丈夫な姉のことを褒めていたことが思いだされる。、

 キタアカリ1キロ、メークウイン1キロ、男爵2キロの計4キロの種芋を3月13日に植えた。大きすぎるジャガイモが獲れたが、どこがまずいのか?まだまだ未熟だと感じた。

019_2  暑い日にはスイカを食べる。小玉スイカと黒小玉の2本の苗を植えた。いずれジャガイモの敷地に伸びていくことを想定している。

  初めの頃はメシベとオシベの見分けが出来なかった。しかし、メシベの花が色濃い黄色で怪しげな光沢があることが分かり、今ではメシベの花をまず探す。それが楽しい。メシベを見つけたら、オシベの花弁をメシベの花弁におっつけ自ふんさせる作業をしてく。

  2~3日後にふっくらと膨らみ始めたメシベを見て、「やった」と自画自賛する。これからはカラスの襲撃を想定した網をかぶせ、7月中頃からスイカを食べる。

052   今年はナスとキュウリ、ミニトマトの植える畝の場所を南側から西側の菜園に移動させた。

 結果は活き活きして育ってきている。やはり連作の関係だったんだ。昨年は活きが悪く、実ったナスは少なかった。新しい土壌で3本のナスの苗は育っている。

 秋ナスは8月初めに植えようと思っている。

028 ミニトマトに中玉トマト。すくすくと伸びている。いずれも2本の苗を植えたが、枝分かれして4本の幹が伸びている。夫婦二人暮しのため、多くはいらない。毎日、一つか二つのナスやキュウリがあればいい。

 そうい言えば今年のキュウリは甘い。今まで一番の味をそなえたキュウリである。ミニトマトと中玉トマトはまだ青い。赤みを帯びたトマトに成長していくのが楽しみだな。

032_2  秋に向けてのサツマイモとサトイモの苗が育ち始めている。

  サツマイモは東側の菜園地に初めて植えた。以前の居住者が駐車場にしていたため土壌は硬かった。ニラなど植えてもだめだったこともある。違う場所で肥料をやりすぎてツルボケしたこともあった。この場所ならサツマイモがうまく育つのではないかと思っている。10月の収穫で結果がわかる。

 私の母の実家は農家であり、麻やたばこの葉を栽培出荷していた。先日、図書館で「栃木市史民族編」を読んでいたら「八坂神社」のところで、母の父と祖父の名前が記されているを見つけた。内容は八坂神社史料にみる村人の動向のことだが、何だか歴史書に名前が載っていることに嬉しさが込みあげてきた。佐野市にある古書店から「栃木市史民族編」をネットで購入した。母の実家の祖先のこと調べていこうかなと思ってきている。

029  所沢に居た頃は辺り一面がサトイモ畑だった。時間がくると警告のサイレンが鳴り、サトイモ畑に水が放水される。その量は半端ではなかった。

  この大平町に移ってからも家庭菜園としてのサトイモ作りを7年間続けてきたが、背丈ほど大きなサトイモには成長しない。何故なのか分からないが、土壌の関係だと思っている。

  所沢の畑は1メートル掘ると赤土が出てきた。こっちの土地は石ころが多いことかた川床ではなかったからではないかと思える。農家が田植えでの耕作ではガラガラ石の音が耕運機に絡まって聞こえてくる。

 それのしても農家の作業は朝が早い。日ノ出と共に働く法作業は時計の時間帯とは関係ない。

055_2 体重7.7㎏の雄ネコのポン太。今年の4月で6歳になった。体は大きいが余所の猫がくると我が家の2階へ逃げる。

  「猫は屋内で飼うべきである」よくわかる意見である。動物愛護センターの職員はそれしか言わなかった。他所の家の菜園や花壇を荒らす。猫嫌い住民にとってたまらないことだと想像する。

 …しかし、自由に生きる猫を見るのが好きなんだな。せめて夜間外出はさせないようにしているが、ポン太の弟猫のポン吉は野良猫丸出しで、我が家をえさの場所として育ててしまっている。他の3匹、銀太・ポン太・フトミは我が家の菜園か家の中にいる。今から屋内飼育は難しいが、近所からの苦情を受けた場合はひたすら申し訳ありませんと誤っていくしかないと思っている。

  近辺に猫を飼っている家は多い。10匹以上飼っている家もある。その家は縁先が猫の住居になっている。「この頃、ネズミが少なくなったな」とある席でその話を聞いた。我が家の猫はネズミを獲る。3年前に亡くなった夢野はネズミ獲りが得意でそれをだべていた。動物病院で言われた「猫の身体はねずみに良いのです」と。しかし、11歳の雄ネコの銀太はネズミを食べない。

  これから迎える本格的な暑い夏。なんとか4匹の猫と奥さんと私で乗り越えていきたいと思っている。「名もなく貧しくつつましく」日々を送って行こう。

                                                 《夢野銀次》




| | コメント (0) | トラックバック (0)

吉原から浄閑寺を歩く―吉屋信子著「ときの声」から

栃木市の「歌麿まつり」―花魁道中

Yjimage10_2  「江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿は、栃木市に何度か滞在し、市内豪商の依頼で肉筆画大作『雪月花』を描いたと言われ、栃木市内に肉筆画を残しています。歌麿ゆかりの地、栃木市では平成29年10月28日(土)は『歌麿まつり』の一環として歌麿が描いた華やかな花魁道中も行われます」と昨年の栃木市観光協会の宣伝文句を目にした。

  栃木市では喜多川歌麿ゆかりの地として、歌麿を活かしたまちづくりをすすめ、毎年「歌麿まつり」を行なっている。歌麿と栃木市に関わる業績の調査の発表。歌麿の作品や足跡と研修会、講演会等を開催し、歌麿への関心を強めるイベントが催しされている。その一環として市内を練り歩く「花魁道中」を一般公募の女性によって行われている。

Image1  私はまだ一度もこの「花魁道中」を見ていない。江戸時代の栃木宿には遊廓もないのに…、何か違和感を覚えているからだ。

  花魁道中は、客に呼ばれて遊女が揚屋(置屋から高級遊女を呼んで遊んだ店屋)入りする道中のことを言うが、見世物として「きれいだな」と感じて、まつりとして見物すればいいだけの話なのだが…。

250pxyoshiya_nobuko1  「今年(大正4年)も吉原で花魁道中が行なわれる。花魁道中は売春のでデモストレーションだと言う」と吉屋信子は昭和40年に執筆した「ときの声」の作品に出てくる。

  吉屋信子は父親の吉屋雄一が明治34年に栃木町にあった下都賀郡庁舎の郡長に赴任したことから明治・大正と小学1年から栃木高等女学校を卒業するまで栃木町に育った。昭和40年執筆の「ときの声」を読むと、栃木市が行なっている「花魁道中」を少女から娘へと栃木町で育った吉屋信子はどう思うのだろうかと気にかかってくる。「あらそう」と言って無視するだろうなと思えてくる。

51ayofv05l_sx373_bo1204203200_1  救世軍広報誌の名前からとった「ときの声」という作品は、明治から昭和33年の売春防止法施行までの公娼制度廃止の戦いを救世軍・山室軍平を中心に描いている。吉屋信子はその背景にある幕府や国の公認で営まれていた廓で働く娼妓と公娼制度についての歴史的な実態を真正面から向き合い、ノンフイクション作品として書き上げている。作家としての凄さを感じる。

  同書の中で明治2年(1869)3月に元幕臣刑法官判事の津田真道が太政官に『婦女売買不可論』を建白した内容が記載されている。

  『皇国は今尚娼妓あり。娼妓は年季を限り売られたる者にて牛馬同様なるものなり。西洋諸国にて女郎となる者は懶惰淫奔(らんだいんぽん)の女自から好んで堕るにて客を取るも取らぬも勝手自由なり。我邦にては身持ち正しき女も父母伯兄等に売られて苦海に沈む。其情と懸隔を下して人身を売買することを禁止したきことなり』と牛馬同様に父母兄らに売られているという人身売買としての公娼廃止を建白した。明治日本での公娼廃止提唱の第一号であったが、太政官からは握り潰されたと記述されている。

068   吉屋信子は、「この遊廓の反人道的な《婦女売買》で成立する《公娼》の存在に、むかしから国民一般がさほど義憤を催さず見過ごしていたのは演劇、歌舞音曲にも《遊女》を美化礼讃したものが多く歌舞伎の助六の舞台の揚巻や、駕籠釣瓶の八橋の艶姿に見惚れ、浦里の雪責めにさえ観客はその悲劇に陶酔していたせいであろう」と言い切るところに著者のなみなみならぬ思いを感じ、その通りだなと思えてくる。

  栃木市が行なっている「歌麿まつり」の中の花魁道中も美化された「吉原の花魁」だけを描くのではなく、遊女の歴史的な背景を考察した現代への人権メッセージを含んだ内容で取り組めないのか、検討して欲しいと思う。

貸座敷として公娼制度は存続した 

240pxyoshiwara_circa_18721  明治5年(1872)のマリア・ルーズ号事件の際、「日本では国家が人身売買を公認している」と指摘を受けた明治政府は、太政官布告で芸妓・娼妓の解放令を出した。

  「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)により、前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放された。ただし、売春そのものを禁止しておらず、また、元遊女たちの次の就職先が用意されてあったわけではなかった。

  そのため、その翌年の明治6年に管轄を警視庁に属させ、廓の各妓楼は売春窟兼旅館の類だったのを《貸座敷》と指定して場所を貸与する形態とした。そこで働く女は自由意志で貸座敷を使用して売春を業として存続することになる。偽装である。こうした偽装により、遊廓は人身売買の身代金は《前借り》として以前と変わらぬ女奴隷の市場として公娼制度は存続をした。

240px82_yoshiwara_girls1   明治33年(1900)当時の吉原には妓楼総数66戸、娼妓2922人、妓夫1323人、他に雑役の男女の使用人1582人、台屋(料理仕出し)従業員228人、引手茶屋男女雇人366人、女髪結102人、車夫1000人、ほかに芸妓、幇間、洗濯屋、按摩を合わせて約5000人以上が一つの売春の街に生活をたてていたと吉屋信子は「ときの声」の中で記している。

   遊廓自体を廃止することはなく、遊女屋は「貸座敷」と名を変えて、貸座敷のある区域は「遊廓」として帰り先のない遊女たちを吸収し、借金による年季付きの人身売買は太平洋戦争後まで存続した。

吉原を囲むお歯ぐろ溝(どぶ)の跡地

045  「お歯ぐろどぶの跡地ね…。最近多いですよ、訊ねてくる人が」と、吉原大門から仲之町通りを先に進んだところにある吉原神社。そこの巫女さんに「お歯ぐろどぶ跡地」を教えてもらった。両脇にあるソープランドの店先からは呼び込みの声はかからなかった。

  「吉原大門のとこに交番があるの。そこを曲がると公園がすぐあるわ。そこの公園と道路が段差になって盛り上がっているのね。はっきり分かるわよ、お歯ぐろどぶ跡が」。

  樋口一葉の「たけくらべ」には、「廻れば大門の見返り柳いと長けれどお歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来ははかり知れぬ全盛をうらなひて」とお歯ぐろどぶに映る吉原楼閣のにぎわいが描かれている。

040_2  吉原大門の手前にある交番を右に曲がった通りが「お歯ぐろどぶ跡」になっている。外界から隔離する目的で、遊廓の周りを柵と堀で囲んだ。遊女を柵で囲った。

  掘の幅は最初は5間(約9m)、後に2間(約3.6m)ありお歯ぐろ溝(どぶ)と言われていた。出入り口は大門が一つで治安の維持に努めた。掘は、どぶといわれたように、汚い下水路だったいう。遊廓全体が田圃に盛土をして造成されたので、今でも階段段差となっており盛り上がっており、当時の爪跡として残っている。

020_2   NHK「ブラタモリ」で平成24年(2012)1月に「吉原」が放映されている。ユーチューブで見ることができた。渡辺憲司立教大学教授の案内で吉原を囲んでいたお歯ぐろどぶの跡地がでてくる。

 交番の右脇道に入り公園裏口の階段となっている所が映される。公園と道路の段差を測った渡辺氏はタモリに、「段差の高さが163mあります。(道路の向い側を測りながら)堀の幅は9m、5間ですから飛び越えることはできませんね」と道路の向こう側まで堀の幅があったことを示した。堀は娼妓の自由の拘束と脱走防止でもあったのだ。

 この地に台東区として「お歯ぐろ溝(どぶ)跡地」という標識を建てたらいいなと思った。…触れたくないのかもしれない。吉原から浄閑寺に行く際に道路から見えるソープランドのある敷地は一段と盛り上がっているのが分かった。

投げ込み寺―浄閑寺

027  「心中片割れのお墓ね。先代住職が言っていたあのお墓かな…」といって浄閑寺の職員の方が私を本堂裏のケヤキの木の下にある小さな墓石に案内をしてくれた。「多分このお墓ですよ。訪ねてくる人はいませんね。吉屋信子の『ときの声』にでてくるお話しですか?」。

  墓石の碑面には《秋月普通照信女》、その下の台石には《草島》と刻字されているのが確認できた。間違いなく吉屋信子の「ときの声」に出てくる逸話のお墓であった。

  浄閑寺住職が吉屋信子に話した逸話が「ときの声」に次のように記されている。

021_2_2 「生き残った男が生涯、毎月の命日に来て、墓の前で経をあげていました。過去帳の本名が草島小十九です。明治4年生まれだから、情死した明治26年はまだ22でしたな。吉原楼内で男が先に女を刺した刃で自分の咽喉を突いたが、これは助かり女は絶命…。男はこの墓を建ててから必ず毎月17日の命日にここに来て、墓をまるで抱くようにして経本を読む。(略)やがて、太平洋戦争下空襲の烈しくなった昭和20年春からぷっつりと姿を見せなくなった。戦後も幾たび10月17日が来ても現れなかった。(和尚さん、もしわたしが死んだら遺骨の一片をぜひこの墓の下に埋めていただきたい)、と頼まれていたから気になって…」。

  住職は電話帳から彼の棲居を突き止めた。電話口に出たのは娘で、父が独身の若い時に吉原で心中を仕損じたことを知って吃驚仰天した。早速浄閑寺に来て秋月普照信女の墓前に合唱した。男は疎開先の郷里で老衰で亡くなって、その土地の寺に葬られていた。遺骨の一片をここに埋められませんでしたと住職が残念そうに語った。

  「お墓を抱くように経本を読む」という姿に胸がうたれ、そのお墓を是非見てみたいと思った。ケヤキの下に小さくひっそりとたつ墓石。可愛いお墓である。浄閑寺を訪ねたのはこの逸話からでもある。無縁仏として葬られた数多くの娼妓達のお墓を見守る先代の住職の温かい眼差しが浮かんできた。

003  隅田川から吉原を経て流れる山谷堀は浄閑寺へと続く。深夜、小舟でむしろにつつんだ娼妓の遺骸を浄閑寺境内墓所そばまで運び、本堂裏のケヤキの木の下の穴に投げ込んだとも云われている。

  地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」、大関横丁交差点を南東に入った所にある。下を地下鉄が走っている。山谷堀は山門前を流れ、寺に沿って右折して流れていたから舟で運ぶに都合がよかった。今では堀は暗渠になり低い道路が通っている。投げ込まれた遺骸はやがて白骨になり、住職によって掘り返され骨壺に収められた。

  吉屋信子が引用した台東区発行「新吉原史考」の箇所を読んでみる。

012_2_2  「遊女は自分の躰を資本にした商売をしていたのであり、まして主人や客から商品視されていたのであるからその生活は悲惨なものであった。廓から外へ自由に出ることはできなかった。しかも主人の厳しい監視下にあったので全く自由は束縛されていた。しかし自由を拘束され主人や客から商品視されながらも。太夫とか全盛の遊女達は絢爛豪華な生活を送っていた。ただしこれは特殊な例であり、大半は惨めな毎日を過ごしていたのである。遊女が死ぬとその遺骸は三ノ輪浄閑寺門前に放置し、浄閑寺で無縁仏として葬るのが普通であった。そのため浄閑寺には投げ込み寺の異名があったが、そこの過去帳をみると二十代で死亡した遊女が非常に多い。(中略) 二十代の若さで病死した遊女達が多かったというのはその生活が悲惨であったことを物語っている。満足できないような食事で酷使されていたからこそ、遊女達の間に若くして病歿する傾向が見られた」と新吉原史考には綴られている。投げ込み寺浄閑寺を通して吉原の遊女の姿を的確に表している文面である。

020_3  「過去帳は以前にお見せしていましたが、今はお断りしているのです」と浄閑寺の職員の声を聴きながら再び本堂裏に回る。

 本堂裏の境内に立派な石積みの塔が聳(そび)え立つ。遊女たちを祀った「新吉原総霊塔」である。遊女たちの霊を慰めるために建てられたもので、基壇には花又花酔の川柳、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれている。

 新吉原総霊塔基壇の中に収められた骨壺は2万5千体。むき出しの骨壺が見られる。背筋が「ゾッ」としてきた。基壇の中には骨壺が積み重なり異様な雰囲気を漂わせてきた。吉原の歴史を感じた。

吉原弁財天―吉原名残碑

063  吉原神社の先、区立台東病院の向い側に弁財天が祀られている。かつては花園池・弁天池と呼ばれた大きな池があったと云う。

  大正12年(1923)の関東大震災で廓内で火災が起こったが、大門は閉められていたため、逃げ場を失った遊女たちは弁天池に殺到し、池に逃れ折り重なるように490人が溺死した。その遺骸も浄閑寺に葬られたと云われている。

057_5  弁天池は電話局建設のために昭和34年(1959)に埋められている。弁財天内の築山には大きな観音像が、溺死した人々のため大正15年(1926)に建立されている。境内には池一面を溺死した無残な遊女たちの骸で埋め尽くされた写真等が掲示されている。壮絶極まりない光景の写真である。

 昭和33年(1958)3月31日に売春防止法が実施、成立によって遊廓公娼は廃止された。その名残を記す石碑は弁財天内に昭和35年(1960)に地域有志によって建てられてた。碑文は共立大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によって書かれてある。

  そこには「江戸文化の淵叢(えんそう=物事の寄り集まる場所)となれり。名妓研(美)を競い、万客粋を争い、世にいふ『吉原知らざるものは人に非ず』と」、と当時の隆盛を伝えている。江戸文化は吉原の華美を探究するとこから始まるのか?いやいや吉原の深淵に隠されたものこそ、日本の人間社会がもつ残虐性が浮きぼりになってくる。

065  アメリカ国務省の「人身売買に関する年次報告書」(2012年)によると、日本は「Tier2」(人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていないが、満たすべく著しく努力している国)に分類され、人身売買の目的国、供給国、通過国であるとその不十分性が指摘されている。

  ウエブ記載石原歩氏の論文、「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考」の中で、人身売買は世界的に深刻な課題になっている。その中で日本の人身売買、公娼制度の歴史の中で「賞賛すべき業績」として救世軍による廃娼運動を高く評価している。しかし、救世軍のとりくんできた廃娼運動については広く理解されていないことの指摘を行なっている。

 遊女奉公は前借金と呼ばれる身代金を負わされ、私娼でない限り合法的な行為で、親兄弟、家のために遊女になる娘は孝行者であったとする考え方は根強く生きている。貧困から逃れるために親が子を売るという道徳観は諸外国からは「奴隷制度」と見なされている。古屋信子著の「ときの声」を読み救世軍が公娼全廃を訴え、明治・大正・昭和と活動してきたことを知ることができた。日本の人身売買としての公娼制度の歴史について見つめていく必要を感じた。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

吉屋信子著「ときの声」(昭和51年1月15日朝日新聞社発行『吉屋信子全集12』)/「台東業書新吉原史考」(昭和35年12月1日台東区発行)/石原歩著「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考—現代に至る人身売買の存在要因を考える—」(ウエブ検索による)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

奥州街道白沢宿から鬼怒川渡し跡を歩く

100000009000274924_102031 ♪これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ

 だまって居ては判らない 何やらさみしい旅の空 

  いとし殿御のこころの中は 雲におききと言うかえ

 (「花笠道中」昭和33年・歌:美空ひばり・作詞作曲米山正夫)

  この歌を聴くと昭和37年東映正月映画「ひばり・チエミの弥次喜多道中」を思い出す。地方都市の栃木市の映画館は封切り日から1カ月遅れの上映になっていた。しかし、正月映画ということで東京と同時に栃木の映画館でも公開上映になった。元旦の朝、新聞にはさまれていた映画館のこのチラシを見た時、何故か無性にうれしかったことを憶えている。この歌から連想して江戸時代の宿場町の面影が残されているという白沢宿に行ってみようと思い立ち、車を進めた。

 白沢宿誕生と町並み景観

019  平成30年の5月の連休、晴天の日に車を九郷半(くごうはん)川沿いにある白沢公園内の駐車場に車を駐車して、白沢宿から鬼怒川渡し跡までを歩いた。 

  宇都宮市街で日光街道と分かれる奥州街道。その最初の宿場が白沢宿になっている。明治18年(1885)に国道4号線のルートから外れたことにより、時代から取り残されたかのようにひっそりと佇んでいる印象を受けた。…それが味わいのある風景を生み出しているように見えた。

023_2  白沢宿の入口にそびえる榎。その下には江戸時代、通行人や旅人が使用されたとされる公衆便所跡が建っている。珍しくもあり、のどかな気分になる。裏から便所の中を見ることができるが…。

  慶長2年(1597)、宇都宮家臣だった宇加地一族郎党が下田原(宇都宮市下田原)より白沢村に移住し、白沢村の庄屋となり白沢村が誕生したとされている(町史年表)。河内町誌においては、「慶長10年(1605)頃より白沢村庄屋宇加地家と上岡本村庄屋福田家の両村共同の白沢宿としての往還馬継宿がつくられる」として、「慶長15年(1610)3月に幕府の役人や領主である奥平家の家老衆等が白沢まで出頭して立ち合い白沢宿として町割ができた。源六郎(福田)後見親河内と因幡(宇加地)の両人が御用を勤め、問屋を仰せつけられた」と宇加地家と福田家によって白沢宿がつくられたことが記されている。

025_2  白沢宿を誕生させ、後の白沢宿の本陣となる宇加地家と脇本陣となる福田家は慶長5年(1600)7月の会津上杉景勝討伐に際して戦功によるものとされている。

  河内町誌には、徳川勢の榊原・伊井・酒井らは阿久津・氏家まで進出した際に鬼怒川を渡った。その時に鬼怒川の瀬を案内し無事に渡河させたのが宇加地氏の先祖因幡父子と福田氏の先祖源六郎・右京之進父子であったことが記されている。

024_5  白沢宿の入口、公衆便所のある榎一帯は高台になっている。その高台を削り奥州街道を設置したことになる。街道左側、高台の北には白髭神社の社を見ることができる。その手前の家庭菜園地が「丸山砦」跡地になっている。上杉討伐軍の先発大将の家康二男の結城秀康が着陣したと云われている。宇加地文書には「眺望のよい裏の林(慶長期には林はない)の台上に丸太で砦を築いた」と河内町誌に記されている。

   丸山砦跡の高台に立つと遠方に鬼怒川が見えた。すぐ下の白沢宿は南北一筋の街道を挟んだ家並みになっている。手前西側は断崖、東側には九郷半川が流れている。川と断崖に挟まれた宿場町になっているのが分かる。

039  坂道になっている街道を下り、交差点を左折して白沢宿に入る。宇都宮の日光街道から分かれた奥州街道は白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂を通って白河宿まで11宿を往還している。起点の宇都宮から終点の白河までの距離は21里18町14間半(約84.5km)。宿の人口は369人とされ、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒あった(「奥州街道白沢宿まち歩きマップ」より)。

042 河内町誌では、宿の長さが4町30間(約450m)、宿の規模としては大きいものではなかったが、下野文化史を引用して民家約80軒余、道の両側に軒を並べ、約20戸の遊女屋が花柳界を構成し、繁栄したことが記されている。

 江戸期には九郷半から引かれた用水堀が宿場の中央を流れていた。馬の飲料水から防火のため、また旅人の足洗いとしても活用されていた。現在は道の両脇を用水堀が流れている。

051  平成元年(1989)に発足した「奥州街道白澤宿の会」によって用水堀に水車が設置されるようになった。鬼怒川渡し跡を見た後に初めてお会いした白澤宿の会の住吉和夫さん。「現在の水車は3代目。半分は個人が寄贈しています」。水車を設置した理由として「デザイン」と応えてくれた。「この宿の道路は駐車禁止になっていません。ガードレールもありません」と用水掘と道路、歩道が一体となった町並み景観をつくっていく姿勢がにじみ出ていた。行政書士をしている住吉和夫さんの家は白髭神社鳥居横の「旅篭、住吉屋」になっている。

040_2  それぞれの家には「本陣」「伊勢谷」「澤屋」「井桁屋」などと書かれた板札が掛けられていて面白い。これも白澤宿の会の企画なのかと思えた。

 白髭神社鳥居の横にある駐在所。案内書には「番所」という板札が架けられていることになっているが、…ない。奥から現れたおまわりさんに聴くと、「古くなって壊れました。トイレですか?隣の陣屋にありますよ」と言われた。

  この町には江戸時代の公衆便所跡があるのに現代の公衆トイレがない。歩く旅行者にとり公衆便所の存在は大きい。もっともどの家でもトイレを貸して欲しいと頼むと快くOKの返事がもらえる雰囲気がこの町にはある。本陣敷地の奥に「手洗所」は確かにあった。

  本陣には鬼怒川渡し跡を見た帰りに寄るつもりで、宿場の突き当り北の井上清吉酒店を右折し、「白澤一里塚跡」を通り鬼怒川渡し跡を目指した。

 鬼怒川渡し跡…渡船としての繁栄

064_2  白沢宿から西鬼怒川を越えて「一里塚跡」まで1km。ここから鬼怒川まで1kmの奥州街道を歩くと鬼怒川の堤土手にぶつかる。左折して堤沿いの細い道を1kmくらい歩き、堤道路の分岐点を右下に下りたところに「鬼怒川渡し跡」と書かれた標識があった。

  標識の真中に「鬼怒川渡し跡」、左に「氏家宿」、右に「白澤宿」と記載されている。しかし、ここから河原には降りることはできない。鬼怒川の川の流れも見えない。…残念だ。以前には対岸の阿久津河岸跡を訪れた時、阿久津大橋の下の河原を歩き、川の流れを見ながら芭蕉も渡し船でこの鬼怒川を渡ったのかと感慨にふけったこともあった。

055_3  栃木県史の白沢宿鬼怒川については、「鬼怒川は、平常は広い河原で、川幅30間(約54m)であるが、出水時は8町(約872m)にも及ぶ大河で、渡船があった。雪どけの増水期からの夏期3月から10月まで渡船、11月から2月の冬の渇水期は板橋を架けた」と記されている。

  白沢宿の断崖から鬼怒川まで、確かに広々とした水田になっているが、かつては河原であったのではないかと思えてきた。明治期に東北本線古田駅から岡本駅への線路変更になった理由として、鬼怒川の増水で鉄橋の橋桁が維持できないからであったということも頷ける景色である。

  大島延次郎氏は著書「下野文化史」の中で、鬼怒川を挟んで両岸の阿久津河岸と白沢宿は鬼怒川によって繁栄したと指摘している。対岸の阿久津河岸は若目田家による鬼怒川舟運回漕業によって繁栄したことは理解できる。しかし、白沢宿の繁栄は「白沢宿は鬼怒川の歩渡しに近い」としているが、よく分からない。

054  阿久津河岸関連での氏家町史では、下野文化史を引用し、「鬼怒川渡船3割増しの賃銭(文政10年)では1人銭10文、駄馬15文、軽尻は10文だった。また天保12年(1841)より架橋の責任が上阿久津村に負わされ、毎年渡子には10石を給したこともある。ことに寛永以降参勤交代のための諸大名の往来があり、下野北部、奥州の37大名はほとんどこの渡しを通過している」と、大名行列での渡船を特徴と記されている。

  大名の渡船については格式に応じたものがあり、白沢村にも応分の報酬があったものと伺える。慶長5年の上杉討伐に際しての鬼怒川渡河の功績が底辺に流れていることを感じる。鬼怒川周辺に生きる村にとり渡船という稼業について、もっと学んでいきたい。

 白沢宿彫刻屋台-磯辺一族・磯辺敬信

045  鬼怒川渡し跡から白沢宿に戻る。本陣を訪ねたいからだ。勇気をだして本陣に声をかけることにした。

  白沢宿北の入口の橋の下を流れる九郷半(くごうはん)川。流れが急である。西鬼怒川から分流し南下する川の流れによって灌漑の及ぶ郷が9か村半ということから九郷半川と呼ばれている。

074   橋の上から川下に鎮座する北野神社が見える。境内には天保4年(1833)製作の「白沢甲部彫刻屋台」の収納庫がある。同じ下流の須賀神社前にも文化13年(1816)製作の「白沢南彫刻屋台」収納庫が設置されている。

  宇都宮教育委員会の案内標識板には両屋台とも明治5年頃に鹿沼の町内から購入し、修繕を行なっていることが記されている。2台の彫刻屋台の修繕を行なった彫師として、富田宿(現在の栃木市大平町富田)、磯辺分家三代目の磯辺敬信と記されているのに驚いた。

  磯辺敬信は幕末安政の頃から明治30年(1897)まで神社や彫刻屋台の彫師として活躍した。「氏家上阿久津屋台」、「鹿沼銀座二丁目屋台」、「小山市本沢河岸熊野神社」など彫物として現存している。

072   「栃木の水路」の中で阿久津河岸関連の彫刻屋台に関連して、手塚良徳氏は磯辺敬信について次のように記している。「磯辺敬信、本名平五郎は文政11年(1828)に二代目隆信の子として下都賀郡富山村富田に生まれた。明治30年7月に死亡するが、68年の生涯の中で、数台の屋台とかなりの作品(彫刻)を残している。彼は中肉・中背・気風のよい棟梁で、いつも4~5人の弟子を引き連れ仕事をしていたと上阿久津の人々に伝えられている」。と「いつも4~5人の弟子を引き連れて」という箇所に注目する。

  私には神社や屋台の彫師は一人ではなく、集団作業で製作をしていくというのが頭にある。栃木町在住であった後藤流の彫師渡辺正信は磯辺敬信と共同で熊野神社彫刻がある。二人の関係性に注目をしていたが、まさか、白沢宿に磯辺敬信の彫刻屋台があるとは、驚いた。

 本陣宇加地家の座敷-雛飾りと世直し一揆の痕跡

049   宿場町を構成する要素として、①人馬の継立を行なう問屋場があること。②武士や公家など貴人が宿泊・休憩する本陣があること。③宿場の両端の街道がクランク状に曲げた枡形になっていること等あげられている。

  門を入った所の敷地は広くなっている。白沢宿本陣と問屋場は宇加地家にあったことが分かる。

035   「…ごめん下さい」と宇加地家本陣屋敷の玄関前で声かけた。返事がないので、建物にそって裏に回ってみた。南側には蔵が続いている。黒い車に乗って駐車している女性がいた。「ハイ」という返事があった。「少し、お伺いしたのですが、会津藩士の墓が薬師堂の崖の上にあると聞いたのですが、どこにあるのか教えて欲しいのです」。「そうね、隣の住吉さんなら詳しいから分かると思うわ。…それと、いい、今うちでお雛様を飾っているの。見て行きませんか。まもなく閉まってしまうから」と思いがけない返事が返ってきた。宇加地家の奥様だった。そして本陣の中に入れることが分かった。

076  本陣玄関の引き戸が開かれ、中に入れていただく。重厚な玄関から座敷に案内された。座敷にはお雛様が飾られていた。「凄い!艶やかな、本物だ」とひな人形に詳しくないこの私でもその重量感に圧倒された。

  「5年に一度、お雛様を飾るのです。あとは5年後なのね」と言って、資料を渡してくれた。「奥州白沢宿 本陣宇加地家 雛人形」と書かれた文化財保護審議会資料には次のように記されている。全文を載せます。

  「宇加地家に伝わる雛人形の制作年代については『琴の箱書』に明記してあり『寛政元年己酉三月三日』(1789年つちのとり)これ以前に制作されたものと推定できます。

『御雛様』・『御内裏様』・『五人囃』・『右大臣』・『左大臣』を基本として構成されています。江戸中期の雛人形の風俗が良く理解できる大変貴重な文化遺産で歴史的資料はもちろんのこと民族学上も貴重です。付随品としては、公家の生活調度は勿論のこと、格式の高い大名駕籠の他に基盤・将棋盤・双六盤等の娯楽用品、琴・三味線等の楽器は緻密で精巧に作られ、保存状態も極めて良好です。

人形衣装は木目細やかな西陣織りで、以前は一枚ずつ下着から着せていたそうですが、現在では維持管理の都合で着せたままになっています。屏風は桃山時代様式の画風で、四季を表現しています。全体的に色彩も鮮やかに残り保存には大変気を使います」

  お雛様愛好者にとり宝ものかもしれない。必見の価値のある雛飾りだ。艶やかな雛飾りに圧倒されてもっとよく観ればよかったと後から悔やむ心が湧いた。

079  飾られてあるお雛様の座敷の隅に刃物傷跡のある柱がある。「下野世直し一揆」の跡だ。慶応4年(1868)の4月3日に宇都宮八幡山に集結した下野一揆勢3万人と宇都宮藩兵とが衝突した。宇都宮藩兵が一揆勢に発砲したため、一揆勢は二手に分散する。

  このうち北方に逃れた一手は岩倉村をへて下田原村・白沢宿で打ちこわしを行なった。白沢宿を襲った一揆勢は藩兵の追撃にあい四散したが、新たに参加者を得て騒動は氏家・桜野村に拡大した(長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」より)。

  下野世直し一揆勢はこの白沢宿本陣の宇加地家にも打ちこわしをおこなっていった。その痕跡として残されている柱。世直し一揆の歴史的な史料を見ることができた。

080  「この家(陣屋建物)は明治になって建てられ、以前の建物ではありません。江戸時代と間取りが違っていますのよ。先代が壊された柱等を綺麗にして建築資材として使用して建て替えたのです。傷痕のあるこの柱がそうなんですよ。こちらの部屋が明治の時に郵便局をした所です」と言って、座敷の前の洋室を示してくれた。

  明治の初めにできた郵便局は地域の名主か名家が執り行った。さすが名主と陣屋を営んできた宇加地家だと思えた。それにしてもこのご婦人、奥さんというより奥様と呼ぶにふさわしい気品がある。陣屋という時代の波を受け継いできた雰囲気をかもし出してくれるご婦人に思えた。

  「彫刻屋台の巡行は5年に1回なの。今年がその年なのよ。11月の第1土曜と日曜日ね。屋台を見ることができますよ。是非いらしてください」と彫刻屋台の巡行の日を教えてくれた。素晴らしいお雛様飾りと幕末の世直し一揆の痕跡が残る座敷を見ることができた。声をかけて良かった。そして何よりも気品あるご婦人に出会えたことが嬉しかった。宇加地家の奥様に感謝申し上げて、隣の住吉屋に向かった。

 戊辰戦争会津藩士の供養塔

033_2  「会津藩士のお墓ね。これから案内します」と私を車に乗せて案内をしてくれた住吉和夫さん。住吉家の玄関には来客用の敷居があり、奥さんはお茶を淹れてくれた。初めていきなり訪問者への心遣いがうれしく、宇加地家の奥様同様に、この白沢町の人からは温かみを感じた。

 水車や駐車禁止でない道路ことを話した住吉さんは、「一里塚の興味から歴史に入って行ったのですよ。今、白沢宿の歴史をまとめているのです」と言って、途中で寄ったご自身の行政書士事務所でその資料を渡してくれた。「まだ途中なんですけどね」と笑顔で話してくれた。

083   白沢宿北の突き当りにある地酒蔵元の井上清吉店の左斜めの急坂道を上り、台上を登りきった道を斜めに左折した道の50m先の左側に2基の供養塔が建てられてあった。

  ――会津藩士の供養塔だ。

  河内町誌に、「白沢の宇加地氏は御用川で殺された会津藩士のために明星院の上に供養の石碑を建てた」と記されている。左が大正時代、右の供養塔が殺された直後に建てらてものと思える。残念ながら会津藩士の氏名は判らない。

  案内の標識が立っていれば何の供養塔かはすぐ分かるのにと思った。

086  慶応4年(1868)4月19日に宇都宮城を攻略した旧幕府軍は4月23日に新政府軍に宇都宮城を奪還される。敗残兵の会津藩士は落ち武者狩りとして村人に殺されていったと伝わっている。

  宇都宮城を攻略した際に旧幕府軍の大鳥圭介は治安維持のため乱暴や金銭を無心した兵士は討ち取って良いとのお触れを出していた。4月23日の宇都宮城落城で旧幕府軍の敗走から多くの脱走兵が生じた。討ち取って良いというお触れから、道馬宿村や今泉村など各村々では村人たちの警戒心から容赦のない対応をしたことが大嶽浩良著の「下野の戊辰戦争」に記されている。

 会津にむけて敗走する会津藩士も警戒する村人たちによって討ち取らていったと思われる。4月3日の世直し一揆による白沢陣屋宇加地家への打ちこわしの影響もあり、強固な警戒心が生んだ事件であった。私の住む栃木市においても慶応4年の4月6日に警戒する村人によって殺害された2人の会津藩士の墓が一乗院(栃木市大町、日蓮宗)に供養されている。一揆を扇動する浪士と間違えられての殺戮であった。

 水車小屋と町づくり

012_2_2  九郷半川の清流沿いに造られた「白沢公園」。宇都宮市が製作した水車小屋を備えた水車がギー、ギーと唸りなら回転している。本格的な大きな水車を眺めながら、川の清流とあいまってのどかな田園風景を楽しんだ。

  白沢宿は江戸時代の初めに生まれ、明治18年(1885)の国道ルートから外れることにより宿の役割が終わった。しかし、白沢宿を歩くことによって、明治維新から150年の時を経て今、蘇る何かがあるのではないかと感じた。

 「白澤宿の会」等、地域の人たちによる蘇生の動きもある。本陣に眠る歴史的史料や彫刻屋台など常設展示館や歴史資料館等がなどあれば、より多くの人が立ち寄り、白沢宿を見つめるようになっていくように思える。価値ある歴史資料がまだまだ地域の人の家の中で眠り埋もれているのではないだろうか。水車、堀の整備など外観の町づくりから内部を公開していく町づくりを目指していって欲しいと願い、帰路についた。

                                    《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木県史通史編4近世」(昭和56年3月発行)/「河内町誌」(昭和57年3月発行)/「ちょっと歩ける日光街道奥州道」(2008年3月、山と渓谷社発行)/大島延次郎著「下野文化史」(昭和31年5月発行)/「氏家町史上巻」(昭和58年3月発行)/手塚良徳著「みちのく江戸を結ぶ鬼怒川舟運」(昭和54年12月栃木県文化協会発行『栃木の水路』収録)/長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」(昭和49年2月雄山閣発行『幕末の農民一揆』収録)/大嶽浩良著「下野の戊辰戦争」2006年2月下野新聞社発行)/田辺昇吉著「北関東戊辰戦争」(昭和57年5月松井ビ・テ・オ印刷発行)/住吉和夫編「奥州街道白澤宿の歴史(誌)」/白沢地区景観づくり推進協議会作成「奥州街道白沢まち歩きマップ」(平成26年3月発行)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

正岡子規の歌、「しもつけやしめぢが原に春暮れて~」

001_2   しもつけや しめぢが原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪(と)ひ来ず    =正岡子規= 

   「明治になって、正岡子規がこの地(栃木市川原田町標茅が原)を訪れて詠んだ」と宇都宮大学教授の多々良鎮男氏が「栃木県の文学散歩」(昭和54年発行)の「歌枕標茅原」の中で正岡子規の歌として紹介をしている。

  栃木市街地の北にある川原田町、木野町は栃木市内を流れている巴波川(うずまがわ)の源流となる湧水池が多数散在している湿地帯であった。この地をしめじが原と云われ、平安時代には東国の「歌枕」として「古今和歌集」などにもよまれていた。近くには東武日光線「合戦場駅」という駅名があるように、戦国期の16世紀初めには南下する宇都宮勢と栃木皆川氏と激しい戦闘が行われた古戦場でもあった。

004_4_2   粟野街道から東へ少し入った住宅の密集する中に渇水した白地沼がある。河野守弘著『下野国誌』を基にした栃木市教育委員会作成の案内版『標茅が原』と石碑が建てられている。案内版には「平安時代以来、標茅が原と伊吹山(ここより2㎞)は東国の歌枕として都まで聞こえた名所でした。また、このあたりが標茅が原のおもかげを最もよく残しています」と書かれ、数首の和歌が記されている。

  「下野や しめつの原の さしも草 己が思ひに 身をや焼らむ」(よみ人しらず、古今和歌集六帖、河内躬恒)。「頼みこし しめぢが原の 下わらび 下にもえても 年へにしかな」(藤原俊成)。「下野や しめぢ原の 草がくれ さしもはなしに もゆる思ひぞ」(藤原光俊)

1358742928731131101221_2   「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は芭蕉の「古池や~」とあわせてなじみの深い俳句として私たちの胸に刻まれている。その情景をも思い浮かんでくる。子規は「写生」という概念から近代的な俳句、短歌を文学的に高めたという高い評価を得ている。 

  栃木に住んでいる私にとり、「栃木県の文学散歩」を読んでから、ずーと正岡子規の「しめぢが原」の歌がどの歌集に載っているのか?気になっていた。また、多々良氏が記してる「しめぢが原」に実際に子規は訪れているのか?確かめたいとも思っていた。 

 昨年(平成29年)の12月にNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」全13話をDVDを借りて観ることができた。このドラマから香川照之の演じた正岡子規に強い印象を受けた。そこで「しめつけや しめぢが原に 春暮れて~」の子規の歌の載った歌集を栃木県立図書館にレファレンスとしてメールでの問い合わせをした。

  栃木県立図書館より、「 しもつけや しめぢが原に・・・で始まる正岡子規の短歌について『和歌文学大系25 竹乃里歌』(明治書院2016)の資料から確認しました。正岡子規が遺した歌稿「竹乃里歌」を中心として、他の著述や書簡などにより知られる作品を補った全歌集です。本文は年代順に短歌が収録されており、明治32年の項にお探しの歌を確認しました」という回答がメールにて送られてきた。

Ph_sendagi281  さっそく栃木県立図書館から同書を借りて頁を開いた。

  …あった。明治32年、240頁、1266首、竹乃里歌集の中の春の歌として記載されていた。

  …この歌がよまれたのが明治32年の春ならば、3月、4月に子規庵での歌会でよまれたことになる。すでに子規はこの時、カリエス(結核性脊椎炎)で寝たきりの状態になっていた。

 前年の明治31年の2月には新聞「日本」に10回にわたり、古典和歌から近代和歌への転換を鮮やかに記述したといわれる「歌よみに与ふる書」を記載している。子規が短歌の創作に本格的な力を入れたのは「歌よみに与ふる書」が書かれた明治31年以後であると村尾誠一氏は「和歌文学大系25竹乃里歌」の解説で記している。ちなみに明治32年が一番歌の数が多いとも記している。

  「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気に知らぬこと」と痛烈に『古今和歌集』を真っ向から否定し、『万葉集』や源実朝の『金槐和歌集』を称揚するものであった。

Shikian021  司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、「歌は感情をのべるものである。リクツをのべるモノではない」として、「歌よみに与ふる書」は「かれ(子規)によれば歌をよむための歌よみの歌よみの歌というのは芸術ではないという。歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならないと実例をあげて論証した」と記している。

  カリエスの強烈な激痛の中で、子規は子規庵「病牀六尺」の中で、句・歌を発表し、随筆を明治35年9月19日、34歳11カ月の亡くなるまで書き続ける。

  子規の歌う「しもつけや しめぢ原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪ひ来ず」は古今和歌集の歌と違い、歌枕としての「しめぢが原」の修辞を否定している。人も訪れることのない、寂寥感のある現在の白地沼一帯の情景を描いている.。古戦場跡地からか、怖さも響いてくる歌である。

  多々良鎮男氏が記した子規がしめじが原へ訪れて句を詠んだということはない。想像するに、子規は「病牀六尺」の中、食前でワラビの若芽を見て、歌枕のある下野のしめじが原を思い浮かべ句を詠んだのではないだろうか。「…人も訪ひ来ず」とは子規自身も行くことのできない深い世界へ導いていくように思えてくる歌である。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

多々良鎮男著「栃木県の文学散歩、歌枕標茅原」(昭和54年8月、月刊さつき研究社発行)/村尾誠一著「和歌文学大系25竹乃里」(平成28年5月、明治書院発行)/正岡子規著「歌よみに与ふる書」(平成14年11月、インターネット青空文庫)/司馬遼太郎著「坂の上の雲2」(昭和49年2月文藝春秋発行)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

公益財団法人日本相撲協会の目的とは…。

Ee12635b02cf493eaec1e4cfd34756f81  「何か変だな。一連の責任を貴乃花親方に押し付けたような気がする。日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件を知りながら九州場所日馬富士が土俵での取組みや土俵入りを黙認した相撲協会の責任の方が重いのではないか?事件が報道されるやいなや日馬富士は怪我で休場扱いさせている。傷害事件を起こした日馬富士は犯罪者、国外追放者になる可能性が出てきていた。そのことを知りながら神事の土俵入りや土俵にあげたこと自体国民を騙すことであり、相撲協会としての罪と責任は最も重いと思えるのだが…」。

  ――1月4日の日本相撲協会評議員会で貴乃花親方の理事解任を全会一致で承認された報道をテレビを見ながら思った。

2200661_3  回収された貴乃花親方の「文書」の中には「鳥取県警に被害届を出した後、八角理事長をはじめ協会執行部4院人から被害届取り下げの要請があった」と云われている。1月5日の日本テレビ「スッキリ」で加藤浩次氏は、「協会に『被害届を取り下げろ』と言われたら、(貴乃花親方は)黙ると思う。貴ノ岩関が頭を割られたのに、『これは揉み消すぞ』と言っているように聞こえる」とし、聴取に応じなかった親方に理解を示していた。

Kyodo_takanohana1_3三人の横綱の前での暴行。どうも集団リンチに思えてならない。日馬富士の引退記者会見では『指導』で殴ったと弁明し、何故引退するのか分からないという表情が印象に残っている。

 それにしても貴乃花親方は黙して語らず姿勢を貫いている。どうも解せない。

  『貴乃花部屋だから暴行を受けたのか』という『集団リンチによる排除』との想いがあっての姿勢だったのだろうか?

Dsreosdumaaazzy1_3  相撲協会は、「公益法人として運営されている」と規定している。その目的は、「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させるために、本場所及び巡業の開催、これを担う人材の育成、相撲道の指導・普及、相撲記録の保存及び活用、国際親善を行うと共に、これらに必要な施設を維持、管理運営し、もって相撲文化の親交と国民の心身の向上に寄与することを目的とします」と定款の第三条に記されている。

  相撲協会は日本の伝統文化の継承のための本場所・巡業の開催から相撲道の指導と普及を通して国民の心身の向上するということを目的にしている。このことを念頭において今回の暴行事件の本質を探究していったならば相撲界の改革点が見えてきた筈であった。定款の目的にうたわれている相撲道とは何なのか?検証していく必要がある。

  『興行優先』『相撲界内部事情』を盾に内々で解決していく姿勢を改めない限り、『可愛がり指導』は今後も続いていくだろう。少子化の時代にこれから角界に入ってくる若者は年々減少してくることが予想され、相撲界にとり大きな危機を迎えてきている。このことを認識する必要がある。今、日本相撲協会は公益財団法人としての目的姿勢が強く問われているといえる。

                                           《夢野銀次》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

後藤流江戸彫りのある栃木市の寺社を歩く

038  日光東照宮造営から200年ほど経た1800年代、江戸中期から末期にかけて華麗な彫刻を施した神社仏閣が復活したと云われている。

  北関東、下野の国の栃木町は江戸と結ぶ巴波川舟運と日光例幣使街道が交差する物流拠点として宿場・問屋町として繁栄した。そして明治から大正にかけては全国に網羅した麻問屋流通によって興隆し、蔵の街栃木と譬えられるようになった。

  こうした現在の栃木市の街の中には、江戸彫り後藤流の流れをくむ霊獣「龍、サイ、獅子」などの彫物が寺社の向拝鐘掛け上の欄間や木鼻に見ることができる。江戸中期以降の社寺では高価な漆彩色の彫物ではなく、硬い槻木(つきのき、欅の古名)材を用い、木目を生かした立体感を作る木地彫が「江戸彫」の主流になっていった(大田区HP「大田区歴史探訪」より)。その江戸彫の潮流、後藤流彫刻が施されている栃木市内の社寺を探索、歩いてみた。

●定願寺(天台宗、栃木市旭町13-1)

Photo  弘仁3年(815)最澄が開山し、現在地に永禄6年(1563)に皆川俊宗によって創建された定願寺。例幣使街道から栃木市街地に入る開明橋南木戸口から蔵の街通りに入り、室町交差点先の通りを右に曲がった所にある。

  栃木市の草分けの寺院でもある定願寺は、元治元年(1864)の6月1日、太平山から筑波山に戻る際の水戸天狗党の本陣宿泊地になったり、明治4年(1873)の栃木県庁舎建築の仮庁舎になるなど、歴史を刻んできた寺院でもある。

Photo_3  文政6年(1823)に建立された境内に入る御成門の木鼻には「波彫の獅子」が施されている。駕籠彫にて木を波型にけずり、獅子の姿をなしているとし、栃木市指定文化財になっている。棟札には「工匠渡辺杢水水源完休 彫工 渡辺喜平治宗国」と誌している(栃木市史より)。

  網で覆われている「波彫の獅子」。下から見上げてみると獅子のようにも見える。くねくねした波状の彫刻の技には凄さを感じる。しかし、よく分からない彫物であるのが正直な感想だ。

Photo_4   正面、本堂の向拝鐘掛け上の欄間には2頭の龍の彫物が掲げられてある。作者は不明だが、御成門創建の頃の文政年間(1818~29)の作ではないかと想像する。 

  江戸の木彫りには、後藤流、石川流、島村流など伝統的な流派が存在したという。御成門「波彫の獅子」の彫師、渡辺喜平治宗国は幕府彫刻師、後藤茂右衛門正綱の弟子渡辺喜平治正道の子息であり、大平町富田に住み大平町榎本の八坂神社本殿や定願寺御成門などを彫刻していると云われている。

Photo_6  大平町富田宿には同じ後藤茂右衛門正綱の弟子から初代磯辺信秀が生まれ、磯辺一族の元祖になっている。彫刻師磯辺一族は江戸中期から明治期にかけて大平町富田から栃木県を中心に10人以上の彫師を輩出し、数多くの彫刻を社寺や鹿沼彫刻屋台などに遺している。

 渡辺喜平治正道はその磯辺信秀の兄弟子にあたり、栃木町建仁寺流宮大工の渡辺睦林の次男であると関忠次は自著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」において記している。

Photo   栃木在から江戸に出た渡辺正道は後藤正綱のもとで木彫り師として二代目後藤茂衛門を継ぎ一本立をしたと思われる(三代目は後藤茂衛門は正綱の子が継ぐ)。 後藤流二代目渡辺正道の子息、渡辺喜平治宗国は大平町富田に戻り磯辺一族と共に社寺の彫り師にとなっていったと思われる。社寺の彫刻は宮大工から分化し、「宮彫り師」「木彫り師」としてて成立していったとする説に準じている。

 《江戸から栃木に流れたきた後藤流渡辺喜平治の系図》

  後藤茂右衛門正綱(幕府彫刻師)―渡辺喜平治正道(栃木町宮大工渡辺睦林の次男、二代目後藤茂右衛門)―渡辺喜平治宗国(正道の子息、大平町富田住、榎本八坂神社本殿・定願寺御成門彫刻)―渡辺喜平治正信(宗国の子息、栃木石町住、栃木本町長清寺・泉町雲龍寺・新井町天満宮・小山市上泉町熊野神社等の彫刻)ー弟子・田中稲村(日本画家田中一村の父)。(関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」より)

 境内本堂脇には磯辺一族の分家、磯辺儀兵衛隆顕の彫刻のある「成就院不動堂」があるが、栃木町に住んでいたという後藤流渡辺喜平治正信の彫物に着目して歩いていきたい。

●長清寺(真言宗智山派、栃木市本町14-30)

Photo_3   「この地は字川島と言いますよ」と語る長清寺の住職。そばを流れる杢冷川の流れは、かつては二股に分流し、また合流して巴波川に注いでいたという。そのため二股に分流する地帯を川島と云われていた。

  「明治10年代頃に本堂を建てたのですが、それ以前の本堂は杢冷川の向こう岸、今の幼稚園のある所に建っていたのです。当時の住職は変わったお人でね、新しく建てられた本堂が気に入らず、泉町にある常通寺(浄土真宗)に譲ってしまい、すぐに建てられたのがこの本堂なんですよ」と住職は語ってくれた。

  本堂向拝上の鐘掛け梁の木鼻には霊獣「獅子」「バク」の彫物が鮮やかに彫られてあるのが見える。彫師は関忠次著の「社寺の彫物を訪ねて」よれば渡辺喜平治宗国の子息、渡辺喜平冶正信と記している。渡辺喜平治正信は近くの栃木石町(現在の旭町)において「提灯屋」を営み社寺の彫刻をしていたことになる。この人の弟子が、孤高の日本画家田中一村の父、田中稲村(彌吉)であると関忠次氏は指摘をしている。

Photo_5  栃木市城内の圓通寺のある地から天正年間(1580)に皆川広照による栃木城築城のために現在地に移ってきた長清寺。境内には不動尊が祀られている。「栃木町には、北は雲龍寺、南に長清寺という成田山不動尊がありました。今では当寺(長清寺)は成田山新勝寺とは離れておりますけどね」語る住職。

  栃木市史の中には、江戸中期頃より栃木町では不動尊を祀る寺院から成田山新勝寺の講が作られた。白装束をした講一行は栃木町から巴波川舟運中積河岸の部屋河岸にて大船に乗り、船中一泊し千葉県木下に上陸、成田山詣りをしていたことが記されている。江戸においても隆盛した成田山詣りは栃木町においても行われていたこと。江戸文化流行の影響を受けていた一端がここにもあったことを知った。

●不動尊雲龍寺(真言宗智山派、栃木市泉町18-8)

Photo_6   栃木市蔵の街大通りの北端にあるのが、かつての北木戸口跡の万町交番交差点。その先は昭和7年に開通した道幅10間(約18m)の北関門通りが通っている。その北関門通り万町交番交差点から200m先に右斜めに入る2m幅の狭い道がある。かつての不動尊雲龍寺の参道跡である。参道の奥には近隣から「お不動さん」と親しみをこめて呼ばれていた雲龍寺御堂が建っている。明治23年(1890)にこの地に建立され、明治29年(1896)には建てられている壮大な建築物である。境内には栃木秋まつり「泉町山車人形・諌鼓鶏」の収納庫も建てられている。

Photo_8  江戸後期の文化文政の頃(1804~1829)にかけて栃木町の成田山不動尊信仰の講が長清寺とは別に3つの講、龍王・神風・信心が存在していた。その3つの講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年に現在地に成田山不動尊雲龍寺と建立されたと栃木市史には記されている。

055_2 万町交番交差点角にあった「清水屋」の古い建物が昨年の平成28年に解体されている。雲龍寺参道に入る口にあたる旅館であった。子供の頃、よく母に連れらて清水屋の湯船につかりに行ったことの思い出が残っている。明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で著者の柴田博陽は不動尊雲龍寺の賑わいの様子を次のように記している。

  「泉町不動尊境内に於ける夏の夕は、又特別の賑やかにして其雅俗なるは、今ここに筆にする能はざれども、涼しき風の吹き通う夏の夕。浴衣のまま、同所に飄然(ひょうぜん)と散歩せば、老となく、若となく、男となく、女となく、波の如くこの地に遊ぶべし。境内には芝居あり、手品あり、軽業あり、見世物あり、祭文あり、浪花節あり、釣魚あり、吹き矢あり、射的場あり、料理店あり、露店あり、待合あり、氷店あり、団子屋あり、その賑やかなる事実に驚くべし」と参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わいを著し、西側にあった「ぬかり沼川」の新柳の姿、光景を東風になびくその姿、艶なりと記している。

Photo_9  柴田博陽著の「栃木繁昌記」の中に明治期の雲龍寺の写真が載っていた。この写真から、山門は現在の西側ではなく御堂の正面に立っていたことや幅広い参道が続いていたことが分かる。広い境内から数多くの見世物小屋や大道芸人、団子屋や射的場など店舗が連なっていたことが読み取れる。

 執筆した柴田博陽は何者なのかよく分からない。「栃木繁昌記」の中の栃木町諸職員爛に「下野日日新聞特派員」と記載されている。柴田博陽は同書の中で当時の栃木町に3つの提言をしている。1つは両毛線敷設から麻宇を活かした工業をおこすこと。2つ目は女子教育に力を入れるため栃木町に女学校を開校創設すること。そして3つ目は遊郭を錦着山麓につくるべしと3つの提言をしているのがおもしろい。3つ目の遊廓は錦着山麓ではなく合戦場にできたが、あとの2つの提言は実現されている。麻宇を活かした懐炉灰、下駄製造の産業と栃木女子高校も明治34年(1901)に創設されていることから、卓見の持ち主であったことが伺えてくる。

Photo_10  「雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物。あの彫刻はりっぱです。田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと思えるのですよ。凄い彫物です」と以前に満福寺の長沢住職は私に話してくれた。

  睨みを効かせるように鋭い眼玉をしている龍の欄間彫刻。凄さと迫力が伝わってくる。向拝の横からは太くたくましい、海老虹梁(えびこうりょう)。向拝柱上部には見返りの唐獅子の彫刻が施されている。

 見事な彫物の彫師は渡辺喜平治正信であると関忠次は「社寺の彫物を訪ねて」の中で指摘している。

Photo_12  関忠次氏は渡辺喜平治正信の彫刻として他に栃木市新井町にある天満宮拝殿向拝上の龍の欄間をあげている。別の日に新井町天満宮に行き、向拝鐘掛け上にある龍の彫物を見て来た。写真で見比べても雲龍寺の龍とうり二つである。同一人物の彫師であることは間違いないと分かる。

2  また、栃木市重伝建地区嘉右衛門町岡田記念館所蔵の大神輿の縁起書には「文久3年(1863)彫工、栃木石町渡辺喜平治正信」と記され、嘉右衛門町例幣使街道沿いに展示されている。

  栃木旭町の神明宮の大神輿の彫刻も渡辺喜平治正信が彫っているとされている。

Photo_14 

 他に特記するものとして、渡辺喜平治正信の彫物には、小山市上泉にある熊野神社本殿の彫刻を磯辺敬信と共に彫上げている立体感ある幽玄な彫刻がある。熊野神社は巴波川舟運本沢河岸跡の「日光山裏道」と佐野道が交差する梅の宮宿にある。

 熊野神社境内の案内標識版には当代一流の彫刻大工としての磯辺分家三代目磯辺敬信が評価され、渡辺喜平治正信も共に熊野神社本殿彫刻彫りをしたことが記されている。江戸後期から明治初期に磯辺一族とは別に栃木町には江戸後藤流の流れを受け継ぐ彫師がいたことが分かり、うれしくなってきた。後藤流江戸彫りの流れに位置づけされる彫師、渡辺喜平治正信についてこれからも注目していこうと思う。

047  雲龍寺御堂向拝鐘掛け上の龍の欄間彫刻は田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと満福寺の住職は推測している。

  「クワズイモとソテツ」など奄美の底深い世界を描いた孤高の日本画家田中一村は栃木市平柳(現在の泉町)に生まれている。雲龍寺200m東に田中一村の生家があったと云われている。大正元年(1912)、一村が4歳の時に一家は東京の麹町に転居している。一村の父、田中彌吉は稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻だったと云われている(中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」より)。関忠次氏は彫師渡辺喜平治正信の弟子であったと指摘をしている。

Photo_18  雲龍寺と田中彌吉とを結びつくものとして、明治29年(1896)に建てられている雲龍寺建立由来の石碑裏面の中に田中彌吉の名前が刻字されている。境内の右にある3基の真中の「雲龍寺建立の由来」の裏面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この刻字されている「田中彌吉」とは田中一村の父親なのか?

Photo_20  中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」の最後年譜では田中彌吉は昭和10年(1935)に52歳で亡くなったと記されている。逆算すると生れは明治16年(1883)になる。明治29年建立石碑の時の田中彌吉は13歳になる。齢が若すぎる…。どうも不自然なのだ。石碑に刻まれた田中彌吉は田中一村の父とは別人なのか?中野氏の年譜が間違っているのか?龍の彫刻は御堂建立から後の明治30年代なのか?…石碑に刻字されている「田中彌吉」についてはこれからも調べていくことにする

   雲龍寺御堂の彫刻が渡辺喜平治正信によって彫られているとすれば、近隣に住んでいた弟子の田中彌吉も関わり、共同で製作したのではないかと予測できる。浮世絵の世界も共同作業であったことから神社の木彫り師の世界も同様に共同作業があったと思われるからだ。

051    御堂の右、東側には朽ちかけ崩れそうな古い建物がある。栃木市老人クラブの伝承活動「栃木の社寺Ⅱ」に記載されてある「雲龍寺、沐浴場跡」の建物ではないかと思えた。同書には、「本堂の東側に僧侶や信者の沐浴場が造られており、冷水で身を清めていられるているのがたびたび見られた」と沐浴場のことが記されている。

 泉町に住む知人に訊ねたところ「ああ、水行場のことね。白装束した坊さんたちが水を浴び、修行していた。下から水が湧いていたんだな。昭和20年代後半頃までやっていたよ」という答えが返ってきた。朽ちかけた建物だが、「水行場」といわれた「沐浴場」跡として、不動尊信仰跡地として貴重な歴史遺産ではないかと思えた。

  雲龍寺の西側には「ぬかり沼」があり、栃木の町に用水として流れ注いでいた。今はその用水の流れは暗渠になり昔日の面影はない。雲龍寺の境内もかつての老若男女の娯楽地としての面影は残っていない。しかし、御堂には龍の彫刻などが今も残っている。江戸彫りの探索は栃木の町に江戸文化の資産を捜し歩くようなものと思えるようになってきた。これからも栃木の町に残る歴史文化の遺産を探し訪ねる旅をしていきたい。

                                         《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考 社寺の彫物を訪ねて」(平成3年6月発行)/大田区HP「日光東照宮から始まる宮彫師の伝承、江戸彫工・堂宮彫刻の世界」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繁昌記」(明治32年11月発行)/中野惇夫著「アダン画帖田中一村伝」(1995年4月小学館発行)/栃木市老人クラブ編「栃木の社寺Ⅱ伝承活動平成元年度」(平成2年3月発行)/泉町成田山不動尊雲龍寺世話人編「昔日の泉町お不動さん」(平成16年11月発行)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

«6月―夏野菜の収穫