春のおとずれ…杏・レンギョウ・ユキヤナギ

P3220018 〽春のなぎさを あなたとゆくの

 砂に足跡 のこしながら

 はじめて私の 家にゆくのよ

 恋人がいつか 出来たら家へ

 つれておいでと 言っていた父

 夢に見てたの 愛する人と

 いつかこの道 通るその日を

 

111 〽お茶をはこんだ 障子の外に

 父とあなたの 笑う声が

 聞こえてきたのよ とても明るく

 幸せなくせに なぜ泣けてくるの

 母のほほえみ 胸にしみたわ

 帰るあなたの 見送る道は

 おぼろ月夜の 春の宵なの

 「春のおとずれ」(唄:小柳ルミ子、作詞:山上路夫、作曲:森田公一)は小柳ルミ子デビュー3年目21歳の時、7枚目のシングルとして昭和48年2月に発売された曲。

 デビュー当時の小柳ルミ子の曲だが、何故かこの「春のおとずれ」は印象に残っていなかった。最近、スマホをいじっていて偶然に聴いた。ほのぼのとした春の情景が目浮かんできて、快い気持ちにさせてくれる歌になっている。

 ……春のおとずれを感じさせてくれる歌だ。

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 杏の花が今年も咲いた。薄いピンク色した杏の花にはつつましさを感じる。桜の花のようにきらびやかに咲き誇ることなしに、ひっそりと咲いている。

 30数年前に入院した義父の見舞いに行ったことが思い出された。脳梗塞で話すことができなくなった義父はベットから体を起こし、両手で私の手を握りしめた。「娘を頼んだぞ」と義父の眼が語っていた。義母が傍らで穏やかな顔で見つめていたのが記憶に残っている。

 夫婦ケンカした時に何故かその時の光景が思い浮かび、妻と40数年間暮らしてくることができた。父親の愛情を感じる。

 …庭先に咲く杏の花を見ながら春のおとずれをしばし楽しむ。

 P3220010 早春の陽光をあびて黄色く咲いているレンギョウの花。

 薬用として平安時代初期に渡来したといわれているが、定かではない。

漢方医学では「連翹」と呼ばれ、解熱剤、消炎剤など鎮痛薬に用いらているとのこと。

 4月2日は詩人村光太郎の命日で、この日を連翹忌と呼んでいる。高村光太郎が生前好んだ花がレンギョウであり、告別式で棺の上にレンギョウの一枝が置かれていたことに由来するといわれている。

P3230020  レンギョウの半つる性の枝は歪曲して伸び、下に垂れる。地面に接触した枝から根が出て、新しい株が生まれてくる。

 3年前にその新しく芽生えた株を西側に植えた。小さいながら黄色い花が咲いている。まだまだ小ぶりのレンギョウだが来年はもっと大きく育っていることと思える。

P3220013  小さい白い花を一杯に咲かせるユキヤナギ(雪柳)。南側にあるユキヤナギに白い花が咲き誇る。

 中国原産という説もあるが、日本原産である考えられている。

 1.5mほど伸びて白い花を咲かせるユキヤナギには怖いほど迫力を感じてくる。地面の際から枝がいく本にも枝垂れて、細く、ぎざぎざの葉をつけて育っていく。

 花は、雪白の小さなものを枝全体につける。そのさまからユキヤナギという名がついたといわれている。柳のようにしなやかに風にゆれている姿は貫禄さえ感じてくる。

P3220001 東側の端に花壇を作った。

 今まではほっといていた処。雑草に混じってドクダミやヨモギなどが咲き乱れ、草取りが大変だったので整頓をかねての花壇作りでもあった。

 腐葉土と黒土を混ぜ石レンガで囲っただけの完成した花壇。白い百合の花と曼殊沙華を植えていこう。

 わが家の猫どもが匂いを嗅ぎ、ポン太は早速トイレとして使用している。

P3240027  去年の春、電動耕運機を3万幾らでネット購入した。昨年ジャガイモを作った菜園に堆肥と消石灰を散布して、電動耕運機で耕す。

 ――早い。15坪の菜園を1時間30分で耕してしまった。クワ等で耕していたならば一日半はかかる行程だ。

 電動なので、我が家からコードをつないでの操作になっている。そのコードをうまく処理することが少々面倒だが、それでも早く、体が楽である。もっと早く購入しておけばよかったなと思えてきた。

P3220019-1  これから里芋の畝を作り、4月中ごろに里芋の種芋を植える予定。

 新型コロナウイルスの影響で図書館が閉館になっているのが痛い。調べたいことが多々あるが、今しばらくの辛抱だ。

 東京オリンピックも1年延期が決定してきている。小池東京都知事は東京でロックダウン(都市封鎖)など強力な措置を取らざる得ない状況が出てくる可能性があると言明している。本当に感染が終息することができるのか?

それでも季節は巡り、春のおとずれを我が家の菜園で感じていく日々なのだ。

          《夢野銀次》

 

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上州倉賀野宿を歩く①…飯盛女の墓石「九品寺」

31xyudfphsl1 〽つらくても がまんをすれば

 きっときますよ 春の日が

 あなたの口癖 あなたの涙

   命なげすて 育ててくれた

 子供ごころに 香りを残す

 花は越後の 花は越後の 寒椿

 (「雪椿」昭和62年6月、作詞:星野哲郎、作曲:遠藤実、歌:小林幸子)

Yjimage5 新潟生まれの小林幸子が作詞家星野哲郎に初めて作詞を依頼してできた曲「寒椿」。星野哲郎と小林幸子との間で、10歳で「嘘つき鴎」でデビューしたが、長年ドサ回りなどで苦労した頃、見守ってくれた母のことの思い出が話され、この「寒椿」の作詞が生まれたといわれている。

 星野哲郎が描く作詞には「出世街道」「兄弟仁義」「男はつらいよ」「いっぽんどっこの唄」「風雪流れ旅」など「人の世を生きる様の姿」を描いた歌が多い。「寒椿」は新潟生まれの遠藤実の曲と相まって、薄幸の中で娘を見守る母の姿と我慢強く生きる越後生まれの娘が浮かんでくる歌である。

 「雁会(かりがねかい)の人たちが、本堂脇にたくさんあった墓石の中から飯盛女の墓石を探し出したのです。その墓石をここに設けているのですよ」と飯盛女の墓石を案内してくれた九品寺の住職。果たして、うら若い娼妓にとり、つらくても我慢をすれば春の日を迎えることができたのだろうかと問いかけながら倉賀野宿を初めて訪れた。

P2210076  室町時代の延徳3年(1491)創建の九品寺は高崎市倉賀野町にある浄土宗の古刹である。JR高崎線倉賀野駅から旧中山道に向けて歩いて5分の処にある。

 「飯盛女のお墓はどこにありますか?」と玄関口で尋ねると、住職は私を境内墓地入り口の右側に並ぶ6基の飯盛女の墓石を案内してくれた。

 「墓地に入る処に俱会一処(くえいっしょ)が建っているでしょ」と言って、境内墓地に入る手前の左側に墓石を積み上げて高くそびえる「俱会一処」の塔を示してくれた。「たしか昭和60年頃だったと思います。雁会(かりがねかい)の人たちが本堂脇に放置されていた墓石の中を丹念に飯盛女の墓石をお調べになさっておりました。取り出した飯盛女の墓石5基、後から1基が追加されまして、飯盛女の墓石としてここに設置し供養させていただいております。残りの墓石でこの俱会一処を建てたのです」

P2250025  俱会一処の塔を見ながら住職は、「この墓石の中にはまだまだ飯盛女の墓石が埋もれていると雁会の人たちは思っていたでしょうね。俱会一処はお仏さまになれば、どんな人でもみんな一緒ということを意味します」と話してくれた。

 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができるという俱会一処の塔。これまで訪れた浄土宗の寺院にあったかもしれないが、九品寺の住職に教えられ、初めて俱会一処を知った。

 倉賀野史を調査研究していた「倉賀野雁会」は、「史料による倉賀野史1巻~3巻」等を発行するなど精力的に活動をする地域史研究会であった。しかし、帰路に立ち寄った公民館の方から現在は雁会がないことを聴いた。倉賀野の町を歩きながら歴史的な根拠を示していった活動は倉賀野地域史に大きな貢献を行ったと思えてくる。

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 整然と並べられてある5基の飯盛女の墓石を見る。わずかに「清水屋」以外に読み取ることのできないほど墓石は劣化している。飯盛旅籠の主人が供養して建立した墓石が並んである。できれば案内標識版が建っていれば飯盛女の墓石とすぐ分かるのだが…。

 5基の墓標銘については「文献による倉賀野史第3巻」(倉賀野雁金発行)とブログ「隠居の思ひ記九品寺」を参照して、写真右の墓石から順に記載していく。

①慈教信女位 田澤屋栄之助 娘はま 行歳廿才

 (左側面)越後國三島郡石地宿

 (右側面)文久二找裁七月八日

②歸眞迎観信女霊位 

 (右側面)越後國蒲原郡柴田領沼垂内山木戸村

      角蔵娘よしきく 行年廿四才

 (左側面)寛政八丙辰十二月晦日 施主 永井儀兵衛

P2210071 ③飯元教瀧信女

 (右側面)北越後長岡産、字ハ瀧、幼少より半哺乃た免、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ、死生の風に散りぬ念悼して是を立碑するもの也 施主日野金井 和泉屋主人

 (左側面)寛政十一年巳未四月廿二日

④越後新潟平次娘きく墓

 越後三条浦館村 こよ墓

 越後大宮嶌村 女へて墓

 越後三條久兵衛女りよ墓

 (右側面)へ観了尼享和三 六月三日

      り稀月尼文化三 正月三日

 (左側面)き旭雲尼享和四 二月十九日

      こ頼覚尼享和三 五月廿九日 清水屋

⑤法月妙性信女

 (左側面)文政二卯十一月十五日

 (右側面)越後国長岡中原町 権介娘やの

P2250028  「越後生まれの娘さんが多かったと聞いております」と住職のつぶやく言葉が聞こえた。5基の墓石で名前の刻字されている飯盛女8人はすべて越後生まれになっている。

 群馬県史や太田市史編纂等に携わってきた五十嵐富夫氏は著書「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、「九品寺において発見された飯盛女の墓石26基中、越後出身と記されたものが19基と非常に多く、倉賀野宿では、越後出身の飯盛女が圧倒的に多かった」と記している。発見された26基の墓石については住職も分からないと述べていた。

 九品寺境内以外に保存されている墓石については群馬県立博物館等の学芸員に確認していく必要があるのではないかと思えてくる。

 同じく五十嵐富夫氏の同書では、中山道、奥州道中、日光例幣使道の宿場に越後出身の飯盛女が多かった理由について、佐藤信淵の越後の習俗の『越後国は赤子を殺すこと甚だ少し。その代わりに女子をば、七、八歳以上に至れば夥しく他邦へ売り出す風習とす。故に北越の買婦は一箇の物産なり』ということを引用し、いずれ売ることになるため間引きが行われなかったことを記している。

P2210062  さらに五十嵐氏は「世事見聞録にも『国々の内にも越中・越後・出羽辺りより多く出るなり』とあり、上記の国々が遊女や、飯盛女を最も多く産み出す国としてあげているが、これらの国は雪国であり、みな同じ一毛作地である。一毛作地は関東以西の二毛作地に比べて、夏季に冷害・干害・洪水に見舞われると、それが直撃弾のように一家を悲劇のどん底につき落としてしまう。それでも武士の年貢収納は容赦なく頭上におそいかかる」という一毛作地帯雪国の厳しい環境であったことを記している。

 ③の『版元教瀧信女』の墓石については「瀧は幼年より反哺(はんぽ)のため、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ」と20歳で病にて亡くなったことが刻まれている。「文献による倉賀野史第三巻」の中では、「反哺とは口中にある食物の意で、鳥が幼い時、親鳥に養われた恩返しとして食物を親に与えること、転じて子が成長し、親の恩に報いる孝行という語である。瀧が幼少の頃、苦しい家計を助けるために倉賀野宿の飯売(飯盛)旅籠屋へ身売りされて来たこと、これが反哺という言葉で表現しているのであろう」と記されている。

 P2210074  幼児のころに奉公にあがり、わずか20歳で亡くなっていった瀧に念悼して墓碑を建てた和泉屋の主人は近江国日野の出になっている。近江商人の流れなのか?群馬県出身の俳優の東野英治郎の祖先も近江商人であった。栃木宿も近江商人の出である善野一族があることなど、関東には近江商人が多数移住してきているのではないかと思えてくる。

P2210056   徳川幕府は 人身売買を禁止していた。しかし、10年年季奉公以内ならば奉公を認めることにした。5歳~6歳の幼児や15歳から奉公する名目は年季奉公となっていたが、実質は娼妓としてからだの縛られる身売りになっていた。

  参勤交代などで幕藩体制の維持を図った徳川幕府。そのため5街道をはじめ脇街道に宿場を作り、街道の整備をすすめた。徳川幕府は道中奉行支配の東海道や中山道の5街道や日光例幣使道など脇街道の宿場に公儀御用の旅人と荷物の継立を行なう人馬設置を厳命した。そのための宿場の役割の第一は人馬荷物運搬の継立であり、人馬を常時確保し対応していかなければならなくなっていた。継立を円滑にすすめるためには人夫など経費がかかることになる。宿場の金回りをよくする必要があり、その方策として宿場役人は宿場に飯盛旅籠を設置し、多くの旅人を引き寄せることで宿場財政を豊にしようとした。

 近世女性史研究家の宇佐美ミサ子氏は「飯盛女は飯盛旅籠を巧みに利用し徳川幕府の権力体制である宿駅制度の維持を底辺で支えていた」と指摘をしている。厳しい年貢の取り立てと宿駅制度維持のため、必要とされた年若い娘が身売りという犠牲を強いられていったのだ。

 「文化・文政」など江戸後期の年号が刻まれた墓石が多数ある九品寺から住職にお礼を述べ、山門からすぐの旧中山道に歩みを進めた。

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 中山道倉賀野宿は江戸から12番目の宿場になっている。宿場入り口には日光例幣使道に分岐する標識石塔と常夜灯が建っている。

 私の住んでいる栃木市の大通りは日光例幣使道であり、この分岐点から栃木宿につながっていることになる。「ここからわが家まで何キロ歩けばいいのだろうか?岩鼻代官所もここから近い。今度、例幣使道を歩いみるかな」とふと思い浮かんだ。

 P2210106_20200305064001  倉賀野の宿場の長さは全長11町39間(約1.2㎞)。天保14年(1843)の『中山道宿村大概帳』では宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2032人であった。明治16年の鉄道敷設まで利根川に合流する烏川の舟運河岸として栄えたといわれている(ウキベリアより)。

 飯盛旅籠の数は、新編高崎市史通史篇に天保十三年(1842)の「旅籠屋渡世書上帳」に「旅籠数36軒、うち飯盛旅籠屋32軒、平旅籠屋4軒」と記載され、堅苦しい城下町であった高崎宿旅籠15軒より多かった。1軒2名と定められていた飯盛女だが、超過人を含めると飯盛女の数は70人~80人いたのではないかと推測される。いずれも十九歳がピークの飯盛女は年季明ける前に亡くなっていく定めであったとされている。

 若い娘にとり過酷な環境の中で生きる支えは何であったのだろうか?そうしたことを考えながら旧中山道倉賀野宿を歩いていきたい。 

                《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「文献による倉賀野史第三巻」(昭和62年9月倉賀野雁会発行)/五十嵐富夫著「飯盛女ー宿場の娼婦たち」(昭和56年1月、新人物往来社発行)/ブログ「隠居の思ひつ記・史跡看板散歩ー54九品寺」(2017年7月22日配信)/宇佐美ミサ子著「宿場と飯盛女」(2000年8月、興英文化社発行)

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栃木市万町の近龍寺「涅槃図」を観る

P2240001  「今年の梅の木、お花、いっぱい咲いたわね」と妻が庭先に咲いた小梅の木を見てつぶやいた。「去年、剪定をしたからだ」と私も得意げに話すと、「わたしは白梅ではなく、桃色の梅の木にして欲しいと言ったのよ」と言い返してきた。

 「今年は小梅がたくさん成るな」と実感する。

 去年は5月に退院し、自宅療養のため数少ない梅の実を採ることができなかった。4月末の再検査如何によるが、今年は何とか小梅の実を採り、カリカリ梅を作っていきたい。

P2080026  本堂内左脇には大きな「涅槃図(ねはんず)」の掛軸が飾られてあった。二間(3.6m)四方もある大きな「涅槃図」に息を飲む。

 「2月15日がお釈迦様の入滅の日になっていますが、2月一杯飾っております。江戸後期に描かれたものと思いますが、カメラでの撮影は拡散されるので固くお断りします」と住職は突然の来訪者である私を本堂に案内してくれた。

 栃木市万町にある古刹、浄土宗「三級山天光院近龍寺」。中国の故事に鯉は三段の堰を上ると龍に転じて天に昇るところから、その名が付けられたといわれている。

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 境内には平成22年(2010)に三佛堂(聖観世音菩薩さま、旧地蔵堂のお地蔵さま、子育安産・学業成就の呑龍上人などを祀る)が建立されている。また、北側の墓地には文豪山本有三の墓地などがあり、栃木市在住の著名人のお墓などたくさんある。

 「万町とはヨロズチョウと読むのですね」と小学6年のころ、他県から赴任してきた先生が言ったことが思い出される。私の生家は万町交番裏の東裏通り(通称明治座通り)にあり、家の前には万福寺用水が流れていた。その用水路沿いに近龍寺があった。呑龍さんのお祭りの日には近龍寺に遊びに来て、山門前の出店「煎餅焼き」を食べた記憶がある。

 明治・大正と栃木町の第二小学校、栃木女学校で過ごした女流作家の吉屋信子は、昭和33年(1956)に「暮しの手帖」に「おもいでの町―栃木」を執筆している。

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 令和元年(2019)10月10日の栃木市文化講座「吉屋信子の生涯と作品世界」の中で、講師の元栃木女子高校長、吉屋信子記念会副会長の藍田收氏から「おもいでの町―栃木」が紹介された。講師にその作品が載っている本を訊ねたところ、後日コピーが私のもとに送られてきた。

 「おもいでの町―栃木」には「川のある町」「母校の庭」「町裏」「祭の町」「涅槃図を観た寺」と栃木町で暮らしていた頃のことが、簡潔に執筆されている作品になっている。

 とりわけ「涅槃図を観た寺」では寺の名前が記されていないため、藍田氏に電話したところ「近龍寺ですよ。2月8日に近龍寺へ行けば観ることができます」と教えていただいた。2月8日の早朝、扉が開いている玄関口に立ち、本堂に飾れてある「涅槃図」を観ることができた。

 簡潔に近龍寺「涅槃図」ことが綴られている文章は堂内に飾られてある光景とそれを観る少女の姿が伝わってくる。短い文面になっているので、全文を記載させていただきます。

…………………………………………

おもいでの町―栃木―

 涅槃図を観た寺

          吉屋信子 著

 この小さな町としては堂々たる寺院だった。

 子供のわたしはこの寺で涅槃の絵を見た。

 お釈迦さまが入滅の床に大きなお姿を横たえていられる傍の沙羅双樹(さらそうじゅ)の梢の上に白い月が描いてあった。

 そのまわりに仏弟子と共に、あらゆる獣や鳥も集まってお釈迦さまへの別れを悲しんでいた。虎が両手を顔に当てゝ泣いていた。

 そのなかに〈猫〉だけが居ないのだと聞かされて、わたしは背教者の猫がその時、仲間はずれの堪えていた気がしてかわいそうだった。

 その――金泥と胡紛で描かれた涅槃絵をわたくしはいつまでも眺めていた。

 寺のねはん会のある早春の一日の真昼だった。

       「暮しの手帖34 1956」より

…………………………………………

 広い本堂の本尊左側に飾られてある近龍寺の涅槃図。たくさんの動物たちが描かれている中に左下に猫が描かれている。吉屋信子は見落としたのだろうか?それとも涅槃図には猫は描かれていないという思い込みがあったのだろうか?

 一説によると、沙羅双樹の木に引っかかった薬袋を取りに行こうとしたネズミを猫が邪魔したため、お釈迦さまが薬を飲めず亡くなったということから、涅槃図には猫は描かれていないという。しかし、生きとし生けるものは釈尊の涅槃を嘆くとして、江戸後半期の「涅槃図」には猫が描かれるようになったといわれている。

 P2080020  近龍寺の創立から堂塔伽藍などを記述した八百谷孝保著の「近龍寺雑記」に享保12年(1727)の本堂内の様子を次のように記されている。

 「本堂は西向きに建てられ間口七間半奥行六間半の向拝付である。内陣・外陣・御所の間二つ・次の間二つとなっている。内陣には中央に阿弥陀三尊、脇に可ト上人御影(木造椅子)、代々並びに三界万霊の位牌を安置し、その前に前机をそれぞれ置き、上に燭台、花立、香炉、盛物台銅仏器を置き、前に導師用礼盤をすえる。又、喚鐘、大鏧、鉦鼓、双盤、鐃。鉢等を供えており、まわりには華曼四面、幡六流をかけ、天井からは天蓋をつるしている」

 この文面から本堂内のあでやかさという雰囲気が伝わってくる。

 その豪華な近龍寺本堂内に飾られた涅槃図のお釈迦様は、画面中央、宝台の上に頭を北に向け、お顔を西に向けた姿で描かれている。本堂は西向に建てられていることから涅槃図そのものが「頭北面西」ということで飾られていることになる。西方浄土を連想させるあでやかな掛軸である。静かに首部を垂れる私がいた。しかし、写真に撮ることができなかったのが残念……。

 近龍寺を訪れるたびに向拝堂上に飾られるてある龍の彫り物が気になっていたが、迫力ある龍の彫り物である。彫師は「近龍寺雑記」に文化3年(1806)本堂再建の際に棟上記録から大工13人の名前の次に彫物師棟梁として「秋葉金次郎宗玄」と記されている。何者かはネット検索では出てこなかった。おそらくは東照宮彫刻の流れの中の彫師ではなかったのではないかと推測する。彫師「宗玄」に注視していきたい。

Pb300103  本堂玄関口を出ると、塀に囲まれた墓地がある。墓地内には釜屋系列の四代目善野喜兵衛の墓石がある。「歌麿活を活かした街づくり協議会」によって「案内標識版」が歌麿のゆかりの人物や建物跡地に建てらてある。

 善野喜兵衛は狂歌師「通用亭徳成」を名乗っていた関係で喜多川歌麿が何度か栃木町に来たといわれている。歌麿の大作、肉筆画「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」は豪商善野家の依頼で栃木町で描いたといわれている。しかし、実際に歌麿が栃木で肉筆画を描いたという古文書など史料はなく、推測になっている。

 確証としての史料を探している人はいると思えるが、歌麿の画法など研鑽することより観光キャンペーンとして「歌麿まつり、花魁道中」を栃木市が力を入れて取り組んでいることに疑問もある。市教育委員会から「花魁道中」はまずいということから「歌麿道中」と名称を変えての開催する(令和元年は台風水害のため中止)。吉屋信子が「ときの声」の中で記している人身売買のデモステレーショである「花魁道中」を臆面もなく実施していく栃木市。歴史博物館のない栃木市の歴史への思いをみるようである。

P2240004  2月早春の朝日をあびて「ポン太」は発泡スチロールの箱のなかで佇む。体重6.7キロの大きな猫だが、汚い水を飲んだせいか、口内炎になってしまった。私も入院中に口内炎にかかり、食事に苦労した経験がある。

 3週間に一回、動物病院に連れて行き、痛み止めの注射をしてもらいながら、1月22日に歯を2本抜いた。口内炎を治すための抜歯であったが、結果はまだ分からない。動物病院に連れて行かれるのが嫌で、私の姿を見ると逃げることもある。「お前のために病院に連れて行っているのが分からないのか」と怒鳴ってても、関係ねいといって外に飛び出していってしまう。

 2月はもうすぐ終わる。ジャガイモの畝づくりを始めていくことにする。

           《夢野銀次》

≪引用参考資料本等≫

吉屋信子著「おもいでの町―栃木―」(『栃木の文学収録』収録、平成18年9月栃木県高等学校教育研究会国語部会発行)/一行院住職八百谷孝保著「近龍寺雑記」(昭和45年11月、近龍寺発行)

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千住宿を歩く③ー千住大橋を渡る思い

P1310003    地下鉄南千住駅からコツ通りを経て国道4号線、日光街道に出て右折する。「スサノウ神社」「誓願寺」が並ぶ日光街道沿いの歩道を進むと「千住大橋」が見えてきた。

 歩道を行き交う人たちの中にはチャイルドシートの付いた子供乗せ自転車で急いでペダルを踏んで行く女性たちの姿が目立つ。

  保育園に子供を預けて、これから出勤していくのだと見えた。

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 「…迫力ある橋だ。――歴史を秘めている重さを感じる橋」と、下り車線専用になっている千住大橋を眺めながら思った。

 昭和2年(1927)の春に架設されたタイドアーチ橋の千住大橋。全長92.5m、幅24.2mの千住大橋は関東大震災復興事業の一環として架設され、近代橋梁の名作の一つにも挙げられている。交通量の増加のため昭和48年(1973)には下流側の上り車線専用の新橋が全長502.5m、幅18.9mで架設されている。

Img_20060313t1325560821  天保5年(1834)~天保7年(1836)に発刊された江戸名所図会には、「千住大橋 荒川の流れに架す。奥州街道の咽喉(いんこう)なり。橋上の人馬は絡釋(らくえき)として間断なし。橋の北一、二町経て駅舎(とまり)あり。この橋は、その始め文禄三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、今に連綿たり」と、奥州街道の喉元として記されている。

 橋長66間(120m)、幅4間(7m)の千住大橋を中心に描かれている江戸名所図会。荒川(隅田川)の左岸北側には稲荷の祠、奥の方には日光道中「河原町」と記されている。右岸の浅草南側の橋詰め近くの小塚ケ原には橋の守り神であった「熊野社」や「誓願寺」などが書き込まれている。千住大橋を中心にのびのびと壮大に描かれている図である。

P1310009  千住大橋手前左に「千住の河岸」の標識が建っている。両岸が材木などの集散地として賑わったことが記されている。その標識を左に曲がり狭い道を進むと「熊野神社」が鎮座している。

  …境内には入れない。門扉に鍵が掛けられてあったからだ。門扉の横には熊野神社の案内標識が建てられてある。「大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった」と千住大橋と熊野神社のつながりが記されている。

 境内に入ることができないため、隣家の塀越しから本殿社を拝顔した。こじんまりした質素な本殿社であるが、趣きを漂わせ静寂さを呼び込んでいるように感じた。

P1310011  杉本苑子は「東京の中の江戸名所図会千住大橋」の中で、「前九年、後三年にわたった例の奥州征伐のさい、八幡太郎義家が兵馬を進めて千住の地に至り、荒川を渡ろうとしたとき奇瑞(きずい)があった。そこで鎧櫃(よろいびつ)に秘めてはるばる奉載してきた紀州熊野の権現の神幣(みてぐら)を、川岸に斎(いつ)き祀ったのがこのお社の始まりだという」ことを記している。

 ここでいうめでたいという奇瑞があったと記しているが、どういう現象なのかどうも分からない。

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 熊野神社近辺の路地からは高い岸壁で隅田川を見ることはできない。もと来た千住大橋に戻る。

 昭和2年(1927)鉄橋になった千住大橋を渡り、歩く。橋からは左の隅田川上流が千住水道管に阻まれて見ることができないのが残念。

 竣工された同時期に東京市電が南千住から延長され、千住大橋を渡り千住4丁目まで走ることになる。市電は日光街道を走るため旧日光街道の商店街は一時寂びれることになったという(日光街道千住宿民俗誌より)。

Img8772d9bezik9zj1  橋を渡っている川筋は、徳川家康によって千住大橋が架設される以前には「戸田の渡し」と呼ばれた渡船場であった。当時の奥州道は現在の白髭橋付近にあった「橋場の渡し」を経由していたが、千住大橋が架設されることにより奥州道は千住大橋経由になっていく。 

 架設当時の名称は「大川(隅田川」に架かる唯一の橋であったから、単に「大橋」と呼ばれていたが、67年後に隅田川の第二の橋「大橋(両国橋)」が架橋されることにより、千住の地名を冠した「千住大橋」と呼ばれるようになった(ウキベリア「千住大橋」より)。

  この地が選ばれたのは、江戸城から奥州方面に向かう最短直線コースであったこと。隅田川の川幅が一段と狭くなっており、架設が容易であったと考えられている。そこには家康にとり、新領地の関東支配の強化や仙台伊達藩との好みを深めていくことを考え、江戸に着く早々急いで奥州道の整備をしていくための架設ではなかったかと推測する。

 その後、徳川幕府開設に伴い、5街道の整備が行われ、千住宿は奥州道中、日光道中の初宿となり、幕藩体制を支える宿駅制度を担っていくことになる。

300pxsenjyu_ohashi_old1   幸田露伴は明治40年(1907)に「蝸牛庵夜譂」の中で、「千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかかれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当たるをもて、人馬の往来絶ゆること無くして、たゞ川船、伝馬、小舟の類の帆を張り艫櫂を使ひて上下するのみならば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱を川風に忘れん人等(略)。およそ此処の橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無く、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙しく、浮世の人を載せ去る戴せくるなり」(荒川ふるさと文化館「千住大橋展」図録より)と記している。

 何隻もの小蒸気船が行き交う下流と対比して橋の上流はのんびりとして蛇行する川船の様子を執筆している。下町の工場を支える燃料として、明治期から隅田川沿岸の石炭積荷の往来が頻繁にあったことが伺い知ることができる。

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 千住大橋を渡ると大橋公園がある。歩道際に平成27年に建立された葛飾北斎の「冨獄三十六景、従千住花街眺望ノ不二」の画と顕彰碑が展示されている。

 公園の奥の方に松尾芭蕉が六百里の旅、「おくのほそ道」の始まりの句を詠んだといわれている俳文が記されている「おくのほそ道矢立初の地の碑」の記念碑がある。松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月に弟子の曾良を伴って深川から隅田川を遡上して千住に降り立ち、陸奥へと旅立っていく。

P2070010  俳文紀行「おくのほそ道」には「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別の泪をそゝぐ」「行春や鳥啼魚の目は泪」「これを矢立(やだて)の初めとして、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送るなるべし」と記している。

  千住宿や品川宿など江戸初宿には見送り、出迎いの習俗があり、芭蕉一行を見送る情景が描かれている。なお矢立とは筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具のことだそうだ。また、千住大橋は足立区と荒川区の境になっている。芭蕉一行が隅田川から下船したのがどちらの河岸であったか足立区と荒川区がもめた時期があったと聞く。芭蕉は千住大橋を渡って奥州へ旅立って行ったとは思えない。

P1310026  大橋公園の左の岸辺にかかる階段を昇ると上流からの千住大橋を見ることができた。ゆったりと流れる隅田川の岸辺に降りることができるようになっている。

 「…やっと隅田川を見ることができたな」と胸がホットした。向こう岸からは高い岸壁で隅田川を眺めることができなかったからだ。

 岸辺の護岸通りは橋の真下を通り、下流の護岸岸辺に行くことができるようになっていた。

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 この千住小橋付近の川面にブイが浮かんでいたが、その下に江戸時代の木杭が今なお残っているということを後で知った。確かめないできたことが悔やまれる。次回、何かの折りに橋の下のブイを見つけ、木杭を確認していきたい。しかし、川はけっこう濁っていたので、見えるか分からない。

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 千住小橋を渡ると「千住大橋際御上り場」という板の案内看板が掲示されている。将軍家、日光門主など高貴な人物が利用していた湊を千住大橋際御上り場と言っていたという解説文が記載されている。

 江戸城堀から道三掘~日本橋川~隅田川~千住大橋湊へと船にて遡上し、日光街道への社参する行程があったことが分かった。

 千住大橋の真下に千住小橋があったことは知らなったし、水辺を歩くことができたことは良かった。願わくば江戸時代の木杭も見たかった。

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 下流側から昭和通りにつながる千住大橋の新橋を見る。大きな橋だが何故か愛想のない橋に見えた。

 目線を下流に転じる。ゆっくりと流れる隅田川の右岸の先には白髭橋のある南千住3丁目になっている。美空ひばりの母親、加藤喜美枝が生まれたのも南千住3丁目である。

 幸田露伴の前述の文面の中で、「橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無しく、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙はしく」の通り、大正、昭和の初期にかけて工場の燃料となる石炭を積んだ幅の広い達磨船が運航していた。

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 大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」の中で、ひばりの母、加藤喜美枝が生まれた南千住三丁目界隈のことを次のように記している。

 「大正3年南千住三丁目に生まれた加藤喜美枝の家々は石炭を燃料にしていた。夕食時になると、家々の軒先に七輪を出し、石炭をたいた。まわりの人たちは、喜美枝の家のあたりを汽車長屋と呼んだ。(略)トタン屋根の平屋で6畳2間くらいの小さな家であった。父親の又吉は、牛に大八を引かせて、藁莚(わらむしろ)の袋であるカマスに入れた石炭を売り歩いていた。(略)南千住三丁目には隅田川の水路と陸路から、北は、北海道、福島の常磐、南は九州から、石炭がつぎつぎに運ばれてきた。町には、石炭の卸商や小売商の店が立ち並んでいた」と当時の貨物船である達磨船から石炭が運び込まれてくる様子が描かれている。

P1310021_20200208051501  白髭橋下流へと流れていく隅田川を眺めながら美空ひばりのステージが思い浮かんできた。最初に見た新宿コマ劇場での「美空ひばりショウ」。演出構成は母親の加藤喜美枝であった。

 一番後ろの席に座り観たそのステージ。舞台は下町特有のけばけばしさを感じたが、何よりも美空ひばりの歌声がズシンと胸に入ってきた。一番後ろの客席に座った自分の心に響いてくる美空ひばりの迫力ある歌唱力に感動した記憶がある。

 それでも、…あのけばけばしいギンギンラした舞台装置には驚いた。今思えば、加藤喜美枝が生まれ育った隅田川沿いの南千住三丁目界隈の石炭積卸しの匂いが発散されていたのではないかと思えてきた。

Tower_48664601 〽安い貸間の貼り紙を

 さがし歩いたあの頃は

 お前とお茶を飲むたびに

 マッチの箱が増えてった

 街も賑わう年の暮

 着たきり雀のジーパンはいて

 千住大橋たたずめば

 頬にポツンと小雪が落ちてきた

 何かやりそな顔をして

 なんにもできない俺だった

 (昭和50年10月、作詞:喜多条忠/作曲:叶玄太/歌:石橋正次)

 昭和50年(1975)の青春ドラマ「俺たちの旅」の第11話「男はみんなロマンチストなのです」の挿入歌を石橋正次が歌っている。荒川ふるさと文化館発行の「千住大橋展図録」にこの曲が紹介記載されており、初めて知った。地方出身の若者が抱いたであろうやりきれなさを描いたと図録に記述されてある。

 ユーチューブでこの歌を聴いてみたが、「何かやりそうな顔をしてなんにもできない俺だった」というフレーズが自分のことを言っているようで気に入った。作詞は「神田川」「赤ちょうちん」を書いた喜多条忠だ。千住大橋を渡り歩きながら、なんにもできない若者の焦りと惨めさがにじみ出てくる詞である。

P2070004     もう何年前だろう。40歳前後の頃、高校の同窓会に出席した。その時、高校の演劇部だった女子から、「あなたはこういう同窓会に出席してこない人だと思っていた。ただの人だったのね」と平凡な人物であったと見下されたような気がして、グサリと胸に突き刺さる言葉を受けた。普通の勤め人になっていた自分を言い当ててもいた。その通りですと言い返せなかった自分を恥じることはないと思って黙した。彼女はその時も地域で演劇を続けて頑張っていた。だから演劇をやめた自分に言えた言葉だったのかもしれない。

 千住大橋という大きな歴史ある橋には何かを包み込むような雰囲気がある。隅田川に架かる千住大橋を渡っていった多くの若者たちが昔も今もいる。橋の向こうに見えたものは何だったのだろうか。冷たくもあり優しくもある橋。若い頃に渡っていたら「何やってんだ、夢はどうした!」と叱られたかもしれない、この千住大橋に…。

                           《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

ブログ「江戸図会を読む」/鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会下巻」(昭和50年1月角川書店発行)/杉本苑子著「東京の中の江戸名所図会」(昭和50年12月北洋社発行)/佐々木勝・佐々木美智子著「日光街道千住宿民族誌」(昭和60年10月名著出版発行)/荒川ふるさと文化館「千住大橋展図録」(平成19年度荒川ふるさと文化館発行)/萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」(2013年6月岩波書店発行)/大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」(平成元年7月新潮社発行)

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千住宿を歩く②ーかんかん地蔵・なかよし地蔵尊・めやみ地蔵堂

  かもんじゅくミニ公園内『江戸後期絵図』

P9140058     「分かりやすい絵図だな…。でもこの関札所ってなんだろう?他の宿場町ではあまり聞いたことがない。木戸口のことなのかな」と千住宿江戸後期絵図が載っている「かもんじゅく案内掲示版」を眺めながらつぶやいた。

 旧日光街道千住宿は江戸に物資を運ぶための中継地点として青物市場、通称「やっちゃば」が軒を並べ、賑わいをみせていた。その千住宿場町の一つであったやっちゃば跡掃部宿の通り沿いに、足立区がミニ公園「掃部宿憩いのプチテラス」を平成27年(2015)にオープンしている。

 旧日光街道千住宿通りを歩いていて、ベンチが置かれた小さな公園で暫し休憩する。公園の端に絵図入りにの千住掃部宿案内版あるのを見つける。眺めたこの絵図、どの絵図よりも江戸期の千住宿を表していると思えた。江戸後期と書かれた絵図には、千住大橋から南北に道幅5間の宿通りを経て、左北端日光街道への出入り口までが描かれている。

 Dsc025671 絵図の中に千住大橋を渡るとすぐに「関札所」と記されているのを見つける。現在の京成線ガード附近になる。同じく宿の北端日光街道出入り口、今の千住新橋あたりにも「関札所」と記され、南北の宿出入り口に置かれているのが分かる。木戸口を表しているのではないかと思い、ネットで調べてみる。木戸口ではなく、「高札場と似たような施設で、本陣の利用状況を知らせるものであった」とブログでの解説説明が記載されていた。

 画像がないかなと思ったが、わずかに高札場を小さくしたものということで、具体的な画像は見当たらなかったが、掲示板として立っていた施設だったのだろうかと思えた。

Dsc025681   勝山準四郎著「千住宿と足立」の中でお関札として記載があった。それは、「参勤交代で千住宿を使用する大名は、他家との差合いをさけるため、木の看板のようなような宿札(関札)を三枚作成し、本陣と北は千住5丁目のはずれ、南は河原町はずれにこの『お関札』を掲示した。古図によると関札所は四方を竹矢来で囲われた中に一本太い柱が立っている。関札は本陣と2か所の関札所に掲げられたものである。休泊当日には本陣亭主と問屋場役人が関札下まで出迎え、先導して本陣に案内した」とある。

 大名の出迎え送りはこの関札所で行ったということは、宿場の出入り口を意味しているということなのだ。

 宿場の出入り口にあたる関札所には千住宿本陣や脇本陣を利用する大名や高官の名前が掲示され、他の大名や高官がかち合わないように、また知らないで宿内に入って、宿泊中の大名や高官に無礼が無いように知らしめる意味があったのだ。こうした関札所があったということは,参勤交代で日光街道、水戸街道を通る大名等が数多く千住宿を活用、頻繁に通ったことが伺える。

D0183387_134714591  さらに絵図には神社仏閣が多く記載されている。日光街道宿場通りを挟み、西側には源長寺、慈眼寺、不動院、勝専寺、安養院があり、東側には関屋天満氷川神社、金蔵寺、長円寺、清亮寺と記されている。

 それ以外にも「大千住マップ」ガイドには、千住河原町稲荷稲荷神社、八幡神社、千住神社、千住本氷川神社、千潮金比羅宮、千住4丁目氷川神社と数多くの神社仏閣が存在している。とりわけ何故か氷川神社が多いのが目立つ…。

 家数2,370軒、人口9,456人で成り立っていた千住宿場町。その規模から、神社仏閣数は多いように思えてくる。しかし数多く寺院仏閣のある千住宿には近郊近在から人が訪れる何かがそなわっていたのだろう。磁石のように人を引き寄せた「まち」としての魅力は何か?それは何であったのだろうか?そうしたことを見つけようと思い、宿場町通りを歩いていくことにする。

安養院の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」

Pc120161  宿場通りの北端、日光街道出入り口の手前を左に入ると立派な山門のある安養院。千住最古の寺院と云われている。鎌倉時代執権5代北条時頼が建立、小田原北条氏政の祈願所があったという。関東制覇を目論んだ小田原北条氏の匂いが残っているのか?

 もとは千住元町にあったが、慶長3年(1598)兵火の火災にあい、現在地に移った。

 享保年間に8代将軍徳川吉宗が立ち寄り、その際に吉宗の子が長福丸(ながとみまる)であったことから寺の名を長福寺から長福寺安養院に変えたと云われている。歴代の住職と檀家の努力で江戸末期から明治初期にかけては真言密教の壇林となり、多くの仏弟子を世に送ったともいわれている。

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 中央図書館に向かう道路の右側に安養院の表札が架かった山門がある。その山門から本堂に向かう手前に3体の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」が並んで祀られている。

 右2体のお地蔵さんが「なかよし地蔵尊」。左が寛文4年(1664)、右が寛文10年(1670)の建立ということから、歴史ある古いお地蔵さまということになる。

 嫁や姑の諍いや近隣との関係に悩み苦しんでいた人は「なかよし地蔵尊」を拝み、心の救いを求めたのだろうかと思い描く。お地蔵さまのお顔は穏やかで優しい表情をして親しみがわいてくる。

 …精神的な安らぎを求めていくお地蔵さんなんだ。

Pc240035 元禄12年(1699)に作られたという「かんかん地蔵」。

 自分の体の痛い(病んでいる)部分と地蔵の同じ部分や地蔵さまの頭を石で叩くと良くなるといわれ、このときに出る音から「かんかん地蔵」と呼ばれている。このため、叩かれた部分がへっこんでいて、顔がすり減り、のっぺらぼう状態になっている。奇妙な姿をしたお地蔵さまだが、人々の苦痛を引き受けている尊いお姿に見えてくる。

 わが家の飼い猫「ポン太」が口内炎になり医者通いをしている。早速かんかん地蔵さまの右側の口辺りに置かれてある小石で「かんかん」と叩いてみて、早く治ることを祈願する。

Pc240037_20200104142401    お地蔵さまは、お釈迦さまが「自分の亡くなった後の衆生(しゅじょう)の苦しみを助けよ」と後を委嘱された仏さまといわれている。

   お地蔵さまへのお経の中に147字の『地蔵軟偈(じぞうなんげ)があり、地獄の責苦を代わりに受けるという「代受苦」という文言がある。お地蔵さまが身代わりになって引き受けようとする。そのお姿に誓願をする(太田久紀著「お地蔵さんのお経」より)。各地にある「身代わり地蔵尊」の基になるお経ということになる。

 リュウマチや神経痛で痛む人がお参りして、小石でお地蔵さまの頭や体を叩き、治癒を痛みが和らぐことを祈願したのだろうと思い描く。

 安養院境内には庶民の苦しみや苦しさを救うものとしてお地蔵さまがいることを知ることができた。

長円寺「めやみ地蔵堂」

Pc240028   戦災で焼失した千住通り沿いの中で、伝馬屋敷の面影を今も残している横山住宅。昔トイレで使った再生紙の浅草紙の問屋でもあった。

 横山住宅の脇には長円寺に続く参道があった。参道入り口脇には「石地蔵」が置かれていた(子育て地蔵)。この参道は大正の終わり頃まで両側にからたちの生垣が続いていた。このことから参道の奥にある長円寺は『からたち寺』と言われ、親しまれていたお寺であった。

Pc120193  長円寺の山門横には足立区教育委員会案内版がある。「新義真言宗の当寺は、寛永4年(1627)出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶ。後に、賢俊が開山する。9代将軍家重の享保年間16世栄照の代は、殊に栄えた」と記されている。

 古来より山岳信仰の対象の湯殿山の行者が庵を結んだとある。松尾芭蕉は『おくのほそ道』における湯殿山の部分について、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記し、『語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな』と句を詠むにとどめている。出羽三山には行ったことはないが、どこか神秘に満ちた句である。芭蕉は深川から隅田川を伝い千住大橋で舟を降り、奥州へ旅立っていった。この日光街道千住宿を通っていった松尾芭蕉一行。…その姿を思い浮かべるのも歴史散策の面白さである。

Pc240013_20200104093601   長円寺山門左横に「子育て地蔵堂」がある。通称「めやみ地蔵堂」と呼ばれ、古くから目を病んだ人たちがお参りに来ることで知られている。もともとは参道入り口、横山家住宅の脇にあったのが現在の処に移ってきているが、それが何時頃なのかは分からない。

 花や線香をあげる人はもとより、参道先の千住宿通りにある絵馬屋で買い求めた「向い目」という柄の眼病祈願の経木千住絵馬が数多く奉納されているのが目につく。

 お堂の扉には鍵が掛けられており、中のお地蔵さまは暗くて見ることができないのが残念だ。これも「めやみ地蔵尊」と言われる由縁なのかと勝手に思ったりしてしまう。

Pc240011  お堂の前横に後生車(輪廻車)が立てられている。

 …初めて見る後生車。木の角柱の一部をくりぬき、車輪状のものをはめ込んで心棒を通したものになっている。なかば朽ちかけているように見えたが、車輪は勢いよく回った。

 後生車は亡き人を供養するものと一般的に言われている。千住の「めやみ地蔵尊」は眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊であることから、その願いをする際に車輪を回し祈願するということなのだと思える。お地蔵さまに直接強く祈願を伝えるということなのか。

 しかし、足立史談会編集の「足立区歴史散歩」と「千住歴史ウオークガイドブック」の「長円寺、後生車」の紹介では「お百度参りの数取り道具である。上に回すと来世で、下に回すと今世で願いが叶うという言い伝え」とだけ記している。この車輪を回しながらお百度参りの数取りができるのか?具体的なイメージが浮かばない。――分からない。「千住街の駅」で地元の古老に尋ねると「数取り道具という記述は間違っているのではないか」という指摘があった。

 どうも胸におちないため、足立区にメールで問い合わせたところ、足立区郷土博物館の学芸員の方から「後生車(輪廻車)」の回答が寄せられた、分かりやすいメールになっているので、前半を省略して記載することにする。

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 回答メールでは、「(後生車・輪廻車)は念仏を唱えることと同じ効果、功徳があるとされるもので、お参りの際に回すものということだと思います。しかしながら、人々がこれを使用していくにおいて、様々な解釈で信仰されることとなります。そして、その土地、その場で言い伝えられ、様々なバリエーションができるということになります。

 勢いよく回して、ぴたりと止まると極楽往生できる。回し終わったときに逆回転すると地獄に落ちる。また上に回すと来世で、下に回すと今生で願いが叶うなどです。

Pc120191   ただし、お百度参りの際に回すということはあっても、後生車では直接その数はわかりません。ここに、小石や串を置く。あるいは何かに結ぶなどしないと数はとれないかと思います。地蔵堂前に置かれているのは、地蔵尊へのお参りの際、念仏を唱えるということだと思います。後生車については、とくに地蔵尊に限るものではありません。ただ、念仏を唱えるという点では、地蔵尊は身近な仏であると思います。

 長円寺の地蔵は、眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊なので、その願いをする際に、車を回したものと思われます(足立区郷土博物館学芸員)」と後生車の基本的な考えを教えていただいた。しかし、お百度参りの数取り道具については、後生車だけではできないという見解であった。お百度参りの道具であるという規定から頭が混乱してしまう。千住史談会の再考を促したい。

Pc120188  日本民俗学会理事の井之口章次氏は「お地蔵さんと神信仰」の中で、水神との関連から、木村博氏が「後生車を廻すことが手を洗う代わりになる。川瀬垢離(かわせごり)と同じ意味合いものだ」ということを聞いたことを紹介し、「そのとき、川の水をすくってかける動作と、地蔵車を下から上に廻す動作とに、何かしら共通点があるように感じた」と記述している。

 車輪を回すことが、川の水で身を清め祈願する行為でもあるという。いろいろな解釈があるのだと思えてくる。それでもお地蔵さまに眼病治癒を願うことには変わりがない。後生車を回し、祈願をしていく。それで良いのだと思い、気持ちが落ち着いた。

Pc240039  クリスマスを迎え、餃子1人前100円、デコレーションケーキが1500円と宿場町通り商店街は活気に満ちていた。

 千住宿通りの北端には接骨医院として江戸時代から有名な「名倉医院」の旧診療所、長屋門などの建物が保存されている。一日に300人~500人の患者が受診したと云われている。この千住4丁目、5丁目には「なかよし地蔵尊」「かんかん地蔵尊」「めやみ地蔵尊」「名倉医院」と並んでいる。

 近代の「病い」は医学的に除去、征服されるものであるという考えが根底にある。しかし、江戸時代の「病い」とは、なだめ、鎮めるものだと捉えられていた。そのため薬種や医師による治療とあわせて医療信仰が盛んに行われていた。それはたんなる地蔵信仰ではなく、当時においては医療そのものであったと言うことができる。

 身体の痛み、眼病、精神疾患等を癒し、鎮めることを求め千住宿に足を運んできた人がたくさんいたのだ。そうしたことから千住宿には人を引き寄せる磁石の一つとしてお地蔵さまを含めた医療関連の施設が多く存在していたことが分かってきた。まだまだ千住宿には人を引き寄せる磁石があるように思え、さらに歩いていくことにする。

                       《夢野銀次》

≪参考引用文献等≫

佐々木勝・佐々木美智子著「千住宿民俗誌ー宿場町の近代生活」(昭和60年10月名著出版発行)/勝山準四郎著「千住宿と足立」(昭和56年6月足立史談会発行)/足立史談会編集「足立区歴史散歩」(1992年6月学芸社発行)/「千住宿歴史ウオークガイドブック」(2016年3月千住文化普及会編集発行」/太田久紀著「お地蔵さんのお経」・井之口章次著「お地蔵さんと神信仰」(昭和59年10月大法輪閣発行「地蔵さま入門」に収録)/岩波文庫「芭蕉おくのほそ道」(1979年1月岩波書店発行)/足立区郷土博物館配信メール「後生車・輪廻車について」(令和元年12月受信)

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千住宿を歩く…水戸街道、清亮寺「槍掛け松」「解剖人墓」

Pc120164  栃木駅から東京都心にでるには、東武日光線・伊勢崎線に乗車し、北千住駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて行くことになる。

 電車が北千住駅手前の荒川鉄橋をガタンゴーン、ガタンゴーンと響かせながら渡りきると、すぐに右側車窓から高架線下にある寺院の屋根瓦が見えてくる。「何というお寺さんなのだろうか?」と通過する度に思っていた。

 東武伊勢崎線高架下にある寺院は「清亮寺(せいりょうじ)と称し、旧水戸街道に面し、元和5年(1619)身延山久遠寺末として創建された千住地区では唯一の日蓮宗の古刹であることが門前に立って分かった。

Pc150001  旧日光街道千住宿の賑わう商店街を北に歩く。名倉医院の手前に、「東へ旧水戸佐倉道・北へ旧日光道中」と書かれた分岐点標識から右に入り水戸街道沿いを歩いて行く。

 荒川でこの旧水戸街道は途切れてしまうが、幅6mの水戸街道を歩いているのだなと実感する。常磐線高架線の下を通り、荒川土手堤を後ろに見て、左側の高い塀沿いに歩くと東武伊勢崎線高架が見えてきた。高架線手前の左側に清亮寺山門があった。

 清亮寺は日光街道から分岐した水戸街道最初の寺院になることになる。

Pc120176 どっしりとした山門をくぐると正面に本堂が建っている。

 本殿の建物は「天保4年(1833)に再建の総檜造りで、随所に江戸期の建築様式を遺しているすぐれた建造である」と足立教育委員会作成の案内掲示板に書かれてある。

 正面から見る本堂はコンパクトではあるが、風格を備えた歴史を感じさせてくる。総檜造りのもつ木目の柔らかさが本堂建物全体を包んでいるように感じられ、優しい建物に映ってきた。

Pc120166  寺院の逸話「槍掛け松」として、関東大震災前に撮影された「ありし日の槍掛け松」の写真が境内参道脇に掲示されている。

 樹齢350年の松の木は昭和20年に枯れて、今はない。屈曲した松の枝は街道の向こう側の民家まで伸びていた。そのため、参勤交代で通る大名行列の槍を倒さなければ通過できないことになる。槍持ちにとり槍を倒すことは許されないことになる。松の枝を切ることになる。

Pc150007  水戸藩主、水戸光圀は張り出した枝を切るには惜しいとして、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば槍を倒したことにならないという粋な計らいをした。

 以来、この松は「槍掛け松」と称され、ここを通る大名行列は、門前で松に槍をかけて休むようになったと云われている(案内掲示版説明文より)。

 なんだか昔話を聞いているような気がするが、どこかほのぼのとする感じがしてくる。文政4年(1824)頃には江戸参勤の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住宿を往来したと云われている。奥州街道からくる大名は混雑する日光街道を避けて、水戸街道沿いで東上した大名を数多かったと云われている。

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 本堂手前の境内右側に庵造りの休憩所が設けてある。境内にベンチが置かれてている寺院はよく見かけるが、休憩場をわざわざ設けている寺院はあまり見かけない。これも「槍掛け松」の由来なのかと思えてくる。

 早速休憩所のベンチに腰を下ろして境内を見る。墓地内に樹木が多いのに気が付く。昔日の想いを浮かべて欲しいと寺院側の優しい配慮を感じた。本堂と墓地の裏手には荒川の土手堤が見えた。荒川の対岸には死刑執行を待つ服役者のいる小菅の「東京拘置所」がある。明治維新直後には小菅県が置かれ、囚人をも収容していたが、小菅県が廃止されると小菅集治監に変わる。荒川がなかった時代は非常に近い距離にあったことから清亮寺に囚人墓地が設けられた。

 清亮寺には4基の囚人墓地が昭和46年頃まであったが、東武線の複々線工事に伴い豊島区の雑司ヶ谷霊園に移され、解剖人墓だけが境内に残った(「江戸四宿を歩く千住篇」より)。

Pc120173  「解剖人のお墓は何処にありますか?」と箒を持って本堂裏手から現れた寺院の人に尋ねた。その人は私に無言で「解剖人墓」と刻字されている墓石を差し示してくれた。

 本堂の左手にある解剖人墓。明治3年から4年(1870~1871)にかけて、この寺で医学解剖された死刑囚の遺体を葬った墓である。

 墓石は前後に2基ある。後列にある「解剖人墓」の右側面には明治5年申2月建立と刻まれ、左側面には「取刀」としての3人の医師の名前が刻まれている。

 前列の墓石は墓碑として昭和42年6月に建立されたいきさつと11人の解剖された人の名前、年齢、村名、戒名が記されている。

Pc120174  解剖人墓と記された前列の墓石には、「明治初年日本医学のあけぼのの時代、明治3年8月当山で解剖が行われました。人のふわけさせる者などだれもいないころでした。被解剖者はすべて死罪人でした。執刀は福井順道が一人、大久保適斉が九人、亜米利加人ヤンハンが一人、いずれも日本医学のパイオニアたちでした。

 それら解剖された死罪人の霊をとむらうべく墓を明治5年2月建てましたが、破損してきましたのでここに新しく石碑を建立しました。昭和42年6月当山二十七世日香」と記されている。

 下段に記された被解剖者の戒名には「皆刃信士」「受刃信士」といずれも「刃」の入った戒名になっている。「斬首刑」ということを現わしている。また、年齢では55歳の一人を除き、あとは20代から30代と壮年層になっている。

Pc120169  かつての牢獄は不衛生からくる牢死者を多く輩出していた。しかし、解剖するには内臓を含めて壮健な者を望んでいく。そのために死罪人が人体解剖に最も適していたことになる。

 以前に壬生町を観光ボランティアの案内で歩いた時、黒川のほとりで死罪になったばかりの遺体を壬生藩の蘭学者が解剖を行ったことを聴いている。医学の発展の陰で死罪人の遺体が付与されてきたことを改めて知ることができた。

 水戸徳川家は参勤交代を行なわない江戸常駐の定府大名であった。そのため国許である水戸と当主の居住する江戸との間で緊密に連絡を取り合う必要があった。水戸街道には徳川家専用の施設(小金の水戸御殿等)が多数設けられていた。

Pc150015  江戸と水戸との連絡が緊密であったが故に「戊午の密勅」をめぐり、水戸領内から藩士、百姓、郷士らが小金宿を中心にその数1万人規模が集結し、「南上」といわれた抗議行動が江戸水戸藩邸、幕閣に対して起こった。安政の大獄で井伊直弼はこの「南上」からの危機感を踏まえ、幕閣の強さを示すために水戸藩に重い処罰を与える。そのことが「桜田門外の変」を生み、時代は急激に変化をしてきた。

   水戸街道はどこか幕末争乱の街道につながっていくような気がする。吉村昭の「桜田門外ノ変」で水戸藩家老の安島帯刀が幕府から処罰されるところがこう記されている。「評定所で申渡し(切腹)をうけると、ただちに処刑のため伝馬町へ護送された。牢屋敷に入ると、安島(帯刀)の駕籠が、まず仕置き場へ入った。牢役人の合図で駕籠が素早く旋回させられた。安島が眼をまわしたしたところを小役人が駕籠の外に引きずり出しして、ただちに首をはねた。切腹の判決であったが、斬首されたのである」と斬首する際の手立てをリアルに描いている。土壇場での斬首ではなく、いきなり眼をまわさせての斬首には井伊大老の憎しみが混じっていたのではないかと思えてくる。

P9140069

 江戸四宿(東海道品川宿、日光街道千住宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿)の一つ千住宿は日光街道の初宿となり、水戸街道の分岐する宿駅であった。「日光道中宿村大概帳」には天保14年(1843)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けれ、家数は237軒、人口は9,456人であったとその賑わいが記されている。

 旧日光街道の千住商店街を歩いていくと、人、人で現在も賑わっている商店街。どこからこの賑わいが生まれてくるのかを知りたくなってきた。飯盛女のいる旅籠なのか、街道を往来する武士や近在の農民なのか?

 ――千住宿をもっと歩いていこうと思う。

                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「江戸四宿を歩く」(2001年12月、街と暮らし社発行)/「千住宿歴史ウォークガイドブック」(2018年3月、NPO法人千住文化普及会発行)/吉村昭著「桜田門外ノ変」(平成2年8月、新潮社発行) 

 

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生きていく姿が光り輝くー映画「キューポラのある街」から

自分の進路ー「学ぶこと」とは

201607241539501~苦しい時には見つめてみよう 仕事に疲れた手のひらを

~一人だけが苦しいんじゃない みんなみんな苦しんでる

~話してみようよ語り合おうよ 積もり積もった胸のうちを

(「手のひらの唄」昭和31年作、詞:伊黒昭文・曲:寺原伸夫・昭和39年に坂本九がレコード化)

 トランジスター工場内を案内説明した女工(吉行和子)は食堂でジュン(吉永小百合)に、「働いて勉強するってね、(定時制高校)面白いわよ。学校にいろんな人が集まるでしょう。だからみんなで助け合うのね」と、昼休み「手のひらの唄」を合唱する職場のコーラスの歌声が聴こえてくる。合唱する女工たちを見つめるジュン。 

 「♪悲しい時には見つめよう 汗にまみれた手のひらを」と歌いながら商店街を自転車で帰宅するジュン。そこには自分の進路(就職して定時制高校に通うこと)を決めたジュンの15歳の少女の明るい笑顔がある。

1387372523545223002261  昭和37年(1962)4月公開の吉永小百合主演の日活映画「キューポラのある街」をDVDで観る。

 監督はこの作品がデビユー作品となる浦山桐郎。原作は早船ちよ、脚本は浦山桐郎と師の今村昌平との共同執筆。ブルーリボン賞作品賞受賞作品。キネマ旬報ベストテン2位。主演の吉永小百合もブルーリボン賞主演女優賞などを受賞し、大きく飛躍するきっかけになった作品。浦山監督も、この作品で第3回日本映画監督協会新人賞を受賞した。

 中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女。高校進学を目指すジュンだが、職人気質の父・辰五郎(東野英次郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。

Imgp31811  自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任の原田先生(加藤武)の助力で修学旅行に行けることになった。

 しかし、ようやく 再就職した父親は、待遇不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかかる。

 ジュンや弟のタカユキ(市川好郎)が親しくいている級友の一家が北朝鮮に帰還することになり、そこでの一家の苦悩する姿や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、就職、自立して働きながら定時制高校で学んでいくことに意義を見出していく(ウキベディア参照)。

03311   映画の冒頭、荒川の鉄橋を電車が大宮に向けて走るシーンにナレーションが重なる。

 「今や世界第1になったマンモス東京の北の端から荒川の鉄橋をわたるとすぐ埼玉県川口市につながる。河ひとつのことながら、我々はこの街の生活が東京と大きな違いを感じる。500を数える鋳物工場。キューポラという特色ある煙突。江戸の昔からここは鉄と火と汗によごれた鋳物職人の街なのである」と川口市内を見下ろしながらキューポラの見える荒川土手道を中学に通う生徒たちをバックにメインタイトル『キューポラの街』が映し出される。

 今村昌平とともに「幕末太陽伝」の助監督を務め、日活を退社していた川島雄三監督に浦山桐郎はどうしても試写を見せたく、探し当て見せることができた。見終わった川島雄三は、「俯瞰(ふかん)のカットが4つばかりありましたが、あれはいけない。みだりに人を俯瞰してはなりません」と語り、細かく演出について批評した(田山力哉著「夏草の道」より)。

P61300381  「俯瞰」とは上から人を見下ろすという意味がある。そのシーンが4つあると川島雄三は批評している。川口市街地を見下ろすシーンなのか?登場人物を見下ろしているシーンがどこなのか?…私にはわからない。

 この作品を観ながら、一つ一つの画面に真剣に向き合って撮っている監督以下スタッフ、出演者たちの厳しい姿勢、真剣さがひしひしと伝わってくるのを感じた。とりわけ、吉永小百合の目の鋭さと走る姿の足の太さが印象に残った。回りの環境やそこに生きる人々を見つめ、自分に負けないで生きようとする少女の表情が良い。

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  修学旅行にいかず、学校へも登校しなくなったジュンに担任の野田先生(加藤武)は、「勉強したって意味ないもの」と言ったジュンに、「生意気言うんじゃないよ。受験勉強だけが勉強だと思ったら大間違いだぜ。高校へ行けなくとも勉強はしなくちゃいかんのだ」と怒り、こう諭す。

 「いいかジュン。働いても、何やってもだな、そんな中から何かを掴んで理解して、付け焼刃でない自分の意見を持つ。そいつを積み重ねていくのが本当の勉強なんだ。定時制へ行ったっていいじゃないか。それも行けなきゃ通信教育受けたっていい。気持ちさえありゃ何処でどうやったって勉強できるんだ」と、仕事を通して学んでいくこと、生涯教育の本質を語る野田先生。早稲田大学を卒業後、文学座に入る前の一年間、大久保の中学校で英語教師をしていた加藤武ならではの語りに説得性を感じた。

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 授業の作文の中でジュンはこう綴る。

 「わたしには解らないことが多すぎる。第一に貧乏なものが高校へ行けないということ。今の日本では中学だけでは下積みのまま一生うだつが上がらないのが現実だ。下積みで貧乏でケンカしたり酒飲んだり、バクチを打ったり、気短かで気が小さく、その日暮しの考え方しかもっていない。みんな弱い人間だ。もともと弱い人間だから貧乏に落ち込んでしまうのだ。すると貧乏だから弱い人間になってしまうのか。わたしにはわからない」

 わたしが中学を卒業するときに担任の先生は、「いいか、同窓会は20年間開かないこと」と言った。どうして?そして…そうか。と頷いた。当時、50名いたクラスの中で半数が就職者であった。進学組とのギャップを埋めるには相当の年月が必要なのだと、その先生の言った言葉が今も残っている。

北朝帰還事業ー離散する家族

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 川口駅前で北朝鮮に帰る人たちへの歓送会が映し出される。ジュンとタカユキ姉弟は級友のヨシエ(鈴木光子)と弟のサンキチ(森坂秀樹)を見送りに来る。しかし、北鮮に共に行かぬ日本人母親(菅井きん)がサンキチに会いに来た時に、会うのをとめるヨシエらの姿をジュンは見つめる。そこにはつらい家族たちの姿が描かれている。

 1950年代から1984年にかけて在日朝鮮人とその家族による日本から北朝鮮への集団的は帰還事業が行われた。この時期、在日朝鮮人も生活に困窮する者も多かった。生活保護者の削減や犯罪の削減を背景として日本政府や政党などもこの帰還事業をすすめ、日本人妻2000人を含め、10万人近くが北朝鮮に帰還したといわれている。

 新潟行きの列車の中でサンキチは母親を恋しがり泣きじゃくる。在日朝鮮人の父親(浜村純)は、「母ちゃんと暫くいろ、そして来たくなったらいつでも来いよ、俺、働いて住みよくしとくから」と言って、大宮駅からサンキチを川口に帰す。しかし、母親は別の男と結婚し、すでにいなくなっていた。あれから50年の歳月がたっている。帰還した人たちはどうしているのか?

E2c578731   牛乳を盗んでいたタカユキとサンキチは牛乳配達少年に見つかる。小舟で逃げる二人に川ふちから、「馬鹿野郎、お袋が病気だからアルバイト(牛乳配達)やってんだぞ。畜生、お前らのお陰でよ、お前らのとった分だけ店からひかれて、俺ア一銭にもなんねえんだ。薬も買えねえ時だってあるんだぞ。馬鹿野郎!」と叫ぶ。タカユキが「銭払いやいいんだろう」と言い返すと、少年は「畜生!銭なんかで…恥ずかしくないのか、お前ら!」。

 ――ぐさりときてうなだれる二人。貧しくとも恥ずかしくないのかというセリフには人としての誇り、尊厳に突き刺さってくるシーンである。

 川口駅見送りの改札口でサンキチはタカユキに、「二人で飲んだ牛乳代、これで返してくれ」とお金を渡す。受け取ったタカユキも「辛いけど謝っておく」と言う。笑顔で見合わす二人に何故かホットしてくる気持ちになってくる。

「考える少女」から「頑張り続ける女優」

Cltqsevyaeuddw1 ジュンが職場見学から家に帰ってくると、ひさしぶりに笑いながら酒を克己(浜田光夫)と酌み交わす父親(東野英次郎)と母親(杉山徳子)がいた。父親が元の職場に復帰することが決まった祝いの酒であった。「これも組合のお陰なんだな。ジュン県立高校へ行けるぞ」と話す父親にジュンは働いて定時制高校に行くことを告げる。高校進学をすすめる父と母にジュンはこう言うのだ。

 「あたいは父ちゃんに頼らなくてもいいような生活をたてるつもりなの。これ(就職して定時制高校に行くこと)は家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間はすくなくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの。いろんなこと、社会のことや何だとか。そしてその日暮しじゃなくて、何年でこうするという計画をたてて生活したいの」。

 これを聴いた克己は、「そうか、おばさん、偉えやジュンは、しかしお前よくそういうこと解ったもんだな、よっぽど考えたんだな」と感心する。ジュンは「いろいろな人が教えてくれたのよ、まわりの人みんながさ」と照れながら笑顔で話すジュン。

C100_33urayama1  監督浦山桐郎は吉永小百合をジュンの役に起用するという日活の方針にイメージに合わないとし、不満であった。そこで撮影に入る前に吉永小百合に会う。「貧乏というものについて考えてごらん」と突き放すように吉永小百合に言う。吉永家の生活を支えている16歳の吉永小百合にとり「貧乏」とは最も得意とするところであった。やがて撮影の中から吉永小百合の頑張る姿と演技にジュンの役柄を固めていった。

 この子(吉永小百合)の一番いい点は真面目に考えることであり、そこでジュンを考える少女という面でつくってみようと私は思ったからである。役に対する固定観念を俳優に押し付けないで、俳優の内部から出る本気の表情をもとにして役をつくって行く方法を確立していく(関川夏央著「昭和が明るかったころ」より)。

 以後、浦山桐郎は「非行少女」の和泉雅子、「青春の門」の大竹しのぶなど新人女優を掘り出していく監督として評価されるようになっていたが、54歳の若さで亡くなる。

190px1  実際の吉永小百合も石黒ジュンと同じ道筋を歩んできた。家計を支えるための女優業で高校を卒業することができなかった。そのため、20歳の時に早稲田大学の資格認定試験を受験、難関を合格して、昭和40年(1965)の3月に早稲田大学第二文学部史学科を受験し、合格する。多忙な俳優業をこなしながら大学に通い学んでいく。そして、昭和44年(1969)3月に卒業する。卒論は「アイスキュロス❝縛られたプロメテウス❞とアテナイ民主政についての一考察」であったという。

 仕事をしながら学んでいこうとする石黒ジュンの姿勢は、そのまま「吉永小百合」としての「考える少女」から「頑張る女優」になっていく姿に重なってくる。浦山監督が見通した通りの女優を今日まで持ち続けているといえる。

Hqdefault2  サンキチが北鮮に向かう朝、ジュンとタカユキは川口の陸橋からサンキチの乗る列車を見送る。就職試験に向かうジュンと新聞配達をするタカユキ。二人が川口の陸橋を走るところで映画は終わる。 

 その時代を必死に生きていく姿を描いた映画は色褪せることなく、時代を超えて私に訴えてくるものがあると教えてくれた映画だ。

 昭和30年代頃から活躍した女優が姿を消していく中で、吉永小百合だけがどうして現在も主演映画を撮り続けられるのか。「吉永小百合の映画は面白くない」「パッとしない」「人気を支えているのは団塊の世代のサユリストたちだ」など批評や意見も聞かれる。それでも主演映画を撮り続ける、その頑張りに凄さと本気で生きることを感じる。「北の桜守」の中でのトラック荷台でおむすびをほうばるシーンなど必死に生きる姿が描かれいる。いつまでも頑張って光り輝く女優であって欲しいと願う。

                         《夢野銀次》

≪参考資料本≫

田山力哉著「夏草の道 小説浦山桐郎」(1993年1月講談社発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月文藝春秋発行)/シナリオ協会編「日本シナリオ大系4」(昭和49年5月マルヨンプロダクション発行)

 

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壬生城下ー雄琴神社と利鎌隊を歩く

 壬生氏と壬生城址公園

Pb040135  壬生氏の祖、壬生胤業(たねなり)が寛正3年(1462)に京都の壬生(本姓小槻 )宮務家より下野 に下向して現在の城の北東「堀之内」に居を構え、2代目壬生綱重が現在地に城を築いたといわれていた。

 しかし、「壬生町史」では、祖の胤業の出自が壬生官務家ではなく、宇都宮一族であったという説が有力であると記されている。中世の壬生氏出自についての謎については魅力ある地域史研究対象であることも添えられている。壬生地域を支配する際に出自を京都官務家に頂くことは効果のある対策でもある。歴史の謎解きとして、壬生胤業について調べていくのも面白い。

Pb190073 天正18年(1590)に小田原北条氏は豊臣秀吉によって滅亡した。同じく北条に与した壬生氏も壬生城を接収され、壬生義雄(よしかつ)も没して滅亡する。

 江戸時代には城主が目まぐるしく変わり、正徳2年(1712)に近江水口より鳥居忠英が3万石で壬生に移封する。以後、鳥居家8代の居城として明治維新を迎える。

 現在の壬生城城跡地は平成元年に南門の復元。本丸南半分の土塁には石垣が積まれて水が張られ橋が架けられているなど整備された城址公園になっている。本丸跡内には、中央公民館、図書館、町立歴史民俗資料館があり、町の文化の核になっている。

Pb130015 城址公園内駐車場に車を停め、南門から東の方向に歩いていく。蘭学通りに面した足利銀行前には「大手門跡地」の標識案内板が設置されている。

 案内板には壬生城下の絵図(五街道其外延絵図 日光道中壬生通巻1)と大手門模型図(壬生町歴史民俗資料館展示)が載っている。

 この大手門は壬生城主松平輝貞の時代(元禄5年1692~元禄8年1695)に城の南口から東側に移したものとされている。舟運の黒川河岸に通じる船町通りと連絡をとりやすくするためともいわれている。絵図には、大手門前に堀をめぐらし、白壁がめぐらされていて丸馬出になっている。馬出の前は広小路になっていることが判る。

Pb040082  杉浦昭博著「近世栃木の城と陣屋」では、「日光街道に面した大手門の華麗な雄大な姿を旅人は驚嘆の眼差しで眺め、特に雪の朝日に輝く風情は見事であった」と紹介されている。

 実際の大きさで大手門が復元されたら素晴らしいだろうなと勝手な空想をしてみた。

戊辰戦争ー壬生城下の戦い・黒川の河岸

Pb130044

  慶応4年(1686)4月22日の未明、豪雨の中で壬生城下から近い安塚村において姿川を挟んで新政府軍と旧幕府軍との戦闘が始まっていた(戊辰戦争安塚の戦い)。同日の明け方には旧幕府軍の別働2小隊が壬生城下に侵入し、大手門、船町通り、雄琴神社裏周辺で壬生藩兵と戦闘があったことが壬生町史に記されている

 壬生町史には、「同日の明け方、旧幕府軍伝習隊二大隊の内7・8番の両小隊が黒川を渡河し壬生町に迫った。壬生藩兵は大手口の兵隊の内、物頭小笠原甚三郎は組の者を率いて船町に出動、中筒奉行は中筒士を率いて雄琴神社の裏に出動。敵兵との間で接戦を闘い、死した」。壬生城内にいた新政府軍はすべて安塚に出陣しており、城内は壬生藩士のみだったといわれている。

Pb130030 さらに町史には「壬生藩兵劣勢の中に城中に引き揚げる。大鳥勢(旧幕府軍)は町の家4,5軒に放火したが、豪雨のため燃え広がらなかった。大胆な者が大手前の藤屋安兵衛の宅に放火したところ、城内の壬生藩兵が射殺した。大鳥勢も後続勢がないため、また安塚の報を聞いて、背面を襲おうと計画、軍を反して4,5町進んだところで土佐藩負傷兵3人と出会って、これを殺害(略)、新政府軍が壬生に帰るところにあって、 隘道(あいどう)を経て帰陣した」と記されている。

 大手門跡地前の向いに雄琴神社、黒川と続く船町通りがある。船町という町名はなくなっているが、よく整備された道路になっている。歩いていると新しく整備された通りでも、どこか深い歴史の雰囲気が漂ってくる。歴史散策の面白いところだと思えてくる。

Pb040097  雄琴神社の先には思川に合流する黒川が流れている。壬生町舟運の五河岸(河岸問屋各1軒)の一つ、中河岸があった処だ。正徳明細帳には中河岸について「雄琴大神社馬場先六、七十間隔処に河岸あるをいう」と記され、6艘の舟(部賀舟)があるといわれている(ウエブ「壬生町地域史デジタルアーカイブ」より)。

 黒川の中河岸は雄琴神社から約120メートル先に1軒の河岸問屋と河岸があった。壬生河岸の舟運は鹿沼ブランドといわれた木材で江戸では大変な人気であったという。小さな筏で木材を小山の思川乙女河岸に運び、そこで大きな筏に組み直し江戸へと運んだ。

 この辺りから旧幕府軍が黒川を渡河し、雄琴神社本殿の裏を伝い壬生城大手門前に迫る処で壬生藩兵と戦闘が行われたのだなと推測をする。

雄琴神社と利鎌隊の結成

Pb040103 11月15日前であっても晴れ着をした「七五三詣り」親子の姿が見える雄琴神社。子をもうけなかった私にはちょっぴりうらやましい光景に映ってくる。

 「七五三詣り」は子どもの死亡率が高かった時代、節目の年齢に成長できたことに感謝する神事。7歳までは神様の子で、ここでようやく自分の子になったことを慶ぶ日ともいわれている。「七五三詣り」の日は徳川綱吉時代に鬼宿日(鬼が宿にいて出歩かないので邪魔されない日で大吉とされる日)で縁起の良い11月15日にしたことが由来とされている。

Pb190070  古来、雄琴神社は壬生郷の鎮守として藤森神社と称されていた。戦国時代、壬生に初めて城を築いた壬生胤業が江州雄琴に鎮座する壬生氏の祖、小槻今雄公の分霊を合祀し、社殿を建て替え、社号を雄琴神社と改めたとされている。

 壬生胤業の出自については疑問が呈されているが、旧壬生家臣団にとり、壬生家とのつながりを現す神社であったともいえる。徳川時代には底辺に流れる旧壬生家臣としての誇りが脈々と繋がっていくその拠り所が、常楽寺にある壬生氏の墓所と雄琴神社ではなかったのではないだろうか。

Pb040113 雄琴神社社殿の左横に黒川神職家の居宅がある。 御門の右前に「下野勤皇 利鎌隊 結成の所」と刻字された石塔碑が建っている。石塔碑の側面には、「戊辰戦争に当たり東征軍有栖川熾仁(たるひと)親王より「帝道維一」の旗を賜り下野国神職が利鎌隊を結成して治安に活躍した」と記されている。背面には、「明治維新百五十年 平成三十年九月吉日 黒川家二十六代 正邦」としている。

 昨年の建立でまだ新しい石塔碑だ。

Pb040114  「記念石碑は関係した下野の神社を中心に利鎌隊関係者の子孫の方々に寄付をお願いして建てたものです」と社務所に居合せた現在(28代)の雄琴神社神主の黒川正邦神職が私に話しをしてくれた。

  黒川正邦神職の祖父、26代黒川直宮司が昭和15年7月1日に「利鎌隊紀」を発行し、以後の「草莽隊・利鎌隊」研究の貴重な資料本になっている。黒川正邦神職は記念石塔碑建立と合わせて「利鎌隊紀 復刻版」を発行している。この「復刻版」を私はいただくことができた。

 「復刻版」を渡す際に、「栃木警察に利鎌隊の鉄砲が没収されているのです。火縄銃なら没収されなかったらしいです。今なら文化財として利鎌隊が使用した銃として貴重なものになった筈なんですけどね」と利鎌隊の遺品が少ないことを悔やんでいるように見えた。

Photo_20191119132901  「利鎌隊は、慶応4年(1868)に起きた戊辰戦争の最中に、下野国において神職によって組織された『草莽隊』である。利鎌隊結成にを主導したのは、壬生藩領内の雄琴大明神神主黒川豊麿であった」と宮間純一は論文『戊辰戦争期における『草莽隊』の志向」で利鎌隊を規定している。

 草莽隊とは「草莽の在野を意味し、幕末~明治維新期に浪士、郷士、豪農、豪商、学者、神官、農民などが自分たちの費用で結成した隊」と百科事典に記述されている。自ら進んで参加、結成した軍事組織でもあるといえる。

 慶応4年(1868)の3月から4月にかけて下野国は安塚村から始まった世直し一揆、戊辰戦争小山の戦い、宇都宮城攻防戦、安塚の戦い、今市の戦いと地域住民を巻き込んでの争乱が続き、社会不安が拡大していた。こうした情勢を受け、前年に京都の有栖川宮家に「斥候方」と出仕していた雄琴神社の神主を務める25代黒川豊麿神職は東征軍とともに江戸から壬生に帰国した。

Photo_20191119132902  江戸期から神職を支配していた江戸吉田家本所より神職隊結成が促されていた。この戊辰内乱期に神職によって結成された草莽隊は、遠州報国隊、豆州伊吹隊、駿州赤心隊、吉田御師集団の蒼龍隊、安房の神風隊と数多いとされている。

 旧壬生家臣団の流れをくむ黒川豊麿はこれら各地の神職隊結成の動きを見て、下野国の不安情勢の中で治安維持部隊として武力の神職草莽隊結成を決意したのではないかと思える。

 豊麿は壬生藩における吉田家本所(神道家元)の触頭であり、4月に入り豊麿を中心に草莽隊結成の呼びかけを行い、準備が進めてきた。しかし、会合への参加者が少なく結成が難しい状況であった。こうした中、5月15日の上野彰義隊戦争に黒川豊麿ら有志達が有栖川の許に赴き、「斥候」として働き、首領株の者を打ち取った。その恩賞として有栖川宮直筆の「帝道維一」と黒鹿毛一頭を下賜された。また、3月には神社・神職の支配が吉田家本所から新政府の神祇官に一元化され、神職たちに動揺が広がってきた。6月に入り、吉田家本所より「神職隊」結成の廻状が届くことにより神職隊結成の動きが俄かに高まった。

Photo_20191119133001  この廻状に応じて、8月21日に家中村(栃木市)鷲宮大明神神職菱宮紀伊方に参集して「利鎌隊」と名付け、9月に東征大総督参謀に「祝詞の神文に因み利鎌隊と相称し、残賊の奴輩を相除き申度奉存候」として、隊員の名簿と結成の目的を記した願書を提出した。希望した有栖川宮親王の守衛は認められなかったが、9月5日に利鎌隊の結成が正式に認められた。

 隊は黒川豊麿を隊中取締として長士(隊長)を置いた一番隊から十一番隊迄あり59人の隊員で構成されている。隊員の出身郡では都賀郡41人が最大で、ついで安蘇郡が8人、寒川郡と河内郡が各4人、塩谷郡1人、不詳1人となっている。身分は神職が44人と圧倒的であり、復職神主が4人となっている。

 影山博義氏は著書「栃木県神社の歴史と実像」の中で、「利鎌隊が短期間にこれだけ多くの神職を集結させ得た理由は何か。後に利鎌隊は日光県との間に紛争を抱えるが、その理由のひとつが『士装帯剣』である。このことは、利鎌隊に結集した神職たちの上昇志向すなわち武士身分への並々ならぬ願望があったことを窺わせている」と記している。

 隊の名称の利鎌は、祝詞「大祓詞」の中の「焼鎌の利鎌を以て打ち掃う事」から武力を念頭においた神職隊である。目的は野州地域の「残賊」追討であることから10月末には鉄砲20丁を購入し、一組2挺ずつ配分している。しかし、具体的に利鎌隊として隊列を組み残賊を討伐したことなど著書から読み取れず、よく分からないのが感想として残る。

日光県との確執から利鎌隊解散

Pb140066  戊辰戦争内乱状態がほぼ終結した10月24日に東征大総督府が解散した。利鎌隊の後盾が無くなり、あわせて山梨の神職隊「蒼龍隊」も解散するなど、利鎌隊の団結、維持の難しさが浮き彫りになってきた。

 以下、解散までの流れを、宮間純一・影山博義の著書を参考に記述する。

 11月5日に利鎌隊は下野知県事日光出張役所に平柳村(栃木市)の星宮神社神職林和泉方に「文武稽古所」設立の懇願をした。設立の目的は「脱走のもの共も不少哉に相聞候間、当役所之御差図に随い、非常の節は御皇恩之片端をも奉報度存候」と武力を重視する姿勢であった。そのためこの要請は許可を得ることができなかった。9日に「今後は古学之主趣を会得」し、「非常之節には御役所御指揮に随い、身命を擲而尽力」したいとして改めて稽古所「文武修練所」の開設を願い出て許可される。

Pb140063   しかし、この時期から隊内での不協和音や隊内の乱れ、近隣から鉄砲修練や帯刀した隊員の態度などの苦情が寄せられていた。さらに管轄地支配の安定化を図ろうとする下野知県事役所としては独自の軍事力を有する利鎌隊が目障りな組織隊になってきていた。

  危機感を持った黒川らは明治元年12月20日に「稽古所」の移転希望を下野知県事役所(日光出張所)に提出する。移転希望地は同知県事の支配地の西方郷古村としたのは知県事の後盾を望んだからでもある。しかし、この願いは採用されず、逆に下野県知事役所より「利鎌隊員の態度宜しからず、衆民の評判が悪い」と叱責される。

Dscf22681  利鎌隊として組織の存続を計るため会合を重ね、軍事組織から教導機関に衣替えをし、規約改正、隊号の停止、屯集所を「都賀郡講舎」に改めることを決めた。

 そして翌年の明治2年(1689)5月21日に日光県(明治2年2月21日設置)へ講舎設立の願書を届けた。翌5月22日に青木幸躬(下南摩村・講舎知事)と刑部善十郎(家中村-鑑察役)は日光県に出頭し、届願いを陳述した。

 対応した日光知県事役所、元日光同心の村上銕四郎から「百姓と記し乍ら士装帯剣御玄関より参上候段如何の心得に候哉」と叱責され、青木は「手錠宿預け」、刑部は「村預け」、豊麿も「組合預け」の処罰を受けた。6月に高橋山城と福田斎宮が嘆願書を持って日光知県事に出向いたが認めらず、むしろ隊の解散を命じられた。

 日光知県事役所で利鎌隊に対応し判断を下した同心3人は日光奉行所の下級役であり、維新後に日光県下吏として登用されていた者。彼らには神職は百姓と同じ身分の「卑賎之者」という認識があり、「士装帯剣」を保持しようとする利鎌隊に身分秩序を揺るがす危険な存在として映った。

 こうして明治3年(1670)1月5日に鈴木慎三郎(磯村・磯山大明神宮座)、青木幸躬、黒川豊麿の3人は利鎌隊解散の書状を隊員に通知し、1月12日に解散式を行い、利鎌隊はわずか2年で解散した。

 宮間純一氏は、「利鎌隊は、運動理念が突出した非現実的なものであったがゆえに新政府に抑圧されたのではなく、身分的秩序を保持しようとした(日光奉行所)旧同心に解散に追い込まれたといえよう。その背景には、軍事活動を媒介とした各身分間の秩序変動を急速に進めた戊辰戦争の社会情勢があった」と身分秩序の保持が利鎌隊解散の要因になっているとしている。武士への羨望、憧れは幕末動乱から戊辰戦争へと参加、従軍していった者たちにとり大きな問題であったことを今さらなら思えてきた。

 幕末から生まれた草莽隊の底辺に潜む「身分」については、戊辰戦争を研究していく者にはさらに研究課題として受けとめていく必要があるといえる。「士装帯剣」は武士をあらわす姿である。その姿に思いを込め、神職としての立場、旧壬生家臣としての誇りを観ることができる。

壬生町「蘭学通り」を歩いて

Pb040080  壬生城址公園内駐車場に向かいながら蘭学通りを歩く。幕末には国内有数の蘭学者が集まり「医学の街」として栄えたところから「蘭学通り」と名付けられている。通りには「斎藤玄昌旧宅跡」の標識が建ってあった。

 斎藤玄昌は天保から幕末にかけ壬生藩お抱え蘭学医の父、斎藤玄正とともに学問塾「勝怠堂(しょうたいどう)を開き門人を育成した。さらに玄昌は藩主鳥居忠義(ただひろ)の支援を得て、当時では御法度だった人体解剖や天然予防の牛痘ワクチン接種を栃木県で初めて行うなどの医学研究を高めたとされている。医学生を育成する公立医学校を持たなかった栃木県にとり、かつての壬生町の蘭学の興隆は目に留めなかったのかもしれない。

 「蘭学通り」と名付けたのが壬生歴史民俗資料館の中野正人学芸員。地域の歴史を検証し、「まちづくり」に活かす歴史民俗資料館としての役割は大きく、壬生町の優れたところだなと思い帰路についた。

                         《夢野銀次》

 ≪参考引用資料本≫

「壬生町史」(平成2年10月発行)/杉浦昭博著「近世栃木の城と陣屋」(2011年10月随想舎発行)/影山博義著「栃木県神社の歴史と実像」(2019年2月随想舎発行)/宮間純一著「戊辰内乱期の社会ー佐幕と勤皇のあいだ」(2015年12月思文閣発行/宮間純一著論文「戊辰戦争期における『草莽隊』の志向ー下野利鎌隊を事例として」(2010年4月「地方史研究60巻第2号」発行)/黒川直著、黒川正邦編「利鎌隊紀復刻版」(平成30年9月雄琴神社発行)

 

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秋の収穫―イモほりと「解体新書」扉絵の謎

 秋―次郎柿・里芋・さつま芋

Pb050138  「おしえて欲しいの、どうして柿がこんなに実った訳を?」

 ホームセンターで購入した柿の苗木。植えて8年目、去年より5倍も実っている。

 《桃栗3年、柿8年》なのか?

 ここ数日妻と毎日4~5個食べても一向に減らない。柿を植えていない御近所3件に『食べてください』ともっていっても…。「減らないわね、柿」と妻のつぶやきが聞こえてくる。

 我が家のトイレの水タンクが故障してしまった。用便で水を流す都度、やかんに水を入れ水タンクに水を注いで対応。「停電で断水になったら大変だな」と実感する。幸いに水道設備業者がすぐに便座取り換えの対応をしてくれた。7万円の料金と合わせて事業所に柿10個をお礼の気持ちを込めて差し上げた。

  …それでも実った柿は一向に減らない気がする。干し柿を作る気持ちはわかるが、私には作る気は起きないのだ。次郎柿、今日も食べていく。

Pb050137  5月8日に独協医大病院を退院して、急いで里芋の畝作りをしようとしたが、半年の入院治療は体力の衰えとなっていた。思うように畝作りは進まなかった。それでも買い置きしていた里芋の種イモを5月末には何とか植え終えることができた。毎年4月初めに植えていた種芋。今年は例年の半分、8個の種イモを植えた。

 土壌の土を払う。…出来ている。それも去年より形の整っている里芋が土壌から現れた。数少ない里芋だが、ゆっくり食べていくことにする。

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 里芋同様に退院してからさつまいもの畝づくりを行ない、5月末に『金時』と『紅あずま』の苗、30本を植えることができた。

 肥料はたい肥に草木灰。今年は苗と苗の間を広くして、さつま芋全体のスペースを広くした。

…実っている。しかし、カボチャのような大きな塊のさつまいももある。分岐しなかったのだが、どうしてこういうふうになってしまっているのか?――分からない。

「解体新書」の扉絵は判じ絵

Default1   さつま芋を掘りながら先日、「くろき内科クリニック」(栃木市大平町牛久)の待合所で読んだ二宮隆雄著「新編医学史探訪」の中に記載されている「解体新書の扉絵に秘めた杉田玄白のメッセージ」を思い出した。面白い内容なので受付でコピーをしていただいた。俳優の大杉蓮に風貌が似ている黒木院長も二宮隆雄医師と面識があり高い評価をしていた。

 オランダ語の解剖学書「ターヘル・アナトミア」からの邦訳書である『解体新書』は杉田玄白、前沢良沢らによって田沼時代の安永3年(1774)に出版され、日本の近代解剖学の幕開けとされている。

 木版で彫ったこの「解体新書」の中の扉絵について著者の二宮隆雄氏は、扉絵の上部に描かれた盾の中に、不思議な模様が刻まれていることを指摘している。

650x_100676861_20191106054201 「解体新書」の扉絵のもとは、スペインの解剖学者ワルエルデの解剖書で、1556年のローマ版以来イタリア語、ラテン語、オランダ語版と版を重ねその都度扉絵のデザインが部分的に変更されてきた。「解体新書」と酷似した扉絵があるのは、アントワープ版(1568年)で、「解体新書」と明らかに異なるところは上部の盾の内容であるとしている。

 上部の盾の内容が原書では紋章であるが「解体新書」では二匹の魚と一頭の動物が描かれている。これは杉田玄白らが読者にあてた謎解きの「判じ絵」であるとして、次のように記している。

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  「盾の下部にいる動物は、白虎である。明日香地方の古墳で発見されてものと酷似していて、白虎であることは確かである。上部の二匹の魚は恐らく鯉であろう。魚がくわえている中央のものは鈴か鐘であろう。この判じ絵の謎を解くと『西洋からの手紙のお知らせ(あるいは警鐘)』であろう。なぜなら、白虎は青竜(東)、朱雀(南)、玄武(北)に対する「西」の守護神である。また、二匹の魚は、いわゆる「双魚(双鯉)」で、客が鯉を二匹置いて行ったので煮たところ中から手紙が出てきたという中国の故事に由来し、「手紙」のことである。玄白らは訳書への自負と、西洋解剖学が読者に与える衝撃を念頭において、この判じ絵を描いたのであろう」と判じ絵と指摘している。

 「西洋からの手紙のお知らせ(警鐘)」としている「解体新書」。初めて知った見解であり、なるほどと感心した。

Utamaro061_main1  「判じ絵」は絵に置き換えられた言葉や人名、地名、道具など《絵で見るなぞなぞ》として江戸時代に人気を集めた。両目が真っ黒な人物画を「目黒」、さくらの花びらが真ん中で切られている絵を「皿」と表記している。

 喜多川歌麿は水茶屋の娘や芸者の名を画中に書いてはならぬというお触れに従わず、判じ絵を盛り込まして名前入りの美人画を描いている。寛政七年(1795)の《高名美人六家撰辰巳路考》(左図)である。

 こま絵のなかに、龍、蛇、舵、(船の)櫓、香炉の絵が描いてある。音を繋ぐと「たつ・み・ろ・こう」となる。辰巳とは方角にある遊郭といえば深川。つまりこの絵は、深川芸者(辰巳芸者ともいう)の路考さんという当時売れっ子の芸者の肖像となる(新関公子著「歌麿の生涯」より)。

 田沼意次の時代「明和4年(1770)~天明6年(1786)」では蘭学の奨励、狂歌や黄表紙という新しい文学ジャンルを誕生させるなど芸術、言論など江戸時代の町人文化が発展したといわれている。「解体新書」は洋書輸入を緩和した八代将軍吉宗時代からの継承として田沼時代に生まれた。しかし、以後は「寛政の改革」のもとに蘭学も粛清されていったが、蘭方医の努力で西洋医学は進化していった。

Pb050148 さきの10月12日の台風19号による豪雨災害で栃木市を流れる河川が氾濫し、1万3千戸の住宅が浸水被害を受けた。幸い、我が家まで浸水がなかった。しかし、台風15号による60メートルの暴風での屋根瓦被害や住宅の浸水被害など、これからは毎年予期せね大災害が起こっていくことが予想される。地球温暖化による気候変化によるものだろう。

 そうは言っても、小春日暖かな家庭菜園での耕作作業を今日も勤しむ私と12.5歳になった銀太がいる。残りのさつま芋と里芋を収穫していくことにする。 

                          《夢野銀次》

≪引用書籍≫二宮隆雄著「新編医学史探訪―医学を変えた巨人たち」(2006年3月、医歯薬出版発行)/新関公子著「歌麿の生涯ー写楽を秘めてー」(2019年4月、展望社発行)

《追記》

 南千住にある回向院には「解体新書」のかたどった浮彫青銅板の「観臓記念碑」がある。大正11年6月に回向院本堂裏に建てられ、昭和49年に現在の場所に設置されている。「観臓記念碑」と記され、「解体新書」の扉絵と異なっている。どの書を基にして作成されたのかは分からない。

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西向天神社・花園神社の歌碑―藤圭子の歌に潜むもの

「新宿の女」歌碑のある西向天神社

  花園神社から明治通り新宿6丁目の交差点に進み、交差点を右折し、新宿文化センターの先の天神小学校の道なりに歩いて行くと西向天神社の石段が現れ、上ったところに西向天神社の拝殿が鎮座している。

 ここは新宿なのか?……と思えるほど樹木が覆い茂り静寂な雰囲気が漂っている。柔らかな神社の境内であると印象を受けた。

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新宿6丁目「西向天神社」

 社伝によれば安貞2年(1228)、高山寺を開いた明恵上人が、菅原道真自刻の尊像を持って東国に下向し、この地に社を創建したといわれている。西向天神社という名は、大宰府を向くかたちで、社殿が西に向いているため。また別名は棗(なつめ)天神ともいわれている。これは、寛永年間(1630年代)に三代将軍家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた社を見て、社殿等の修復のため金の棗の茶入れを下賜して再興を促したという伝承によるものと社伝に記されている。

 社殿並び左に別当であった大聖院があり、その境内駐車場に太田道灌の山吹里伝説で知られる「紅皿の墓」の板碑があった。

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紅皿の墓

  「紅皿の墓」は、もとは隣接する法善寺の崖際にあったが、江戸中期ころに崖崩れのために現在地へ移されてとガイドブック新宿区の文化財に記されている。

  紅皿は太田道灌に纏わる伝説に登場する少女。急な雨で雨具を求めた太田道灌に対して、山吹の花を差し出したといわれている。貧しく蓑すら差し出せなかった少女の行為は古歌を踏まえたものとのことで、それに気付かなかった道灌は、自分を恥じて歌道に精進するようになったといわれている。

 案内標識版には「太田道灌の死後、紅皿は尼になって大久保に庵を建て、死後その地に葬られた」と記されている。山吹伝説の少女の墓がここにあったとは、意外な発見をした。

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歌碑「新宿の女」

 平成11年(1999)9月25日に「~私が男になれたなら私は女を捨てないわ ネオンぐらしの蝶々にはやさしい言葉がしみたのよ バカだなバカだな だまされちゃて 夜が冷たい新宿の女 作詞・作曲石坂まさを 共作詞みずの稔 歌唱藤圭子」と刻まれた「新宿の女」の歌碑が、ここ西向天神社拝殿横の境内に建立されている。石坂まさをの作詞作曲生活30周年を記念して建立されたもの。

 歌碑の背面には建立の由来として「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と記され、建立者120人の氏名が記されている。

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 昭和44年(1969)9月、18歳でのデビュー曲「新宿の女」は思うように売れなかった。そのため伝説の「新宿25時間キャンペーン」を同年11月8日にここ西向天神社で出陣式を行い、藤圭子と石坂まさをは新宿の飲食街を25時間ぶっ続けで流して回る。出陣式には新聞社20紙、週刊誌16誌、ラジオ13番組、テレビ7番組を集めて、神主代行を初代林家三平が務めた(ブログ「東京とりっぷ」より)。

 翌年の昭和45年(1970)1月にオリコンチャートトップ10に初登場し、「演歌の星を背負った宿命の少女」として2枚目シングル「女のブルース」8週連続1位を獲得する大ヒットになる。さらに同年の4月に「圭子の夢は夜ひらく」、7月「命預けます」と立て続けに大ヒットを飛ばし、昭和45年、1970年の時代を刻む歌手になっていった。歌碑由来に記された「2人の若者が旅立った」といえる天神社に改めて参拝をした。

 幼い頃から浪曲師の父・阿部壮(つよし)、三味線女の母・竹山澄子の門付けに同行、旅回りドサ回りを送り、自らも歌った。17歳の時に『さっぽろ雪まつり』のステージで歌う姿がレコード会社の関係者の目に留まり、上京。錦糸町や浅草界隈で流しをしながら石坂まさをの指導を受ける。

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藤圭子昭和26年(1951)7月5日

 ~平成25年(2013)8月22日

 藤圭子のデビューに至る逸話がネット「ブログあさ芸プラス」に記されている。

 「レコード会社は7社落ちたし、NHKの『のど自慢』には13回も落選した。あの声が荒削りだと敬遠されたと石坂まさをから聞いた。担当ディレクターを務めた榎本襄が、『当時のレコード業界は、大きな声で歌うと怒られるという風潮。藤圭子の最大の魅力である『ドスの効いた声』は、老舗のレコード会社に受け入れられなかった。弱小メーカーからデビューが内定していたが、『RCA』に切り替えてデビューにむけて石坂の猛烈な売り込みが始まった。新聞社や雑誌社に圭子を連れて行って、その場で歌わせる。うまくいかなかった時は、人通りの多い横断歩道だろうとどこだろうと、石坂はすぐに殴るだよ』と榎本の目には圭子は『猿回し』のようにも映った」と記している。

 石坂まさをと藤圭子にとりデビューに向けての激しい葛藤があったことが伺える。西向天神社から明治通りを横切り、ホテル街から歌舞伎町界隈を歩き、花園神社に向かう。西向天神社から歌舞伎町へは意外に近いことが分かった。時は1970年を迎え、時代に挑戦するかのように藤圭子は旅立っていった。

「圭子の夢は夜ひらく」歌碑のある新宿花園神社

 明治通り側から花園神社に入る。本殿前の境内では江戸時代から芝居興行が盛んな神社であった。境内に入る右側に「芸能浅間神社」が鎮座している。日本神話に登場する美女の女神、木花之佐久夜昆売(このはなのさくやひめ)を祭神としている。芸能関係のご利益あるとされ、多くの芸能人が訪れている。

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新宿5丁目『花園神社』

 昭和42年(1967)8月、唐十郎の主宰する「状況劇場」がここ花園神社境内に紅テントを建て、『腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇』を上演した。紅テントという異様な公演は当時の若者に強い衝撃を与えた。しかし、公序良俗に反するとして地元商店連合会などから排斥運動が起こり、ついに神社総代会より神社境内の使用禁止が通告された。昭和43年6月『さらば花園』と題するビラをまき、状況劇場は花園神社を去った(ウキペディアより)。

 私が紅テントで状況劇場の芝居を観るようになったのは新宿西口東京都庁建設予定地や上野不忍公園での公演からであり、花園神社での芝居興行は観ていない。李礼仙、麿赤児、根津甚八、不破万作など全身で体ごとぶつかっていく演技は、演劇の亜流といわれながらも昔から流れる日本人の芝居の原点を彷彿させていたと思っている。…今でも花園神社での芝居興行を観られなかったのが残念無念だと思っている。

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「芸能浅間神社」

 花園神社境内にある芸能浅間神社敷地内に「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑が建立されている。平成11年(1999)12月19日に石坂まさを作詞作曲30周年を記念して建立されている。西向天神社の歌碑が3か月前の9月に建立。2基の歌碑が続いて建立されていることになる。その理由は分からない。

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歌碑「圭子の夢は夜開く」

 歌碑には次のように刻まれている。

 圭子の夢は夜ひらく   作詞石坂まさを 作曲曽根幸明

 赤く咲くのはけしの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさ

 この私 夢は夜ひらく

 十五 十六 十七と 私の人生暗かった 過去はどんなに暗くとも

 夢は夜ひらく

 歌碑背面には発起人として石坂みき、榎本襄、海老名香葉子、大下英治、なかにし礼、星野哲郎、船村徹、山上路夫等18人の氏名と協賛会社、協賛者が記載され、小田天界代表世話人と3人の幹事名が記されている。

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 赤く咲くのはけしの花…遊女の姿、白く咲くのは百合の花…花嫁御料の姿が思い浮かんでくる。十五 十六 十七と私の人生暗かった…少女が遊女に身売りされるのが15歳。江戸から昭和にかけて10年の年季奉公として身売りされた少女たち。年季奉公が終っても身も心もボロボロの廃人となり大多数の遊女は25歳で亡くなっていった。江戸時代の飯盛旅籠の飯盛女の人世の姿が浮かんでくる。時代にのまれながらも人生の底辺を生きていく歌になっている。

 「歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う」 

 父親と母親の浪曲世界と流しできたえた藤圭子の歌の真髄を最近、聴くことができた。昭和45年(1970)10月23日の渋谷公会堂でのコンサート「歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌う」の録音をユーチューブにて配信されていた。19歳の藤圭子がライブステージ上で20曲全曲をフルコーラスで歌う世界に藤圭子の凄さに強い感銘を受けた。

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25年間の演歌を歌う藤圭子

 ステージでは次の25年間の曲が歌われている。「圭子の夢は夜ひらく(昭和45年)」から始まり、「リンゴの唄(昭和20年)」、「なくな小鳩よ(昭和22年)」、「港が見える丘(昭和22年)」、「星の流れに(昭和22年)」、「銀座カンカン娘(昭和24年)」、「カスバの女(昭和30年)」、「好きだった(昭和31年)」、有楽町で逢いましょう(昭和32年)」、「南国土佐を後にして(昭和34年)」、「黒い花びら(昭和34年)」、「潮来笠(昭和35年)、「アカシヤの雨がやむとき(昭和35年)」、「出世街道(昭和37年)」、「お座敷小唄(昭和39年)」、「網走番外地(昭和40年)」、「女のためいき(昭和41年)」、「池袋の夜(昭和44年)」、「長崎は今日も雨だった(昭和44年)」、「命預けます(昭和45年)」を最後にする構成になっている。

 藤圭子の歌うこれらの曲を聴きながら次の想いが沸いてきた。「あかいリンゴ」はアジア太平洋戦争で亡くなって300万の人たちを見つめながら歌う曲になっている。「泣くな小鳩よ」では特攻隊として飛び立っていく兵士の姿が浮かんでくる。「あなたと歩いた港の見える丘」では戦死した恋人を想いながら歩く女性の姿が…。なかでも「南国土佐を後にして都へきてから」の都を「~中支へきてから」と置き換えると中国戦線で歌われたという「南国土佐を後にして」の本来の歌になって聞こえてきた。焚火を囲み歌う兵士たちの姿が浮かんできて涙が滲んできた。「アカシヤの雨がやむとき」をフルコーラスでじっくり聴くことができた。3番歌詞の「~アカシヤの雨が止む時 青空さして鳩が飛ぶ むらさき羽の色 それはベンチの片隅で冷たくなった私のぬけがら あの人をさがして遥かに飛び立つ影よ」…聴いていてゾットしてきた。女の怨念が影となって飛ぶ鳩になってくる。カバー曲でありながら藤圭子自身の持ち歌として歌っている。そこには,はりのある高音の響きと胸に突き刺すドスのある低音から死者たちの思いが歌霊になって現れてきているような気持ちになってくる。1970年という時代を突き進んだ稀有な歌手であった。

 藤圭子が石坂まさをに弟子入りするときに唄った曲が「星の流れに」と「カスバの女」。そして小学5年生の時にドサ回りステージで父親の代わりに急遽唄った曲が「出世街道」であったと石坂まさをは著書「きずな 藤圭子と私」に記している。しかし、20曲の中に古賀政男、船村徹、遠藤実の曲がなく、吉田正の曲が3曲入っている。何故なのか?藤圭子が19歳で歌った歌謡曲の中に潜む本質的なものは何なのか。…分からない。

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 歌の明るさと生きていく姿をステージ一杯に繰り広げた美空ひばりの歌声は広く華やかである。藤圭子の歌には一直線に人の胸に迫り、響いてくる。「命預けます」は相対死の歌に聴こえてくる。

「命預けます」 作詞・作曲石坂まさを 唄藤圭子

 ~命預けます 流れ流れて東京は 夜の新宿花園で やっと開い

  た花一つ そんな女でよかったら 命預けます

 ~命預けます 嘘もつきます生きるため 酒も飲みます生きるため

  すねるつもりはないけれど こんな女でよかったら 命預けます

 ~命預けます 雨の降る夜は雨に泣き 風の吹く日は風に泣き

  いつか涙も枯れはてた こんな女でよかったら 命預けます

 昭和44年(1969)の10月21日、私は機動隊に突撃する部隊に加わることになった。検挙されることは覚悟した。一つ下の学友が一緒に突っ込みたいと言ってきた。「あなたといきたいからです」という理由であった。「兄弟、生まれる時は別個だが、死ぬ時は一緒だぜ」という池辺良が共に殴り込みにいく時、高倉健に言うセリフの世界でもあった。胸が熱くなった。結局は新宿花園神社近くの明治通りで機動隊にぶつかり、検挙されることもなく私の学生運動は終わった。以後の内ゲバ世界には関与することはなかった。

 全共闘運動といわれたその時代は、理屈ではなく心情がエネルギーになり体を突き動かしていった時代であった。あれから49年の歳月を経て、「歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌う」を聴き、19歳の藤圭子の歌声は一直線に私の心根に響いてきた。そんな歌手に今始めて出会うことができた。ありがとう藤圭子。

                           《夢野銀次》

≪参考資料≫ウエブネット「ブログ東京とりっぷ」/「ブログあさ芸プラス」/ネット電子書籍から石坂まさを著「きずな藤圭子と私」(文芸春秋社)

 

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