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2009年6月

忍城から稲荷山古墳へ

Photo  JR高崎線吹上駅から「稲荷山古墳」に行くつもりが、乗車バスを間違えて「忍城」に行く。忍城本丸跡に建てられた郷土博物館・模擬御三階櫓・模擬城門と橋をみる。とてもきれいすぎて、味気ない感じがした。

 天正18年(1590)の小田原役において三千の兵で秀吉方の石田三成の軍勢を向こうに回し籠城した。荒川と利根川の氾濫で作られた自然堤防や沼地に囲まれた忍城(岩槻城も同様に沼地)は三成の水攻Photo_3  めでも落城しなかった。 徳川時代、忍藩最後の藩主は家康の孫の忠明を祖とする奥平松平氏だった。忠明は天正3年(1575)の長篠合戦の長篠城主、奥平信昌の4男であり、分家して松平を興している。救援の帰路、磔となった鳥居強右衛門の13代目の強右衛門商次が忍藩の家老職を務め、墓地も行田市内にある。子孫が脈々と生き続けているんだなと思った。

Photo_4  行田は確か田山花袋の「田舎教師」の舞台となったと思っていたが、何処にも田山花袋の臭いがしなかった。忍城から「さきたま古墳群」まで40分かけて歩いた。その途中の水城公園の中に「田舎教師文学碑」がたてられていると、後で読んだ観光案内に記載されていた。

 市内巡廻バスで移動する場合、時刻表を調べていくべきだ。

Photo_5  稲荷山古墳から昭和43年(1968)の発掘調査の際に鉄剣が出土され、10年後の昭和53年(1978)に奈良の元興寺文化研究所のレントゲン撮影によって115文字の金象嵌(きんぞうがん)が確認された。 たいしたことがないと思われた鉄剣の銘文には年号「辛亥年」、ワカタケル大王(雄略天皇)などが刻まれていた。いつ発表するか伏せていたが、毎日新聞がこれをスクープした。 4~5世紀、東アジアの中で唯一年代を確認できる史料であり、さらに大王という文字が初めて確認されるなど一級の史料として資料館で展示されている。

Photo_7  前方後円墳―始めて観ました。寺沢薫氏は「日本の歴史(王権誕生)」で、前方後円墳を、円は天を、方は地を表すことから陰陽融合として、天と地を合体したことから「前方後円墳」が生まれたとしている。首長の継承の際、後円部で首長霊継承の秘儀を終え、スロープにそって前方部に向かって進み、参列者が見上げる前方部の頂にたって、首長の即位を認知させる大掛かりな舞台設備だとし、新生倭国が自ら創生したミラクルオブジェと指摘している。Photo_9  私も後円部から降り、写真にあるスロープを昇り、頂に立った。視界には緑の広場と青い空が広がっていた。

 出土品の装飾具、馬冑・蛇行状鉄器(馬の後に立てる旗ざおの金具)、武器類はいずれも当時の中国、朝鮮半島諸国の古墳遺跡からの出土品と類似してることが明らかになっている。4~5世紀、「倭の国」が東アジアと強い交流があったことを示していることが分かった。

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うえに広がるカボチャ

Photo_23    カボチャは畑面積を多くとる。

 そのため、柵と網でうえに伸びるミニカボチャをしてみた。2本の苗からカボチャの実7~8個出来てきた。カボチャは花がきれいでオシベとメシベの自粉がおもしろい。

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 イチゴの一種のラズベリーは年2回赤い実がなる。隣りの農家のおじさんに一粒あげたら「年中、実がなっているようだ。手入も必要ないしな」とラズベリーを口に入れながら半分からかわれもしている。

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河越舘から川越城へ

 平成21年6月19日、嵐山史跡博物館の「埼玉史跡探訪ー河越城周辺を歩く」に参加した。東武東上線「霞ヶ関駅」に集合した人員は博物館職員4人を加え60人と歴史への人気が高いことを現していた。コースは上戸日枝神社ー河越舘跡ー常楽寺ー東明寺ー川越市役 前大田道灌銅像ー川越城堀跡 ー三芳野神社ー富士見櫓跡、全長約10キロの行程を歩いた。特に常楽寺から東明寺までの4キロは梅雨時の晴れ間の中、歩きがいのあったこコースでした。

  写真は河越舘跡の堀と霊廟跡地です。 現在Photo_15 発掘整理を行っており、10月14日に一般公開されるとのこと。隣接の常楽寺では大道寺家の墓地を見た。墓石の台座が安溶岩 で作られており、鎌倉時代の台座としては埼玉で一番古いとの説明があった。

  河越舘のそばには入間川があり、開拓武士としてはこうした大河近辺を開拓する力が必要であったことがうかがえた。

 

Photo_16 常楽寺から河越夜戦跡地東明寺(写真)に行く。住職の説明があり、慈覚大師の開基とされ大変古い寺院。境内には稲荷神社もあり神仏混合とのこと。松本清張の「黒い空」に東明寺が詳しく書かれてあるとのこと。今度読みます。

Photo_17   川越城の市役所近くの道路整備により空堀跡(写真)が発見され、現在発掘調査が行われている。市役所担当者の説明では松平信綱時代の拡張空堀とされ、幅50メートル、深さ7メートルとされ、間もなく公開される。

 最後の富士見櫓跡地(写真)は徳川幕府に遠慮し、天守閣のない川越城にとり、三層の富士見櫓があったとされている小高い台地を歩く。川越には高校野球で初雁球場に毎年きていたが、初雁球場の一塁側後方の木立の森が土塁の跡地であったことを始めて知りました。

 

Photo_20 Photo_19

 博物館の史跡探訪は職員の解説、現地での関係者の説明が含まれており、旅行業者が行う史跡探訪とは違い、非常に良い。参加費が100円の保険料のみを含めて。

河越は徳川時代以前。徳川時代になり川越と変わったと何かの本で読みました。

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栃尾城の築城

 平成21年5月7日~8日にかけてクラブツーリズムで春日山城、栃尾城見学会に参加した。栃尾市は越後と会津の国境であり、冬は豪雪地帯として名高い。栃尾城の本丸跡は断崖絶壁の上に築かれてある。この栃尾城は山城として鎌倉時代に下野の芳賀氏によって築城されたとある。どうして下野の芳賀氏がかなりの遠隔地の栃尾に城を築いたのか?栃尾城の麓に秋葉神社がある。その神社の彫り物は見事な迫力がある。芳賀氏は宇都宮氏の重臣である。その宇都宮氏は二荒山神社の社家(神主)を代々勤めており、山岳信仰の関連で栃尾に城を築いたのか。

 後日、南北朝時代、観応の擾乱において薩埵山戦いで功績挙げた宇都宮氏は越後の守護に、守護代は同族の芳賀氏となったことがわかった。守護代として芳賀氏がこの栃尾城を築城したとされているのだ。

 御館の乱の時、上杉景勝は栃尾城を攻め陥落させている。

  ( 栃尾城本丸・秋葉神社)       

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