« うえに広がるカボチャ | トップページ | 関宿城ー川の分岐点 と大利根川の始まり »

忍城から稲荷山古墳へ

Photo  JR高崎線吹上駅から「稲荷山古墳」に行くつもりが、乗車バスを間違えて「忍城」に行く。忍城本丸跡に建てられた郷土博物館・模擬御三階櫓・模擬城門と橋をみる。とてもきれいすぎて、味気ない感じがした。

 天正18年(1590)の小田原役において三千の兵で秀吉方の石田三成の軍勢を向こうに回し籠城した。荒川と利根川の氾濫で作られた自然堤防や沼地に囲まれた忍城(岩槻城も同様に沼地)は三成の水攻Photo_3  めでも落城しなかった。 徳川時代、忍藩最後の藩主は家康の孫の忠明を祖とする奥平松平氏だった。忠明は天正3年(1575)の長篠合戦の長篠城主、奥平信昌の4男であり、分家して松平を興している。救援の帰路、磔となった鳥居強右衛門の13代目の強右衛門商次が忍藩の家老職を務め、墓地も行田市内にある。子孫が脈々と生き続けているんだなと思った。

Photo_4  行田は確か田山花袋の「田舎教師」の舞台となったと思っていたが、何処にも田山花袋の臭いがしなかった。忍城から「さきたま古墳群」まで40分かけて歩いた。その途中の水城公園の中に「田舎教師文学碑」がたてられていると、後で読んだ観光案内に記載されていた。

 市内巡廻バスで移動する場合、時刻表を調べていくべきだ。

Photo_5  稲荷山古墳から昭和43年(1968)の発掘調査の際に鉄剣が出土され、10年後の昭和53年(1978)に奈良の元興寺文化研究所のレントゲン撮影によって115文字の金象嵌(きんぞうがん)が確認された。 たいしたことがないと思われた鉄剣の銘文には年号「辛亥年」、ワカタケル大王(雄略天皇)などが刻まれていた。いつ発表するか伏せていたが、毎日新聞がこれをスクープした。 4~5世紀、東アジアの中で唯一年代を確認できる史料であり、さらに大王という文字が初めて確認されるなど一級の史料として資料館で展示されている。

Photo_7  前方後円墳―始めて観ました。寺沢薫氏は「日本の歴史(王権誕生)」で、前方後円墳を、円は天を、方は地を表すことから陰陽融合として、天と地を合体したことから「前方後円墳」が生まれたとしている。首長の継承の際、後円部で首長霊継承の秘儀を終え、スロープにそって前方部に向かって進み、参列者が見上げる前方部の頂にたって、首長の即位を認知させる大掛かりな舞台設備だとし、新生倭国が自ら創生したミラクルオブジェと指摘している。Photo_9  私も後円部から降り、写真にあるスロープを昇り、頂に立った。視界には緑の広場と青い空が広がっていた。

 出土品の装飾具、馬冑・蛇行状鉄器(馬の後に立てる旗ざおの金具)、武器類はいずれも当時の中国、朝鮮半島諸国の古墳遺跡からの出土品と類似してることが明らかになっている。4~5世紀、「倭の国」が東アジアと強い交流があったことを示していることが分かった。

|

« うえに広がるカボチャ | トップページ | 関宿城ー川の分岐点 と大利根川の始まり »

城址訪問」カテゴリの記事

コメント

忍城が落ちなかったのは石田三成の作戦ミスだ、と、井伏鱒二の『武州鉢形城』にあった。次回は鉢形城報告をお願いします。

投稿: お気楽亭 | 2009年8月14日 (金) 21時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1233525/30334657

この記事へのトラックバック一覧です: 忍城から稲荷山古墳へ:

« うえに広がるカボチャ | トップページ | 関宿城ー川の分岐点 と大利根川の始まり »