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2009年10月

小手指原古戦場から堀兼へ

Photo_20  元弘3年(1333年)の5月8日に上州新田、生品明神にて挙兵した新田義貞は5月11日には入間川を渡り、北岸に陣を敷いた。挙兵の際、『太平記』では弟の脇屋義助は『弓矢の道、死を軽んじて名を重んずるを以て義とせり。運命を天に任せて、ただ一騎なりとも

   (小手指原古戦場跡)

国中に打ち出で、義兵を挙げたらんに、勢付かばやがて鎌倉を責め落とすべし。勢付かずんば、ただ鎌倉を枕にして、打死するより外の事や候ふべきPhoto_16 正義の道を優先し、武勇を重んじることを進言し、挙兵と繋がったと記している。生品明神に集まった150騎は利根川を渡るころには1000騎を超え、小手指原に着陣の時、1700騎と勢いが付いていた。

  (白旗の塚) Photo_19

 小手指原古戦場跡は西武線『小手指駅』からバイバス通りを入間に向かい『誓詞橋』交差点を左折し、『所沢埋蔵センター』の裏てにあり、白旗の塚もそばにある。 5月11日の鎌倉方との小手指原の合戦の前に誓詞橋にて勝利を全軍に鼓吹し、あわせて白旗塚に源氏の白旗を掲げたという伝承がある。しかし、現在の白旗塚は江戸時代に作られたとい説があり、不明でもある。

誓詞橋交差点にある橋)

Photo_21  5月15日の武蔵府中、分倍河原の合戦では新田方は鎌倉方の増援部隊により敗れ、太平記ではただ『堀金指して引き退く』と記してある。

 現在の堀兼神社は江戸時代まで浅間神社と称し、小高い岡の上にあり、2月には富士山をみることが出来る。境内に

(狭山市堀兼の堀兼神社)

は『堀兼の井』のあとがある。堀兼には当時『まいまい井戸』が多数あったとされている。義貞が退いた堀兼はこのあたりなのか?

 所沢の北岩岡にある富岡公民館の東側のネオポリス分譲地の脇を鎌倉街道が通っている。鎌倉街道は御家人の舘を結ぶ枝状になっており、直線道路でもある。

Photo_18  退却する新田方を追撃すれば、新田義貞はその時歴史から去った。しかし、鎌倉方はしなかった。翌16日に三浦義勝の加勢を得た新田義貞は分倍河原にて鎌倉方を破り、そのまま鎌倉に突き進むことになった。これも時の勢いなのか。       

                                    (堀兼につづく鎌倉街道)

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大谷吉継が秀吉の子ならば―関が原

Photo_15  慶長5年(1600年)9月15日の関が原合戦において大谷吉継は自刃した。介錯は湯浅五郎とされ、病の頭を敵にさらされないため、関が原の奥の山林に埋めた。それを藤堂高虎の甥、仁右衛門に見つかったという。

(関が原、 大谷吉継の墓。左が湯浅五郎の墓)

 湯浅五郎は「代わりに私の首を差し出す から見逃してくれ」と叫び、自らの首を斬ったとされている。家康は湯浅五郎の首があるなら、吉継の首のあるはずと問い詰めたが、仁右衛門は黙したとされている。相次ぐ裏切りの中、互角に戦った大谷吉継隊への畏敬の念が働き、藤堂家によって墓が関が原の地に建立されている。隣りには目の見えない吉継の眼となり戦況を随時報告し、指示を仰いだ湯浅五郎の墓が並ぶ。墓は関ヶ原古戦場から山深く入った所に建っていた。

Photo_12  大谷吉継は吉を継ぐと書く。秀吉を継ぐとも言われている。一説には吉継の母「東殿」は大坂城中の北の政所の取次役を務めていたされている。この東殿が秀吉の子を宿し、それに嫉妬したねねが幼少のおりから吉継に毒をもり、失明させたとも言われている説があることを聞いたことがある。

 (関が原決戦地、後方が石田三成陣地、笹尾山)Photo_13  

  真田幸村(信繁)の奥方は大谷吉継の娘であり、大坂城にて秀頼とともに自刃した嫡男、大助は吉継の孫となる。 幸村が吉継が秀吉の子とされていることを知っていたならば、大坂城に参戦する理由の一つにあげられるとおもえるのだが、推測にすぎない。 

(上・下、笹尾山からの関が原古戦場) 

Photo  大坂夏の陣の最後、幸村は吉継の息子吉勝と共に、家康本陣へ果敢な突入を繰り広げた。その執念は関が原への想いもあったのかもしれない。

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