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大谷吉継が秀吉の子ならば―関が原

Photo_15  慶長5年(1600年)9月15日の関が原合戦において大谷吉継は自刃した。介錯は湯浅五郎とされ、病の頭を敵にさらされないため、関が原の奥の山林に埋めた。それを藤堂高虎の甥、仁右衛門に見つかったという。

(関が原、 大谷吉継の墓。左が湯浅五郎の墓)

 湯浅五郎は「代わりに私の首を差し出す から見逃してくれ」と叫び、自らの首を斬ったとされている。家康は湯浅五郎の首があるなら、吉継の首のあるはずと問い詰めたが、仁右衛門は黙したとされている。相次ぐ裏切りの中、互角に戦った大谷吉継隊への畏敬の念が働き、藤堂家によって墓が関が原の地に建立されている。隣りには目の見えない吉継の眼となり戦況を随時報告し、指示を仰いだ湯浅五郎の墓が並ぶ。墓は関ヶ原古戦場から山深く入った所に建っていた。

Photo_12  大谷吉継は吉を継ぐと書く。秀吉を継ぐとも言われている。一説には吉継の母「東殿」は大坂城中の北の政所の取次役を務めていたされている。この東殿が秀吉の子を宿し、それに嫉妬したねねが幼少のおりから吉継に毒をもり、失明させたとも言われている説があることを聞いたことがある。

 (関が原決戦地、後方が石田三成陣地、笹尾山)Photo_13  

  真田幸村(信繁)の奥方は大谷吉継の娘であり、大坂城にて秀頼とともに自刃した嫡男、大助は吉継の孫となる。 幸村が吉継が秀吉の子とされていることを知っていたならば、大坂城に参戦する理由の一つにあげられるとおもえるのだが、推測にすぎない。 

(上・下、笹尾山からの関が原古戦場) 

Photo  大坂夏の陣の最後、幸村は吉継の息子吉勝と共に、家康本陣へ果敢な突入を繰り広げた。その執念は関が原への想いもあったのかもしれない。

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コメント

お久し振りです。
拙ブログのリンク集に貴下のを入れさせていただきました。アクセスが殺到するでしょう。毎日更新するように。

投稿: お気楽亭 | 2009年10月 4日 (日) 21時31分

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