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小手指原古戦場から堀兼へ

Photo_20  元弘3年(1333年)の5月8日に上州新田、生品明神にて挙兵した新田義貞は5月11日には入間川を渡り、北岸に陣を敷いた。挙兵の際、『太平記』では弟の脇屋義助は『弓矢の道、死を軽んじて名を重んずるを以て義とせり。運命を天に任せて、ただ一騎なりとも

   (小手指原古戦場跡)

国中に打ち出で、義兵を挙げたらんに、勢付かばやがて鎌倉を責め落とすべし。勢付かずんば、ただ鎌倉を枕にして、打死するより外の事や候ふべきPhoto_16 正義の道を優先し、武勇を重んじることを進言し、挙兵と繋がったと記している。生品明神に集まった150騎は利根川を渡るころには1000騎を超え、小手指原に着陣の時、1700騎と勢いが付いていた。

  (白旗の塚) Photo_19

 小手指原古戦場跡は西武線『小手指駅』からバイバス通りを入間に向かい『誓詞橋』交差点を左折し、『所沢埋蔵センター』の裏てにあり、白旗の塚もそばにある。 5月11日の鎌倉方との小手指原の合戦の前に誓詞橋にて勝利を全軍に鼓吹し、あわせて白旗塚に源氏の白旗を掲げたという伝承がある。しかし、現在の白旗塚は江戸時代に作られたとい説があり、不明でもある。

誓詞橋交差点にある橋)

Photo_21  5月15日の武蔵府中、分倍河原の合戦では新田方は鎌倉方の増援部隊により敗れ、太平記ではただ『堀金指して引き退く』と記してある。

 現在の堀兼神社は江戸時代まで浅間神社と称し、小高い岡の上にあり、2月には富士山をみることが出来る。境内に

(狭山市堀兼の堀兼神社)

は『堀兼の井』のあとがある。堀兼には当時『まいまい井戸』が多数あったとされている。義貞が退いた堀兼はこのあたりなのか?

 所沢の北岩岡にある富岡公民館の東側のネオポリス分譲地の脇を鎌倉街道が通っている。鎌倉街道は御家人の舘を結ぶ枝状になっており、直線道路でもある。

Photo_18  退却する新田方を追撃すれば、新田義貞はその時歴史から去った。しかし、鎌倉方はしなかった。翌16日に三浦義勝の加勢を得た新田義貞は分倍河原にて鎌倉方を破り、そのまま鎌倉に突き進むことになった。これも時の勢いなのか。       

                                    (堀兼につづく鎌倉街道)

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