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2010年1月

土塁にこだわる---佐倉城(千葉県佐倉市)

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天文年間に千葉親胤が一族の鹿島幹胤にこの地に築城を命じ、開始したが一族の争いで中断した。天正18(1590)年の小田原の役で関東の豪族・千葉氏は小山氏と共に滅びた。

(見事な馬出し)

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 慶長15(1610)年土井利勝が入部し、翌16年に北方は印旛沼に続く低湿地、西・南方は鹿島川とこれに合流する高崎川に囲まれている鹿島山の台地に築城を開始し、元和3(1617)年、江戸城の搦め手として佐倉城は完成している。

(深く絶壁のような空堀)

Photo_3 延享3(1746)年堀田正亮が山形から入部し、以後幕末まで居城となり、現在13代目の堀田氏が佐倉市内に居住している(マイクを持っている人)

 08年、幕末老中の堀田正睦の銅像がハリスと共に二の門そばに建立された。安政5(1855)年の日米修好通商条約を結び、佐倉から近代への幕を開けた功績を讃えてのことだそうだ。(堀田正睦の銅像)

Photo_13 城は丘陵を活用し、二の丸から本丸への空堀の深さ20メートル以上あり、濃い茂みに覆われている。天守台と銅櫓は結ばれていた云われている。この櫓は太田道灌が建てた江戸城の清勝軒であるといわれている。櫓や門が残っていないのが残念。写真が現存するのでせめて鯱のある大手門など復元して欲しい。(天守台)

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  佐倉城は一切、石垣を使用せず土塁で築城している。築城時の慶長年間は徳川の天下普請(江戸城・名古屋城・大坂城)の真最中であり、石材搬入は江戸湾から印旛沼経由で可能だった筈だ。

(銅櫓跡、何で壊したのか!)

Photo_9   土井利勝は土塁にこだわったのだ。

  天文年間(1532~54)築城開始は戦国時代、中世の城としての影を残しての城としての土台。それは石垣では無く、土塁としてのこだわった堅固な築城を目指したのであったのだろう。

(長く続く土塁)

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 国立歴史民族博物館には今回、時間の関係でトイレのみ使用して見学できませんでした。次回の楽しみとします。

(馬出しの前にある国立歴史民族博物館)

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春をまつ・・・にんにく・絹さや・ラッキョウ

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 しかし、日ごとに日の出が早くなってきています。節分を過ぎるともっと明るい朝がきます。

 《芽が短い絹さや》

 

Photo_8 《今年のにんにくの芽の伸びは遅い。植え付けを11月末にしたためだ》

Photo_4 凍ったかたい畑の土でも、冷たい大地が作物を育てています。

 去年11月に獲れた里いもを、深さ70センチの穴を掘り、上からブルーシートをかぶせ保存しています。2月になったら掘り出します。

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《ラッキョウは6月に獲れる。それまで辛抱だ》

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憑(たのま)れて・・・いざ結城合戦・要害の結城城

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 結城城址は茨城県結城市の西方の小高地にあり、城址公園となっており、要害とは感じられなかった。

 永享12年(1440)3月21日に結城氏8代目の結城氏朝は鎌倉公方足利持氏の遺児安王丸・春王丸を奉じて、反幕府・反上杉として結城城にて挙兵した。        (結城公園・主郭址だという)

室町6代将軍足利義教は上杉禅秀の子息、上杉打房を中心に12万の征討軍で、関宿城・古河城・結城城を攻めた。結城城攻城戦は同年417日から翌年の嘉吉元年(1441)4月16日の結城氏朝自刃までの1年間続いた。籠城1万対攻城8万の結城合戦は小説、南原幹雄署の『天下の旗に叛いて』がある。

Photo_2同書の結城城について『 結城城は鬼怒川の支流田川の水をひいた堀を周囲にめぐらし、さらに土塁でかこんでいる。山がないので、平城である。平地にある城なので、一見したところでは、さほどの要害とは見えぬ。山や谷などに拠る城にくらべれば、容易に落と

 (城址公園の前にある堀)        せそうに見える城である。結城氏の初代の朝光がこの地に築いた。』と書き、さらに城内について『平地とはいえ、城地は周囲から二丈ほどの高くなった長方形の敷地で、内部は東西と南北にわたる空堀で、ほぼ四つの区画に分割されている。主要な曲輪は本館と西館である。大手は西館にあり、搦手は本館にある。』 Photo_6

 さらに濠については『濠は田川の流れを利用してつくられている。城の三方を川でかこまれ南面には東西の流れから豪をひいて四方をかこんでいるのである。このあたり田川の氾濫原であるので、田川の水をとりこめば城の周囲は水でまもられる。山や谷はなくても、この城が自然の要害であるのは田川の流れをたくみに利用しているからだ』と書いている。

 何故、結城氏朝は負ける戦を承知して挙兵したのか?

七宮涬三著の「下野、小山、結城一族)では、「結城戦場記」の『便宜の大名を憑(たのま)れける所に、結城氏朝二新なく憑れて奏て、子息七郎光久御迎え参らせけり』と安王丸らを城内に迎えいれたと記してあることを引用し、「憑む」「憑まれる」関係は中世武士社会のモラルと説く研究者もいる。止むに止まれない倫理観である』と記述している。

Photo_7  結城氏の始祖結城朝光は小山正光の三男と称されているが、源頼朝の子として伝えられている。その朝光は当時、常陸国に教えを広めにやってきていた浄土宗の開祖親鸞上人の教えに深く帰依し、称名寺(結城市)を建てた。憑むとは浄土真宗において阿弥陀如来の本願を「たのみにする」という依憑(えひつ)の意味で、信訓、帰命の和訓であり本願の信楽にあたるとされているという。氏朝にとり、始祖朝光、さらに祖父基光の鎌倉公方への恩義と新参上杉に対しての怨みがあったのかもしれない。結城合戦には攻城側は井楼櫓を使用したとも云われている。「結城合戦絵詞」は佐倉市にある国立歴史民族博物館にあるという。今度見にいきます。

 天正5年(1577)に17代結城晴朝の時、北条氏政の大軍がこの結城城を包囲し攻撃をしたが、佐竹義重を中心とする常陸勢の応援で攻撃を撃退し、城を守っている。結城城はやはり要害の城なのだ。

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