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憑(たのま)れて・・・いざ結城合戦・要害の結城城

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 結城城址は茨城県結城市の西方の小高地にあり、城址公園となっており、要害とは感じられなかった。

 永享12年(1440)3月21日に結城氏8代目の結城氏朝は鎌倉公方足利持氏の遺児安王丸・春王丸を奉じて、反幕府・反上杉として結城城にて挙兵した。        (結城公園・主郭址だという)

室町6代将軍足利義教は上杉禅秀の子息、上杉打房を中心に12万の征討軍で、関宿城・古河城・結城城を攻めた。結城城攻城戦は同年417日から翌年の嘉吉元年(1441)4月16日の結城氏朝自刃までの1年間続いた。籠城1万対攻城8万の結城合戦は小説、南原幹雄署の『天下の旗に叛いて』がある。

Photo_2同書の結城城について『 結城城は鬼怒川の支流田川の水をひいた堀を周囲にめぐらし、さらに土塁でかこんでいる。山がないので、平城である。平地にある城なので、一見したところでは、さほどの要害とは見えぬ。山や谷などに拠る城にくらべれば、容易に落と

 (城址公園の前にある堀)        せそうに見える城である。結城氏の初代の朝光がこの地に築いた。』と書き、さらに城内について『平地とはいえ、城地は周囲から二丈ほどの高くなった長方形の敷地で、内部は東西と南北にわたる空堀で、ほぼ四つの区画に分割されている。主要な曲輪は本館と西館である。大手は西館にあり、搦手は本館にある。』 Photo_6

 さらに濠については『濠は田川の流れを利用してつくられている。城の三方を川でかこまれ南面には東西の流れから豪をひいて四方をかこんでいるのである。このあたり田川の氾濫原であるので、田川の水をとりこめば城の周囲は水でまもられる。山や谷はなくても、この城が自然の要害であるのは田川の流れをたくみに利用しているからだ』と書いている。

 何故、結城氏朝は負ける戦を承知して挙兵したのか?

七宮涬三著の「下野、小山、結城一族)では、「結城戦場記」の『便宜の大名を憑(たのま)れける所に、結城氏朝二新なく憑れて奏て、子息七郎光久御迎え参らせけり』と安王丸らを城内に迎えいれたと記してあることを引用し、「憑む」「憑まれる」関係は中世武士社会のモラルと説く研究者もいる。止むに止まれない倫理観である』と記述している。

Photo_7  結城氏の始祖結城朝光は小山正光の三男と称されているが、源頼朝の子として伝えられている。その朝光は当時、常陸国に教えを広めにやってきていた浄土宗の開祖親鸞上人の教えに深く帰依し、称名寺(結城市)を建てた。憑むとは浄土真宗において阿弥陀如来の本願を「たのみにする」という依憑(えひつ)の意味で、信訓、帰命の和訓であり本願の信楽にあたるとされているという。氏朝にとり、始祖朝光、さらに祖父基光の鎌倉公方への恩義と新参上杉に対しての怨みがあったのかもしれない。結城合戦には攻城側は井楼櫓を使用したとも云われている。「結城合戦絵詞」は佐倉市にある国立歴史民族博物館にあるという。今度見にいきます。

 天正5年(1577)に17代結城晴朝の時、北条氏政の大軍がこの結城城を包囲し攻撃をしたが、佐竹義重を中心とする常陸勢の応援で攻撃を撃退し、城を守っている。結城城はやはり要害の城なのだ。

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