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2011年1月

天狗党―栃木町(栃木市)の焼きはらい

Photo_7   元治元年(1864)年3月27日、筑波山にて田丸稲之衛門を大将に天狗党が『攘夷』を掲げて挙兵した。

 天狗党は4月8日に筑波山を降りて、徳川の本山、日光を占拠し、全国の尊王攘夷の志士、大名、藩に参加の呼びかけをするため日光を目指した。

 しかし、宇都宮藩と折衝している間に日光奉行は3千名の諸藩の藩兵で防御した。そのため急遽、栃木町にある太平山に800名にて陣を敷き、宇都宮藩、壬生藩など協調を呼びかけると共に軍用金の調達を図った。 (栃木市の西の太平山)

Photo_2  しかし、諸藩の協調を得られず、さらに水戸藩よりの鎮撫の説得があったため、再度筑波山を目指し、太平山を降り、栃木町の定願寺を本営とし、近龍寺などを宿泊した。

 定願寺(天台宗)は1871(明治4)年から翌年まで、栃木県仮庁舎が置かれるなど、当時の栃木宿の重きのある寺院でもあった。

(定願寺本堂) 

Photo_3  同じく天狗党の宿泊となった近龍寺(浄土宗)には、天狗党の中で最も跳ね返りな田中愿蔵の部隊がいた。

  天狗党が6月1日に定願寺に集結し、小山、結城を通り、筑波山目指したが、この田中隊は壬生藩に行き、協調と軍用金の徴用を迫った。しかし、壬生藩はこれを拒絶したため、再度栃木宿に戻り、栃木陣屋を通して町内の商人に軍用金の徴用を迫った。 (近龍寺山門)

  田中愿蔵以下80名の部隊は徴用を拒否されたことに怒り、元治元年(1864)年6月6日の夜に、栃木町の焼き払いを018 行った。火は翌7日の明け方まで燃え広がり、栃木町350から400軒の家を全焼させ、火を消そうとした町民、1名も斬殺をした。期しくも前日の6月5日には京都で新撰組による池田屋へ斬りこみがあった。

  この天狗党栃木町焼はらい事件の話は関東一円に広がり、地域の農民に大きな恐怖を抱くことになり、天狗党への支持を失うことにもなった。(明治初期の栃木の町並)

  田中愿蔵はこの後、10月に福島県塙町の農家で捕らえらえ、斬刑されている。

 栃木市ではこの天狗党焼きはらい事件について余り語られて来なかったように思える。 当時の明治政府への配慮なのか不明である。

Photo_6  近龍寺には『路傍の石』の作者でもある山本有三の墓石があるが、山本有三はこの天狗党の焼きはらい事件について語っている著書があるのか分からない。   

 栃木城は栃木駅から東方約1.2キロの所に案内板もなく目立つことなくある。徳川家康の6男、忠輝の付庸大名となった皆川広照が皆川城から移り築城されたものだが、慶長14年(1609)、家康の怒りに触れ、皆川家断絶となり栃木城も廃城となった。わずかに土塁が残る城跡である。家康は死ぬまで広照を許さなかった。何故なのか?

  吉村昭著の『天狗争乱』には栃木宿の焼き払い事件から水戸藩内部の尊王派と門閥派との抗争など書かれており、よくこれだけ念密に調べ上げたものかと感心させられた。また伊勢神宮をあわせておこなっていた東照宮に向かう朝廷の勅使―『例幣使』 についても詳しく書いてある。

  さらに郷土史家の稲葉誠太郎著の『稲葉重左衛門日記―水戸天狗党栃木町焼打事件』は栃木町小間物問屋十二世重左衛門が50年にわたって記録した日記の中での元治元年の栃木町焼打事件の体験の記録を基に記述している書物がある。吉村昭はこの書を参考文献で紹介している。小説の中での栃木焼打ち事件についての部分では、かなり参照しているものと伺える書物である。幕末天狗党事件に興味のある人は是非熟読することをお薦めします。

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