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2011年2月

戦国の世の教育センター《足利学校》

Photo_11  足利学校の創立は平安時代等諸説あるが、室町時代に関東管領上杉憲実が足利学校に「儒学」の五つの経典のうち四経の書籍を寄進すると共に、鎌倉から易学の権威といわれた禅僧快元(かいげん)を庠主(しょうしゅ・校長)として招き、学問の道を興し、学生の養成に力を注いだ。憲実の子、憲忠も 五経のうち残りの易経「周易注疏(しゅうえきちょうそ)」を寄進した。このことにより足利学校は興隆をなしたといわれている。                           

  永正年間(1504~1520)から天文年間(1532~1554)には「易」について学んだ僧は軍配者・軍師として各戦国大名、豪族から召抱えられようになった関係で、足利学校の学徒その数、三千といわれる僧を輩出し、戦国時代の教育センターの役割をになうことになった。勉学は教育カリキュラムはなく専ら自学自習であったという。

Photo_2川瀬一馬著の「足利学校の研究」の中で、「学校の易学は又、実は占筮(せんぜい)術の為の易学であった。学校では経文の解議を正伝といひ、占筮術を別段としたが、学校に参学の徒は、易学の応用方面である占筮j術修得が其の主目的であった」と述べている。 『悪日は戦いたくない』。戦いにとって吉日と悪日で合戦の様相・勝敗は

Photo_3 大きく変わった筈だ。

※占筮(せんぜい)=筮竹で卦を立てて吉凶を占うこと。      

小和田哲男著「呪術と占星の戦国史」によれば、『甲陽軍鑑』において晴信から信玄と名乗る際に僧は、『もっぱら軍配の用いようを学ばれますように。合戦の道は不可思議なものであり、軍配の修行なしには勝利を得ることは危いと存じます』と軍配重視を進言している。当時の易学は暦、気象など宇宙を見据えて、その中で運気を見出す学問だったとしてる。(復元された方丈・庫理)

さらに弘治元年(1555)の厳島の合戦。毛利方の宮尾城攻め日を「悪日」ということですぐに攻めず、毛利元就の奇襲により敗れた陶晴Photo_4賢。逆に「悪日」と知っていた元就は陶方は攻めないことを確信し、厳島上陸を決行できたのではないかとしている。

(学生が勉学、生活した衆寮)

 また天正十年(1582)本能寺の変を知った秀吉はすぐさま姫路城に返し、6月8日の出陣に対し祈祷する僧が『日柄が悪く、出発したら二度と帰ることはできない悪日である』と言ってきた。 それを聞いた秀吉は、『そうであるなら、かえって一段と吉日である。なぜならば、主君信長のために討死は覚悟しているところであり、二度とこの城に生きて帰ってくることはあるまい。また、逆に、明智光秀の天命が尽き、私の方が勝ったならば思いのまま、どこの国にでも居城を構えることができるので、Photo_2 播磨に下ってくるには及ぶまい。明日はわが為には吉日である』と言って悪日を吉日に変え、味方の気運を盛り上げ勝利につなげたとしている。(足利学校内にある図書館)

 さらに永禄三年(1560)5月19日の桶狭間の際には、信長は雷雨という気象を事前に知っていて、その天気予報を作戦に取り入れたのではないか。そのことを進言している軍配者がいた筈だと述べている。

 足利学校の主な参学徒は千利休の師の古渓宗陳、足利成氏に仕えた田代三喜、家康のブレーンの南光坊天海、下野の佐野豊網の子で秀吉に仕えた天徳寺了伯、直江兼続に招かれ書籍の刊行にあたった涸轍祖博、大友宗麟の軍配者、角隈石宗などがあげられる。各部隊には陣僧が武士と共に追従していたという。殺生に対する念仏を必要としたといわれるが、「気」を読む僧もまたいたであろうと推測される。
Photo 上杉憲実生誕600年記念講演において松本一夫氏は上杉憲実について次のような見解を述べていた。「足利学校再興した関東管領の上杉憲実は書籍の寄進と学校規則の制定を永享十一年(1439)閏正月に行なっている。その前年の永享十年(1438)8月から10月にかけて、鎌倉公方足利持氏は関東管領の上杉憲実を討つため進撃したが、幕府側によって破れ、11月に鎌倉永安寺に幽閉される(永享の乱)。憲実は主人の持氏の助命嘆願をしたが、幕府は早く討つことを命じ、翌永享十一年(1439)閏正月、憲実は千葉胤直に持氏を攻めさせ自害させている。書籍の寄進日と主人の持氏自害を指示した時期が一致している。
 主人を討つこと、管領の任命権を持つ京都幕府、その挟間にたった憲実は相当苦慮し、隠遁を決意した。そのことが、儒学を学ぶことからの人材育成、先のないことから足利学校への書籍の寄進、学校規則の整備を行なわしたと指摘する研究者が多い。管領職を辞した憲実はその後20年、諸国を行脚し長門国大寧寺で57歳で生涯を閉じている。」

上杉対古河公方との戦い、いわゆる『享徳の大乱』から東国関東は戦乱の世となった。そのことを諸国行脚の中で憲実はどう見ていたのであろうか。

《関東管領・上杉憲実》 

※参考文献

 『呪術と占星の戦国史』小和田哲男著(新潮選書)、 『関東管領・上杉一族』七宮涬三著(新人物往来社)、 『足利学校の中興と上杉憲実』松本一夫(上杉憲実生誕600年記念講演)           

 

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うずま川の源流―しめじが原

Photo  うずま川を『巴波川』と書き、うずま川と読む。栃木市文化財保護委員長の日向野徳久先生は『栃木市はうずま川によっておこり、うずま川の故におとろえた』と記していた。荒井那著「巴波川部屋河岸」では栃木の町を皆川氏の家臣団の開発から始まり、近江・伊勢・大坂などからの行商人の渡来と移住。徳川時代の代官支配とかさなり(規制がゆるく、それだけ自由な商いができる)、日光例幣使道の宿駅、うずま川の船運の遡行終点として繁栄し商人の町として栄えることになったと記述している。       

1_2   うずま川の源流は栃木市川原田町にある。「白じ沼」「大渕沼」「ささぶち沼」「二股沼」をはじめ無数の湧く泉があり、このあたりを「しめじが原」といった。「室の八嶋」「標茅原」「伊吹山」は歌枕としても有名な地となっている。

 現在は川原田町1687番地の白じ沼にしめじが原の史跡表示がある。土地の人の話では吹上にサントリイ工場ができた関係で沼は干されてしまったと言うが確認はできない。周辺は住宅地となっており、何とも寂しい。東武日光線「合戦場駅」から左、西北に歩いて行った所にある。吉田東悟博士の「大日本地名辞典」による『標茅原』については『今栃木市街の北方の郊野を言ひ、殊に合戦場、河原田、木地野等に渉る。散在の林莽藪択(りんもうそうたく)はげに古荒野の風色を留む。巴波川の緒原水は、此間に伏する者とす。』とある。 

                             「古今和歌集六帖」       

3  《下野や志めつか原のさしも草 おのが思ひに身を焼らむ

 正岡子規が次の歌を詠んでいる

《 しもつけやしめぢか原に春暮れて 葉広さわらび人も訪(と)ひ来ず》

※「栃木県文学歴散歩」に記されているが、どの句集に入っているか分からない。

 さしも草=ヨモギの異称、さわらび=芽をだしたばかりのわらび                     

Photo_2 しめじが原から東、東武日光線の線路を超え、例弊使道の東横に入った所に『枡塚』がある。大永三年(1522)の11月3日に宇都宮忠常による皆川庄攻撃に対して、皆川宗成がしめじが原に陣を敷き、激しい攻防戦をした。この戦を『河原田合戦』と呼ばれ、戦死者の血が沼が赤く染まるほどの修羅場となったので“修羅地沼”それを転じて“白血沼”の地名となったという。この枡塚はこの時の両軍の戦死者葬った塚であるとされている。東武日光線『合戦場駅』は駅名でも有名でもある。       

Photo_3

 しめじが原から西に吹上小学校を通り、東北道をくぐり、赤津川の畔、吹上町に歌枕で有名な『伊吹山善応寺』のお堂がある。河野守弘著『下野国誌』において、議事尊縁起物語から「昔、このあたりは灸の原料となる艾(よもぎ)を多く生じ、葉の形は普通より大きく、大変効き目があったとのことである」と記述している。

 よもぎ草とお灸で、亡くなった私の母を思い出した。身体が弱く、何時もお灸を背中にしていて、子供のころによくこう薬の取替えをした。母の晩年は「わらび取り」を楽しみしていた。母の生まれた所はこの地から近い農家だった。Photo

この伊吹山を歌枕として詠った中に枕草子、清少納言が下野へくだるといひける人に詠ったうたがあると細矢藤策著「ふるさと散歩道(栃木のゆかりの文学を訪ねて)」の中で紹介されている

 <おもひだにかからぬ山のさせも草誰がいふきのさとはつげしそ>

   観音堂の裏に元文三年(1729)と刻まれた野仏が静かに佇んでいた。

〈参考資料〉『巴波川 部屋河岸』荒井邦著(下野新聞社刊)、『下野国誌』河野守弘著(下野新聞社刊)、『栃木県の文学散歩』(栃の葉書房)、『下野の名族 長沼・皆川氏の研究』杉山正雄著。

〈銀次のブログ巴波川参考ページ〉『栃木巴波川―渡し舟のあった本沢河岸跡』、『うずま川積換河岸―部屋河岸・新波河岸

                       ― 夢野銀次 ―

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争奪谷間の陣城―榎本城(栃木市大平町)

Photo 東武日光線新大平下駅南側約1.5km大平町榎本に元和八年(1622)に本多正純の弟、忠純の死去に伴ない廃城となった榎本城がある。城の規模は東西337間(613メートル)・南北217間3尺(396メートル)と広大であり、東はうずま川、杣行(そよゆき)川、西は永野川が流れる要害の地であり、文治元年(1189)小山宗長が小山城の支城として築城され、その後永禄元年1558)に小山高朝が領有した。この頃には佐野宗綱、藤岡清房らが領土拡大をはかっていたため、そのため高朝の孫の高綱を榎本城に入れ、陣城とした。      

Photo_2  永禄七年(1564)関東制覇の夢を持つ小田原の北条氏政は古河進出後には小山、宇都宮、佐竹との戦いを想定して、この榎本城攻撃を皆川城主の皆川俊宗に命じた。

 後の天正十二年(1584)の藤岡、渡良瀬川流域の沼尻合戦で示すとおり、この榎本の地は上野、下野小山、古河を結ぶ重要な地であり、上杉、北条、宇都宮、佐竹と攻防ラインとなり争奪の谷間の地になっていた。

  皆川俊宗は大平山ろくに本陣を置き、永禄七年(1564)11月16日から3日間にわたり攻城をしたという。 Photo_8

 榎本城主の高綱は小山に援兵を乞うたが、すでに小山は北条方に組み入れられ遂に来なかった。

 『下都賀郡誌』には18日の搦め手の西野田を中心とした攻防が記されており、城外に撃ってでた高綱が皆川方の高田小次郎の弓で刺され、自刃した記述がある。 (わずかに残る空堀)            

 

Photo_4   自刃した場所は、『大平町史』によれば現在の永野川の近くの西野田であり、近くに『尊武神社』の祠と赤い鳥居があるとしている。この神社は地図に記載されていないため、大平町図書館を通して、歴史民族資料館に尋ねてもらい、やっと場所が分かった。 

 現在の榎本城址は、わずかに空堀が残るのみで、原形が不明であり、残念な姿をしている。 (西野田の畑の中にある尊武神社)   

   

Photo_6   城の南側、大平町榎本の旧国道50線沿いにある町並みは家屋、寺院が直角に整然と並んでいる。両脇には清流が流れている。こうした側道の地に城下町の雰囲気を漂わす町があることが意外である。かつては富田宿と並び日光例幣使街道の役割をしたと『大平町史』に記されている。

    

  

 

 

Photo_7 城の南西に大中寺がある。大平町には大中寺が2つあるが、その云われも寺の跡目継承をめぐる話でこの榎本の大中寺が本流らしい。

 この寺には宇都宮城主の本多正純の実弟忠純の墓石がある。

 

 

《参考文献資料》大平町史、栃木の城(下野新聞社刊)、戦国時代の終焉(斎藤慎一著、中公新書)、東国の戦国合戦(市村高男著、吉川弘文館)

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