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戦国の世の教育センター《足利学校》

Photo_11  足利学校の創立は平安時代等諸説あるが、室町時代に関東管領上杉憲実が足利学校に「儒学」の五つの経典のうち四経の書籍を寄進すると共に、鎌倉から易学の権威といわれた禅僧快元(かいげん)を庠主(しょうしゅ・校長)として招き、学問の道を興し、学生の養成に力を注いだ。憲実の子、憲忠も 五経のうち残りの易経「周易注疏(しゅうえきちょうそ)」を寄進した。このことにより足利学校は興隆をなしたといわれている。                           

  永正年間(1504~1520)から天文年間(1532~1554)には「易」について学んだ僧は軍配者・軍師として各戦国大名、豪族から召抱えられようになった関係で、足利学校の学徒その数、三千といわれる僧を輩出し、戦国時代の教育センターの役割をになうことになった。勉学は教育カリキュラムはなく専ら自学自習であったという。

Photo_2川瀬一馬著の「足利学校の研究」の中で、「学校の易学は又、実は占筮(せんぜい)術の為の易学であった。学校では経文の解議を正伝といひ、占筮術を別段としたが、学校に参学の徒は、易学の応用方面である占筮j術修得が其の主目的であった」と述べている。 『悪日は戦いたくない』。戦いにとって吉日と悪日で合戦の様相・勝敗は

Photo_3 大きく変わった筈だ。

※占筮(せんぜい)=筮竹で卦を立てて吉凶を占うこと。      

小和田哲男著「呪術と占星の戦国史」によれば、『甲陽軍鑑』において晴信から信玄と名乗る際に僧は、『もっぱら軍配の用いようを学ばれますように。合戦の道は不可思議なものであり、軍配の修行なしには勝利を得ることは危いと存じます』と軍配重視を進言している。当時の易学は暦、気象など宇宙を見据えて、その中で運気を見出す学問だったとしてる。(復元された方丈・庫理)

さらに弘治元年(1555)の厳島の合戦。毛利方の宮尾城攻め日を「悪日」ということですぐに攻めず、毛利元就の奇襲により敗れた陶晴Photo_4賢。逆に「悪日」と知っていた元就は陶方は攻めないことを確信し、厳島上陸を決行できたのではないかとしている。

(学生が勉学、生活した衆寮)

 また天正十年(1582)本能寺の変を知った秀吉はすぐさま姫路城に返し、6月8日の出陣に対し祈祷する僧が『日柄が悪く、出発したら二度と帰ることはできない悪日である』と言ってきた。 それを聞いた秀吉は、『そうであるなら、かえって一段と吉日である。なぜならば、主君信長のために討死は覚悟しているところであり、二度とこの城に生きて帰ってくることはあるまい。また、逆に、明智光秀の天命が尽き、私の方が勝ったならば思いのまま、どこの国にでも居城を構えることができるので、Photo_2 播磨に下ってくるには及ぶまい。明日はわが為には吉日である』と言って悪日を吉日に変え、味方の気運を盛り上げ勝利につなげたとしている。(足利学校内にある図書館)

 さらに永禄三年(1560)5月19日の桶狭間の際には、信長は雷雨という気象を事前に知っていて、その天気予報を作戦に取り入れたのではないか。そのことを進言している軍配者がいた筈だと述べている。

 足利学校の主な参学徒は千利休の師の古渓宗陳、足利成氏に仕えた田代三喜、家康のブレーンの南光坊天海、下野の佐野豊網の子で秀吉に仕えた天徳寺了伯、直江兼続に招かれ書籍の刊行にあたった涸轍祖博、大友宗麟の軍配者、角隈石宗などがあげられる。各部隊には陣僧が武士と共に追従していたという。殺生に対する念仏を必要としたといわれるが、「気」を読む僧もまたいたであろうと推測される。
Photo 上杉憲実生誕600年記念講演において松本一夫氏は上杉憲実について次のような見解を述べていた。「足利学校再興した関東管領の上杉憲実は書籍の寄進と学校規則の制定を永享十一年(1439)閏正月に行なっている。その前年の永享十年(1438)8月から10月にかけて、鎌倉公方足利持氏は関東管領の上杉憲実を討つため進撃したが、幕府側によって破れ、11月に鎌倉永安寺に幽閉される(永享の乱)。憲実は主人の持氏の助命嘆願をしたが、幕府は早く討つことを命じ、翌永享十一年(1439)閏正月、憲実は千葉胤直に持氏を攻めさせ自害させている。書籍の寄進日と主人の持氏自害を指示した時期が一致している。
 主人を討つこと、管領の任命権を持つ京都幕府、その挟間にたった憲実は相当苦慮し、隠遁を決意した。そのことが、儒学を学ぶことからの人材育成、先のないことから足利学校への書籍の寄進、学校規則の整備を行なわしたと指摘する研究者が多い。管領職を辞した憲実はその後20年、諸国を行脚し長門国大寧寺で57歳で生涯を閉じている。」

上杉対古河公方との戦い、いわゆる『享徳の大乱』から東国関東は戦乱の世となった。そのことを諸国行脚の中で憲実はどう見ていたのであろうか。

《関東管領・上杉憲実》 

※参考文献

 『呪術と占星の戦国史』小和田哲男著(新潮選書)、 『関東管領・上杉一族』七宮涬三著(新人物往来社)、 『足利学校の中興と上杉憲実』松本一夫(上杉憲実生誕600年記念講演)           

 

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