争奪谷間の陣城―榎本城(栃木市大平町)
東武日光線新大平下駅南側約1.5km大平町榎本に元和八年(1622)に本多正純の弟、忠純の死去に伴ない廃城となった榎本城がある。城の規模は東西337間(613メートル)・南北217間3尺(396メートル)と広大であり、東はうずま川、杣行(そよゆき)川、西は永野川が流れる要害の地であり、文治元年(1189)小山宗長が小山城の支城として築城され、その後永禄元年1558)に小山高朝が領有した。この頃には佐野宗綱、藤岡清房らが領土拡大をはかっていたため、そのため高朝の孫の高綱を榎本城に入れ、陣城とした。
永禄七年(1564)関東制覇の夢を持つ小田原の北条氏政は古河進出後には小山、宇都宮、佐竹との戦いを想定して、この榎本城攻撃を皆川城主の皆川俊宗に命じた。
後の天正十二年(1584)の藤岡、渡良瀬川流域の沼尻合戦で示すとおり、この榎本の地は上野、下野小山、古河を結ぶ重要な地であり、上杉、北条、宇都宮、佐竹と攻防ラインとなり争奪の谷間の地になっていた。
皆川俊宗は大平山ろくに本陣を置き、永禄七年(1564)11月16日から3日間にわたり攻城をしたという。
榎本城主の高綱は小山に援兵を乞うたが、すでに小山は北条方に組み入れられ遂に来なかった。
『下都賀郡誌』には18日の搦め手の西野田を中心とした攻防が記されており、城外に撃ってでた高綱が皆川方の高田小次郎の弓で刺され、自刃した記述がある。 (わずかに残る空堀)
自刃した場所は、『大平町史』によれば現在の永野川の近くの西野田であり、近くに『尊武神社』の祠と赤い鳥居があるとしている。この神社は地図に記載されていないため、大平町図書館を通して、歴史民族資料館に尋ねてもらい、やっと場所が分かった。
現在の榎本城址は、わずかに空堀が残るのみで、原形が不明であり、残念な姿をしている。 (西野田の畑の中にある尊武神社)
城の南側、大平町榎本の旧国道50線沿いにある町並みは家屋、寺院が直角に整然と並んでいる。両脇には清流が流れている。こうした側道の地に城下町の雰囲気を漂わす町があることが意外である。かつては富田宿と並び日光例幣使街道の役割をしたと『大平町史』に記されている。
城の南西に大中寺がある。大平町には大中寺が2つあるが、その云われも寺の跡目継承をめぐる話でこの榎本の大中寺が本流らしい。
この寺には宇都宮城主の本多正純の実弟忠純の墓石がある。
《参考文献資料》大平町史、栃木の城(下野新聞社刊)、戦国時代の終焉(斎藤慎一著、中公新書)、東国の戦国合戦(市村高男著、吉川弘文館)
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戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書(1809)) 著者:齋藤 慎一 |
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東国の戦国合戦 (戦争の日本史10) 著者:市村 高男 |
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コメント
こんばんわ。
とっても勉強してらして、すごいなあと思いました。
大平町はあたしにとっては「ぶどう狩り」と「青頭巾」。歴史的な知識はなく、唯一、「春日局」の際に家光の側室お楽の方の出身地だということを学んだくらいです。
それぞれの町で郷土史を研究している方がいて、ドラマでは取り上げられない本当の歴史をこつこつと調べている。
こういった、江戸時代より前の小領主のお城(砦)は、あちこちに後が残っているようですが、開発されて住宅地になってしまう前に見ておけるといいなあ。
鹿沼にも遊びに来てくださいね。
投稿: かこちゃん | 2011年2月 2日 (水) 20時36分
かこちゃん
大正時代初期まで栃木町と鹿沼町の間にはトテ馬車が走っていたそうです。ぎょ者が鳴らすラッパの音がトテートテーと聞こえるので、人々はトテ馬車と呼んだと『栃木市の歴史』に記述されていました。何かほのぼのとした感じがしました。因みにこの本の著者は高校時代の教師、日向野徳久氏です。
投稿: 銀次 | 2011年2月17日 (木) 05時42分