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うずま川の源流―しめじが原

Photo  うずま川を『巴波川』と書き、うずま川と読む。栃木市文化財保護委員長の日向野徳久先生は『栃木市はうずま川によっておこり、うずま川の故におとろえた』と記していた。荒井那著「巴波川部屋河岸」では栃木の町を皆川氏の家臣団の開発から始まり、近江・伊勢・大坂などからの行商人の渡来と移住。徳川時代の代官支配とかさなり(規制がゆるく、それだけ自由な商いができる)、日光例幣使道の宿駅、うずま川の船運の遡行終点として繁栄し商人の町として栄えることになったと記述している。       

1_2   うずま川の源流は栃木市川原田町にある。「白じ沼」「大渕沼」「ささぶち沼」「二股沼」をはじめ無数の湧く泉があり、このあたりを「しめじが原」といった。「室の八嶋」「標茅原」「伊吹山」は歌枕としても有名な地となっている。

 現在は川原田町1687番地の白じ沼にしめじが原の史跡表示がある。土地の人の話では吹上にサントリイ工場ができた関係で沼は干されてしまったと言うが確認はできない。周辺は住宅地となっており、何とも寂しい。東武日光線「合戦場駅」から左、西北に歩いて行った所にある。吉田東悟博士の「大日本地名辞典」による『標茅原』については『今栃木市街の北方の郊野を言ひ、殊に合戦場、河原田、木地野等に渉る。散在の林莽藪択(りんもうそうたく)はげに古荒野の風色を留む。巴波川の緒原水は、此間に伏する者とす。』とある。 

                             「古今和歌集六帖」       

3  《下野や志めつか原のさしも草 おのが思ひに身を焼らむ

 正岡子規が次の歌を詠んでいる

《 しもつけやしめぢか原に春暮れて 葉広さわらび人も訪(と)ひ来ず》

※「栃木県文学歴散歩」に記されているが、どの句集に入っているか分からない。

 さしも草=ヨモギの異称、さわらび=芽をだしたばかりのわらび                     

Photo_2 しめじが原から東、東武日光線の線路を超え、例弊使道の東横に入った所に『枡塚』がある。大永三年(1522)の11月3日に宇都宮忠常による皆川庄攻撃に対して、皆川宗成がしめじが原に陣を敷き、激しい攻防戦をした。この戦を『河原田合戦』と呼ばれ、戦死者の血が沼が赤く染まるほどの修羅場となったので“修羅地沼”それを転じて“白血沼”の地名となったという。この枡塚はこの時の両軍の戦死者葬った塚であるとされている。東武日光線『合戦場駅』は駅名でも有名でもある。       

Photo_3

 しめじが原から西に吹上小学校を通り、東北道をくぐり、赤津川の畔、吹上町に歌枕で有名な『伊吹山善応寺』のお堂がある。河野守弘著『下野国誌』において、議事尊縁起物語から「昔、このあたりは灸の原料となる艾(よもぎ)を多く生じ、葉の形は普通より大きく、大変効き目があったとのことである」と記述している。

 よもぎ草とお灸で、亡くなった私の母を思い出した。身体が弱く、何時もお灸を背中にしていて、子供のころによくこう薬の取替えをした。母の晩年は「わらび取り」を楽しみしていた。母の生まれた所はこの地から近い農家だった。Photo

この伊吹山を歌枕として詠った中に枕草子、清少納言が下野へくだるといひける人に詠ったうたがあると細矢藤策著「ふるさと散歩道(栃木のゆかりの文学を訪ねて)」の中で紹介されている

 <おもひだにかからぬ山のさせも草誰がいふきのさとはつげしそ>

   観音堂の裏に元文三年(1729)と刻まれた野仏が静かに佇んでいた。

〈参考資料〉『巴波川 部屋河岸』荒井邦著(下野新聞社刊)、『下野国誌』河野守弘著(下野新聞社刊)、『栃木県の文学散歩』(栃の葉書房)、『下野の名族 長沼・皆川氏の研究』杉山正雄著。

〈銀次のブログ巴波川参考ページ〉『栃木巴波川―渡し舟のあった本沢河岸跡』、『うずま川積換河岸―部屋河岸・新波河岸

                       ― 夢野銀次 ―

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コメント

「この伊吹山を歌枕として詠った中に枕草子、清少納言が下野へくだるといひける人に詠ったうたがある。」
誰がこんな出鱈目を言ってるんですか?

「おもひだにかからぬ山」の意味
伊吹の里のさしも草の生える山の事なんて聞いた事がないので思いだにかかりません。そんな山は存在しないんじゃないの?清少納言は疑っています。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2011年10月28日 (金) 09時26分

以前、栃木市のHPの「伊吹山」の紹介文に対して、教育委員会に「かつて吹上町辺りでモグサを生産していた事実はありますか?」と質問したら、そういう史料は無いようで、その後「伊吹山」の紹介文から、モグサを生産していたという記述が消えました。[下野国誌]の記述は[録事尊縁起]の話です。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2011年10月28日 (金) 09時52分

栃木総社町の住人さん、コメントありがとうございました。引用が抜けていました。下野新聞社刊の河野守弘著『下野国誌』からの引用ですが、『録事尊の縁起物語』を根拠としているこは知りませんでした。『ふるさと散歩道(栃木のゆかりの文学を訪ねて)』(下野新聞社刊)の本の中で、「下野の歌枕として」細矢藤策国学院栃木短期大学教授が「伊吹山」を歌枕として清少納言の歌を紹介しています。ただし、伊吹山については下野ではなく近江と美濃の境にある伊吹山という説があるとの但し書き添えれていました。「伊吹山」の存在そのものについては諸説あると思いますが、さらに勉強していきます。

投稿: 銀次 | 2011年10月29日 (土) 16時50分

古今和歌六帖](976-982年?)
 しもつけや-しめつのはらの-さしもぐさ-おのかおもひに-みをややくらむ
 あぢきなや-いぶきのやまの-さしもぐさ-おのがおもひに-みをこがしつつ

和歌に出て来る「しもつけ」の、1/3は下野国を意味し、1/3はシモツケの花を意味し、1/3はよく分かりません。

さて上の「しもつけ」はどれだと思いますか?

 平安時代および中世の史料を調べると、しめじが原・さしも草の伊吹山の所在を下野国とする根拠は、どうもこの二首の和歌だけのようなんです。

上の「しもつけ」を下野国とすると、それだけで[下野国誌]が言う「しめじが原」「さしも草の伊吹山」の場所がこじっけられます。比較的簡単にできます。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 18時29分

[下野国誌]に出て来る「しわぶきの森」も、

・藤原朝忠(910-966年)
 本院の将曹、しはぶき(=咳払い)するをききて
 しもつけや-しはぶきのもり(の)-しらつゆの-かかるをりにや-いろかはるらむ

これだけの情報で場所をこじつけたんだと思います。調べてもこれ以外の関連情報が出てこないんです。

「このしもつけ」は、どう見てもシモツケの花ですね。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 19時36分

[枕草子]

<おもひだにかからぬ山のさせも草誰かいぶきのさとはつげしぞ>

の詞書「まことや〇〇〇くだるといひける人に」は、伝本によって「しもつけへ」「かかへ」「かうやへ」「やかては」と異なります。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 20時12分

江戸時代の広島県・山口県辺りに、フトイを「さしも草」と呼ぶ方言があったことはご存知ですか。

[古今和歌六帖]の「さしも草」の分類の中の「さしも草」の歌に混じって、なぜか「おほい草」の歌が一首あります。[古今和歌六帖]中に、「おほい草」の歌はこの一首しかありません。このおほい草がフトイです。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 20時47分

[古今和歌六帖]中の「さしも草」は火が縁語ですが、「よもぎ」は「やど」つまり家が縁語です。ヨモギは庭に生える雑草というイメージなんですかね。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 20時57分

日向野徳久先生

この先生の書いた文を一度読みましたが、この先生はまるで科学者ですね。解析が科学的で内容が信頼できます。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 21時07分

近江と美濃の境にある伊吹山を、さしも草の伊吹山とする歌は鎌倉時代から見られます。

しかしこの山ではありません。清少納言がさしも草の伊吹山を「おもひだにかからぬ山」と言ってるんですから。


投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 21時24分

すいません。「栃木市惣社町の住人」のハンドルネームがデタラメで。

本当は一番上の写真の黒塀の近くで生まれました。今は栃木市に住んでおりません。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 23時29分

「大永三年(1522)の11月3日に、・・・皆川宗成がしめじが原に陣を敷き、」

この頃、既にしめじが原と呼ばれてたんですかね? 呼ばれ始めたのは江戸時代前期と考えてたんですが。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月21日 (火) 23時43分

日向野徳久先生は長年、栃商・栃女高の教諭を経て栃木教育委員会において「栃木市史」編纂をなされたと記憶しています。著書の中で金子益太郎元栃木市長と携わった「栃木市の歴史」、「考註皆川正中禄」を読ませていただいています。昔の黒塀あたり、片柳河岸附近の「うすま川」はボートを漕ぐ人や水泳ぎをしていましたネ。文化会館の橋の上からうずま川に飛び込む少年達がいたと聞いています。

投稿: 銀次 | 2012年2月22日 (水) 05時18分

夢野銀次様は、日向野徳久先生の編纂された「栃木市の歴史」を読まれたとの。

その本の最初に日向野先生以外の人の書いた「かつて思川は栃木市のど真ん中を流れていた」という文は載っていませんか?

この文は日向野先生の文と違って事実一割空想九割のSFなんですが、実は私はこの文を読む前から「かつて思川は栃木市のど真ん中を流れていた」んじゃないかと考えていました。

国庁の立地条件を考えると、あんなところに川があったとは思えないんです。

投稿: 八島 守 | 2012年3月17日 (土) 18時30分

日向野先生の「考註皆川正中禄」ってのが有るんですね。
是非みたいですね。

大神神社の先の荒川真澄宮司時代に作られた大神神社の由緒書きには、「1584年北条氏直と皆川広照交戦の時、皆川の敗残兵が室八嶋に籠もった為、兵焚に羅り宏壮華麗であった社殿、楼門全て焼失した」と書いてあったんですが、社殿は戦火に遭って消失したのか、老朽化したために壊したのか確認したいんです。

ところで日向野先生の後、昔の文字を読める人って栃木市にいるんですかね?

投稿: 八島 守 | 2012年3月17日 (土) 19時58分

「昔の黒塀あたり・・・付近の「うすま川」はボートを漕ぐ人や水泳ぎをしていましたネ。」に関しまして

私は巴波橋の近くで生まれ育ったんですが、1955年頃までは、川で泳ぐことが許されていました。但し、田圃に殺虫農薬「パラチオン」を撒くと土手に赤旗が立てられて、遊泳禁止。白幡なら遊泳可。

川での遊泳が禁止になった後の、1955-1960年頃、巴波橋の近くに貸しボートがありました。そして巴波橋を倭町側に渡った南側の角にボート小屋がありました。そのボート小屋をロケ地としたクレージーキャッツの喜劇映画かありましたね。

黒塀の対岸で三国連太郎の「無法松の一生」の撮影が行われました。人力車を引くシーンですが、それを見ました。

投稿: 八島 守 | 2012年3月17日 (土) 20時44分

巴波川の傍の文化会館って、まさかかつて東映と日活の映画を上映していた映画館じゃないでしょうね。あの映画館はとうの昔になくなっちゃったでしょう?

1960年頃、栃木市の中心部には、松竹映画の「松竹」、東宝映画の「明治座」、東映・日活映画の「文化会館」、洋画の「白百合座」の4舘がありました。


白百合座って、古ぼけた映画館で、二階は座敷席じゃなかったかな?それが1965年までに改築されて「スカラ座」に替わったのではなかろうか。

投稿: 八島 守 | 2012年3月17日 (土) 21時06分

1965年頃に、栃木市が巴波川に鯉を放流するまで、巴波川に川漁師が一人いました。湊町の下河岸の人で親父の遊び友達でした。この漁師は、巴波川では主に投網と、岸壁でのウナギの穴釣りをやっていました。

小学生の頃、この漁師と一緒に永野川の錦着山よりちょっと上流に寄せ網漁に行った事があります。遊んでる時に「行かないか」と誘われたんで、海パンの持ち合わせがなく、ベルトと手ぬぐいでふんどしを作りました。魚の多くは「はや」ですがアユもいましたね。漁を手伝うのが遊びなんで、商売道具の魚はくれませんよ。

投稿: 八島 守 | 2012年3月17日 (土) 21時46分

大神神社の以前の由緒書きによれば、「1584年、・・・皆川の敗残兵が室八嶋に籠もった為、・・・社殿その他全て焼失した」との事ですが、

1584年の頃、大神神社境内の池はまだ室の八島ではありませんでした。また神社自体も室の八島ではありませんでした。

当時の室の八島は、惣社町、国府町辺りの土地のことでした。つまり大神神社の由緒書きが言うような「篭れる」場所ではありません。

ですから、大神神社の由緒書きの言う「戦火に遭って消失した」が信じられないんです。

投稿: 八島 守 | 2012年3月17日 (土) 22時27分

すいません。いつの間にか投稿者名が「栃木市惣社町の住人 」から「八島 守」に替わってしまって。

意図して替えたんじゃないんです。かってに替わってたんです。

投稿: 八島 守 | 2012年3月17日 (土) 22時35分

八島守さんたくさんのコメントありがとうございました。「白百合座」を御存知のこと。なつかしい映画館でしたね。明治初期の栃木町を撮影した写真が「片岡写真館」で」販売しています。明治5年のころの栃木町の問屋街通りの道幅が広いことが分かります。道の真中に用水路が通っています。群馬県渋川市にある「白井宿」で道の真中を流れる用水路を見ることができます。「片岡写真館」はミツワ通りの相生橋のたもとにあります。写真の中には今の足利銀行倭支店の前にあった「高札場」を見ることができます。できれば「幸来橋」「万町交番」のところにあった木戸が復元されるといいのですが、栃木市には「市立の歴史資料館」がないのが残念です。

投稿: 銀次 | 2012年3月18日 (日) 06時30分

「明治5年のころの栃木町の問屋街通りの道幅が広いことが分かります。道の真中に用水路が通っています。」

明治の初めこの用水路にウナギがウヨウヨ棲息していたそうです。太平大権現の本地虚空蔵菩薩の関係から栃木市民はウナギを食べなかったんですかね?

この用水路は、三島通庸栃木県令(県令時代は1883-4年)によって道路両脇の2水路に別けられたようです。

投稿: 八島 守 | 2012年3月18日 (日) 07時45分

「片岡写真館」は、ウチの近所でしたからよく知ってます。片岡写真館にお姉さんはいましたが、遊び仲間はいませんでした。小学生の頃、片岡写真館の庭に一度だけ入った事があります。お姉さんが縁側に腰掛け、油絵の肖像画を描いてもらっている最中でした。

私の七五三の記念写真は片岡写真館のスタジオで撮ったものです。

投稿: 八島 守 | 2012年3月18日 (日) 08時05分

「相生橋」

八島 守の遊び場は、巴波橋と相生橋の間でした。おもに「郡役所」(栃木県庁下都賀庁舎)の庭で遊んでいました。
私のウチがちょっと郊外に引っ越したら、栃木県庁下都賀庁舎と保健所もウチの近くに引っ越してきました。

夏祭りの神輿は、古い町名の「相生町」という単位で管理していました。「相生町」ったら、幸来橋と相生橋の間辺りだったようですね。

投稿: 八島 守 | 2012年3月18日 (日) 08時50分

「できれば「幸来橋」「万町交番」のところにあった木戸が復元されるといいのですが、栃木市には「市立の歴史資料館」がないのが残念です。」

どちらについても共感いたします。でも栃木市って金無いんでしょう。

私としては、室の八島を是非栃木市観光の目玉にしたいんですが、栃木市民は誰も室の八島の真実を知らないんです。
室の八島は江戸時代にはものすごく有名な名所だったんです。但し史跡としての名所でしたが。

「現在は川原田町1687番地の白じ沼にしめじが原の史跡表示がある。土地の人の話では吹上にサントリイ工場ができた関係で沼は干されてしまったと言う。」って、これとんでもないですよ。

ここは下野国に存在しなかった「しめじが原」とはなんら関係ありません。 ここはわずかに残る室の八島の名残の地です。

ここの「しめじが原」は、「しめじが原とは湿地(しめじ)が原である」という江戸時代の妄説から生まれたものです。江戸時代前期頃にこじつけられたんだと思います。江戸時代に「しめじが原」にこじつけられた下野国の場所は皆湿地です。


投稿: 八島 守 | 2012年3月18日 (日) 09時58分

栃木市の川原田にある、しめじがはらの、文章が入った、歌、どこにあるか、おしえていただけますか?

?? しめじがはらの みかものやまも いでしつきかも??の歌等???

トマト(ニックネーム)  栃木市在住

投稿: トマト(ニックネーム) | 2015年1月14日 (水) 09時50分

トマトさんコメントありがとう。「しめじが原」については「目で見る栃木市史」の中、84~85ページでしめじが原の内容と歌が載っています。しめじが原については「清らかな水が湧き出る泉は神聖な場所、神がやどる所として大切にする信仰があった」と記述されています。「下野やしめしか原のさしも草おのか思に身をや焼くらむ(六帖・よみ人知らず)」「秋くるるしめしか原のきりきりすさせもか露を命にやなく(下野歌枕・倭文刀自)」「秋くれはしめしか原にさきそむる萩のすえにすかる鳴なり(散木集・源俊頼)。しかし、現在は枯れた沼地のようなになっていて、淋しい。

投稿: 銀次 | 2015年1月15日 (木) 04時23分

投稿: 銀次 様| 2015年1月15日 (木) 04時23分

 下記のお答え、ありがとうございました。

 こんごとも、よろしく、お願いいたします。

 添付、参考に(癒しに)。

  http://kotori.city.fukushima.fukushima.jp/viewer/live/ja/live.html


しめじが原については「清らかな水が湧き出る泉は神聖な場所、神がやどる所として大切にする信仰があった」と記述されています。「下野やしめしか原のさしも草おのか思に身をや焼くらむ(六帖・よみ人知らず)」「秋くるるしめしか原のきりきりすさせもか露を命にやなく(下野歌枕・倭文刀自)」「秋くれはしめしか原にさきそむる萩のすえにすかる鳴なり(散木集・源俊頼)。しかし、現在は枯れた沼地のようなになっていて、淋しい。

投稿: トマト(ニックネーム) | 2015年1月15日 (木) 11時48分

「下野やしめつのはらのさしも草おのか思に身をや焼くらむ」

この歌から、1600年代の下野国内に 「しめじが原=栃木市説」が生まれました。そして、それを根拠にして「伊吹山=栃木市説」が作られました。

しかし、上記の歌の「下野」を「下野国」とすると歌が解釈できません。

この「下野」は花の名前です。
「おのか思に身をや焼くらむ」は「シモツケ」が秋に紅葉する様子を詠ったものでしょう。

「シモツケの葉が秋に赤くなるのは、おのか思に身をや焼くらむ」
なかなか粋な歌なんです。

投稿: 八島 守 | 2017年7月 7日 (金) 12時13分

しめじが原

栃木市説、宇都宮説、日光説、浅草辺り説 いずれも湿地です。
江戸時代には、「しめじが原」とは「湿地(しめじ)が原」であるという説が有りました。

栃木市の湿地帯といえば、運動公園からその北のあたりですね。

また「しめじが原は伊吹山のふもとなるべし」という説もありました。

栃木市の「しめじが原」の最寄りの山は吹上町辺りの山ですね。
ここのようにして、伊吹山の場所を特定しました。
こうしないと伊吹山の場所を特定できません。
伊吹山なんて言う名前の山は下野国には存在しないんですから。

投稿: 八島 守 | 2017年7月 7日 (金) 13時14分

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