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2011年5月

ジャガイモ・絹さや―花が咲きました

Photo 5月中旬。ジャガイモに花が咲きました。新しい畑でのジャガイモ、収穫は6月中ごろと予想する。

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昨年より少ない絹さやの苗を植えた。

この倍の苗を来年は植える。

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所沢から植替えた月見草。

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ニラ・ラズベリィ・イチゴも所沢の畑から移植し、どうらや新しい葉が出てきてきた。

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今度のイチゴの実は甘い

赤い実のイチゴが顔をだしている。

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だめだと思っていたラズベリィ。どうにか新しい芽が出てきた。 

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小山義政をささえた鷲城―広大な空堀

Photo 小山市外城にある鷲城は思川の断崖に立つ城跡である。

 平成元年(1989)の6月、この鷲城郭内にマンション建設の話が小山市文化財保護審議会で明るみになった。しかし、市民団体による鷲城保存運動により保護が決まった。中城は私有地のため、郭内に畑がある。

Photo_2 小山正光から10代目の小山義政は先祖の所領であった武蔵国太田庄の鎮守鷲宮(埼玉県鷲宮町)を応安五年(1372)に修築し、守護神である鷲宮の神を小山の本城に勧請して、その名をとって鷲城と名づけている。この5年前の貞治六年(1367)に小山氏

          (中城内にある鷲宮神社)

の最大のライバルである宇都宮氏は河越氏らの平一揆と結び蜂起したが鎌倉公方足利氏満に降参した。これにより小山義政の所領拡大路線が始まったとされている。

Photo_3  康暦二年(1380)5月、下野国茂原において所領争いから小山義政は宇都宮陣所を攻め、守護職の宇都宮基綱を討つことにより『小山義政の乱』が始まった。義政の乱は鎌倉公方、足利氏満と康暦二年(1380)6月~9月の第一次。翌年

(中城の周りを深い空堀が現存)

永徳元年(1381)5月~12月の第二次。永徳二年(1382)3月~4月の義政自刃の第三次まで戦いが続けられた。

 とりわけ第二次の義政の乱では鷲城中久喜城・長福城・祇園城・宿城             

Photo_4 (小山氏の居宅)で戦闘が行なわれた。粟宮口での野臥(ゲリラ戦)、戸張口(城柵・バリケード)での戦闘、城と思川の断崖面の切岸での激突、城堀に草を投じて浅くして攻め込む城埋等があったが、半年間持ちこたえ義政は「降参」した。降参する際の交渉内容

(中城から見る土塁と畑)

が大きく違っているとし、義政は思川の上流、粟野町の寺窪城に立て篭もり、滅びた。

Photo_5  その後、子息の犬若丸の反撃を入れると「小山義政の乱」は17年間続いた。

 原因には諸説があり、はっきりしていない。考えられるのは鎌倉公方、氏満の執拗な小山義政への攻撃。その背景には、小山氏の所領拡大で

             (思川を臨む断崖)

足利氏の所領である古河への進出危惧。鎌倉時代から南北朝にかけての西大寺の諸国国分寺の末寺化による小山氏との連携の動きの危惧。有力豪族における鎌倉公方への見下しなどあげられている。

Photo_6 さらにこの時代には武士間の武力私闘には『故戦防戦の法』という慣習法があったが室町幕府は訴訟に切り替え、故戦者(この場合小山義政)は所領没収、防戦者(宇都宮基綱)は理があれば無罪とした。また同じく

(運動公園からの鷲城)

慣習法で『降参の法』があり、降参した場合は命は助けられ先祖伝来の本領は没収されないこととされていた。勝った氏満と負けた義政側との慣習法と室町幕府の考えとが大きく違っていたのかもしれない。

 この戦には、上野、北武蔵の白幡一揆が加わり、第三次の寺窪城攻撃には主力部隊となっている。何故なのかは今後詰めていきたい。

 この鷲城の空堀は幅10メートル、深さ6メートル、長さが70メートルと中城をとりめぐり、見事に現存してる。小田原本城の空堀に匹敵する雄大で広大な空堀である。

 この空堀を見ると、義政は鎌倉公方に対して鷲城を中心とした籠城戦に自信をもって臨めたと感じる。

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丘陵台地の先端―志村城

Photo  志村城跡は都営地下鉄三田線志村三丁目駅から南へ徒歩5分の坂を登る所にある。

 城址の北、西、南の三方は垂直に近い急な傾斜の断崖になっている。城址公園入り口から傾斜の断崖を登り、その北側には荒川が見える筈が、ビルの陰で荒川は見えない。

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  江戸の地は広大な丘陵台地によってできている。その台地の最先端に志村城がある。

 二の丸には熊野神社がある。秩父氏系列の武蔵野武士団の多くは熊野神社を勧進している。熊野神社本殿は本丸より位置が高い。

 本殿前の敷地から弥生時代の遺物が発堀され、すでにこの地は環濠があることから本殿は前方後円墳とされている。

Photo_7 また、本殿の右横に三基の板碑が並ぶ。右から明応(1492)、大永(1521)、永正(1504)年間と刻まれている。因みにこの志村城址から徒歩10分の所にある延命寺には関東で2番目に古い板碑がある。

 

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 熊野神社本殿の左側に空堀と土塁跡がある。二の丸と本丸の間に立ち、本丸側を見た。そこには高層マンションが建っていた。

 板橋区はどうして保存をしなかったのか。

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  断崖の下は整備された城址公園となっており、断崖より湧き水が流れている。

 丘陵の先端にある坂の上の城址 だが、太田道灌に滅ぼされた豊島氏一族の志村氏。最後は北条と共に廃城となった。

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城址公園が完成した時、門に鯱を置いた。しかし過去3回盗難のあい今は無いが隣りのトイレの上に一対の鯱がある。

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50年ぶりの栃木県営球場

Photo 50年ぶりに栃木県営球場に平成23年度春季高校野球を観に往ってきました。東武宇都宮線「西川田駅」に下車した時、様変わりにタダタダおどろきました。半世紀も経っているのだ.....。

 当時は雑木林と運動公園につづく道は砂利道で運動公園の手前はスイカ畑でした。

 球場も2階席を設けており、大谷石を積んだスタンドは無くなっていました。

Photo_2  準々決勝、小山と宇都宮南(1-3)。作新学院と国学院栃木(1-3)と共に僅少差の試合だったが盛り上がりに欠けた試合だった。

 どうしても昨年まで観ていた埼玉の高校野球チームと比較してしまう。

 浦和学院の負けないチーム作り(そのため全国大会では弱い)や花咲徳栄の泥臭いチーム作り。そしてキャッチャアを中心としていた。

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 作新は背の高い選手が多く、ひょろりとしており、貪欲に欠けている。勝とうとする意識が感じられなくエリートチームの雰囲気があった。

 国学院栃木はよく走る。監督のノーサインかもしれないが、監督の采配で点数はさらに入れられる。打力が課題。

Photo_4  西川田駅から運動公園への向う道の両側は分譲住宅が立ち並んでおり、あの頃のスイカ畑は陸上競技場のサブグランドになっていた。母に作ってもらったおにぎりを持参し、夏の県予選を見に行った。

夏の日ざしの中、球場前の木陰でたった今、準々決勝で負けた栃木高校の選手達が車座になり、うな垂れていた姿が眼に残っています。

 宇都宮工業、夏、甲子園の準優勝投手の大井選手は今では新潟での名監督となっています。春夏連続優勝した作新学院の八木沢、加藤投手。思い出しました。

《追記》平成24年の夏の栃木県大会、県営球場で佐山和夫氏にお会いしました。佐山氏は作新学院が春夏全国制覇した時のセカンドを守っていた選手。現在は作新学院大学野球部監督をしているということです。スタンドで偶然近くにおり、野球の話から紹介をいただきました。「この時期の高校野球では2年生を見に来ているのです。負ければ監督の責任なんですよ」と穏やかに話してくれました。

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戊辰戦争ー小山の弾痕

Photo 慶応四年(1868)4月12日、大鳥圭介率いる旧幕府軍は日光を目指して江戸を発進した。

4月15日、下総諸川(古河市)に宿した旧幕府軍は16日、宇都宮駐屯の新政府軍と結城市での交戦を行い、これに勝利し、17日小山の本陣跡に宿営し、祝杯をしていた。その時攻撃してきた新政府軍を撃退したと大鳥圭介の『南柯紀行』に記述されている。

  その弾痕の跡が興法寺の大きな地蔵尊の右側にある。

 興法寺はJR小山駅から日光街道を700メートル北進した左側にある。

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 もう一つは小山駅手前の常光寺の阿弥陀如来坐像台座後部に流弾の傷跡がある。

 小山の戦いでは宇都宮から攻撃してきた新政府軍、香川敬三隊(水戸脱藩士、東山道総督大観察)らと本格的な戦闘を行い、旧幕府軍伝習隊の戦いぶりはフランス式の進軍ラッパを吹き鳴らし、最新式銃の元込銃の「シャスポー銃」を使用し、統制がとれた戦闘を行い撃破した。

野口武彦著「鳥羽伏見の戦い」の中で小山での戦闘で官軍を破った際の記述の中で『館林藩一番隊奥羽戦記』を以下引用している。

 「徳川家において洋式陸軍兵法に精通せる大鳥圭介らが、総指揮官として率い来られる伝習隊・新撰隊・あるいは純義隊らにして、みなすこぶる立派なる仏式の訓練兵にして、しかもことごとく新式元込銃を所持し居れ

 「脱兵はフランス式仕込みの進軍ラッパを吹き鳴らし、その進退駆引きに節度あり。一斉射撃あるいは乱射を行いつつ前進し来る。」

 旧幕府軍伝習隊二番小隊長の浅田惟季(あさだこれすえ)の「北線日誌」からは「七ツ時(4時頃)過ぎ整列、我が伝習隊小山駅を発す。ラッパを鳴らし行軍百余歩、南方叢林中に敵兵あり、砲声忽然(こつぜん)と起こる。我が兵、ただちに右側戦隊を作り、叢(くさむら)を目標とし激烈に連発せしめ。急歩均しく進んで麦畑の中に乱入す。敵軍たちまち敗走、砲を捨て遁(に)さりたり」

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しかし、旧幕府軍は、この小山の攻防戦の後、宇都宮城を占拠するが、激しい雨の中での安塚の決戦で負け、敗退の道を進む。

 

地図の真ん中の赤い線が日光街道。左上の7番が興法寺。右下の13番が常光寺。

 小山駅手前の新幹線ガード下に中世の小山氏の居住跡があるというが、まだみていません。

《追記》

P2190133 戊辰戦争弾痕の跡がある定光寺阿弥陀如来坐像は3月11日の大震災で倒れ、修復修理を行なった。

 現在は境内にある三十三夜堂内にて安置されている。毎月23日にはお堂の開帳が行われ、拝観できる。また坐像を見学したい場合は社務所に申し出れば、拝観できる。

 

平成25年の1月に三十三夜堂に入らせていただき、拝観することができた。坐像の左側に弾痕の跡があった。

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 定光寺関係者が貴重な歴史資料として大切に保存されていることが分かり、うれしかった。

          《夢野銀次》

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