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小山義政をささえた鷲城―広大な空堀

Photo 小山市外城にある鷲城は思川の断崖に立つ城跡である。

 平成元年(1989)の6月、この鷲城郭内にマンション建設の話が小山市文化財保護審議会で明るみになった。しかし、市民団体による鷲城保存運動により保護が決まった。中城は私有地のため、郭内に畑がある。

Photo_2 小山正光から10代目の小山義政は先祖の所領であった武蔵国太田庄の鎮守鷲宮(埼玉県鷲宮町)を応安五年(1372)に修築し、守護神である鷲宮の神を小山の本城に勧請して、その名をとって鷲城と名づけている。この5年前の貞治六年(1367)に小山氏

          (中城内にある鷲宮神社)

の最大のライバルである宇都宮氏は河越氏らの平一揆と結び蜂起したが鎌倉公方足利氏満に降参した。これにより小山義政の所領拡大路線が始まったとされている。

Photo_3  康暦二年(1380)5月、下野国茂原において所領争いから小山義政は宇都宮陣所を攻め、守護職の宇都宮基綱を討つことにより『小山義政の乱』が始まった。義政の乱は鎌倉公方、足利氏満と康暦二年(1380)6月~9月の第一次。翌年

(中城の周りを深い空堀が現存)

永徳元年(1381)5月~12月の第二次。永徳二年(1382)3月~4月の義政自刃の第三次まで戦いが続けられた。

 とりわけ第二次の義政の乱では鷲城中久喜城・長福城・祇園城・宿城             

Photo_4 (小山氏の居宅)で戦闘が行なわれた。粟宮口での野臥(ゲリラ戦)、戸張口(城柵・バリケード)での戦闘、城と思川の断崖面の切岸での激突、城堀に草を投じて浅くして攻め込む城埋等があったが、半年間持ちこたえ義政は「降参」した。降参する際の交渉内容

(中城から見る土塁と畑)

が大きく違っているとし、義政は思川の上流、粟野町の寺窪城に立て篭もり、滅びた。

Photo_5  その後、子息の犬若丸の反撃を入れると「小山義政の乱」は17年間続いた。

 原因には諸説があり、はっきりしていない。考えられるのは鎌倉公方、氏満の執拗な小山義政への攻撃。その背景には、小山氏の所領拡大で

             (思川を臨む断崖)

足利氏の所領である古河への進出危惧。鎌倉時代から南北朝にかけての西大寺の諸国国分寺の末寺化による小山氏との連携の動きの危惧。有力豪族における鎌倉公方への見下しなどあげられている。

Photo_6 さらにこの時代には武士間の武力私闘には『故戦防戦の法』という慣習法があったが室町幕府は訴訟に切り替え、故戦者(この場合小山義政)は所領没収、防戦者(宇都宮基綱)は理があれば無罪とした。また同じく

(運動公園からの鷲城)

慣習法で『降参の法』があり、降参した場合は命は助けられ先祖伝来の本領は没収されないこととされていた。勝った氏満と負けた義政側との慣習法と室町幕府の考えとが大きく違っていたのかもしれない。

 この戦には、上野、北武蔵の白幡一揆が加わり、第三次の寺窪城攻撃には主力部隊となっている。何故なのかは今後詰めていきたい。

 この鷲城の空堀は幅10メートル、深さ6メートル、長さが70メートルと中城をとりめぐり、見事に現存してる。小田原本城の空堀に匹敵する雄大で広大な空堀である。

 この空堀を見ると、義政は鎌倉公方に対して鷲城を中心とした籠城戦に自信をもって臨めたと感じる。

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