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戊辰戦争ー小山の弾痕

Photo 慶応四年(1868)4月12日、大鳥圭介率いる旧幕府軍は日光を目指して江戸を発進した。

4月15日、下総諸川(古河市)に宿した旧幕府軍は16日、宇都宮駐屯の新政府軍と結城市での交戦を行い、これに勝利し、17日小山の本陣跡に宿営し、祝杯をしていた。その時攻撃してきた新政府軍を撃退したと大鳥圭介の『南柯紀行』に記述されている。

  その弾痕の跡が興法寺の大きな地蔵尊の右側にある。

 興法寺はJR小山駅から日光街道を700メートル北進した左側にある。

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 もう一つは小山駅手前の常光寺の阿弥陀如来坐像台座後部に流弾の傷跡がある。

 小山の戦いでは宇都宮から攻撃してきた新政府軍、香川敬三隊(水戸脱藩士、東山道総督大観察)らと本格的な戦闘を行い、旧幕府軍伝習隊の戦いぶりはフランス式の進軍ラッパを吹き鳴らし、最新式銃の元込銃の「シャスポー銃」を使用し、統制がとれた戦闘を行い撃破した。

野口武彦著「鳥羽伏見の戦い」の中で小山での戦闘で官軍を破った際の記述の中で『館林藩一番隊奥羽戦記』を以下引用している。

 「徳川家において洋式陸軍兵法に精通せる大鳥圭介らが、総指揮官として率い来られる伝習隊・新撰隊・あるいは純義隊らにして、みなすこぶる立派なる仏式の訓練兵にして、しかもことごとく新式元込銃を所持し居れ

 「脱兵はフランス式仕込みの進軍ラッパを吹き鳴らし、その進退駆引きに節度あり。一斉射撃あるいは乱射を行いつつ前進し来る。」

 旧幕府軍伝習隊二番小隊長の浅田惟季(あさだこれすえ)の「北線日誌」からは「七ツ時(4時頃)過ぎ整列、我が伝習隊小山駅を発す。ラッパを鳴らし行軍百余歩、南方叢林中に敵兵あり、砲声忽然(こつぜん)と起こる。我が兵、ただちに右側戦隊を作り、叢(くさむら)を目標とし激烈に連発せしめ。急歩均しく進んで麦畑の中に乱入す。敵軍たちまち敗走、砲を捨て遁(に)さりたり」

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しかし、旧幕府軍は、この小山の攻防戦の後、宇都宮城を占拠するが、激しい雨の中での安塚の決戦で負け、敗退の道を進む。

 

地図の真ん中の赤い線が日光街道。左上の7番が興法寺。右下の13番が常光寺。

 小山駅手前の新幹線ガード下に中世の小山氏の居住跡があるというが、まだみていません。

《追記》

P2190133 戊辰戦争弾痕の跡がある定光寺阿弥陀如来坐像は3月11日の大震災で倒れ、修復修理を行なった。

 現在は境内にある三十三夜堂内にて安置されている。毎月23日にはお堂の開帳が行われ、拝観できる。また坐像を見学したい場合は社務所に申し出れば、拝観できる。

 

平成25年の1月に三十三夜堂に入らせていただき、拝観することができた。坐像の左側に弾痕の跡があった。

P2190127 

 定光寺関係者が貴重な歴史資料として大切に保存されていることが分かり、うれしかった。

          《夢野銀次》

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