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2011年6月

夏野菜の到来―カボチャ・ナス・オクラ

6_013  梅雨空がつづく中、夏野菜が順調に育ち始めている。

 花を咲かせ、実が生る季節の到来を迎えて来た。

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カボチャの黄色い花。実が育っている。

今回のカボチャの葉は生きが良く、カボチャの実も大きく育ってきている。

オシベとメシベの自ふん作業もまた楽しい。

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トマトの雨よけに購入した堆肥袋のビニールで覆うってみた。他の人は専用の支柱とビニールで覆うっている。ある地域の人はビニール傘で覆うっていたのを見たことがある。ここは風が強く、ビニール傘では飛ばされる。

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なすの花も咲き始めた。どの枝を切り取るか?長く持たせる方法は埼玉農業大学の公開講座で教えてもらったが、今は忘れている。今一度ファイルを見ていくことにする。

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オクラの花は何故か不気味さを漂わせている。花の根もとから実を生らせてくる。

 

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浄瑠璃坂から牛込北町交差点へ

Photo_3  寛文八年(1668)2月19日、宇都宮興禅寺において前藩主奥平忠昌公二七忌の際、宇都宮藩家老奥平内蔵充正輝と奥平隼人が口論から刃傷になり、深手を受けた正輝は4月27日に憤死した。宇都宮藩の処分は正輝の子、源八以下一族は追放、隼人はお構いなしであった。(興禅寺山門)

  源八(15歳)は42名と共に4年後の寛文十二年(1672)2月3日、江戸牛込浄瑠璃坂下で隼人を討ち取り、父の無念を晴らした。読み物『浄瑠璃坂の仇討ち』として世間に広まり、江戸時代の三大仇討ちとして荒木又衛門の伊賀の上野仇討ち、赤穂浪士の吉良邸討ち入りとなっている。興禅寺にある奥平内蔵充正輝の墓は次回に記載します。

Photo_4 浄瑠璃坂は新宿区市ヶ谷砂土原1丁目と2丁目の境にあり、保健会館の先の左にある。高橋義夫著の『浄瑠璃坂の仇討ち』の中で浄瑠璃坂の描写を次のように記述している。

 『牛込見附から市ヶ谷見附まで土手筋は、左側が堀で向かいには江戸城石垣とうっそうたる森、右側が一町ばかり火消屋敷がある。市ヶ谷御門の手前、田町一町目と二丁目の町屋の間の横丁を抜けると、また堀に平行した道があり、そこが浄瑠璃坂と呼ばれる。昔このあたりに浄瑠璃の小屋がかかったからそう呼ぶのだと、小物屋は得意そうに説明した。( 省略)横屋が道に面し、武者窓が開いている。庭木が茂り、枝が坂に張り出して、江戸の町中だがまるで山道を上るようだ。半町ばかり左右に武家屋敷を見ながら坂を上ると、左右に道が分かれるところに木戸があった。そこが鷹匠頭戸田七之助の預かる御鷹小屋のある屋敷(奥平隼人の潜伏先)である。そのさきは袋小路になっている。』

Photo_2 浄瑠璃坂界隈は40年前、学生の頃すし屋の出前のバイトで かぶ号で走り回っていた。そのすし屋、『要(かなめ)ずし』は大久保通り牛込北町交差点のところにあった。都電撤去工事が行われていた頃だ。朝10時から夜10時までの12時間労働で三食付、日給3,600円だった。

 全共闘運動の終了と共にやる気を無くしていた自分に鞭打つためのバイトだった。3カ月やり通し、結果60万円を稼いだ。今の金額だと200万円位だと思える。給金を渡す時、店の主人は全て千円札で渡した。「いいか、いずれお前ならこれ位の金を稼げるようになるが、ここで働いたこの千円札の束を忘れるな」と言って励ましてくれた。

 「俺はすし屋の二代目だが、酢の物が嫌いだ。どうだピノキヨ(当時の私のあだ名)店の売り上げ儲けの30パーセントを俺にくれて、この店やらないか?」と誘ってくれた。あれは冗談だったのだろうな。その『要ずし』があった場所、今は駐車場になっていた。板前さんが内緒で握ってくれたあの大トロのすし、シャリがうまく、また食いたいな。

 浄瑠璃坂から牛込北町、先の新潮社には行かずに、坂を下り外堀に出た。

 

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龍馬と歳三が相棒で犯人探し

相棒 (PHP文芸文庫) Book 相棒 (PHP文芸文庫)

著者:五十嵐 貴久
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15代将軍徳川慶喜が大政奉還を宣言する前に薩摩の西郷と談合するために薩摩屋敷に向う途中に銃撃される。動揺した慶喜に犯人を明らかにして、大政奉還を進めるため、老中板倉勝静と若年寄永井尚志は犯人探しを坂本龍馬と土方歳三に命じる。

  薩摩、長州、会津と倒幕派と佐幕派双方に通じているための人選だ。この2人が相棒として犯人探しながらの会話が時代の背景と立場をあらわしておりおもしろい。

 狙撃犯を新撰組分派の伊東甲子太郎とし、龍馬暗殺日が11月15日、引き続き11月18日に伊東派は新撰組に切られ滅亡している。土方歳三が龍馬暗殺の仇として伊東を斬る内容になっている。さらに龍馬は生きていたという設定で最後をしめている。

 幕末小説として『あっても良いな』と思え、さわやかな印象を得た。   

                

                                            

           

                            

   

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麦畑から水田に

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麦刈りが終わり、我が家の前の畑では農家の奥さんが焼畑をする。まだ30代と若い女でした。

焚き火は禁止されているが、野焼きは農業の習慣により『適用除外』となっている。初めてみる。

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わらが欲しいと農家の奥さんに言ったところ、翌日にはわが菜園の端に5束のわらが届けられていた。今まではホームセンターで購入していたため、使用済みのヨシズを利用していたのが、豊富な「わら」で菜園に敷きつめることができました。

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麦畑から水田へと変えるため、用水堀から畑に豊富な水を流し込み、水田とする。周りの麦畑が一斉に水田、稲作となっていく。

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田植えが終わった水田に白鷺が舞い降りて、長い足でのっしりのっしと歩きまわる。

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カルガモが水田をスイスイと泳ぎながら口ばしでエサをあさっていきます。

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