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浄瑠璃坂から牛込北町交差点へ

Photo_3  寛文八年(1668)2月19日、宇都宮興禅寺において前藩主奥平忠昌公二七忌の際、宇都宮藩家老奥平内蔵充正輝と奥平隼人が口論から刃傷になり、深手を受けた正輝は4月27日に憤死した。宇都宮藩の処分は正輝の子、源八以下一族は追放、隼人はお構いなしであった。(興禅寺山門)

  源八(15歳)は42名と共に4年後の寛文十二年(1672)2月3日、江戸牛込浄瑠璃坂下で隼人を討ち取り、父の無念を晴らした。読み物『浄瑠璃坂の仇討ち』として世間に広まり、江戸時代の三大仇討ちとして荒木又衛門の伊賀の上野仇討ち、赤穂浪士の吉良邸討ち入りとなっている。興禅寺にある奥平内蔵充正輝の墓は次回に記載します。

Photo_4 浄瑠璃坂は新宿区市ヶ谷砂土原1丁目と2丁目の境にあり、保健会館の先の左にある。高橋義夫著の『浄瑠璃坂の仇討ち』の中で浄瑠璃坂の描写を次のように記述している。

 『牛込見附から市ヶ谷見附まで土手筋は、左側が堀で向かいには江戸城石垣とうっそうたる森、右側が一町ばかり火消屋敷がある。市ヶ谷御門の手前、田町一町目と二丁目の町屋の間の横丁を抜けると、また堀に平行した道があり、そこが浄瑠璃坂と呼ばれる。昔このあたりに浄瑠璃の小屋がかかったからそう呼ぶのだと、小物屋は得意そうに説明した。( 省略)横屋が道に面し、武者窓が開いている。庭木が茂り、枝が坂に張り出して、江戸の町中だがまるで山道を上るようだ。半町ばかり左右に武家屋敷を見ながら坂を上ると、左右に道が分かれるところに木戸があった。そこが鷹匠頭戸田七之助の預かる御鷹小屋のある屋敷(奥平隼人の潜伏先)である。そのさきは袋小路になっている。』

Photo_2 浄瑠璃坂界隈は40年前、学生の頃すし屋の出前のバイトで かぶ号で走り回っていた。そのすし屋、『要(かなめ)ずし』は大久保通り牛込北町交差点のところにあった。都電撤去工事が行われていた頃だ。朝10時から夜10時までの12時間労働で三食付、日給3,600円だった。

 全共闘運動の終了と共にやる気を無くしていた自分に鞭打つためのバイトだった。3カ月やり通し、結果60万円を稼いだ。今の金額だと200万円位だと思える。給金を渡す時、店の主人は全て千円札で渡した。「いいか、いずれお前ならこれ位の金を稼げるようになるが、ここで働いたこの千円札の束を忘れるな」と言って励ましてくれた。

 「俺はすし屋の二代目だが、酢の物が嫌いだ。どうだピノキヨ(当時の私のあだ名)店の売り上げ儲けの30パーセントを俺にくれて、この店やらないか?」と誘ってくれた。あれは冗談だったのだろうな。その『要ずし』があった場所、今は駐車場になっていた。板前さんが内緒で握ってくれたあの大トロのすし、シャリがうまく、また食いたいな。

 浄瑠璃坂から牛込北町、先の新潮社には行かずに、坂を下り外堀に出た。

 

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