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2011年7月

出流山天狗事件―永野村の軍師・原口文益

Photo  慶応三年(1867)12月12日、出流山満願寺において尊王倒幕で蜂起した160名の下野糾合隊(出流山天狗)はわずか10名の囮隊を残し、出流山鍋山村を脱出し、葛生方面へ脱出した。栃木陣屋に資金調達に行った6人の内、4人が栃木宿戦闘(銀次のブログ・出流天狗事件「栃木宿の戦闘・長谷川伸相楽総三とその同士たち」)で関八州取締に討ち取られ、出流山に出動してくることが明らかになったからだ。山づたいから葛生、田沼宿を経て、岩船山と太平山を両翼に佐野唐沢山城に籠り薩摩藩を頼り、持久戦に持ち込むこととしたのだ。

 日向野徳久著「岩舟町の歴史」によれば、関八州取締出役、渋谷鷲郎は栃木町から先回りして岩船西麓にある新里村に鉄砲隊と館林藩・佐野藩など幕府討伐隊が待ち受けていたと記述されている。さらに険しい山路で疲労と空腹の浪士隊(糾合隊)は小野寺村で一斉射撃を浴びせられた。岩船山の岩陰に逃げたが、銃撃が繰り返されたため山を下りたが、一斉射撃で崩れ、新里村八幡山の東での斬り会いで糾合隊は壊滅したとしている。

 糾合隊には鉄砲が少なく、武力の差が大きかった。渋谷鷲郎は前年の武州一揆を鉄砲を使用して鎮圧する戦闘での実績があったからでもある。首謀格の会沢元助は新里村で打死、竹内啓(ひらく)は捕縛され江戸護送の途中、松戸宿にて処刑された。国定忠治の子息、大谷形部国次は岩船山にて最後まで奮戦したが捕縛され、佐野天明河原にて6日後の12月18日に41人と共に斬首された。この蜂起した160名の中には永野村30人、粕尾村20名の村人が参加していた。

 岩船山新里村の戦闘においたは地元の農民も渋谷鷲郎に率いられて参加していた。翌年の慶応四年(1868)4月に「ぼっこし」と言われている下野世直し一揆がおこる。出流山糾合隊との戦闘を経験した農民が一揆に加わることにより世直し一揆は大きなうねりとなっていった。

Photo_2  岩船山新里村八幡山の戦闘にて常田与一郎こと原口文益は鉄砲に撃たれ討死にした。原口文益は栃木市から西北20キロ先の永野川上流の下永野村にて常田塾を開く漢方医でもあった。原口文益について『国定忠治と出流天狗』(松原日治著)によれば肥前

佐賀の鍋島藩の藩士であり、武蔵金沢六浦藩の米倉丹後守の知遇を得て、下永野村の名主池澤浅右衛門と合い、永野村に住み着いた。常田塾を開き佐賀藩の大隈重信経由でアームストログの講義や諸外国の実状を教材として、尊王開国、倒幕の考えを推し進めていったと紹介している。

さらに、大塚雅美著『草莽の系譜』でも原口分益こと常田与一郎について記述がある。「多くの志士を生んだ永野村における常田与一郎の存在は特出すべきものがある。永野村池澤浅衛門とめぐり合いによってここに定着し、『常田塾』を開き、表面的には医業を持って、現実には幕末政情の現状打破に子弟教育という行動を通して時局に対処した」と大塚雅美氏は絶賛している。

Photo_3  この原口文益の墓が下永野村の長谷寺(ちょうこくじ、栃木県鹿沼市下永野962)にひっそりとある。歴史から埋もれているかのように静かな佇まいの中、墓石には明治28年3月28日建立と刻まれている。長谷寺は栃木市から粟野に向かい、大越路トンネルの手前を左に曲がり、下永野に入り、右側の山裾に佇む天正二年(1574)創建された寺である。もともと茨城県ゆかりの長谷寺は当時の住職、大心無外は茨城県行方郡北浦町にあ                                

る円通寺からきており、多くの水戸藩士が出入りし水戸尊王攘夷の影響を強く受けていた寺でもあった。また、佐野と足利の間にある富田宿の如意輪寺の住職応住(おうじゅう)は田崎早雲、高野長英らと親交があり、長谷寺無外和尚と仲が良く、影響を与えたいう。(「国定忠治と出流天狗より)

Photo_4 その原口文益は元治元年(1864)5月の水戸天狗党太平山対陣の際には参加を拒否している。尊王攘夷と尊王開国の考えの違いであったのだろう。しかし、出流山天狗事件では軍師格として加わっている。時期早々との考えで同じく下永野で道場を開いていた内藤民部には参加を止めている。原口の周りには近在の若者多くいたことから、参加を促され倒幕の一点で決意したのだろうと推察する。江戸末期の幕府の触書では『農民の剣術稽古・学習』等の禁止が頻繁に出ていることから、学問・剣術が盛んであったことが伺える。こうした山間の地域には原口文益など数多く草莽の志士が存在し、農民階層を中心に天下国家への意識の高まりの広がりを見せ、やがては明治の自由民権運動につながっていった。

(参考資料)

松原日治著『国定忠治と出流天狗』、 大塚雅美著『草莽の系譜』(三一書房)、日向野徳久著『岩舟町の歴史』

                           《夢野銀次》

 

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栃木口語り・吹上現代故老に聴く―語り言葉で紡ぐ郷土誌

 平成22年(2010)11月に『栃木口語り 吹上現代故老に聴く』書は、野村敬子と原田遼との共著で国学院大学栃木短期大学の「口承文芸セミナーの」からの発信によって瑞木書房より発行されている。冒頭に、口承文芸研究者である野口敬子によれば、『口語り』とは語り手が対座して聴き手に対して自由に心に浮かんだ出来事について言葉が紡ぎ出す営みをさすとし、本書を『語り言葉で紡ぐ郷土誌』を指向するものとしている。

 栃木市吹上在住の三人の故老が幕末から明治・大正、昭和の太平洋戦争終戦に至るまで吹上地域にまつわる先祖から伝わる話、麻の生産や実際に見た戦争のことなど地域の歴史の口語りが記載され、最後には幻の郷土誌・大正2年(1913)発行の『吹上郷土誌』全編が載っている本だ。

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 始めに栃木市遺族会会長をしている伊津井喜市さんの吹上の歴史、吹上城、皆川から上総国五井から転封してきた有馬氏による吹上藩、麻つくり、伊吹山「もぐさ」、「しめじが原」、吹上役場などの語りがある。

Photo  次に330年以前から住んでいるという塩田保さんの『口語り』では「吹上藩斬妖事件」、当地の偉人として自由民権運動、田中正造らと国会議員として活躍した塩田奥造の米山薬師にある顕彰碑の話から始まり、昭和38年吹上中学校の整備拡張 《吹上城址に建つ吹上中学校》              の際に見つかった吹上城の抜け穴や、戦後の教育改革で新生中学校を始めて村で作り上げた村立吹上中学校の話が出てきて興味深い。

 中でも明治16年~18年までつづく栃木県庁の栃木から宇都宮への移転をおこなった三島通庸県令との間に起きた「加波山事件」と自由党へ取り締まり。『三島県令はかたっぱしから自由党員を捕まえろと命令して、縛りあげたもんだから、栃木の町の荒物屋の縄が亡くなったとか、刑で亡くなった福島県の相馬藩士の杉浦吉副は栃木の満福寺に葬られている』とういう語りが出てくる。三島県令による県庁移転の決断をした確かな史料は存在していない。『どうして、県庁が宇都宮に移ったの』という子供達の質問。私達は明確に答えることができるのか?。 塩田家に伝わる郷土料理の「シミツカレ」「シモツカレ」、終戦時に吹上小学校に駐屯していた拓部隊、食料増産のため焼夷弾の焼カラで鍬にして各学校に配給があったこと。戦後の教育改革で新生中学校を始めて村で吹上中学校を作り上げた話等、語り継ぐ必要を感じた。 

 3人目の唐木田利伊さんの話は家業が麻の生産と仲買のため、麻をめぐる話で『現在この地方で麻を作っている農家はたった七軒。大麻は麻薬で毒もあります。しかし今は改良され麻薬の成分は少ないです。昔、麻畑の傍の草を刈り取っておいたものを馬や牛に食べさせたら具合がおかしくなる。人も腹が張ってくる。麻作りは農家の皆、大変な仕事でした』と語り、農家の嫁の評価から現在『下駄の鼻緒のシンとか、草履の鼻緒のシンとか、また最近では神社神社の鈴縄を奉納する神社が注蓮縄を作る。全国の90パーセントは栃木県産です。栃木県といっても鹿沼と栃木でも七軒でしょう』と語り、明治時代が最も大麻生産が盛んであり、栃木は下駄の産地、鼻緒のシンナワが必要であったと語る。余談ですが、この唐木田利伊さんは私の縁者です。私の家は「下駄」を作っていた。麻と下駄の関係で母親は昭和の初期に父親がやっていた栃木町の下駄屋に嫁に来たのかもしれない。

Photo_2  語りはさらに正仙寺の檀家総代から戦争中に国に供出された東善光寺の『梵鐘』を昭和63年に戻す話は貴重な伝えとなると思え感心させられる話である

 《東善光寺の鐘楼》

 

最後は終戦時に出征兵士の見送りは威勢よくバンザイと言って送り出すことが禁じられ、一人の見送りしか許されなかったことが語られてくる。映画のシーンのような万歳での見送りは終戦ま続いたと思っていたが、違うことを知った。

 この書に記載されている大正2年8月25日発行の『吹上郷土誌』はじっくり読みたい郷土誌だ。幕末の天狗党・出流事件・戊辰戦争への吹上藩のかかわり方や明治期の、鍋山と栃木駅を結んでいた人車鉄道の話(後日、銀次のブログに記載予定)等が多数記載されおり、前段の3人の故老の語りとつながりを感じた。

 著者の原田敬子は書の途中で『不特定多数の人が繰り返し語り継いだ、公共の知としての「伝え」が全てです。それら不特定多数の人々が継承してきた「伝え」を聴き取ることによって、共同体や地域を構成してきた多様な文化や精神風土を理解できると考えられるからです。、また「口語り」は共同体が継承している生活文化や心情、構成員としての心意など言葉で「伝え」るものです』と語っている。口承文芸書は郷土史を研究する者にとって必読な史料になる。

                        《夢野銀次》

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歴史の息吹き―宇都宮『興禅寺』境内・墓地

Photo  宇都宮市にある栃木県庁前から県庁通りを東に10分歩くと田川に着く。東橋を渡った左側に宇都宮で最初に出来た禅寺、興禅寺がある。正和3年(1314)八代城主宇都宮貞綱が開基した由緒あるお寺だ。

 山門の先の境内の左側に貞綱、九代城主の公綱の2基の大きな供養塔がある。貞綱は16歳で元寇のおり6万の兵を率いて出陣したが、その嫡男の公綱は太平記『宇都宮天王寺発向の事』に出てくるので印象の強い武将だ。

Photo_2  天王寺にて大敗した北条方は宇都宮公綱に出陣を命じ、公綱はわずか五百騎にて天王寺に陣を構える楠木正成に向った。これを知った楠木正成は『合戦の勝負、必ずしも大勢・小勢によらず、ただ士卒志を一にするとせぬとによれる。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。紀清両党、いづれも戦場に臨んで命を思ふ事、塵芥(ちりあくた)よりも軽くし、その勢志を一つにして戦ひを決せば、大半は必ず誅(う)たるべし』と語り、戦を避けて撤退した。

 この太平記から宇都宮氏の率いる益子の紀(き)氏と真岡の清原氏の紀清両党を中心とした武士団が、その勇名を全国に知れ渡っていたことと、公綱の勇姿が目に浮かぶ。

Photo_4 「ギャー、ギャー」と墓地の上をやたらカラスが飛び交う。その墓地の真ん中あたりに『浄瑠璃坂の仇討ち』で憤死した奥平内蔵充(くらのじょう)昌輝の墓地がある。

 仇討ちを遂げた嫡男奥平原八は大島流罪を許された後、彦根藩井伊家に仕え、子孫はそのまま彦根に定着した。

 興禅寺にある墓は、その後300年忘れらていたと云う。昭和51年、奥平内蔵充昌輝、彦根藩士奥平源八の子孫である浦和市の高山悌二氏が興禅寺を訪れ、

Photo_5あまりの墓石の荒廃に驚き、昭和53年11月に歴史を記す碑文と供養塔を完成させた。

 墓地を見る人がいなくなれば、その墓石はなくなる。『墓地は所有ではなく使用権だ』とあるならば、300年間保存してきた興禅寺の姿勢にも感心する。         

 

Photo_6  野口雨情の歌碑『山は遠いし野原はひろし 水は流れる雲はゆく』がある。軽い脳出血を冒された雨情は武蔵野市吉祥寺から昭和19年1月に宇都宮市に疎開してきた。しかし、昭和20年1月27日にこの地にて62歳で亡くなった。興禅寺の住職が葬儀を執り行い、その謝礼として歌の直筆の半切れをいただき歌碑にした。

 歴史ある興禅寺だが、慶応4年(1868)4月の戊辰戦争宇都宮城の攻防戦において寺が全焼し、古文書がたくさん焼失したと云う。貴重な史料が多く失ったのは残念だが、境内や墓地そのものに歴史の息吹きが脈々と続いていることが感じられる。寂たる寺院だ。

                      《夢野銀次》

《参考資料》

「下野の歴史散歩」(徳田浩淳著)、「興禅寺物語」(徳田浩淳著)、「宇都宮城物語」(福田三男著) 

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仕掛けらたもの―五十嵐貴久著『For You』

 叔母、吉野冬子の突然の死から始まる。姪の佐伯朝美は映画雑誌の編集記者。韓国スター,フィル.ウォンへ来日取材インタビゥの設定。叔母、冬子の1979年から80年にかけての日記を読む姪の朝美。その25年前の日記の中の冬子と同級生の藤城篤志の高校生活。その中からウォンとの取材設定に仕掛けられていたトリック。それはすがすがしいものとして描写されている。 

For You (祥伝社文庫) Book For You (祥伝社文庫)

著者:五十嵐 貴久
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 高校生活を描いた小説は五十嵐貴久の「1985年の奇跡」につづく書。叔母冬子の日記から性描写も暴力描写もなく、「静岡市の県立高校」「江ノ島に遊び行く高校生グル-プ」「どこかカラッとした受験前」「高校文化祭」など陰鬱な生活でない高校生活が描かれている。そして来日した韓国スター、フィル.ウォンへの取材に悪戦苦闘する朝美。

 単なる青春を描いた小説かと思いきや、最後の仕掛けられトリックには感心しました。朝美のこの台詞が妙に臭くなかった「最後にウォンはこうに言った」「今朝、早く起きた時に見たこの街の美しさを忘れることはないだろうと。一度だけでじゃない。何度も何度も繰り返してそう言った。その朝の美しさを忘れることはないだろうって。それって、つまり...。」

 今から20年前、私の青春生活そのものを歌った『神田川』を聴いたある女の子がこう言った。『おじさん達の青春時代の歌って、ものすごく暗いのよネ』。

その時の時代に受ける風は冷たいものもあれば柔らかいものもある。でもその時に、その風を受けながら出会えたもの、別れていったものは自分の宝としてしまって置きましょう。吉野冬子のように。            

                                《夢野銀次》               

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