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歴史の息吹き―宇都宮『興禅寺』境内・墓地

Photo  宇都宮市にある栃木県庁前から県庁通りを東に10分歩くと田川に着く。東橋を渡った左側に宇都宮で最初に出来た禅寺、興禅寺がある。正和3年(1314)八代城主宇都宮貞綱が開基した由緒あるお寺だ。

 山門の先の境内の左側に貞綱、九代城主の公綱の2基の大きな供養塔がある。貞綱は16歳で元寇のおり6万の兵を率いて出陣したが、その嫡男の公綱は太平記『宇都宮天王寺発向の事』に出てくるので印象の強い武将だ。

Photo_2  天王寺にて大敗した北条方は宇都宮公綱に出陣を命じ、公綱はわずか五百騎にて天王寺に陣を構える楠木正成に向った。これを知った楠木正成は『合戦の勝負、必ずしも大勢・小勢によらず、ただ士卒志を一にするとせぬとによれる。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。紀清両党、いづれも戦場に臨んで命を思ふ事、塵芥(ちりあくた)よりも軽くし、その勢志を一つにして戦ひを決せば、大半は必ず誅(う)たるべし』と語り、戦を避けて撤退した。

 この太平記から宇都宮氏の率いる益子の紀(き)氏と真岡の清原氏の紀清両党を中心とした武士団が、その勇名を全国に知れ渡っていたことと、公綱の勇姿が目に浮かぶ。

Photo_4 「ギャー、ギャー」と墓地の上をやたらカラスが飛び交う。その墓地の真ん中あたりに『浄瑠璃坂の仇討ち』で憤死した奥平内蔵充(くらのじょう)昌輝の墓地がある。

 仇討ちを遂げた嫡男奥平原八は大島流罪を許された後、彦根藩井伊家に仕え、子孫はそのまま彦根に定着した。

 興禅寺にある墓は、その後300年忘れらていたと云う。昭和51年、奥平内蔵充昌輝、彦根藩士奥平源八の子孫である浦和市の高山悌二氏が興禅寺を訪れ、

Photo_5あまりの墓石の荒廃に驚き、昭和53年11月に歴史を記す碑文と供養塔を完成させた。

 墓地を見る人がいなくなれば、その墓石はなくなる。『墓地は所有ではなく使用権だ』とあるならば、300年間保存してきた興禅寺の姿勢にも感心する。         

 

Photo_6  野口雨情の歌碑『山は遠いし野原はひろし 水は流れる雲はゆく』がある。軽い脳出血を冒された雨情は武蔵野市吉祥寺から昭和19年1月に宇都宮市に疎開してきた。しかし、昭和20年1月27日にこの地にて62歳で亡くなった。興禅寺の住職が葬儀を執り行い、その謝礼として歌の直筆の半切れをいただき歌碑にした。

 歴史ある興禅寺だが、慶応4年(1868)4月の戊辰戦争宇都宮城の攻防戦において寺が全焼し、古文書がたくさん焼失したと云う。貴重な史料が多く失ったのは残念だが、境内や墓地そのものに歴史の息吹きが脈々と続いていることが感じられる。寂たる寺院だ。

                      《夢野銀次》

《参考資料》

「下野の歴史散歩」(徳田浩淳著)、「興禅寺物語」(徳田浩淳著)、「宇都宮城物語」(福田三男著) 

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