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2011年8月

映画「悪人」「フラガール」-それは『再生』だ

Photo  李相日(りさんいる)監督作品、『悪人』平成22年(2010)公開と『フラガール』平成19年(2006)公開の2作品をDVDで観た。『悪人』は『告白』と並び2010年度の代表作品であり、深津絵里がモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を受賞し、映画界の話題をさらった。

 遅まきながら映画館ではなく、DVDで字幕入りでの観賞となった。原作者の吉田修一が脚本に加わり、セリフと画面とが重なり、登場人物の内面が観るものをひきつけた映画となっていた。映画のキャッチコピーは「ひとつの殺人事件。引き裂かれた家族。誰が本当の“悪人”なのか?」。殺した者、殺された者、その家族、その要因を作った者がおりなす映画だが、映画全体に流れるのは『どうしようもない閉塞感』だ。「目の前に海があったら もうその先どこにも行かれんような気がする」と語る清水祐一(妻夫木聡)。その祐一が殺したことを告白し、自首しようする車の中で馬込光代(深津絵里)が「私ー。祐一と出会ってやっと幸せなれると思うたよ。私待つけん。何年でも よかね」雨の中、警察に入ろうとする祐一の背後の車から光代がクラクションを鳴らす。行くなと。二人は灯台にこもる。

 この映画『心中物かな?』とその時思った。この映画から、学生時代に溝口健二監督のオールナイト映画で観た『近松物語、昭和29年(1954)公開』を思いだした。

Photo_9   不義密通の誤解から逃れる香川京子演じる『おさん』と手代の長谷川一夫が演じた『茂兵衛』

の二人が湖に入水する直前、舟の上で二人の体を紐で結びながら「茂兵衛は、とうからお慕い申しておりました」とおさんに愛を告白する茂兵衛。おさんは「今の言葉で死ねんようになった... 生きていたい...」二人は深い闇の小舟の上で抱き合う。心中をやめ、生きることを決めるシーンは美しい。しかし捕縛され、背中合わせに縛られ馬に乗せられ刑場に運ばれていくラストシーン。後ろ手に手を握り合うおさんと茂兵衛の晴れ晴れとした表情。そこには「生きる」二人を描いている。

 溝口健二作品の中で『赤線地帯』のラストの三益愛子の「よってらっしゃい」と手招く表情とあわせて最も好きなラストシーンの映画の一つだ。

 

Photo_6 『フラワガール』は明るい。「あなたはこの作品で何回泣きましたか?」そんな問いかけを受ける映画だ。

 「踊り」を媒介としてダンスの先生、松雪泰子・フラガールの蒼井優、徳永えり、山崎静代、蒼井優の母親役の富司純子、兄の豊川悦司、常磐観光社長の岸部一徳などの人物が変わっていく姿がはっきり見えて来る。「変化、変身」の過程がラストのフラダンスで映画の中の観客と伴に感動の拍手に導いていく手法はさすがキネマ旬報ベストワンの映画だ。

Photo_2   『悪人』『フラワガール』の2作品に共通するのは何か?

 それは『再生』ではないか。

 暗い炭鉱の街から、フラダンスを媒介として人も暮らしも変えていく『再生』。

 閉塞感の中から拠って立つところを見出していく悪人、この作品も人としての『再生』を描いている。被害者娘の父、石橋佳男(柄本明)が殺人の要因を作った学生にスパナを持ち襲うシーンで語るセリフが実に胸に響いた。

 「大切なんはおるねん。その人の幸せな様子を思うだけで自分までうれしくなってくるような人は。今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎる。自分には失うもんがないち思い込んで、それで強くなった気になっとう。だけんやろ、自分が余裕のある人間と思いくさって、失ったり欲しかったりする人をバカにした目で眺めとう。そうじゃないとよ。それじゃ人間はダメとよ」脅える学生に向かい「そうやって生きていかんね。ずうと人のことば笑(わろ)うて生きていかんね」

 ラスト、殺人現場の橋の上。被害者の父(柄本明)と殺人者の恋人(深津絵里)とは挨拶、会話も交わさないシーン。「彼は悪人なんですよ」とつぶやく光代。被害者との間には「殺人」という大きな事実が存在していることを描いている。見事なラストだ。

 向き合う生活の中で生きていく拠り所。見出していきましょう。

                              《夢野銀次》

  

 

 

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菜園の土塁を石垣にする―守るのは愛猫

Photo 山や岩に神が宿ると云われて来ている。

 鎌倉後期から南北朝争乱に出現した山城は痩せた尾根を利用して、巨岩や岩盤が露呈する尾根山頂部を本郭とした。

 石垣は土塁を強度するためではなく、石座(いわくら)信仰によるところの神が城を守るところからきている。

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 わが菜園を囲む土塁(盛土)に当初「龍の髭」を植えようかと思っていた。

しかし、周辺の畑の中に川石がごろごろ散在してるの見て考え直した。近所の農家にこの石をいただきたいとお願いをした。『家も助かるよ。どんどん持って行きな。そうだ、イチゴハウスのところにたくさんあるから、それももって行きな』と快く承諾を得た。

 菜園を囲む土塁を石垣にすることにした。

Photo_9  土塁(盛土)は南側が22.48m。西側が22.35mとかなりの距離がある。

 石垣は野積ら積みでゆっくり、あわてずに行なうことにした。今年中に完成を目指す。

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 わが菜園を縄張りとして守るのは『夢野』と『銀太』だ。

Photo_5 メスの夢野は前方にある農家の畑(麦だけ植える)を偵察と探索をよくする。

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この畑には『もぐら』が出没するという。

ねずみが好物な夢野だが、もぐらを追い払うこともできるだろう。

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オスの銀太は夢野のように遠方には行かず、専ら菜園内を巡回する。

Photo_8 さらに、耕した柔らかな畝が大好きだ。畑の中での用便が最高だ。

これも尊い肥料としていく。

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人が客車を動かす―鍋山栃木間の人車鉄道

Photo 栃木市吹上の公民館に鍋山人車鉄道のレールが展示されている。レールの重さは12ポンドと一般の鉄道レールの重さ60 ポンドと比較し、非常に軽量に出来ている。ダンプトラックがレールの上を通過したら耐えられない。人車鉄道は別名人車軌道と言われ、道路に敷設された鉄道路

    (吹上公民館にあるレールの展示品)

線の車両を人の力で動かす交通機関のことを言った。建設コストを含めた初期投資の少なさ、動力としての人件費の安さとその維持の容易さ、運行の簡便さで、基幹鉄道への接続を目的とした小規模な地域密着の路面交通機関として明治から大正初めかけて東日本を中心に運行されていた。

Photo_2 鍋山人車鉄道は明治35年(1900)に鍋山石灰を運ぶため、鍋山の門沢(かどさわ)と両毛線栃木駅間にできた人車鉄道である。全長15.9キロ、貨車30両、客車8両で鍋山門沢の海抜150mと栃木駅の海抜42mとの勾配を活用しての運行であった。

 (鍋山門沢付近、前方が鍋山)

栃木に石灰を運んだ貨車(トロッコ)は帰路に鍋山やその周辺への生活物資の輸送も行なっていた。『トロッコオシは帰りが良い。栃木から酒・樽を頼まれて運んでくるから駄賃が入る』と「栃木口語り」の中に出てくる。

 鍋山の石灰は別名『野州石灰(やしゅういしばい)』と言われ、江戸初期の慶長年間より生産されていた。江戸時代には徳川幕府勘定方の支配下に置かれ、鍋山から駄馬にて栃木河岸に運び、うずま川舟運にて江戸に運ばれていた。生石灰は水をかけると燃える。舟運での運びの途中、川の水を浴びて舟が燃えたのではないかと想像できる。

Photo_3 明治に入り、建築資材の需要の増加で大量の石灰を東京に運ぶためできた人車鉄道であった。 当初の運行は鍋山―寺尾ー吹上ー野中ー栃木高校の西側ー栃木問屋街ー栃木駅であった。しかし問屋街を通過するため、石灰の粉塵や『人鉄(じんてつ)の人殺(じんさつ)』と   

新聞に揶揄されるなど人身事故が多発していた。そのため、問屋街を避けるため、昭和5年(1930)に野中から右折し、野中ー五差路ー栃木女子高東ー栃木駅の西という路線の変更を行なった。

Photo_4 昭和16年(1941)にガソリン機関車を導入したが、戦後のトラック輸送には勝てず、昭和35年 (1960)にこの人車鉄道は廃線となった。子供の頃、貨車(トロッコ)を見た記憶はないが、五差路の交差点にあったレールは見ている。レールは草の中にあった。

(上の写真が五差路の交差点、下が栃木女子高東側の道路で前方が五差路)

 栃木女子高の東側の道路には敷設跡の表示がない。鍋山に向かって道路の右側にレールがつづいていた。

 大正2年(1927)8月発行の『吹上郷土誌』の中に鍋山人車鉄道のことが記載されている。これが面白い。要約すると『栃木駅との汽車との接続は、人力のため遅刻があり、あてにできない。客車6人の定員のため満車で乗車できず、次の客車も同様に乗車できない。幸い乗車できるのに1時間から2時間は待つ。これも村落交通機関としてやむを得ないことなのか』と嘆きの記述がある。当時の客車を待つ村人の生活が滲み出ている。

Photo_5  数年前「葛飾柴又寅さん記念館」に行った。そこで柴又と金町を結ぶ『帝釈人車鉄道』のミニチュア模型が展示してあった。客車には寅さんが乗っており、模型の客車が動いていた。『平らの所でないと動かせないな』と思ったりした。         

 

   (寅さん記念館にある人車鉄道客車のミニチュア模型)

 それにしても、当時の貨車や客車、軽便鉄道の機関車の実物車両等は鉄道博物館で観る事が出来るのかな?

                                                             《夢野銀次》

《参考資料》

とちぎ市民学舎講座「鍋山の石灰と人車鉄道」、「栃木口語り」(瑞木書房)、「大正2年版、吹上郷土誌」

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上田城石垣は『たそがれ清兵衛』のロケ地にある

Photo  上田城本丸の西虎口、西櫓の向かい側には石垣がない。この石垣は上田市新町、矢出沢川に架かる高橋の上流の左側にあることが最近、判明した。

Photo_2     

   上田城は明治7年(1874)に上田に置かれていた東京鎮台第二文営が廃止に伴ない民間に払い下げられた。上田城本丸全域を上田市常磐城の丸山平八郎氏が払い下げを受けた。その後、明治12年に本丸内に松平神社創建の話と城址を公園として保存しようという事がおこり、本丸の大部分の土地を所有していた丸山平八郎氏は寄付したことにより上田城公園化の第一歩が踏み出された。

Photo_5 日本城郭史学会の評議員、奥田好範氏が丸山邸の石垣について上田市教育委員会に問い合わせたところ、教育委員会では丸山邸で使用されている石垣の石が上田城で使用されている石垣と同じ石材で太郎山から産出された緑色凝灰岩であることを現地にて確認を行なった。そして、教育委員会の見解では、城域払い下げの時、本丸の松や杉を払い下げた記録が残っており、西虎口の石垣も払い下げられた可能性は充分考えられること。 丸山邸の石垣の上にある『丸山稲荷』は上田城本丸から移設されてることから、上田城の石垣の石を移築したということには、断定できないが、100%に近い確立であることの回答があった。

Photo_7 この矢出沢川に架かる高橋からの上流左岸の河原は映画『たそがれ清兵衛』のロケ地としても地元では有名な所だ。

 この河原にて、たそがれ清兵衛こと井口清兵衛(真田広之)は短木棒にて果し合いを行なう。兄のはからいで酒乱の前夫の甲田太郎(大杉蓮)と離縁した朋江(宮沢りえ)のために甲田太郎を一撃にて倒すシーンは妻を亡くし、老母と小さい娘2人の生活をみる、たそがれ時刻にそくそくと帰宅する武士から豹変する姿を見事に表しているシーンでもある。

Photo_3 上田市は映画のロケ地としても名高い。『犬神家の一族』『私は貝になりたい』などがあるが、私は昭和41年(1966)の『けんかえれじい』(日活作品、鈴木清順監督)のロケ地として上田市を始めて知ったことがなつかしい。後年、『ゲバ棒』をオーバーラップする全共闘運動を予感させた映画として評価を受けた。

 喜六こと高橋英樹が通う岡山の中学校の撮影の学校。三の丸にある作事跡地の『清明小学校』の塀の見ながら、もしかしたらと思った(確認はしていない)

Photo_4  また、喜六が会津若松の中学校に転校し、その冒頭の会津の中学校の校門のシーンがある。この門は藩主屋敷門跡(現、上田高校正門)ではないだろうかと思ったりした。映画の中で自殺した日活俳優の緑川宏が演じる『北一輝』の薄暗いカフェイでの激しい争いを行なうバンカラ中学生に向ける『優しい薄笑い』の表情。着物姿カフエの女・松尾嘉代のあやしげな立ち振る舞いと長い」黒髪、浅野順子の清純な姿などが印象として残っている映画だった。映画のラスト、『今度は国とけんかするや』と決意し、上京する列車で終わっている。

 帰宅してから映画『ラストゲーム、最後の早慶戦』の早慶戦試合のシーンが上田城址野球場にて撮影されていたことが分かった。野球場三塁側のトイレに入り、何と古い野球場だと思い素通りしてきた事が悔やまれる。

 

               《夢野銀次》

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枝豆が好き―我家の愛猫『銀太』

001_2枝豆の苗を8個作り、土塁の上に畝を作り植えた。

 枝豆の葉がすくすく育って来た。

002_2 枝豆の苗の中に我家の愛猫『銀太、4歳・オス』がたたずんでいた。

 涼しい場所を発見するのは猫の最も得意とするところだ。

 葉のしずくが銀太の身体を包み込む。

03_2 しかし、この茂みから獲物を狙う。

農家の畑に舞い降りるスズメなど鳥の動きをじっと観察している。

004_2 暑い日差しを避けて永い時間、この枝豆の茂みの中に身を潜めている。

銀太は種を植えた苗をトイレ代わりに活用する以外には畝に入らない

 しかし、涼しさと潜む場所としての枝豆が好きなのだ。

005_3

 銀太はよそには行かず、我が菜園の中を動き回ることが多い。

 自分の縄張りとして、監視しているのだ。 

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