« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2011年9月

都賀三十三観音霊場めぐり―第2回9月24日

 9月10日から始まった栃木市域周辺の三十三観音霊場めぐり。第2回は9月24日、快晴の中、栃木市皆川から岩舟町小野寺にかけて約20kmを徒歩での観音めぐりに参加した。前回の3番札所の続きの4番札所「正龍院悪五郎堂」栃木市箱森から歩き始める。5番札所「泉光院」栃木市泉川。6番札所「千手院」皆川城内。7番札所「吉祥院」岩舟町小野寺田代。8番札所「大慈寺」岩舟町小野寺。9番札所「常光寺(廃寺)」岩舟町小野寺。10番札所「宝積院中田寺」岩舟町小野寺。11番札所「実相寺(廃寺)」岩舟町上岡。12番札所「成就院」岩舟町三谷。13番札所「自性院(廃寺」岩舟町新里。以上10箇所の三十三観音めぐり。

Photo 4番札所の悪五郎堂は錦着山に出る手前の五差路を右に曲がった所に鎮座してあった。お堂だけで観音菩薩は個人の人が預かっているとのこと。意外な場所にお堂があった。

 5番札所の泉光院は皆川街道の赤津川を渡り、湧き水の豊富な泉川にあった。住職のはからいで観音堂の中に入れてもらい、「十一面観音菩薩」を拝観させていただいた。また、お堂の天井にあったという「龍の絵」が観音菩薩の左側に飾られていた。見事な絵であPhoto_14 る。湧き水の多い地域のため、寺の東側 にあった沼(精心場)で身心を清め念仏を唱えたと伝えられ、今も月2回念仏・ご詠歌を唱える行事をしているとの説明が住職よりあった。観音菩薩を心おきなく拝観させていただいたことに感謝します。(写真は泉光院山門と観音堂)

 次の6番札所の千手院は皆川城の麓にあり、お堂の前は市民参加「稲作つくり」をしており、黄色く実った稲穂で『皆川』という文字を見せていた。

Photo_3 

皆川から岩舟町の小野寺に向けて、途中 車で2キロ移動したが、約10キロの道を踏破した。昔、東山道はこの道ではなかったかなと思えているが、先導の講師は『違うのではないか』との意見。ようやく7番札所の吉祥院につき本堂を観て、次の8番札所の大慈寺に向った。(写真は大慈寺山門)

 大慈寺は天平9年(737年)、行基が創建したという古刹で、比叡山3代座主慈覚大師円仁が9~15歳まで修行Photo_11 した寺で有名だ。また、弘仁6年(815年)最澄が国家鎮護のため全国6ヶ所に相輪橖(そうりんとう)を建てた。現在の大慈寺の相輪橖は天正年間に焼失したため享保10年(1725年)回国修行の名僧常心が天明鋳物師によって復元されたいわれている。薬師堂・仮本堂を参拝する。(写真は相輪橖)

 慈覚大師円仁を大きく評価をしたのは元アメリカ駐日大使ライシャワー氏である。唐の仏教弾圧の中で中国五台山に密入国してまで修業した円仁が書き記した『入唐旧求法巡礼行記』をライシャワー氏は感激し、マルコポールの「東方見聞録」より優れてるとし、翻訳をし広く世界に紹介を行なっている。 このライシャワーの行いに感服した栃木市大塚町在住の須藤豊氏が「都賀三十三観音めぐり」一行のため、わざわざ説明に来ていただいた。

Photo_8 須藤氏は私財を投げ打って、埋もれている大慈寺の史跡の改修や整備と紹介をしている。大慈寺紹介のパンフレットをはじめ、小野寺で亡くなったとされている「小野小町の墓所」や「円仁ご母堂の霊地」「七水」など個人として続けていることを拝聴した。信仰心の強さを感じた。(写真は小野小町の墓)

 昼食の時、大慈寺の北隣にある村檜(むらひ)神社に参拝した。創建は大化2年(646年)で現在の本殿(国重要文化財)は三間社春日造。屋根は栃木県内に唯一現存する檜皮葺(ひわぶきPhoto_12

で天文22年(1553年)の建立とされてる。参道の石段の両脇には大きな杉の木が立ち並び、棟門から入り参拝する。おごそかな社殿で歴史の重さを感じた

(写真は村檜神社本殿)

 小野小町の墓所を観てから上岡を目指した。

Photo_9  ここの地名である小野寺氏は源頼朝

の奥州征伐に従事し軍功をあげ奥州雄勝郡に封じられた。日本三大うどん(讃岐うどん、水沢うどん)の一つ「稲庭うどん」で有名な秋田県湯沢市に稲庭城を築き、承久年間(1190年代)に一族こぞってこの小野寺地から移った。そのため、ここの小野寺地域には地名は残ったが子孫はいないとされている。東北道佐野サービスエリア付近に「小野寺」城跡」の標識があった。(写真は小野寺城址)

 お墓の墓標名がすべて「中田」となっている宝積中田寺の「千手観音」を拝観し、廃寺となっているが「慈覚大師円仁の母の墓」を観て岩舟を目指した。

Photo_10  12番札所の成就院は「ボケ防止のお寺」「親子桜」としても名が知られている。住職のはからいで本尊左脇に祀られてある「十一面観音」を拝観した。穏やかな表情とぬくもりを感じた。本尊は60年に1回開帳とのこと。また本堂内の『欄間』が見事。おそらく日光東照宮の修理・修築を行なっていた熊谷宿の宮大工の作品ではないかとの説明が住職よりあった。この欄間、好きな方に拝観するよう薦めていきたい。(写真は成就院の山門)

 

Photo_13   本堂の前には「ボケの花」があった。初めて見る。いずれは『ぼけ』が来るのかな? (写真はボケの花)

 岩舟町新里にある自性院は廃寺となっており、この地であるとの説明があった。

 ようやく解散地の岩舟駅に到着。とにもかく20キロ、よく歩いた。一人ではとても歩行は不可能だ。20名の参加者と共に歩くからできたと感謝する。翌日は両足の太ももが痛くなった。        

| | コメント (2) | トラックバック (0)

都賀三十三箇所観音霊場めぐり―第1回/9月10日

 栃木市域の庶民信仰に係る文化財を探訪する、とちぎ市民学舎・発見の森ゼミナー(栃木市教育委員会生涯学習課)の「都賀三十三箇所観音霊場めぐり~巡礼・ウォーキング~」、延べ5回のとりくみに参加・挑戦することにした。

 第1回は9月10日(土)に栃木市役所別館にてオリエンテーションと文星芸大講師の北口英雄氏より「三十三観音について」の講演があった。その後栃木市役所を栃木教育委員会事務局の先導で出発。参加者20名で1番札所「近龍寺」(栃木市万町)、2番札所「定願寺」(栃木市室町)、3番札所「東泉寺」(栃木市沼和田町)を訪ね、栃木市役所に戻る約5Kmを暑い中、歩き巡った。

  観音信仰とは何なのか? 今まで分かってるようで分からない。子供の頃から「浅草観音」や「観音様を拝む」など絶えず頭の隅にあった。観音菩薩は般若心経の冒頭に登場する「観自在菩薩」のこと。そして観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」など、33の姿に変身すると説かれている。そのため「三十三観音」とは近世のにおいて信仰されるようになったものと言う。今回の巡礼めぐりで少しでも分かっていきたい。Photo_3

 文献資料では観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像(「千手観音」「十一面観音」「如意観音」「馬頭観音」)などがあり、人間の多種多様、多面体をあらわしている。観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、またインドのヒンズー教の影響を受け、多面的な超人間的な姿に表されることが多いとされていると言う。まだまだ分からない。

Photo_4  1番札所の近龍寺には観音堂・呑龍堂・秋葉堂を新しく建て替えを行い三仏堂として本堂の脇にある。住職の案内で三仏堂の中に入り、観音菩薩を観ることができた。毎月8日が呑龍さんの縁日でこの三仏道が開けられ、拝観できるといこと。今度ゆっくり拝観しよう。そう言えば子供の頃、この近龍寺の呑龍さんの縁日に遊びにきていたことを思い出した。(写真は近龍寺山門と三仏堂)

Photo_5  2番札所の定願寺にあった幼稚園が無くなっていた。おかげで本堂をバックに鐘楼を写すことができた。あいにく本堂内にある観音さまは拝観できなかった。定願寺は水戸天狗党の本陣になったり、栃木県庁の仮庁舎になったりもしている。また、伝説の二代目横綱「綾川五郎次(享保年間、1717年)」の墓もあり、子孫が続いていると言う。定願寺に現存する古文書などの史料を一同に集約・整理して資料館などで公開してくれるとありがたいと願う。(写真は定願寺境内)

Photo_6  3番札所の東泉寺でも観音さまを拝観できなかった。古くなった本堂は囲いに覆われていた。

途中、日光道中裏道にあった道標を見る事ができた。一般家庭の敷地内にあるため栃木市としても引き取り保管したい意向との説明があった。『左こが』と書かれてある。江戸時代の道標は前から見るのではなく、道標を背中にして見るためだとの説明がある。初めて知った。それにしても栃木から高島・小林に向けての道が「日光道中裏道」と呼ばれていたとは。栃木駅に行く場合はこの道を自転車で走る。(写真は道標・日光道中裏道)

 帰路は沼和田から日光例幣使道を横切り、うずま川の「片柳河岸」所在の説明を受けて市役所に着いた。「片柳河岸」と説明を受けたが、ここに親戚の家があり、子供の頃から「下河岸(したがし)」と呼んでいた。また遊郭もあったと言う。講師に質問したら『らしいですね』との回答だった。

                               《夢野銀次》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

稲刈りから出発―秋季高校野球栃木大会

Photo  9月に入ればあちらこちらで稲刈りが始まる。それと同時に新チームによる秋季高校野球の季節が訪れる。来年の甲子園を目指す秋季高校野球大会。夏の練習の成果を現す高校などが登場してくる。5月の田植えから5か月。季節は動いていく。

 9月18日、栃木市運動公園野球場に行った。とにかく暑かった。秋とは思えず、夏の高校野球かと思えた。

Photo_2

 この日は2回戦2試合。茂木高校と栃木翔南高校。第2試合が佐野日大と足利工業の試合。

第1試合では栃木翔南高校が7対6とからくも逃げ切った。第2試合は足利工業がワンチャンスの6回の表に逆転し、3 対2で勝った。夏の栃木県地区大会、出場辞退の悔しさがバネとなっていることが伝わってくる。

Photo_3   負けた佐野日大の片岡投手(右の写真)は、佐野日大から中央大学、そして巨人と進んだ沢村投手の投げ方に似ていた。5回までパーフェクトの内容でありながら味方の失策から失点されることは精神面に課題がある。粘り強さが求められる。

それにしても足工の勝負への執念は凄い。チーム一丸となる力は個々では佐野日大に劣ると言え、野球は個人競技ではないことを物語っていた。

ただ、佐野日大は明らかに甲子園を目指すチーム作りをしている。

 茂木高校の小林監督のもとに栃木翔南高校は何年か前に甲子園に出場したが、以後は良くて3回戦止りのチームとなっている。

Photo_4秋の試合は守備力で勝負が分かれる。栃木翔南高校の守備はまだまだ弱い。ただ、クラブ活動の一環ならば勝つことにより、チームの力がまた一歩進む。これがまた楽しいのだ。

  試合の帰りに太平山をバックにした栃木翔南高校の校舎(上の写真)を眺めてきた。

 私の後の席にいた観客の老人グループ。頭にきた。試合は第2試合を観にきたようだが、第1試合の最中でも「医者がどうだ」「コールドで早く終われ」「佐野の球場でやれ」とか試合と関係ない会話が続いていた。たまらなく後ろを振り返り「少し静かに喋ってくれ」と怒った口調で言った。おとなしくなった。球場に野球を観にきているのは自分達だけではない。もっと周りの人への配慮が必要だし、それがマナーである。お年をめして仲間達と喋り合うのも楽しいが、場所を考えるべきだ。この人達は今まで、野球場でうるさいと注意された事がなかったのかもしれない。

 どの高校野球場でも観客の中には詳しい人がいる。あの選手はどこの大学や会社に行ったとか、そうした情報の会話ならまだ良いが、試合を無視した大きな声での会話はほどほどにすべきだ。下手でも一生懸命プレーする姿を観る。その中で勝負としての緊張が現れるてくる試合は素晴らしい。それを観に来ていることを忘れないで欲しい。

                               《夢野銀次》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

出流山天狗事件の前哨―永野村・村民の蜂起

Photo  慶応2年(1866)8月8日の大雨の被害を受け、栃木町の穀商達は米の価格を値上げし、俵売りをやめるとした。

 栃木町から北、約4里の所にある上永野村・下永野村・粕尾村(ともに現在は鹿沼市永野・粕尾)と出流村の4か村の者は板・炭などを栃木町へ売り、その代金で帰路米を買い求めて生活してきた。

 その4か村にとり、米の値のつり上げに加え、俵売りをしない(売り惜しみ)ということは、毎日わずかの米を買いに4里の道のりで通うことになる。この事態に4か村の村民は怒った。

Photo_2  旧日光県文書によれば、慶応2年(1866)8月22日に上永野村・下永野村・粕尾村・出流村の村民800人が永野川上流の本河原に沌集し、栃木町に襲撃しようとした。この事態に栃木町組合寄場に属する星野村・鍋山村・梅沢村・大久保村・尻内村5か村の名主・組合頭が説得に努め、一端は治まったかに見えた。しかし、永野村から大越路峠を超えた粕尾村は、はずさていたため、8月25日の夜、再度本河原に村民が沌集した。

(写真は永野川上流の旧粟野町下永野付近の河原)

 

Photo_4一方の栃木町では永野村など4か村の村民が襲撃して来るとの情報が入り、避難する騒ぎとなった。2か月前の6月に起こった武州一揆による豪農・穀商屋への打毀しの風聞が知れ渡り、この町へ波及してくることの恐れ。さらに栃木町民には2年前、元治元年(1864)6月5、6日の水戸天狗党(田中愿蔵の部隊)による栃木町焼打ち事件「愿蔵火事」の記憶が今だに残っていた。この時には栃木陣屋による交渉の失敗で焼き打ちがおこり、その焼打ちに対して陣屋側は栃木陣屋内に籠もったままに何の対応をしなかったからだ。 栃木陣屋は町民を守らないということを町民側は知っていた。だから避難騒ぎとなった。(写真は満福寺の西側。右隣りが栃木陣屋跡地。史跡表示はありません)

Photo   こうした事態に、4か村と同じ領主(武蔵国金沢米倉丹後守)の野州に聞こえた豪農である皆川城内名主大総代幸嶋彦助が永野村本河原の沌集地に赴き、一揆側に相応な救済措置を講ずることを約定したため、8月26日の朝に事態は沈静化した。

  沌集した村民の中に、白筒袖割羽織の者2名が采配を振っていたと前述の旧日光県文書に書かれてある。誰であろう?

 稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木町焼打事件」の中に、この永野村村民蜂起事件の後の8月28日の夜、栃木町中町の高札場に張許文が貼られたことが書かれてある。穀商と栃木陣屋側が大雨による被害でも米があるにもかかわらず、売り惜しみ・便乗値上げを謀ったことへの告発文である。

Photo  この「永野村村民蜂起事件」の翌年の慶応3年12月に「出流山天狗事件」がおこる。落合直亮著「薩邸事件略記」によれば160名で出流山満願寺で討幕挙兵した「出流山糾合隊」には下野から77名の農民・博徒が参加し、別の資料では永野村から30名、粕尾村から20名の百姓の二男、三男が参加したと記述されている。実に糾合隊の3分の1を占めていたことになる。この中に白筒割羽織を羽織った者がいたことは推測できる。(写真は出流山満願寺)

 時代は天保7年(1836)の甲州世直し騒動から従来の訴願・交渉による一揆から暴力(打毀し)を用いる一揆へと変貌してきた。慶応2年6月の武州一揆の中の田無では農民銃隊による一揆勢攻撃などがおこり、領主に対する百姓へのお救いを求める時代ではない幕末一揆世直し騒動の時を迎えていた。

 「愿蔵火事」「永野村村民蜂起」を経て、栃木町の町民の間に銃を含めた武器の調達と所持がおこる。栃木陣屋は一応は権威のための武器調達・所持の禁止のお触れをだしたが、町民による自衛の動きとなっていく。さらに」「出流山天狗事件」の際に関八州出役と共に農民同士による戦闘が岩舟町新里・岩船山で起こり、幕末歴史の展開は下野世直し一揆と広がっていくことになった。

                           《夢野銀次》

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

汐灘サーガ/三作品.....堂場瞬一

 堂場瞬一の作品で以前、箱根駅伝を題材とした作品「チーム」をこのブログに載せた。この3年前から無意識に「刑事・鴨沢了」「警視庁失踪課・高城賢吾」「警視庁追跡捜査課」等のシリーズものを断続的に読んできているなと思えてきている。堂場瞬一を意識するようになったのは、10年前の連続殺人からすさまじい刑事たちの対決を描いた「逸脱」という作品だ。久しぶりに一気に読んでしまった作品でもある。ある批評家はこの「逸脱」を堂場瞬一の最高傑作だと絶賛しているのも頷ける作品と思える。

  東京から北に特急で1時間、車で2時間の城址がある県庁所在地の汐灘市を舞台とした「汐灘サーが』の三部作「長き雨の烙印」(2007年11月)、「断絶」(200812月)「夜の終焉」(2009年10月)を連続して読んだ。

 「長き雨の烙印」では幼女強姦未遂事件から冤罪を訴える容疑者、支援する貧しい弁護士。友を救えなかった伊達刑事、殺された娘の復讐にかける父親と過去と現在をからませての作品となっている。

 二部作目の「断絶」では汐灘市にささげてきた政治家剣持隆太郎とその友。そしてその息子の刑事・石神兼が女性の変死体事件をからめて政治家の後継者争いから父と息子の絆を描いている。この書は「政治家の物語だ」と解説している批評家がいるほど、政治に対する考え、姿勢を表している。

 三部作目の「夜の終焉」は交通事故事故で意識不明となった少女の身元を捜すところから始まり、殺人者と被害者の息子同士の確執を捉えた見事な作品となっている。特に最後の病室での息子同士の話は胸を撃つものがあった。加害者の息子・川上弁護士は被害者の息子・真野亮介に意識不明の少女の身元を明かしながら、その母・浅野愛(まな)の死を知らせながら語る「過去を見なくとも生きていける。あるいはみているつもりだ。乗り越えたと自分に嘘をつきながら生きていくことだってできるでしょ。愛さんは、そういうことに疲れたのかもしれない。私にもあなたにも家族はいない。だけど愛さんには娘がいる。あなたに事実を話すことで、私にも、もう一度過去を見詰め直して欲しいと」。父が犯した罪を息子達がどう生きてきたかを捕らえて、息子としての社会への対応を描いた大作だと思う。

 「汐灘サーガ」ってどういう意味なのか?「サーガ」は調べたら、北欧神話に登場するアース神族の女神で、その名前は「何かを見る」あるいは「知らせるもの」を意味するのではないかと記載されていた。三部作に共通する事件の要因となる「未遂事件被害者の幼女・変死体の女性・交通事故で意識不明となった少女」。この三人がサーガ・知らせてくれた女神なのかな。

長き雨の烙印 Book

長き雨の烙印

著者:堂場 瞬一
販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

断絶 (中公文庫) Book 断絶 (中公文庫)

著者:堂場 瞬一
販売元:中央公論新社
発売日:2011/07/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

夜の終焉 上 Book

夜の終焉 下 Book

逸脱 Book 逸脱

著者:堂場 瞬一
販売元:角川書店(角川グループパブリッシング)
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

                      《夢野銀次》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »