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都賀三十三観音霊場めぐり―第4回10月8日

 9月10日の第1回から4回目を迎えた『都賀三十三箇所霊場めぐり』は栃木市大平町地域を中心に参加者20名と栃木市教育委員会生涯学習課のスタッフのサポートを受け、10月8日(土)快晴の中で観音霊場めぐりをおこなった。

 約17㎞の行程は、18番札所・如意輪寺(栃木市大平町富田)…21番札所・観正寺(栃木市大平町下高島)…22番札所・観音寺(栃木市大平町横堀)…23番札所・慈眼寺(廃寺)牛来寺(栃木市大平町牛久)…24番札所・万福寺(栃木市高谷町)…25番札所・称念寺(小山市小薬)…26番札所・成就院大日堂(栃木市藤田町)…27番札所・慈眼寺(栃木市城内町)の8箇所霊場めぐりとなった。観音像を拝観できたのは牛来寺(ごらいじ)だけだったが、霊場訪問に意義があることだ胸に刻んだめぐりだった。

Photo  如意輪寺は宝亀3年(772年)にこの地で亡くなられた称徳天皇の子、英(はやぶさ)親王の御霊に調伏を祈るため開山された。そして延徳2年(1490年)に富田に『金剛峯山東泉坊稱徳院如意輪寺』 として開山されている。

 天正19年(1591年)に小田原北条氏に替り、関東が領地となった徳川家康から寺領10石寄付され御朱印寺となった。3代将軍家光以来の歴代将軍より厚遇を受けてもきた。例幣使道沿いのためなのか。5代将軍綱吉の母、桂昌院より『如意輪観世音菩薩像』の寄進を受けることにより観音堂が建立された。現在の本堂は昭和4年に建立されている。

Photo_2  如意観音は秘仏のため拝観できなかった。8月末に国立博物館での『空海と密教美術展』の中で京都の醍醐寺の『如意観世音菩薩坐像』が展示してあったのを拝観した。残念ながら自分の頭の中には印象があまり無いのだ。

ブログ『お寺さんぽ』では如意観音のことを六観音の一人に数えられている。(※六観音:1聖観音、2千手観音、3馬頭観音、4十一面観音、5如意観音、6准堤観音)

如意輪とは「如意宝珠法輪(にょいほうじゅ・ほうりん)」を略したものを言うとし、意のまま、望むままにNyoirinkannon1_3珍しい宝物を次々に出すという如意宝珠を持っている。そして、煩悩を破壊する法輪という訳で、そもそもは二種類の言葉を組み合わせたものだそうだ。
 かたや創造、かたや破壊という、極端な組み合わせを持っている。その如意宝珠はすなわち”福徳”、法輪は”知徳”ということで、そのまま
”双方の威力を備えた神格である”というのが「如意輪観音」さまだと『ブログお寺さんぽ』は説明している。福徳と知徳を具えた観世音菩薩なのだ。

 

Photo_6 栃木市河合町から南小林の国道50号バイパスまで県道153号線が通っている。旧道は日光道中近裏道と呼ばれ、通称「部屋河岸通り」又は「古河街道」と言われ、砂利道を乗合バスが走っていたそうだ。

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 21番札所観正寺から22番札所観音寺にかけては、旧道の日光道中近裏道を歩いた。下高島から上高島にかけての旧道沿いの民家の軒先に大きな地蔵尊が祀られていた。どういういわれなのかわからない。岩船石でできたお地蔵さんだ。後日、地元の人に尋ねてみることにした。

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21番札所の観正寺(栃木市大平町下高島)の観音堂には、かつて正観音菩薩が祀られてあったが、盗難にあい、今はない。お堂のそばには「馬頭観音」の石物が道路沿いに安置さている。

Photo_5  22番札所の観音寺(栃木市大平町横堀)も何回か盗難にあい、現在の「千手観音菩薩」は圓通寺に預けてあるということだ。

 昭和31年9月30日に富山村、水代村、瑞穂村の三村が合併して人口24,991人の下都賀郡大平町が誕生した。その瑞穂村の地名が、ここ横堀にも残っている。

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 23番札所の慈眼寺は廃寺になっており、「聖観音」と「阿弥陀如来像」は慈眼寺から奥に入った牛来寺(ごらいじ)の本堂に「薬師如来像」とともに祀られれいる。

 先代住職と現住職から本堂にて説明をいただいた。牛来寺は慈覚大師円仁が嘉祥(かしょう)3年(850年)薬師如来像を安置して建立したという。慈覚大師円仁が牛に乗り、今の栃木翔南高校の手前あたりの地面を突いたら泉が涌いてきたという。大師が牛に乗ってきたことから、このあたりを「牛久」と云うようになったそうだ。

 廃寺となった慈眼寺にあった『聖観世音菩薩』は坐像で牛来寺本尊の薬師如来像の脇に祀られている。本日唯一拝観できた観音様だ。温和な表情を浮かべていた。阿弥陀如来像が顔の上ではなく、坐像の台座の前にある。めずらしい。『ブログお寺さんぽ』によれば『聖観世音』は元の観音様のことであり、千手観音や十一面観音はそこから分化してできたという。そのため他の観音と区別して聖観音(しょうかんのん)と呼ぶようになったと記述している。

Photo_9  牛来寺には江戸時代、『寺子屋』があり、境内には寺子屋跡地の表示と筆子(生徒)が先生を供養した墓石がある。寺子屋の子供達がたき火をして、西風に煽られ火事となってしまい、本堂は焼失した。しかし、薬師堂は火災を免れ、本尊の薬師如来像が無事であった。そのため現在の本堂は昔からの薬師堂を本堂としている。

 本尊の薬師如来像の両脇には『聖観世音菩薩坐像』『阿弥陀如来像』が祀られており、華やかで精悍な趣のある本堂内である。この『聖観世音菩薩』をデジカメで撮っている。できれば多くの人に拝観を勧めたくなる観音様だ。そういえば、浅草『浅草寺』の観音様も『聖観世音菩薩』だ。お参りだけで、まだ拝観はしてない。

Photo_13  24番札所の万福寺には『馬頭観世音菩薩』が祀られてあったが、ここも2度の盗難にあっているということだ。

 観音堂の裏地に阿弥陀如来像の板碑が置かれてある。鬱蒼とした境内だが、時代劇のロケーションにも使える感じがした。

Photo_21  25番札所称念寺は栃木市のすぐ隣の小山市の豊田地域にある。

 観音堂には『正観世音』が祀らている。しかし、当日は境内の幼稚園の運動会のため、住職からのお話を聞くことができなかった。

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観音堂脇の山門には「見返り門」の表示がしてあつた。山門の梁の上に木彫りの「薬師如来坐像」が安置されていた。檀家の方が奉納したのだろう。

 

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  小山市豊田から大宮南小学校を通り26番札所の成就院大日堂に行く。

途中、栃木市スタッフより東山道ではないかと推測される道の説明があった。自分が住んでいた前の所沢では中学校の校庭の下から東山道武蔵野道の側溝跡が発掘されている。

 下野の東山道は足利から栃木間での側溝跡地は発見されていない。 所沢の発掘センターでの講演では、古代の道路作りは土を強度に固めて作る(どういう方法か忘れてしまった)Photo_16ため、必ず現代でも土の中に残っている述べていた。佐野から大慈寺を通り、平柳から大宮、国府へと東山道が通っていたのだろう。北の蝦夷への攻撃と防御の拠点地がここ下野の栃木市だったからだ。

 26番札所の成就院大日堂(馬頭観世音)と27番札所の慈眼寺(聖観世音)は場所の確認を行い、拝観できなかった。

 27番札所の慈眼寺のそばに円通寺がある。円通寺境内に前方後円墳があり、古代の豪族がこの地いたことを示している。栃木市地域は湿地帯となっているが、栃木市城内町は少し高台になっているとの説明が栃木市スタッフよりあった。そのことから豪族がここに住むことができ、古代の東山道にもつながるのかと思った。

 今回で4回霊場まわりが終了し、次回10月15日がいよいよ最後の霊場めぐりとなる。健脚な足へと変化したかどうか、もうすぐ分かるな。

                          《夢野銀次》

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