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2011年10月

無畏(むい)のこころ・邪(よこし)まなこころ―観世音菩薩とは?

Main_photo_hondou011 浅草の観音さまと愛称で呼ばれている『浅草寺聖観音菩薩』は秘仏とされている。ただ年に一度、12月13日の午後2時に前立の本尊が御開扉となる。まだ一度も観ていないので、前立ての観音さまを今度拝観するつもりだ。参拝の際には合掌して『南無観世音菩薩』を唱えることとなっている。また本堂内に『施無畏(せむい)の額』が掛けてあるという。それも確かめる。 

 松原泰道著書の『観音のこころ』では『施無畏(せむい)』のことを畏(おそ)Photo_5るること無きを施すといい、意訳すると『怖がらなくてもいい』という安心感を与える自覚のことだと記述し、そのため多くの観音堂には『施無畏(せむい)』の額が掛けられてあると指摘している。

 宮沢賢治のあの有名な『雨ニモマケズ』の中の一節に『南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ』を思い浮かべた。この一節は観音経から出ていたのだ。宮沢賢治記念館に以前訪ねたが、『石灰の効用を広めた』ことを知ったが、観音経を信仰していたとは気が付かなかった。

 我が家の飼っていた猫が最後の時を迎えた時、妻は猫の体をさすりながら『怖がらなくてもいいよ』と言い続けていたな。

 
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 前述の松原泰道の『観音のこころ』で観音経の中の『無畏(むい)のこころ』を以下のように訳してる。

≪観音菩薩は、生死病死の苦悩をはじめ、御身らが遭遇する身心の内外から生ずる畏れに対し『畏れずに行け』と、安らぎと励ましの慈愛と勇気をめざましめる。この菩薩は、しかし、御身らに、自然や人為の災難でたちどころに失しなわれるような、かりそめの幸福や事物や恵みを与えはしないであろう。しかし、御身らが抱く多くの恐怖のおもいに対し、たえず無畏(むい)のこころを施すであろう。無畏のこころを象徴したのが、礼拝の対象となる仏像仏画の観世音菩薩である。象徴や表象でない本質としての観世音菩薩は人々の身心の奥に埋められている純粋な人間性そのものである。≫

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 今から20年以上前、仕事で決算処理方法がうまくいかず苦しんだ時があった。正月返上でやったがどうにもたちいかなくなってしまっていた。1月15日の明け方、妻と公園に行き、ブランコに乗った。ブランコを揺らしながら、『そうだ、素直になろう。素直に向き合って決算処理をしよう』と思った。『邪(よこしま)なこころ、誤魔化そうとする考えがあるから駄目なんだ』とその時、気が付いた。素直な気持ちで事案に向かい合い決算処理を行なった。その結果、誰にも迷惑をかけずに出来上がることができた。その時、観世音菩薩がわたしの心の中に現れていたのかもしれない…。と、今思えてきたのだ。

 9月10日から始まった『都賀33箇所観音霊場めぐり』は悪天候のため日延べとなり、11月3日が最後の観音霊場めぐりとなった。いくつかの観世音菩薩を簡単に記述しておき、最後の霊場めぐりに参加していくことにする。

Photo_7聖観世音菩薩》 観音さまの基本・中心で「正観音」とも呼ばれている。観音さまが阿弥陀如来の化身とする象徴から冠に阿弥陀如来の坐像がある。

《千手観音菩薩》 千本の手を持ち、その掌の一つ一つに眼があり、数珠はじめ経巻、胡瓶、宝珠、鏡、独鈷杵などを持っている。大平町清水寺の十一面千手観音さまはぶどうを持っていた。「手の平に心が宿っている。手には眼がある」と言われている。子供に熱があるかどうか、母親は手の平で子供の額に手をあてる。これが手で看るという行為なのだ。

《馬頭観世音》 漢訳すると馬頭明王(めずみょうおう)とも念怒持明王(ふんぬじみょうおう)という名前だ。その名の通り頭上に馬の頭部をいただき、猛だけしく念怒の相をしている。馬頭観音の怒りの形相は私たちの感情的な怒りと違い、自分の心中にわきあがってくる邪(よこし)まな考えを悲しみ、怒るすがたを表しているという。20年前、私の心中にあらわれた観世音菩薩はこの馬頭観音さまだったのかもしれないな。

                              《夢野銀次》

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佐々木譲著書の『警官の条件』は『警官の血』の続き

Photo 佐々木譲の最新作品の『警官の条件』を読んだ。冒頭の部分が『警官の血』の加賀谷仁警部が警務官に覚せい剤取締で連行されるところから始まる。この部分は『警官の血』、加賀谷の部下の安城和也がうたう(告発)ところと同じとなっている。『警官の血』から続いている著書となっている。

 2007年に出された『警官の血』は読み応えのある作品だった。戦後の上野界隈の描写から始まり、昭和32年(1957年)に起きた心中による谷中天王寺五重塔の焼失。その時に安城和也の祖父、天王寺駐在所の安城清二は跨線橋から落下し、死亡した。五重塔の焼失の責任をとり自殺扱いとされたのだ。五重塔の隣にあった駐在所から残された親子3人はアパートへと引っ越した。息子の安城民雄(安城和也の父)は警官へと進むが、公安の指示で北大に警官のまま進学し、赤軍派の動向をさぐる潜入者となる。だが、潜入のストレスから精神的破壊者となる。

 精神療養から立ち直った安城民雄は父、清二と同じ天王寺駐在所勤務となる。そして、父の死の謎を追う。そこには2つの時効となった殺人事件があり、ほぼ犯人が分かりかけた時、人質事件において籠城犯から狙撃され、安城民雄が殉職する。実際は恐怖心がなくなるPTSDの再発で自殺なのだが、その原因は小説の最後に分かる。三代目の安城和也は母に暴力をふるい、人格破綻者となった父を憎みながら警官となる。勤務は警務課の支持で暴力団との癒着が強い加賀谷仁警部の部下となり、彼をうたうすることだった。

Photo_2  加賀谷をうたうことの任務を受けた時、和也は上司にどうして私なのかと理由を問う。『血だ。きみにはいい警察官の血が流れている。こんなイレギュラ―な任務に耐えられるだけのね』と課長は答える。

 『警官の条件』では、警視庁を追われた加賀谷警部が復帰し、組織対策課同士の争いをからめ、ラストには警官であることの証明であるホイッスルの吹鳴で終わる。加賀谷警部は警官だったことを伝えている。安城和也との直接の会話はない。加賀谷の安城への想いが、今少し分かりずらい。和也へのやり残したことでの誘導なのか? 上司が部下を鍛える根底には、ある思いがある。組織への姿勢なのか、仕事を遂行する誇りなのか、同僚への対応なのか、それらを伝えながら教えていく。『世話かけやがって』と最後につぶやく加賀谷。「あ・う・ん」の呼吸なのかな。

 わたしが佐々木譲の作品で好きなところは『追跡』の描写だ。テレビドラマ化となった『エトロフ発緊急電』では日系アメリカのスパイ、ケニー斉藤とこれを追跡する磯田憲兵(ドラマでは秋野大作が演じてる。印象の強い演技だった)との追跡。東京―青森―函館―根室―択捉間は小説、テレビドラマとも迫力ある描写となっていた。沢口靖子の「ゆき」も一途な想いを寄せる演技は良かった。バックにはアイルランド民謡の曲が北の果ての荒涼とした異国を思わせたりもした。佐々木譲はやはり『無国籍人』をモチーフとする作家なのかなと思ったりもした。

 『警官の血』では公安として潜入した北大生、安城民雄が70年代全共闘運動から派生した『赤軍派』の集会(実は武力訓練)に加わるため、札幌―函館―青森―上野―新宿―塩山との行程での公安との連絡する描写にとてもリアルで迫力を感じた。Photo_4
 この時代、公安の潜入者は実際に存在していたのだろう。

 『警官の条件』では覚せい剤卸元者と、それを車で追跡する安城和也率いる組織対策課の面々とのやりとり。これも佐々木譲らしいスピーディな追跡描写となっている。

 3年前、『警官の血』がテレビドラマ化される時(ドラマは見なかった)、友人と共に上野西洋美術館(終戦直後は浮浪児のたまり場)から谷中墓地に向けて散策した。駐在所と五重塔の跡地を見た。その向こうは日暮里の駅。坂道を歩きながら、東京にもこうしたひっそりと佇む街並みがあることを知った。今にも路地裏から近所の子供たちの歓声とわめき声が聞こえてきそうな気がした。

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著者:佐々木 譲
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                                 《夢野銀次》

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都賀三十三観音霊場めぐり―第4回10月8日

 9月10日の第1回から4回目を迎えた『都賀三十三箇所霊場めぐり』は栃木市大平町地域を中心に参加者20名と栃木市教育委員会生涯学習課のスタッフのサポートを受け、10月8日(土)快晴の中で観音霊場めぐりをおこなった。

 約17㎞の行程は、18番札所・如意輪寺(栃木市大平町富田)…21番札所・観正寺(栃木市大平町下高島)…22番札所・観音寺(栃木市大平町横堀)…23番札所・慈眼寺(廃寺)牛来寺(栃木市大平町牛久)…24番札所・万福寺(栃木市高谷町)…25番札所・称念寺(小山市小薬)…26番札所・成就院大日堂(栃木市藤田町)…27番札所・慈眼寺(栃木市城内町)の8箇所霊場めぐりとなった。観音像を拝観できたのは牛来寺(ごらいじ)だけだったが、霊場訪問に意義があることだ胸に刻んだめぐりだった。

Photo  如意輪寺は宝亀3年(772年)にこの地で亡くなられた称徳天皇の子、英(はやぶさ)親王の御霊に調伏を祈るため開山された。そして延徳2年(1490年)に富田に『金剛峯山東泉坊稱徳院如意輪寺』 として開山されている。

 天正19年(1591年)に小田原北条氏に替り、関東が領地となった徳川家康から寺領10石寄付され御朱印寺となった。3代将軍家光以来の歴代将軍より厚遇を受けてもきた。例幣使道沿いのためなのか。5代将軍綱吉の母、桂昌院より『如意輪観世音菩薩像』の寄進を受けることにより観音堂が建立された。現在の本堂は昭和4年に建立されている。

Photo_2  如意観音は秘仏のため拝観できなかった。8月末に国立博物館での『空海と密教美術展』の中で京都の醍醐寺の『如意観世音菩薩坐像』が展示してあったのを拝観した。残念ながら自分の頭の中には印象があまり無いのだ。

ブログ『お寺さんぽ』では如意観音のことを六観音の一人に数えられている。(※六観音:1聖観音、2千手観音、3馬頭観音、4十一面観音、5如意観音、6准堤観音)

如意輪とは「如意宝珠法輪(にょいほうじゅ・ほうりん)」を略したものを言うとし、意のまま、望むままにNyoirinkannon1_3珍しい宝物を次々に出すという如意宝珠を持っている。そして、煩悩を破壊する法輪という訳で、そもそもは二種類の言葉を組み合わせたものだそうだ。
 かたや創造、かたや破壊という、極端な組み合わせを持っている。その如意宝珠はすなわち”福徳”、法輪は”知徳”ということで、そのまま
”双方の威力を備えた神格である”というのが「如意輪観音」さまだと『ブログお寺さんぽ』は説明している。福徳と知徳を具えた観世音菩薩なのだ。

 

Photo_6 栃木市河合町から南小林の国道50号バイパスまで県道153号線が通っている。旧道は日光道中近裏道と呼ばれ、通称「部屋河岸通り」又は「古河街道」と言われ、砂利道を乗合バスが走っていたそうだ。

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 21番札所観正寺から22番札所観音寺にかけては、旧道の日光道中近裏道を歩いた。下高島から上高島にかけての旧道沿いの民家の軒先に大きな地蔵尊が祀られていた。どういういわれなのかわからない。岩船石でできたお地蔵さんだ。後日、地元の人に尋ねてみることにした。

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21番札所の観正寺(栃木市大平町下高島)の観音堂には、かつて正観音菩薩が祀られてあったが、盗難にあい、今はない。お堂のそばには「馬頭観音」の石物が道路沿いに安置さている。

Photo_5  22番札所の観音寺(栃木市大平町横堀)も何回か盗難にあい、現在の「千手観音菩薩」は圓通寺に預けてあるということだ。

 昭和31年9月30日に富山村、水代村、瑞穂村の三村が合併して人口24,991人の下都賀郡大平町が誕生した。その瑞穂村の地名が、ここ横堀にも残っている。

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 23番札所の慈眼寺は廃寺になっており、「聖観音」と「阿弥陀如来像」は慈眼寺から奥に入った牛来寺(ごらいじ)の本堂に「薬師如来像」とともに祀られれいる。

 先代住職と現住職から本堂にて説明をいただいた。牛来寺は慈覚大師円仁が嘉祥(かしょう)3年(850年)薬師如来像を安置して建立したという。慈覚大師円仁が牛に乗り、今の栃木翔南高校の手前あたりの地面を突いたら泉が涌いてきたという。大師が牛に乗ってきたことから、このあたりを「牛久」と云うようになったそうだ。

 廃寺となった慈眼寺にあった『聖観世音菩薩』は坐像で牛来寺本尊の薬師如来像の脇に祀られている。本日唯一拝観できた観音様だ。温和な表情を浮かべていた。阿弥陀如来像が顔の上ではなく、坐像の台座の前にある。めずらしい。『ブログお寺さんぽ』によれば『聖観世音』は元の観音様のことであり、千手観音や十一面観音はそこから分化してできたという。そのため他の観音と区別して聖観音(しょうかんのん)と呼ぶようになったと記述している。

Photo_9  牛来寺には江戸時代、『寺子屋』があり、境内には寺子屋跡地の表示と筆子(生徒)が先生を供養した墓石がある。寺子屋の子供達がたき火をして、西風に煽られ火事となってしまい、本堂は焼失した。しかし、薬師堂は火災を免れ、本尊の薬師如来像が無事であった。そのため現在の本堂は昔からの薬師堂を本堂としている。

 本尊の薬師如来像の両脇には『聖観世音菩薩坐像』『阿弥陀如来像』が祀られており、華やかで精悍な趣のある本堂内である。この『聖観世音菩薩』をデジカメで撮っている。できれば多くの人に拝観を勧めたくなる観音様だ。そういえば、浅草『浅草寺』の観音様も『聖観世音菩薩』だ。お参りだけで、まだ拝観はしてない。

Photo_13  24番札所の万福寺には『馬頭観世音菩薩』が祀られてあったが、ここも2度の盗難にあっているということだ。

 観音堂の裏地に阿弥陀如来像の板碑が置かれてある。鬱蒼とした境内だが、時代劇のロケーションにも使える感じがした。

Photo_21  25番札所称念寺は栃木市のすぐ隣の小山市の豊田地域にある。

 観音堂には『正観世音』が祀らている。しかし、当日は境内の幼稚園の運動会のため、住職からのお話を聞くことができなかった。

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観音堂脇の山門には「見返り門」の表示がしてあつた。山門の梁の上に木彫りの「薬師如来坐像」が安置されていた。檀家の方が奉納したのだろう。

 

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  小山市豊田から大宮南小学校を通り26番札所の成就院大日堂に行く。

途中、栃木市スタッフより東山道ではないかと推測される道の説明があった。自分が住んでいた前の所沢では中学校の校庭の下から東山道武蔵野道の側溝跡が発掘されている。

 下野の東山道は足利から栃木間での側溝跡地は発見されていない。 所沢の発掘センターでの講演では、古代の道路作りは土を強度に固めて作る(どういう方法か忘れてしまった)Photo_16ため、必ず現代でも土の中に残っている述べていた。佐野から大慈寺を通り、平柳から大宮、国府へと東山道が通っていたのだろう。北の蝦夷への攻撃と防御の拠点地がここ下野の栃木市だったからだ。

 26番札所の成就院大日堂(馬頭観世音)と27番札所の慈眼寺(聖観世音)は場所の確認を行い、拝観できなかった。

 27番札所の慈眼寺のそばに円通寺がある。円通寺境内に前方後円墳があり、古代の豪族がこの地いたことを示している。栃木市地域は湿地帯となっているが、栃木市城内町は少し高台になっているとの説明が栃木市スタッフよりあった。そのことから豪族がここに住むことができ、古代の東山道にもつながるのかと思った。

 今回で4回霊場まわりが終了し、次回10月15日がいよいよ最後の霊場めぐりとなる。健脚な足へと変化したかどうか、もうすぐ分かるな。

                          《夢野銀次》

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風に舞う『赤とんぼ』

Photo  秋風が漂う夕暮れ時に私の菜園には赤とんぼが舞い、支柱に佇(たたず)んでいる。 

収穫前のさつまいも、サトイモを見ているのかな。

~夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われてみたのは いつの日か~

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童謡の『赤とんぼ』の歌詞は大正10年(1921年)三木露風が故郷の兵庫県損保郡龍野町で過ごした子供の頃の郷愁から作ったとされ、童謡集『真珠島』に発表した。その後、昭和2年(1927年)に山田耕作が曲を作った。

~山の畑の 桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか~

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子供ころ観た映画で題名が想い出せない。殺人を犯し、刑務所を脱走した若者が逃走する映画だ。徘徊する農家の炊事場の窓越しから見る夕焼け。バックには『赤とんぼ』の曲が流れていた。東宝映画に間違いないのだが…。

~十五でねえやは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた~

 

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黄金色に実っている稲穂の収穫がもう少しで終了する。

 10月9日・10日は近辺では体育祭や神社の秋祭りがある。

 冬はそこまで来ている。

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  安田祥子・由紀さおりが唄う『赤とんぼ』はきれいすぎる。都会から見た郷愁の唄なのか。

 たよりなく風に舞い漂うように飛びかう赤とんぼ。秘められた強さを感じるの私だけなのかな…。

赤とんぼ、青空に向け飛んでいきなさい。

~夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿(サオ)の先~

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都賀三十三観音霊場めぐり―第3回10月1日

 第3回目の都賀三十三箇所観音霊場めぐり(栃木市教育委員会生涯学習課)は10月1日、JR岩舟駅に集合してスタートした。14札所・高勝寺(岩船山」)…15番札所・大蔵院(岩舟町鷲巣公民館)…16番札所・専光寺(岩舟町鶴巻)…17番札所・宝泉寺(岩舟町和泉)…19番札所・清水寺(大平町山田)…20番札所・観音寺(大平町下皆川)の6箇所(行程約17㎞)めぐりをした。尚、五箇所の祀られてある観音菩薩像をデジカメで撮ったが、このブログには載せていかないこととした。

Photo  14番札所となっている岩船山高勝寺には観音菩薩はなかった。過去にあったらしいが、現在の住職も観音菩薩のことは知らないということだ。

 600の長い石段を登ることから祖霊や死霊が集まる岩船山に入る。山頂にある高勝寺本尊の地蔵尊は、青森県の恐山、鳥取県の大山とともに日本三大地蔵のひとつに数えられている。(岩船山石段)

 本堂にて住職のあいさつと岩船山の言い伝えの説明を受けた。先の3月11日の大震災で奥ノ院に続く峰が崩Photo_2落し大平山からのハイキングコースが遮断されていること。さらにある一説として、この岩船山は昔は姥捨山ではなかったのではないかとの言及もあった。住職としてそこまで述べてよいのか疑問に思えた。しかし、露出した岩肌の地は確かに死霊が漂う雰囲気があり、姥捨山とし信憑性が感じられた。 本堂に座して、本尊の地蔵尊を仰げば、そこは西方浄土につながる方角となっている。(岩船山高勝寺本堂)

Photo_3 岩船山からの下山道で急な道を降りていく途中で崩落した岩肌を見る。前回、岩船山に来たのは大震災の2日前の3月9日だった。その日の参拝者の中に3月10日の東京大空襲で両親を亡くした人が来ていた。全国の霊が集まってくる岩船山。しかし、かつて子供の頃の賑わいを感じない。あの世とこの世を結びつける手紙である本堂脇の多くの『塔婆』だけではなく、恐山大祭に現れる『イタコ』のような、現世に現れる見えるようなモノがあれば良いなと思えた。

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 下山してすぐに15番札所の大蔵院に着く。今は廃寺となっており、お堂の作りのまま鷲巣公民館として地域で活用されている。公民館管理している地域の人のご厚意で、公民館の奥座敷に祀られてある『十一面観音菩薩』を拝観した。暗いためストロボの明かりで観ることができた。稲妻のような形相した怒りを表す観音菩薩だった。しかし、この公民館に観音菩薩が祀られていることをよく調べた。さすが市役所の文化財担当と感心させられた。(大蔵院・鷲巣公民館)

Photo_9 16番札所は鶴巻神社境内の中ある専光寺観音堂。聖観音を祀っていたが昭和50年代に盗難にあい、現在は木彫りの聖観音を祀っている。

 ここも地域の人が観音堂を開けていただき拝観することができた。(専光寺観音堂)

 

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 例幣使街道が富田から佐野と古河に分かれる旧50号の和泉交差点の角に17番札所の宝泉寺がある。この観音堂は和泉自治会が管理している。自治会役員の方々が私たち一行を迎え、観音堂を開けていただいた。毎年8月10日に観音堂祀りを開催し、開帳しているとのこと。聖観音菩薩で勇ましさが感じられる観音様だ。観音堂の脇に地蔵尊が安置されている。交差点の拡張工事のため、この観音堂の脇に移動したもの。この地蔵尊の顔かたちが奇妙で、自然にできた岩なのか、ノミで削って作ったのか、地元の自治会の人も分からないということだった。(宝泉寺観音堂とお地蔵様)

Photo_12 大平町山田にある『清水寺(せいすいじ)』に向かう途中の山麓にはいたる所に彼岸花が咲いていた。

 19番札所の清水寺は下野二十六番札所としても有名であり、晃石山登山口にもなっている。本堂の奥にある観音堂の作りは見事だ。昭和32年に飛び火により本堂を焼失(現在の本堂は平成7年建立)したが、この観音堂は火災を免れた。今も火災が発生した場合、地元消防団はいの一番にこの清水寺を守ると云う。住職の説明では県の補助金にてお堂の防火を含めて大修築を行っている。本尊の十一面千手観音菩薩は県指定以上の尊い文化財の観音菩薩だと言う。昭和63年の改体修理の際、胎内の墨書により、鎌倉時代(文永2年(1265年)仏師・観阿陀により彫られたことが判明したという。

Photo_17十一面千手観音菩薩の手の中の一つに『ぶどう』を持っている手がある。おそらく中東からこの時代(鎌倉時代以前)にブドウは入ってきていたという。指定文化財を受けているため多くの方にこの観音菩薩を拝観していただきたい。そのため、観音扉を開け、観音堂前に立つとセンサーが感知し、照明が点灯され観音像を拝観できる設備としている。住職の考えに感心させられた。(清水寺観音堂)

 それにしても十一面千手観音菩薩。スケールの大きい穏やかな表情をした観音菩薩だ。具体的な大きさを聞いておくべきだった。

Photo_13 この日最後の下皆川にある20番札所の観音寺。この観音寺を管理し、一族の墓所としているのが椎名家である。そのため観音堂を開けたのが元大平町町長の椎名甲子一さんだ。観音堂脇にある墓所の一つ一つの広さがすべて同じにしており、末代までの墓所としているという。(観音寺お堂)

 前の観音菩薩は古くなったため焼却し、新しい聖観音菩薩が祀られている。脇にはお堂創建300年とかかれた木札が飾ってある。大変古いお堂だ。

 この3回の観音霊場めぐりでは、どの観音場でも住職、地元方々が私たち一行を歓迎し説明をして戴いた。栃木市の教育委員会文化財、生涯学習課の今回の『都賀地域の三十三箇所観音霊場めぐり』という初めての企画が関係者に驚きと珍しさとして伝わったのかもしれない。『下野・坂東・西国・秩父三十三箇所めぐり』ではない、地元の都賀・栃木地域の地域発見の旅になっているからだと思う。

                               《夢野銀次》

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