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第5回都賀三十三観音霊場めぐり―11月3日最終回

Photo  9月10日から始まった栃木市教育委員会生涯学習課による『都賀三十三箇所観音霊場めぐり』、今回11月3日の第5回で最終回となった。行程は約15㎞で吹上新道バス停を起点に、28番札所、善応寺伊吹山観音(栃木市吹上町)…29番札所、東善光寺(栃木市野地町)…30番札所、華厳寺(栃木市都賀町木)…31番札所、光永寺(栃木市都賀町富張)…32番札所、青林山東安寺(栃木市西方町元)…33番札所、長徳寺(栃木市西方町本城)の6箇所の観音霊場めぐりとなった。

 帰路、解散地金崎駅に向かう途中、銘酒『杉並木』の飯沼銘釀に立ち寄り造り酒蔵を見学することができた。屋敷内の庭園と庵安の建物は見事でした。

 写真の『千手観世音菩薩坐像』は青林山東安寺観音堂に祀られています。住職の了解を得て、写真を載せました。

022  今回は吹上町から赤津川に沿って「つがの里」を通り、西方城の入口長徳寺までのコースとなっていた。

 最初の28番札所善応寺伊吹山観音堂と29番札所東善光寺では、当地で活動を行っている『吹上地区まちづくり協議会』の役員の方が迎え、説明を受けることができた。

 善応寺の観音堂は勝道上人に建立されたとの由来があり、観音堂は、元は河原田の白地沼にあったと伝われている。現在の観音堂は昭和初期の火災から昭和7年に焼け残った梁や木柱で建てている。

007また伊吹山のさしも草は歌枕として名高い。江戸末期の郷土史家・河野守弘は『下野国誌』でさしも草のことを記述している。善応寺観音堂については『隠れキリシタン』と関連する説があるとの説明もあった。歌枕と合わせて謎の多い観音堂だ。

 伊吹山観音堂からすぐそばに、東善光寺が佇んでいる。山門の二体の仁王像と梵鐘は栃木市の有形文化財としても有名だ。東善光寺の由来は、奥州白河に信濃の善光寺の阿弥陀如来を厚く信仰する尼さんの法徳尼が大治2年(1127)夢に008より下野国伊吹山の辺りに霊山があることを知り、如来堂をこの地に建立した云う。

 平成3年(1991)に当寺の梵鐘が里帰りをしたことは有名な話となっている。軍需品として供出したが鋳潰されず終戦となり、石川県富来町(とぎまち)の恵光寺にあることがわかり、地元の熱い懇願で返却された。軍に供出される際に檀家の人が梵鐘銘を鉛筆で拓本を採ったことが決め手となったと言う。参加者一同、鐘を鳴らすことができた。ゴーンと鐘の音は高音で響き渡った。『おそらくこの鐘には、かんざしなどの金が混じっているのではないか。そのため響きの良い音になっている。そのことが鋳潰をためらい、残ったのではないか』との説明があった。西にある梓山から吹上城(現吹上中学校)につづく台地から多くの板碑が出土している。このことから、この一帯の山麓台地は武者が葬られた地ではなかったと予測がされている。そのためこの地に伊吹山観音堂、東善光寺が建立されたのではないかとの説の紹介も市職員よりあった。

012 30番札所の華厳寺観音堂は『つがの里』の山内に移築され保存されている。華厳寺は日光を開山された勝道上人が延暦8年(789)に都賀郡城山に創建した。その後お堂は大破したが、安永3年(1774)に再建された。明治の廃仏毀釈により金堂焼失、千手観世音菩薩焼失で廃寺となった。しかし、地元民の力で都賀町大字木字大師久保地に観音堂が移築され、大師堂として保存されていた。

 平成12年(2000)に都賀町は勝道上人を偲ぶよすがとして『歴史的文化遺産』としてゆかりの山内「つがの里」に永久保存としている。

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 赤津川を越え、西方パーキンズを見下ろす山麓に31番札所の光永寺観音堂がある。 地元の人の好意でお堂の中に入り、厨子の中からわずかに見える「馬頭観世音菩薩」を拝観する。

 観音堂の中には厨子と見事な白馬の絵馬が掲げられいた。

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 厨子の中の『馬頭観世音菩薩像』は良く観ることができなかったが、『鏡』を祀ってあることが確認することができた。

それにしても東北道を走る車の騒音が気になった。観音堂台地の上から見下ろすと車の騒音がうるさくなる。少し残念な気もした。

023  32番札所、青林山東安寺には区画された西方町古宿の街道に沿って歩いて向かった。先に行くと、江戸徳川時代に小倉川(思川)に堰を作った『小倉堰』がある。西方町、都賀町にまたがる水田の灌漑や防火・生活用水の取水堰として名主・百姓により維持管理がされていたという。改めて見にいってみよう。

 青林寺東安寺は文応元年(1260)開基となっている。寺の由縁は源義家が奥州征討の時、立ち寄り不動尊の画軸を納め祈願を成したことによるとされて031る。

 江戸初期・中期には栄えたが、幾度かの火災に合い、本堂など焼失したり20~30あった末寺などが廃寺となったりした。しかし、平成17年の火災の後、檀家一同本堂再建を強く望み、平成19年10月に本尊の阿弥陀如来像と本堂が再建されている。大変りっぱな本堂と金色に輝く阿弥陀如来像でした。

 当寺の住職も4年前に当寺の住職となり、私たち一行を歓迎してくれた。さらに源義家が奉納したという『不動尊掛軸』を見せて戴いた。まだ公開していないこの掛軸、いずれ世に出ていくと確信した。 

 観音堂には『千手観世音菩薩坐像』028_2
が祀られてある。慶安元年(1648)の観音さまで、めずらしくお不動尊の台座に祀られている。御開帳は毎年お盆前との住職より説明があった。住職のお寺に対する姿勢を見て、学芸員の資格を持つことから、さらに東安寺の歴史史料の研鑽をしていくと確信した。

038_5  最後の33番札所、長徳寺に到着した。西方城への入り口にあたるお寺である。本堂から奥の急な古い石段を登ったところに観音堂がある。西方町教育委員の方からの説明があった。

 観音堂に祀られている『聖観世音菩薩立像』は馬の安全と家門繁栄の祈願所として300年にわたり尊崇されてきたという。そのため観音堂の左側と裏側に大変傷んでいるが、大きな絵馬が掲げられている。乗馬した武士が村単位で何百頭と描かれている。

032観音堂は12年に一回の御開帳と云うことになっている。

  長徳寺には西方城来場者のために、昨年西方町では駐車場を作った。西方城は宇都宮氏が皆川氏と対峙する最前線の城として、宇都宮城の西方にあることからその名が付けられれている。そのため、この地帯を『西方』としての地名で今に続いている。平成23年10月より栃木市西方町となった。説明を行った教育委員の方もこれからはどしどし、この西方城を宣伝普及させていくと決意を語っていた。山城として土塁や曲輪がたくさん残っているものとし、楽しみに今度こよう。

 5回に渡り『都賀三十三箇所観音霊場めぐり』が終了した。最後に市の教育委員会の方より34番目は『出流山満願寺千手観世音菩薩』であり、機会をみて是非拝観して欲しいことの説明があった。

 今回の霊場めぐりでは、各観音堂において住職や地元の方からそれぞれ説明を戴いた。これも栃木市教育委員会の尽力の賜物として感謝します。また全75㎞の行程を案内していただいた栃木市職員の方々に厚く御礼申し上げます。さらに参加者の中に中学2年の時の同級生がいたことも追記しておきます。

 今回拝観した観音さまで、大平町牛久にある牛来寺(ごらいじ)に後日行きました。住職のはからいで再度、観音さまを拝観することができました。機会があれば再度訪れたい観音堂、観音さまがたくさんできました。楽しみだな。

                        《夢野銀次》

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