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2011年11月

里イモの収穫・野石を積んでの石垣完成

001 里いもを掘り出した。思ったよりできが少なかった。

親イモ、小イモはある。しかし、肝心な孫イモがない。苗も思ったより大きくならなかった。気候なのか?土地柄なのか?

所沢より育ちの時間も長かった。

来年は種イモを選ぼう。

003  8月から始めた土塁の石垣作り。

ようやく完成した。

野積みした石は周辺の畑にごろごろしていた石を集めた。

一段一段の積み上げ作業。

やはりこの地は太古の時代は川底だったのかもしれない。

 

002_4思川の石と同じ種類ということだ。

 隣で菜園をしていたお婆さんに言われた。『商売人がしたみていな石垣だな』と…。

ありがたい言葉として感謝申し上げます。

005

 

10月に植えたニンニクの芽が伸びてきた。これから寒い冬を越して、来年の6月に収穫する。

 

先日、初霜が降り、本格的な寒い冬を迎えた。

そこで俳句2種を詠む

『永野川 干し柿見ゆる あかね雲』

『初霜の イモの葉枯れぬ 畝の土』

                                  《夢野銀次》

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今に伝える大道芸・口上芸―『大道研まつり』

045_2  華やかな『南京玉すだれ』で幕が開いた。『第七回大道研まつり』は両国、江戸東京博物館1階ホールにて平成23年11月20日に開かれた。主催の大道芸研究会は昭和60年(1985)に日本古来から伝わる大道芸・口上芸を研究しその伝承、保存を目的として発足した。また、この会では昔風の和芸だけではなく、若者むけの手品、腹話術なども取り入れて活動を行っているという。確かに8割入りの観客席を見渡せば、若者の姿も目についた。

047_5 大道芸でまず思い浮かべるのは『ガマの油売り』だ。取り出したる刀の刃にて紙を切り裂き紙ふぶきを舞い散らせて切れ味を見せる。ガマの油を刃に塗れば、左腕は斬られていない。しからば、刃に塗ったガマの油をふき取り、刃を左腕にあて斬る。赤い血が浮かびあがる。赤い血を出した左腕にガマの油を塗れば、たちまち赤い血は消えてなくなる。

 近年、各イベントで演じられているというが、初めて『ガマの油』を観ることができた。刀を使う演目なのか、妙な緊張感が生まれる演目だった。

041_5 中休みにロビーにて『のぞきからくり』を観た。のぞいた先は『八百屋お七』のお話。色彩が派手で画像で明るい。縁日で多くの客が銭を払い、のぞいたという。

 紙芝居はその流れなのか。この『のぞきからくり』の装置、日本では4~5台位しか残されていないという。貴重なものを観たという感じだ。

061_2  30年数前に浅草『花やしき』の前にある見世物小屋で『犬の曲芸』を見た。小屋の中は全て立ち見席。ゆっくり鑑賞させないで客の回転を速める手立てが印象に残っている。小学校時代に町にサーカスがやってきた。サーカス小屋の隣に『小人』の見世物があり、その小屋も客が舞台の周りを歩いて見ていく仕立てだった。

  火を口に入れる見世物は見た記憶があるが、『蛇食い娘』は初めて観た。場内を暗くし、薄気味悪さの雰囲気をだしたが、演じる娘が妙にけらけらして明るく、楽しい『蛇食い娘』だった。

064_2   軽妙な語りでの辻講釈『六魔』は干支生まれの運勢や手相等、身近な話題で道行く人を引き付ける話芸だ。また、講釈の内容がためにもなる。

 運勢は勢いと書く。開運をつかむには三つの要素がある。一つが明日に向かって努力を積むこと。二つ目は日々善行を行うこと。三つ目は我慢、辛抱だと諭す話芸は大向うの講談とは違い、ゆっくり聞く人の胸に入ってくる。

 この口調で熱を帯びれば武田鉄也の教師として諭す姿になってくる。

067_2   書生姿のバイオリン演歌は郷愁を誘う。今の若者が駅前でギターを弾きながら歌う姿とは違う。生活をかけての演歌だったからかもしれない。

 かつて山本學、渡辺美佐子らがいた劇団新人会の公演で『オッペケペー』の舞台を思いだした。オッペケペー節の節回しが印象に残っている。川上音二郎が自由民権運動を広げていくために唄ったオッペケペー節。演説歌が略され演歌となり、政治の固い時代から艶物の艶歌となり、今に至っている。寄席では観られない『バイオリン演歌』だ。

070_6 フーテンの寅のメロディーに乗り、『バナナの叩き売り』が始まった。客席との掛け合いと巧妙な口回しが場内に明るい笑いの渦を巻き起こした。

 『ものの始まりが一ならば、国の始まりは大和の国、島の始まりは淡路島。泥棒の始まりが石川五右衛門なら、助平の始まりが小平の義雄』『結構毛だらけ、猫灰だらけ。尻(ケツ)の周りはクソだらけ』『大したもんだカエルのしょんべん、見上げたもんだ屋根屋のふんどし』。意味などわからない。けれども軽妙な語り口が身体を楽にさせていく。そして節回しとあわせて身体が自然に動いていく感じがした。

 渥美清の『フーテンの寅』における口上は好きな場面の一つだった。とりわけ映画のラスト、初詣で賑わう神社の沿道における口上場面は、正月だなという感じで観ていた。渥美清は子供の頃、上野アメ横での露天商の口上を聞きながら育ち、それを見事に口上芸として生かした役者だった。

  大道芸は近年、市町村での『街おこし』の一環として大道芸フェエスティバルと称するなど活用されてきている。しかし、その大部分はパントマイムなど西洋を下敷きとした視覚にうったえる大道芸が演じられている。東京都では2002年よりヘブンアーティストとして公認制度を作り(審査委員長は小沢昭一)大道芸の育成と保存に動き出してきている。しかし、落語や講談・浪曲のように聞く芸と違い、物売りとして大道芸・口上芸・放浪芸は一段低いものとして見られてきた歴史がある。宴席や座敷(寄席)ではなく、街頭や玄関軒先で演じられてきた芸について今後さらに研究が進むことを期待したい。今回の『大道研まつり』でビデオや本ではなく、実物として観ることができたことは大変貴重な体験だった。

                             《夢野銀次》

 

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明治・栃木市の歴史本=『文明開化の写真師』(著者:小平豊)

Photo 巴波(うずま)川、相生橋のたもとに旧栃木警察署の建物の模した『片岡写真館』(栃木市室町1-10)がある。明治2年創業と玄関に掲げられ、写真屋(写場)として現在も営業を行っている。また、明治期を写した写真も店内で展示し、資料館としても開設をしている。

 この片岡写真館の創始者、片岡如松(かたおかじょしょう)とその子息、武の写真師としての生涯を書いた本…『文明開化の写真師 片岡如松物語』が平成17年(2005)に栃木市在住の作家、小平豊著作によって随想舎より出版されている。

 日光武士団であった片岡如松は明治を迎え写真師横山松三郎と出会い、今の東武日光駅前に明治2年に写場(写真館)を開設した。そして明治5年8月に日光から栃木町相生通りに写場を移した。

 明治4年11月に廃藩置県にともない、10県あった下野の国は栃木県と宇都宮県の2県となった。時の下野県令鍋島幹(みき)は日光県を継承するとして栃木町に移ることになり、片岡如松も鍋島県令に請われ、栃木町への移転を決めた。明治6年6月15日(今の県民の日)に宇都宮県を合併し栃木県が誕生した。すでに栃木県庁舎は明治5年11月に今の栃木高校を含めた入舟町に落成していた。

315812131  この著作、『文明開化の写真師』は明治初期の写真技術を詳しく記述しているが、それより明治初期からの栃木町を片岡写真師を通して描いているのが素晴らしい。明治の栃木町の歴史書を読んでいるようだった。

 当時の栃木町をこう記述している。

「この町は、材木、農産物の集積地だ。近郊で生産される麻、麻縄の取引高では日本市場を独占する。商品は町を貫流する巴波川で大消費地東京に運び、帰り舟で海産物から化粧品の類まで搬入する。日光御用達の品々もこの町で陸揚げされ、例幣使街道を通って日光に送られた。水運と陸運の交差する地の利を得て栃木町は北関東有数の商業都市へと成長したのである」

 さらに、当時の舟運の流れを巴波川―渡良瀬川―利根川―江戸川―江戸川河口辺りから船堀川―小名木川―隅田川―隅田川川岸の日本橋と記している。この日本橋からのつながりとして、今はない『鯉保』の先祖、松尾芭蕉の高弟の一人、杉風(さんぷう)のことを記述している。本名は鯉屋藤左衛門、日本橋本小田原町で幕府御用の魚問屋を営み、芭蕉に財政支援をしていたことや明治7年に日本橋町内より譲り受けする山王祭山車『静御前』の逸話をも記述をし、栃木と日本橋を結び付けている視点がなるほどと思えた。

 自分としてずっと分らなかった地名変更の記述もあった。明治5年12月3日から太陽歴に改める際に、栃木町の上町、中町、下町が万町、倭町、室町となり、町の中心にある中町三丁目が倭町一丁目となったこと。念仏橋を幸来橋に改名したこと。幸来橋にあった木戸が川の内側にあったこと。高札場が今の倭町にある足利銀行栃木支店前にあったこと等がこの著書で分かった。

Photo_4 明治期の栃木町を書く際には、明治17年1月21日の県庁移転の話は欠かせない。著者(小平豊)は当時二代目栃木県令の藤川為親を通して語らせている。

『宇都宮の県庁移転運動の黒幕がすけて見えて来たわ。わし(藤川県令)の頭越しに、あげん運動を操れる男、内務省(山形有朋)と通じ民権派の息の根ば止めにかかれる男、あん男(三島福島県令)しかおるまい。今回の移転騒動は、要するにあん男が栃木県令に着任する前に、移転実現に一定の目どをつけておきたいがために仕組んだ策謀だったとよ』と明治政府内における薩長と佐賀土佐との民権運動をめぐる争いの一貫として、栃木県庁移転を指摘している。

 明治16年12月12日に栃木県令に赴任した三島通庸(みしまみちつね)は薩摩藩士として寺田屋事件に関与し、山形県令・福島県令として自由民権運動の弾圧をおこなってきた。赴任1か月も満たぬ、翌年1月21日に早くも県庁宇都宮移転が太政官名で通達がされている。山形有朋と三島通庸という薩長閥の談合により決められたとの記述がある。

 巴波川水運による情報伝達の速さが自由民権運動の高揚を生んだ栃木町からの県庁移転は、鍋島・藤島県令と続いた鍋島藩閥の毛落としと考えるなら、政治抗争の一環としてだったことがうなずける。宇都宮が県の真ん中にあるという理由から県庁移転が決められたのではないということだ。

006 今年7月20日のとちぎ市民学舎の『栃木町と栃木県庁』の講座の中で、講師の栃木県立古文書館職員の方は栃木県庁移転理由の質問については、『史料がないことから、明確な理由は分らない』と答えている。確かに、談合という政治的な取引では『史料』は残らない。ただ、この講座では明治5年11月に落成した栃木町栃木県庁舎の敷坪面積2万654坪5合5勺。総工費8296両永9文6分の歳入内訳として①3078両3分永75文は一般住民からの献金・献夫、②4578両永184文6分の1/3が国、2/3が郡が負担という提示があった。栃木町の県庁舎の総工事建設費用の45パーセントが一般住民、すなわち栃木町在住の穀物・回船問屋を初めとした商家や町人、近在農民の人が献金していたこととなる。元治元年(1864)5月の水戸天狗党太平山着陣の際、栃木商家は2000両を藤田小四郎率いる天狗党に献金した。しかし、翌6月6日の『愿蔵火事』で町の大半を焼失した栃木町の商家、住民は素早く『見世蔵』(店舗・住居兼用の蔵)等を建立し復興させた。いかに商業が発展し、財政力を持っていたかを示している。

 『文明開化の写真師』、副題に片岡如松物語と記しているが、この書は評伝ではないかと思える。また、本の中には、台風による惨状の写真を二代目の片岡武が撮った写真を記載している。夭折した片岡武の写真師の姿勢は今につながるものとして描いている。

  最近作者の小平豊氏にお会いした。その時、『史実に添って書きました。できるだけわかりやすく栃木の明治を書いたつもりです』と語っていただいた。温和な人柄をのぞかせていたのが印象的でした。栃木市の歴史書で、日向野徳久氏の『栃木市の歴史』と並んで栃木市の明治を記した歴史書として貴重な書物として受け止めていきます。

                          《夢野銀次》

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第5回都賀三十三観音霊場めぐり―11月3日最終回

Photo  9月10日から始まった栃木市教育委員会生涯学習課による『都賀三十三箇所観音霊場めぐり』、今回11月3日の第5回で最終回となった。行程は約15㎞で吹上新道バス停を起点に、28番札所、善応寺伊吹山観音(栃木市吹上町)…29番札所、東善光寺(栃木市野地町)…30番札所、華厳寺(栃木市都賀町木)…31番札所、光永寺(栃木市都賀町富張)…32番札所、青林山東安寺(栃木市西方町元)…33番札所、長徳寺(栃木市西方町本城)の6箇所の観音霊場めぐりとなった。

 帰路、解散地金崎駅に向かう途中、銘酒『杉並木』の飯沼銘釀に立ち寄り造り酒蔵を見学することができた。屋敷内の庭園と庵安の建物は見事でした。

 写真の『千手観世音菩薩坐像』は青林山東安寺観音堂に祀られています。住職の了解を得て、写真を載せました。

022  今回は吹上町から赤津川に沿って「つがの里」を通り、西方城の入口長徳寺までのコースとなっていた。

 最初の28番札所善応寺伊吹山観音堂と29番札所東善光寺では、当地で活動を行っている『吹上地区まちづくり協議会』の役員の方が迎え、説明を受けることができた。

 善応寺の観音堂は勝道上人に建立されたとの由来があり、観音堂は、元は河原田の白地沼にあったと伝われている。現在の観音堂は昭和初期の火災から昭和7年に焼け残った梁や木柱で建てている。

007また伊吹山のさしも草は歌枕として名高い。江戸末期の郷土史家・河野守弘は『下野国誌』でさしも草のことを記述している。善応寺観音堂については『隠れキリシタン』と関連する説があるとの説明もあった。歌枕と合わせて謎の多い観音堂だ。

 伊吹山観音堂からすぐそばに、東善光寺が佇んでいる。山門の二体の仁王像と梵鐘は栃木市の有形文化財としても有名だ。東善光寺の由来は、奥州白河に信濃の善光寺の阿弥陀如来を厚く信仰する尼さんの法徳尼が大治2年(1127)夢に008より下野国伊吹山の辺りに霊山があることを知り、如来堂をこの地に建立した云う。

 平成3年(1991)に当寺の梵鐘が里帰りをしたことは有名な話となっている。軍需品として供出したが鋳潰されず終戦となり、石川県富来町(とぎまち)の恵光寺にあることがわかり、地元の熱い懇願で返却された。軍に供出される際に檀家の人が梵鐘銘を鉛筆で拓本を採ったことが決め手となったと言う。参加者一同、鐘を鳴らすことができた。ゴーンと鐘の音は高音で響き渡った。『おそらくこの鐘には、かんざしなどの金が混じっているのではないか。そのため響きの良い音になっている。そのことが鋳潰をためらい、残ったのではないか』との説明があった。西にある梓山から吹上城(現吹上中学校)につづく台地から多くの板碑が出土している。このことから、この一帯の山麓台地は武者が葬られた地ではなかったと予測がされている。そのためこの地に伊吹山観音堂、東善光寺が建立されたのではないかとの説の紹介も市職員よりあった。

012 30番札所の華厳寺観音堂は『つがの里』の山内に移築され保存されている。華厳寺は日光を開山された勝道上人が延暦8年(789)に都賀郡城山に創建した。その後お堂は大破したが、安永3年(1774)に再建された。明治の廃仏毀釈により金堂焼失、千手観世音菩薩焼失で廃寺となった。しかし、地元民の力で都賀町大字木字大師久保地に観音堂が移築され、大師堂として保存されていた。

 平成12年(2000)に都賀町は勝道上人を偲ぶよすがとして『歴史的文化遺産』としてゆかりの山内「つがの里」に永久保存としている。

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 赤津川を越え、西方パーキンズを見下ろす山麓に31番札所の光永寺観音堂がある。 地元の人の好意でお堂の中に入り、厨子の中からわずかに見える「馬頭観世音菩薩」を拝観する。

 観音堂の中には厨子と見事な白馬の絵馬が掲げられいた。

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 厨子の中の『馬頭観世音菩薩像』は良く観ることができなかったが、『鏡』を祀ってあることが確認することができた。

それにしても東北道を走る車の騒音が気になった。観音堂台地の上から見下ろすと車の騒音がうるさくなる。少し残念な気もした。

023  32番札所、青林山東安寺には区画された西方町古宿の街道に沿って歩いて向かった。先に行くと、江戸徳川時代に小倉川(思川)に堰を作った『小倉堰』がある。西方町、都賀町にまたがる水田の灌漑や防火・生活用水の取水堰として名主・百姓により維持管理がされていたという。改めて見にいってみよう。

 青林寺東安寺は文応元年(1260)開基となっている。寺の由縁は源義家が奥州征討の時、立ち寄り不動尊の画軸を納め祈願を成したことによるとされて031る。

 江戸初期・中期には栄えたが、幾度かの火災に合い、本堂など焼失したり20~30あった末寺などが廃寺となったりした。しかし、平成17年の火災の後、檀家一同本堂再建を強く望み、平成19年10月に本尊の阿弥陀如来像と本堂が再建されている。大変りっぱな本堂と金色に輝く阿弥陀如来像でした。

 当寺の住職も4年前に当寺の住職となり、私たち一行を歓迎してくれた。さらに源義家が奉納したという『不動尊掛軸』を見せて戴いた。まだ公開していないこの掛軸、いずれ世に出ていくと確信した。 

 観音堂には『千手観世音菩薩坐像』028_2
が祀られてある。慶安元年(1648)の観音さまで、めずらしくお不動尊の台座に祀られている。御開帳は毎年お盆前との住職より説明があった。住職のお寺に対する姿勢を見て、学芸員の資格を持つことから、さらに東安寺の歴史史料の研鑽をしていくと確信した。

038_5  最後の33番札所、長徳寺に到着した。西方城への入り口にあたるお寺である。本堂から奥の急な古い石段を登ったところに観音堂がある。西方町教育委員の方からの説明があった。

 観音堂に祀られている『聖観世音菩薩立像』は馬の安全と家門繁栄の祈願所として300年にわたり尊崇されてきたという。そのため観音堂の左側と裏側に大変傷んでいるが、大きな絵馬が掲げられている。乗馬した武士が村単位で何百頭と描かれている。

032観音堂は12年に一回の御開帳と云うことになっている。

  長徳寺には西方城来場者のために、昨年西方町では駐車場を作った。西方城は宇都宮氏が皆川氏と対峙する最前線の城として、宇都宮城の西方にあることからその名が付けられれている。そのため、この地帯を『西方』としての地名で今に続いている。平成23年10月より栃木市西方町となった。説明を行った教育委員の方もこれからはどしどし、この西方城を宣伝普及させていくと決意を語っていた。山城として土塁や曲輪がたくさん残っているものとし、楽しみに今度こよう。

 5回に渡り『都賀三十三箇所観音霊場めぐり』が終了した。最後に市の教育委員会の方より34番目は『出流山満願寺千手観世音菩薩』であり、機会をみて是非拝観して欲しいことの説明があった。

 今回の霊場めぐりでは、各観音堂において住職や地元の方からそれぞれ説明を戴いた。これも栃木市教育委員会の尽力の賜物として感謝します。また全75㎞の行程を案内していただいた栃木市職員の方々に厚く御礼申し上げます。さらに参加者の中に中学2年の時の同級生がいたことも追記しておきます。

 今回拝観した観音さまで、大平町牛久にある牛来寺(ごらいじ)に後日行きました。住職のはからいで再度、観音さまを拝観することができました。機会があれば再度訪れたい観音堂、観音さまがたくさんできました。楽しみだな。

                        《夢野銀次》

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秋の収穫―さつま芋とあかね空

Photo 10月末日、さつま芋を掘り出した。

収穫した「さつま芋」は日乾しにした方が甘みがますという。

どのくらいなのか?半日、1日、2日間なのか?

 じゃがいもは『陰干しにしろ』と近所のおばあさんに言われたのだがな…。

Photo_2 8月から周辺の石を拾い集めて作り始めた石垣作り。間もなく完成を迎える。我が家の敷地が何となく重量感が増してきた。それにしても永野川、巴波川から離れているにもかかわらず周辺の田圃には河原の石が多い。

 この地『栃木』の名前の由来については諸説がある。塙静夫氏の『地名の由来』ではトチギのトは接頭語で場所を示す意味がある。チギは動詞でチギル(千切る)の語幹で細かく粉砕するとか、ひきちぎるの意味から、崩壊・浸食地形を意味する。従って栃木の地名は巴波川の氾濫によって侵食された崩壊地に由来すると指摘している。 そういえば、昔、太古の時代に思川の流れは粟野町の手前にある真名子あたりに突き出している台地が川の流れをふさぎ、今の小山へと蛇行したという話を聞いた事がある。巴波川は思川の名残なのかな…と、ふと思った。Photo_7

前住居、所沢の菜園から『ラズベリー』を移植していた。

間もなく赤い実がなる。

ラズベリーは春と秋に実がなる。妻がラズベリーのジュースを作るだろう。

Photo_4

 この間から気になっていた黄色い花。

『宵待草』ではないか?前住者が植えていたのだ。

宵待草は本来、待宵草(マツヨイグサ)と言い月見草と同種の草花だ。

 竹久夢二の自筆にも「待宵草」となっているが、ある時期から夢二自身が音感の美しさこだわって宵待草に替えたとされている。

Photo_5 12日前の10月19日の夕暮時。我が家の西の空があかね色になっていた。

 秋だな…って妙に感傷的になりました。

~待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ  今宵は月も出ぬそうな~

     《夢野銀次》

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