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明治・栃木市の歴史本=『文明開化の写真師』(著者:小平豊)

Photo 巴波(うずま)川、相生橋のたもとに旧栃木警察署の建物の模した『片岡写真館』(栃木市室町1-10)がある。明治2年創業と玄関に掲げられ、写真屋(写場)として現在も営業を行っている。また、明治期を写した写真も店内で展示し、資料館としても開設をしている。

 この片岡写真館の創始者、片岡如松(かたおかじょしょう)とその子息、武の写真師としての生涯を書いた本…『文明開化の写真師 片岡如松物語』が平成17年(2005)に栃木市在住の作家、小平豊著作によって随想舎より出版されている。

 日光武士団であった片岡如松は明治を迎え写真師横山松三郎と出会い、今の東武日光駅前に明治2年に写場(写真館)を開設した。そして明治5年8月に日光から栃木町相生通りに写場を移した。

 明治4年11月に廃藩置県にともない、10県あった下野の国は栃木県と宇都宮県の2県となった。時の下野県令鍋島幹(みき)は日光県を継承するとして栃木町に移ることになり、片岡如松も鍋島県令に請われ、栃木町への移転を決めた。明治6年6月15日(今の県民の日)に宇都宮県を合併し栃木県が誕生した。すでに栃木県庁舎は明治5年11月に今の栃木高校を含めた入舟町に落成していた。

315812131  この著作、『文明開化の写真師』は明治初期の写真技術を詳しく記述しているが、それより明治初期からの栃木町を片岡写真師を通して描いているのが素晴らしい。明治の栃木町の歴史書を読んでいるようだった。

 当時の栃木町をこう記述している。

「この町は、材木、農産物の集積地だ。近郊で生産される麻、麻縄の取引高では日本市場を独占する。商品は町を貫流する巴波川で大消費地東京に運び、帰り舟で海産物から化粧品の類まで搬入する。日光御用達の品々もこの町で陸揚げされ、例幣使街道を通って日光に送られた。水運と陸運の交差する地の利を得て栃木町は北関東有数の商業都市へと成長したのである」

 さらに、当時の舟運の流れを巴波川―渡良瀬川―利根川―江戸川―江戸川河口辺りから船堀川―小名木川―隅田川―隅田川川岸の日本橋と記している。この日本橋からのつながりとして、今はない『鯉保』の先祖、松尾芭蕉の高弟の一人、杉風(さんぷう)のことを記述している。本名は鯉屋藤左衛門、日本橋本小田原町で幕府御用の魚問屋を営み、芭蕉に財政支援をしていたことや明治7年に日本橋町内より譲り受けする山王祭山車『静御前』の逸話をも記述をし、栃木と日本橋を結び付けている視点がなるほどと思えた。

 自分としてずっと分らなかった地名変更の記述もあった。明治5年12月3日から太陽歴に改める際に、栃木町の上町、中町、下町が万町、倭町、室町となり、町の中心にある中町三丁目が倭町一丁目となったこと。念仏橋を幸来橋に改名したこと。幸来橋にあった木戸が川の内側にあったこと。高札場が今の倭町にある足利銀行栃木支店前にあったこと等がこの著書で分かった。

Photo_4 明治期の栃木町を書く際には、明治17年1月21日の県庁移転の話は欠かせない。著者(小平豊)は当時二代目栃木県令の藤川為親を通して語らせている。

『宇都宮の県庁移転運動の黒幕がすけて見えて来たわ。わし(藤川県令)の頭越しに、あげん運動を操れる男、内務省(山形有朋)と通じ民権派の息の根ば止めにかかれる男、あん男(三島福島県令)しかおるまい。今回の移転騒動は、要するにあん男が栃木県令に着任する前に、移転実現に一定の目どをつけておきたいがために仕組んだ策謀だったとよ』と明治政府内における薩長と佐賀土佐との民権運動をめぐる争いの一貫として、栃木県庁移転を指摘している。

 明治16年12月12日に栃木県令に赴任した三島通庸(みしまみちつね)は薩摩藩士として寺田屋事件に関与し、山形県令・福島県令として自由民権運動の弾圧をおこなってきた。赴任1か月も満たぬ、翌年1月21日に早くも県庁宇都宮移転が太政官名で通達がされている。山形有朋と三島通庸という薩長閥の談合により決められたとの記述がある。

 巴波川水運による情報伝達の速さが自由民権運動の高揚を生んだ栃木町からの県庁移転は、鍋島・藤島県令と続いた鍋島藩閥の毛落としと考えるなら、政治抗争の一環としてだったことがうなずける。宇都宮が県の真ん中にあるという理由から県庁移転が決められたのではないということだ。

006 今年7月20日のとちぎ市民学舎の『栃木町と栃木県庁』の講座の中で、講師の栃木県立古文書館職員の方は栃木県庁移転理由の質問については、『史料がないことから、明確な理由は分らない』と答えている。確かに、談合という政治的な取引では『史料』は残らない。ただ、この講座では明治5年11月に落成した栃木町栃木県庁舎の敷坪面積2万654坪5合5勺。総工費8296両永9文6分の歳入内訳として①3078両3分永75文は一般住民からの献金・献夫、②4578両永184文6分の1/3が国、2/3が郡が負担という提示があった。栃木町の県庁舎の総工事建設費用の45パーセントが一般住民、すなわち栃木町在住の穀物・回船問屋を初めとした商家や町人、近在農民の人が献金していたこととなる。元治元年(1864)5月の水戸天狗党太平山着陣の際、栃木商家は2000両を藤田小四郎率いる天狗党に献金した。しかし、翌6月6日の『愿蔵火事』で町の大半を焼失した栃木町の商家、住民は素早く『見世蔵』(店舗・住居兼用の蔵)等を建立し復興させた。いかに商業が発展し、財政力を持っていたかを示している。

 『文明開化の写真師』、副題に片岡如松物語と記しているが、この書は評伝ではないかと思える。また、本の中には、台風による惨状の写真を二代目の片岡武が撮った写真を記載している。夭折した片岡武の写真師の姿勢は今につながるものとして描いている。

  最近作者の小平豊氏にお会いした。その時、『史実に添って書きました。できるだけわかりやすく栃木の明治を書いたつもりです』と語っていただいた。温和な人柄をのぞかせていたのが印象的でした。栃木市の歴史書で、日向野徳久氏の『栃木市の歴史』と並んで栃木市の明治を記した歴史書として貴重な書物として受け止めていきます。

                          《夢野銀次》

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