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2011年12月

皆川・宇都宮激戦の山城―都賀町深沢『布袋が岡城』

Photo 布袋が岡(ほていがおか)城は栃木市都賀町深沢にあり、別名深沢城とも云われている。築城は天慶(938頃)の昔、藤原秀郷が築いたとされるが、廃城となり、永正年間(1504頃)皆川成勝が再興されたと、島遼伍監修の『栃木の城』に記述されている。

  この地は皆川氏にとって、東北は宇都宮氏一族の西方城、北は佐野氏傘下の粟野城と西北の尻内城があり、西南には吹上城を経て皆川城につづく要の城になっていた。天正16年(1588)3月に『皆川正中禄』『都賀町史』『栃木の城』には宇都宮国綱・佐竹義重による赤Photo_13津川を挟んでの布袋が岡城の攻城と城を守る皆川広照との戦闘・落城が記述されている。

 『城跡は標高210メートルの山城で東西二丁三十間(約270メートル)、南北二十三間(約41メートル)、土塁を以って囲み、一方隆起して物見櫓のありし如き遺跡を存せれり』と栃木県誌に説明がある(都賀町史より)。城跡は私有地のため、東側より入ることができず、西の麓にある『花の木』事務所より頂上に登ることができた。頂上にある本曲輪の跡地のそばには中世の城の特徴でもある『磐座(いわくら)』の跡地あった。というより磐座がそのまま残っている状態だと私には見えた。

Photo_11本曲輪の周りには土塁が残っており、そこから西北から東北にかけて藪を通して眺めることができた。
 地図の東側には幾段かの腰曲輪(こしくるわ)が見られるが、残念ながら頂上から降りてこの曲輪を見ることができなかった。Photo_16
  布袋が岡城は南北朝から室町初期にかけて築城された山城の特徴を持っている。 本曲輪から南に尾根つづきの曲輪(平場)があり、堀切を用いて仕切り、曲輪を分けている。痩せ尾根式の山城築城法だ。尾根伝いを仕切る堀切や竪堀を見ることができた。Photo_14

 これより前の天正13年(1585)3月、皆川広照は佐野氏を含む小田原北条方に太平山から攻め込まれるなど激しい戦闘(草鞍山の戦い)の結果、北条方と和睦をした。徳川家康が佐竹義宣を仲介として北条氏政を説得し和睦させたとしている。家康にとり対秀吉への対抗措置として北関東の防御安定することを重点としてものと考えられている。広照と家康の関係は、家康が広照を信長への仲介したところから始まるといわれ、以後、親密で不思議な関係へと発展していく謎の多いところだと思える。

 小田原北条との和睦により皆川広照は小田原北条に占拠されていた布袋が岡城が返還された。このことにより粟野城方面にむけて拡張を進め、天正14年には宇都宮城を攻めたと記されている(都賀町史)。Photo_15                                    すでに天正13年(1585)には下野の南部の小山氏・壬生氏・皆川氏・佐野氏等の豪族は小田原北条氏の傘下となってしまっている。そのため宇都宮国綱は小田原北条に対して防御を固めるため、同年の9月に平城の宇都宮城から山城の多気山城に本拠を移している。この多気山城がこれ以降、慶長2年(1597)の宇都宮改易まで宇都宮国綱の本拠の城となっている。

 宇都宮国綱の対小田原北条への危機意識が天正16年3月の皆川広照・布袋が岡城への攻撃となる。かつて、大永3年(1523)川原田合戦。広照の父、皆川俊宗による元亀元年(1570)の宇都宮乗っ取り事件「皆川俊宗の乱」。その反撃としての元亀3年(1572)12月~翌年3月にかけての宇都宮・佐竹連合による皆川方10城への落城攻撃。天正13年8月、小倉川(現在の思川)と名が変わる「黄瀬川の合戦」と宇都宮と皆川の戦いは60年余りつづいてきた。ある時は味方、ある時は敵対関係など近親憎悪にも似た関係になっていた。017_2 そして、布袋が岡城が落城する天正16年(1588)3月の最後の攻城戦。

 『皆川正中禄』(考註・日向野徳久)によれば、寄せ手の宇都宮・佐竹勢九千騎、守る籠城の皆川勢は二千五百騎。西方城に後詰めを置いた宇都宮国綱は赤津川の東側ほとりにある神楽岡城から西方勢を先頭に二千五百騎。北の真名子から紀清両党三千騎。東の富張から佐竹義重三千騎が一斉に攻めるとの記述がある。とりわけ布袋が岡城と赤津川の間のある底なし田における戦闘は激しく、死人は山をなし、この血が滝川のような川原に流れだし川は血に染まった。このことから、この川を赤津川となったこと。さらに宇都宮、佐竹の連合軍は一気に布袋が岡城に攻め登り、一斉に火矢を打つ込み、城はたちまち火に包まれ落城したと『栃木の城』にも記述がされている。落城の後、小田原北条の支援があるとし、宇都宮勢は本城の皆川城を攻めることなく、撤退している。003_5
   戦国時代に下野は一つの国に結合することができなかった。このことが宇都宮と皆川の最後までの戦いとなっていってしまっている。宇都宮氏・小山氏と鎌倉以来の名門の豪族がいたにも関わらず。やがて古河公方・上杉・北条の攻防から関東支配をめぐり、下野一国の争いから秀吉と家康による天下覇権の流れとなってきていた。天正16年のこの『布袋が岡城攻防』は実際にあったかどうか、私としてはまだ確証を得ていない。しかし『皆川正中禄』を読み、皆川氏のような小国の領主が自立した領国にしていくためには、古河公方から上杉・宇都宮へ寄り、そして小田原北条の傘下になるなどして生き延びる方策を取らざるを得なかったことが分かる。

  この皆川正中禄は最期に徳川の家臣となっていく皆川氏の姿と戦国期の戦闘をよく描いている『軍記物』だが、登場してくる武将の名前が身近に感じられる。何故ならば、この布袋が岡城の城代館は自分の祖先の地でもあるからだ。史実とかけ離れて記述されている書物との指摘があるが、自分としては検証していくつもりだ。

                             《夢野銀次》

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堆肥つくりと風よけ―師走の菜園

015_2 図書館前に枯葉の入ったビニール袋が置いてあった。『ご自由にお持ちください』と書かれてあったので6袋持って帰って来た。埼玉農業大学公開講座で学んだ堆肥つくりをやってみようと決めた。まず堆肥つくりの器が必要。ホームセンターでベニヤ板と垂木を購入し90センチ四方の囲い作りから始めようとした。

 ところが近くの農家のお婆さんが、『家(うち)の畑でほったらかしてある草入れ容器、持って行ってくれよ』とお言葉があり、2個頂戴した。

009 以前使用していた容器より大きく頑丈にできているプラスチックの容器だ。

 堆肥つくりの材料は『枯葉、鶏糞、米ぬか、水』だ。米ぬかは売っている米屋さんを探し、7キロ購入した。枯葉は1個の容器に5袋入った。

 全部で10袋の枯葉を投入。その内4袋は早朝、自分で枯葉を図書館前に行き、かき集めた。

010  枯葉を容器に入れ、中に入り、足でかき回す。その後は鶏糞、米ぬかと水をかき回し、さらに再度、容器に入り、足で踏みつけながらかき回す。これを1袋単位行ない、10袋の投入を終えた。

012 枯葉のかき回しが終わったら、ビニールで覆い、重しの石を置く。

013 

 風で飛ばされないため、容器のふたにも石を置く。

 次の作業としては、来年の1月下旬に容器から今日入れた枯葉をすべて取り出し、かき回しを行う。まんべんなく枯葉に水がしみ通り、米ぬかの発酵を増長させていく必要からだ。これが肝心な作業だと心得ている。

 堆肥の完成は来年の7月頃。これで秋の野菜は自分で作った堆肥で行う予定となった。

007 この地方では、これから想像を絶するくらい強い北西の風が吹く。『赤城おろし』と言われている。

 そのため使用済みのビニール袋で風よけの壁を作った。どれだけ効果あるか分らない。

赤城おろしに負けない年を越すわが菜園なり。

     《夢野銀次》

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パニック障害からの再生―映画『阿弥陀堂だより』

515wc2qgsel_sl500_aa300_1  パニック障害を病んだ医師の妻を連れて帰郷した夫と、阿弥陀堂を守る老女や村人との交流、四季に包まれた自然の生活から妻が再生していく姿を描いた映画『阿弥陀堂だより』のDVDを図書館から借りて観た。 

  平成14年(2002年)10月に公開された映画だが、見落としていた映画だった。監督・脚本は黒沢明の晩年に助監督を務めた小泉隆史(たかし)、黒沢明の遺稿シナリオ『雨あがる』の監督をしている。原作は芥川賞作家で諏訪市で医師をしている南木佳士。 

  キャストは妻をつれて実家、信州飯山谷中村に帰郷する上田孝雄に寺尾聰、その妻でパニック病を病んだ医師の美智子02kaisetu_021_2に樋口可南子。孝雄の中学時代の恩師、幸田重長に田村高廣、その妻ヨネに香川京子。阿弥陀堂を守る老女、おうめに北林谷栄。喉の手術で声がでないが、おうめの語る言葉を『阿弥陀堂だより』として村の広報誌のコラムに書く娘、小百合に小西真奈美、可南子と共に小百合を治療する若い医師に吉岡秀隆が演じている。

   この作品は2003年の日本アカデミ-賞で作品・監督・脚本賞を受賞しているが、北林谷栄が最優秀助演賞を受賞し11_3ている。この時、北林谷栄は91歳の年齢で脚が悪く、歩くこともおぼつかない状態だったという。出演を快諾したのは、主演が劇団民芸創設時からの盟友、故宇野重吉の子、寺尾聰だったからだ。映画の中で、おうめの語る「年を取れば取るほど分らないことは増えてきましたが、その中でも― 、自分の長生きの原因が一番分らないことなんです」は北林谷栄だから語ることのできるセリフだと思った。雪が降る阿弥陀堂のそばで野沢菜を樽につけるシーンは、まさに迫真の演技で感嘆した。

 パニック障害とは強い不安を主な症状とする精神疾患のひとつとされている。映画に出てくるパニック発作の場面は、美しい夕焼けのなかを孝雄と美智子が二人で歩いている時に、突然のカラスの鳴き声におびえた美智子が、それをきっかけにして呼吸困難の発作を起こす場面。最初、心臓が悪いのかと思ったが、それがパニック発作だと後で分る。この映画を観たパニック障害の治療を行っている医師の貝谷久宣氏は『息をあらげる妻に優しく寄り添って身体を摩る孝夫の態度は、ごく自然な振る舞いでパニック障害の妻にとっては最高の伴侶であり治療者でもある』とし、さらにパニック障害者の病的心性の対極状態を田村高廣の演じる幸田重長の姿だと指摘している。

041_3 中学時代の恩師である幸田は自分が胃がんの末期状態であることを知りつつ、医療を拒否し、書に精魂を傾け、潔く死を受け入れるべく端正な日々を送っている。不治の病を慌てず騒がず天命として受け入れ、一日一日を自分流に精一杯生きる姿、それを凛として見守る妻(香川京子)をしっとりと見据えて描いている。

 「何ごとも大切なのは姿なのだ」と言い切るセリフはそのまま坂東妻三郎襲名を拒んで生涯を終えた俳優としての田村高廣に繋がる。「二十四の瞳」の皆が写っている写真を目が見えるように指で挿しながら級友の名前を挙げるシーン、勝新太郎と演じた「兵隊やくざ」でのインテリ有馬上等兵の演技など浮かんでくる。

05cast_041  映画の最初には宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」と夕暮に唄う子供たちの「夕焼け小焼け」のシーンが描かれている。死と向かい合う暗示でもある。そして都会の病院でパニック障害にかかる時の状況を若い医師に語る美智子。「私は300人以上の人たちの最期を看取ったの、(略)私はベッドのわきに座って、だんだん遠く浅くなっていくその人の呼吸を見ていたの。そして最後のひと呼吸が終わった時―。ビルの間から抜けてきた夕陽が部屋の中に差し込んで、私の体の中から何か大切なものが、その光の束に乗って出て行ってしまったの。その時、私の体から出て行ったのは―“気”なのよね、元気の気」、そして流産し、体調を崩す。「生きるエネルギーを死にすっかり吸いと取られちゃって、私は死のことしか考えなくなって、明日を楽観できなくなっていた」と語る。

  夫の実家の谷中村で週3日、診療所で診察する美智子。イワナを渓流で釣ったことから回復の兆しが生まれ、小百合(小西真奈美)の緊急治療から医者として自信を得ていく。幸田の最期を妻ヨネと共に看取る孝雄と美智子。幸田の体に夕陽が差し込み、床の間の一輪が映し出される。美智子の再生を意味する感動のシーンとなっている。村での診療所建築に加わることを決心する美智子。42歳での妊娠を喜び、村の中で積極的に生きていく、そして阿弥陀堂の前で写真を撮りあいながら笑う姿で映画は終わる。

 「“朝(あした)には紅顔(こうがん)夕べには白骨って、今をよく生きることが、よく死ぬってことかな。いやだわ、これは主人の受け売り」とパニック障害に罹った時の告白で語る美智子。

Amidaamidado11  「夕焼け小焼けで日が暮れて」の詞には西方浄土の思想があると言われている。「山のお寺の鐘が鳴る」は村を見下ろす山の高台にお寺はある。「お手々つないでみな帰えろう」は人間本来の帰るべきところに帰れというメッセージ。「カラスと一緒に帰りましょう」は帰るべきところに帰るのは人間だけではない、カラスも小鳥たちも一緒。「共生」の思想を唄っていると山折哲雄氏は「宗教の力」の中で指摘をしている。

Amidaamidado21   映画「阿弥陀堂だより」にでてくる新緑の美しい林、幻想的な夏の灯籠流し、ススキがなびく棚田の風景、千曲川の背にそびえる雪の山々などは穏やかで、優しい信州の四季を美しく描いている。観終わって、一番のセリフは「今をよく生きることがよく死ぬってことか」が自分に強いインパクトを与えてくれた映画だった。

 寺尾聰が語る「阿弥陀堂だより」の語り口が優しく響いてくるのは、上田孝雄を演じる俳優として円熟味を増してきた現れなのかな。宇野重吉をもう少し体を大きくしたような感じがした。そして、その語りは、宇野重吉に似て、ほのぼのとした情感を与えてくれている。

~雪が降ると山と里の境がなくなりどこも白一色になります

山の奥にあるご先祖さまたちの住むあの世と里のこの世の境がなくなって

どちらがどちらだか分らなくなるのが冬です

春 夏 秋 冬

はっきりしていた山と里の境が―

少しずつ消えてゆき 一年がめぐります

人の一生と同じなのだと この歳にして―

しみじみと感じます~

         『阿弥陀堂だより』より

 

                《夢野銀次》

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徳川家康による東国支配-宇都宮氏・結城氏の去就

  以前栃尾城見学の時、同行者のご婦人から聞かれた。「秀吉は何故、春日山から上杉景勝を会津に転封させたのかしら?」。その時は、秀吉の権力集中への政策の一環だろうと答えたことがあるが、それで良いのか、ずっと気になっていた。

Photo  下野の戦国末期から江戸初期の中で分らないことがいくつかある。
①400年続いた宇都宮氏の当主、国綱が慶長2年(1597)10月に秀吉により突然改易に処せられ備前岡山の宇喜多秀家に預かり、宇都宮氏が滅亡したこと。
②天正18年(1590)7月の小田原北条滅亡後に結城氏に家康の二男で秀吉の養子となっていた秀康が結城氏を継いだこと。
③家康の生存中、家康は皆川広照を絶対に許さなかったこと。大坂夏の陣に井伊家に陣借して参戦したにもかかわらず、どうしてなのか?
 11060883081_3 平成23年(2011)の10月に「中世関東武士の研究 下野宇都宮氏」が江田郁夫編者により戎光祥出版より発刊されている。下野宇都宮氏の歴史はそのまま東国武士の歴史でもあり、解明・課題点が多い。その中で、この書は今までの宇都宮氏研究の論点整理を、総論を含めて下野宇都宮氏について11人の著者で執筆されている大作書だ。第1部平安末期・鎌倉時代の宇都宮氏、第2部南北朝・室町時代の宇都宮氏、第3部戦国時代の宇都宮氏、第4部宇都宮氏の一族・家臣と、その時代情勢における宇都宮氏と「家中」「味方中」との関連での研究書となっている。

 この書の中で第3部にある江田郁夫執筆の「元亀期の宇都宮氏ー甲相同盟と宇都宮家中ー」と、市村高男執筆による「近世成立期東国社会の動向―結城朝勝の動向を中心として」の2点を関心深く拝読させて戴いた。

 元亀3年(1572)の正月、皆川俊宗による岡本宗慶を殺害して宇都宮城の占拠を「皆川俊宗の乱」と執筆者は名付け、俊宗の行動の背後に元亀2年甲相同盟により小田原北条氏による下野攻勢への対応として指摘をしている。親後北条方(皆川氏・壬生氏)対親上杉方(岡本宗慶)の宇都宮家中の主導権争いから、当主宇都宮広綱による味方中(佐竹・小山)と連携して皆川氏の攻城への攻略が古文書史料(『東州雑記』、『下野国旦那帳』、『佐竹文書』)などにて執筆されている。

 市村高男執筆による「近世成立期東国社会の動向」の中で、「豊臣秀吉の死後、徳川家康が政権の座を掌手したのはあくまでも歴史的結果であって、歴史的必然ではなかったとい点である」と執筆者は最後のまとめで指摘し、徳川家康による東国支配の究明課題の一つとしている。その動向の一環として結城朝勝のことを記述している。結城晴朝は結城氏の嫡子に宇都宮国綱の弟、朝勝を養継嗣として迎えていた。しかし、結城氏の系図から朝勝は抹殺され、晴朝の継嗣は家康の二男秀康となっている。その点について執筆者は天正18年(1590)の7月、秀吉による家康の関東転封の公式発表前に結城春朝と秀吉側とのやりとりに着目している。

Photo_2 著書の中で結城氏から秀吉への最初の使者として、これまでの多賀谷安芸守政弘ではなく、福井藩史『国事叢書』から水谷伊勢守勝俊の存在を究明し、そこから家康の関東転封をめぐり、結城氏の継嗣に秀康へとの画策があったことを指摘している。秀康が結城氏の継嗣になることは、秀吉とり豊臣政権による関東支配の基地として掌握できること。一方の家康にとっては、実子秀康が配置されるとすれば、関東における家康の地位が確固たるものになる。こうした思惑を背景に執筆者は家康と特別な関係である水谷勝俊を挙げている。どういう特別な関係なのか、自分にはわからないが、調べた範囲では結城氏の宿老であった水谷勝俊は関ヶ原の戦い以後は下館七万四千石の独立大名になっている。結城氏の存続を図るため、当主結城晴朝による秀康継嗣依頼という単純な構図ではなかったのだ。 秀康の結城氏継嗣は秀吉ではなく家康の画策として関東支配の一環としたとするならば、確かに頷ける着眼だ。秀康は福井松平氏の藩祖となり、松平春嶽を輩出するなど幕末明治維新を迎えるまでつづく。10年前、出張の帰り福井市歴史資料館を観て、初めて結城氏の系図であることを知った。

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  慶長2年(1597)10月の宇都宮国綱改易の理由として、①浅野長政の次男長重の宇都宮氏入嗣を拒否したこと、②所領高の過少申告が浅野長政の検地によって発覚したこと、③石田三成、浅野長政の二人から影響を受ける微妙な立場に立ちながら、内部統制を実現しえず内紛を起こしたことなどがあげられている。執筆者の市村高男氏は豊臣政権内部の東国支配を巡って、強硬派=集権派(石田、増田)と宥和派=分権派(徳川、前田、伊達)の派閥争いの結果として宇都宮改易を捉えている。
執筆の中で、藤木久志氏の指摘、『石田、増田氏等が、氏郷の死後徳川氏に接近した蒲生氏をつぶし、奥羽支配の拠点として注目されていた会津へ上杉景勝(石田らと結んでいる)を加増転封することによって、景勝を基本とした奥羽支配体制を形成しつつ、徳川氏へのにらみをきかせることをめざした』と引用し、これに対して徳川派の巻き返し策を展開させている。浅野長政を前面に立て、『佐竹文書』から石田派による蒲生氏の改易攻勢に対して、徳川派が石田派の佐竹・宇都宮氏をつぶして蒲生氏をその跡に配置しようとしたことを挙げている。徳川派による石田派への攻勢は関東から石田派の大名を完全に一掃し、東国支配における徳川氏の地位をより強化することを意味することとしている。

  結果として佐竹氏の改易は石田三成により免れたが、宇都宮氏は改易・滅亡した。関ヶ原の戦いにおいては上杉氏と佐竹氏の連合が成立した。その橋渡しとなったのが、結城氏を追われ、宇都宮改易後には上杉の在番衆となっていた結城朝勝の動向を記述している。朝勝は白河城に陣を敷き、小山・宇都宮に在陣する徳川方の結城秀康らと対峙した。最後に戦国末~近世初頭、秀吉死後における徳川家康による政権奪取は歴史的必然ではなく歴史的結果として、その歴史的要因を解明していくことが東国における近世成立の筋道を明らかにしていく必要があると結んでいる。

 この書を読み、宇都宮氏の改易と結城氏の継嗣問題の背景など、ある程度分ったような気がする。しかし、まだまだ胸に落ちない部分があり、今後は栃木県史・宇都宮市史・結城市史などで記述されている通史を読んでいかないといけないと思えた。石田派の宇都宮氏が存続していたならば、関ヶ原の戦いはあったのだろうか?家康政権はできなかった…?と、また“ならば”を想い浮かべてしまう。

 皆川広照と徳川家康の関係については、広照が織田信長・北条氏康・豊臣秀吉との関係を結ぶ際に家康が間に立っていること、広照が最終的に徳川氏の傘下になっていることなどを踏まえ今後の研究課題としていくつもりだ。

 

                       《夢野銀次》

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江戸小伝馬町牢屋敷跡―『吉田松陰』最期の地

010 地下鉄日比谷線『小伝馬町駅』の近くに『大安楽寺』がある。明治8年まであった江戸小伝馬町牢屋敷の跡地の敷地には誰も買い手がなく空地だった。明治政府は時の財閥の大物、大蔵喜八郎と安田善次郎に泣きつき、2人が購入し、寄進した。そのため寺院の名前が大蔵の”大”と安田の”安”をとり『大安楽寺』と命名した寺院が明治15年に建立された。

 慶長年間(1610年頃)から明治8年(1875)まで約260年間あった小伝馬町牢屋敷は現在の犯罪者の更生を含む刑務所と違い、未決囚を収監し、死刑囚を処断する施設でもあった。 

Rouyashiki181  敷地の広さは2677坪、その内の480坪は牢屋奉行を世襲していた石出帯刀の居宅があった。敷地の周囲は7尺1寸の塀を土手の上に築き、敷地の外周には堀をめぐらされ、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。左の地図の大安楽寺の記載地と下の外観図の右上端の処刑場と所在がかさなって見える。

 さらに敷地内は獄舎を塀で隔離していた。獄舎は身分によって区分けされていた。大牢と二間牢は庶民、揚屋(あがりや)はお目見以下の幕臣、大名の陪臣、僧侶、医師。他に女牢、百姓牢があった。牢内には牢名主を筆頭に12の役をもった囚人で自治制が敷かれ、牢役人ですら権限が及ばない世界とされていた。徳川の支配体制は農村では村請制度による名主を通しての支配など媒介制をとっての支配であり牢内支配もこれに準じている。

Rouyashiki241_3 牢獄には窓がなく風通しも悪く、日光も入らず内部環境は劣悪だったという。

 この小伝馬町牢屋敷の内部を描いたドラマで、TBSテレビドラマ『JIN-仁-』の第2部、2話~3話にかけて牢内が描かれている。小伝馬町牢屋敷を描いた映画やテレビドラマはあまりない。南方仁(大沢たかお)が皇女和宮にドーナツに毒(ヒ素)を持ったとして小伝馬町牢屋敷の大牢に放り込まれる。牢内ではツル(賄賂)が必需品、無い者は『作造り』と称しての殺される。南方仁が牢内で殺されかけられるシーンが出てくる。牢内の順列は畳の数で決まっており、お頭(牢名主)、添え役、穴の隠居(金庫番)、隅の隠居(囚人の出入りを見張る)、五器口座(食事の世話)などが映し出される。平囚人は一畳に4人が正座し、横になって寝ることができないことや、ムシロにくるまって囚人の死体をも映すシーンもでてくる。

009 さらにドラマの中では、南方仁は拷問を受ける。拷問杖にて打ちたたく『苔打』と三角形の十露盤板という台に坐わらせられ、膝の上に石が乗せられる『石抱』。この石抱の拷問では、江戸牢獄拷問実記の中で『石抱は、はじめ五、六枚も積めば、大抵の者は気絶するを以って、これにて、とどめ、なお白状せねば、日を隔て又拷問にかけ、一枚増やし、なお白状せねば又一枚を増やす。かく五枚積み、七枚積み、十枚積みて時を経れば、総身はことごとく蒼色(そうしょく)に変じ、口唇より泡を吐

き、012_6又は血を吐くに至る。なおひるまざる時は、下男左右より石を動かし、「さあ、どうだどうだ」と責めれば、脛(すね)の肉はめりめりと真木にくい込まれて、実に骨も砕くばかりで、その苦痛は大変なものだ』と壮絶なことが記述されている。

 小伝馬町牢屋敷からよれよれの状態で解放された時、咲(綾瀬はるか)は南方仁の身体を抱きしめ、「今夜、何が食べとうございますか」と聞く。「(豆腐の)揚げ出し」と答える南方。まさに『生きる』ことを描いたドラマだった。この『JIN-仁-』は現代から歴史を遡る視点で描いており、ドラマの中では史実を織り交ぜて描いており、歴史を通して現代の生について問い直すドラマとして観ていた。

 浅草小塚原に葬られた刑死者は20数万人と言われているが、牢死者が何人いたのか、不明だ。囚人から記した物がないからかもしれない。牢内処刑場跡地には延命地蔵菩薩が祀られている。台座には山岡鉄舟の筆になる「為囚死群霊離苦徳脱」と刻まれ、刑死者の霊を弔っている。

Uraga0541 幕末の政変に人材を育て、大きな影響を与えた吉田松陰は、この小伝馬牢屋敷に2度収容された。1度目は安政元年(1854)、再航した下田沖の停泊中のぺりー艦隊に乗船、密航の企てが失敗して収監され、長州の野山獄送りになる。2度目の安政の大獄での収容で、ここ小伝馬町牢屋敷が最期の地となった。

 吉田松陰の刑死についてはウイキペディア百科事典では、『やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。生涯独身であった。015獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”』と記述されている。

この辞世の句碑が小伝馬町牢屋敷跡地の十思公園の中にある。

 斬首の執行者は手練れの者しかできなかった。そのため「山田浅衛門」に代々引き継がれ、7代目が吉田松陰、橋本佐内を斬首した人物として知られている。身分は浪人だが、他に「試し斬」りもあり、それなりの収入があったされている。斬首される囚人は役人に両手を後ろから抑えられ、土を高く盛った壇の上に坐わり、頭を突き出され斬首される。最後に坐わされる壇のことを「土壇場」と言った。後に引けない追い込まれた状況のこととして、今も使っている言葉だ。

 それにしても、吉田松陰はなぜ自ら「死」を選んだのだろうか?もし、仮に吉田松陰がペリー艦隊に乗船し、アメリカに渡航し、アメリカやヨーロッパを見聞して帰国していたならば、日本の幕末、明治維新はどうなっていたのだろうか。晩年の過激な攘夷論者ではなく、世界的な視野で日本を考察し、指針を掲げた思想家になっていたことは確実だ。それは、勝海舟、横井小楠より一段高いレベルでの思想家となっていたと思う。幕末徳川が進めていた近代化路線と折り合い、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄端ら共に新しい日本を築きあげたのではないか。薩長閥による戊申戦争、明治初期の民権運動の弾圧などの陰険な政策とは違った近代化を日本は歩んだと思えてならないだ…。 

                         《夢野銀次》

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