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江戸小伝馬町牢屋敷跡―『吉田松陰』最期の地

010 地下鉄日比谷線『小伝馬町駅』の近くに『大安楽寺』がある。明治8年まであった江戸小伝馬町牢屋敷の跡地の敷地には誰も買い手がなく空地だった。明治政府は時の財閥の大物、大蔵喜八郎と安田善次郎に泣きつき、2人が購入し、寄進した。そのため寺院の名前が大蔵の”大”と安田の”安”をとり『大安楽寺』と命名した寺院が明治15年に建立された。

 慶長年間(1610年頃)から明治8年(1875)まで約260年間あった小伝馬町牢屋敷は現在の犯罪者の更生を含む刑務所と違い、未決囚を収監し、死刑囚を処断する施設でもあった。 

Rouyashiki181  敷地の広さは2677坪、その内の480坪は牢屋奉行を世襲していた石出帯刀の居宅があった。敷地の周囲は7尺1寸の塀を土手の上に築き、敷地の外周には堀をめぐらされ、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。左の地図の大安楽寺の記載地と下の外観図の右上端の処刑場と所在がかさなって見える。

 さらに敷地内は獄舎を塀で隔離していた。獄舎は身分によって区分けされていた。大牢と二間牢は庶民、揚屋(あがりや)はお目見以下の幕臣、大名の陪臣、僧侶、医師。他に女牢、百姓牢があった。牢内には牢名主を筆頭に12の役をもった囚人で自治制が敷かれ、牢役人ですら権限が及ばない世界とされていた。徳川の支配体制は農村では村請制度による名主を通しての支配など媒介制をとっての支配であり牢内支配もこれに準じている。

Rouyashiki241_3 牢獄には窓がなく風通しも悪く、日光も入らず内部環境は劣悪だったという。

 この小伝馬町牢屋敷の内部を描いたドラマで、TBSテレビドラマ『JIN-仁-』の第2部、2話~3話にかけて牢内が描かれている。小伝馬町牢屋敷を描いた映画やテレビドラマはあまりない。南方仁(大沢たかお)が皇女和宮にドーナツに毒(ヒ素)を持ったとして小伝馬町牢屋敷の大牢に放り込まれる。牢内ではツル(賄賂)が必需品、無い者は『作造り』と称しての殺される。南方仁が牢内で殺されかけられるシーンが出てくる。牢内の順列は畳の数で決まっており、お頭(牢名主)、添え役、穴の隠居(金庫番)、隅の隠居(囚人の出入りを見張る)、五器口座(食事の世話)などが映し出される。平囚人は一畳に4人が正座し、横になって寝ることができないことや、ムシロにくるまって囚人の死体をも映すシーンもでてくる。

009 さらにドラマの中では、南方仁は拷問を受ける。拷問杖にて打ちたたく『苔打』と三角形の十露盤板という台に坐わらせられ、膝の上に石が乗せられる『石抱』。この石抱の拷問では、江戸牢獄拷問実記の中で『石抱は、はじめ五、六枚も積めば、大抵の者は気絶するを以って、これにて、とどめ、なお白状せねば、日を隔て又拷問にかけ、一枚増やし、なお白状せねば又一枚を増やす。かく五枚積み、七枚積み、十枚積みて時を経れば、総身はことごとく蒼色(そうしょく)に変じ、口唇より泡を吐

き、012_6又は血を吐くに至る。なおひるまざる時は、下男左右より石を動かし、「さあ、どうだどうだ」と責めれば、脛(すね)の肉はめりめりと真木にくい込まれて、実に骨も砕くばかりで、その苦痛は大変なものだ』と壮絶なことが記述されている。

 小伝馬町牢屋敷からよれよれの状態で解放された時、咲(綾瀬はるか)は南方仁の身体を抱きしめ、「今夜、何が食べとうございますか」と聞く。「(豆腐の)揚げ出し」と答える南方。まさに『生きる』ことを描いたドラマだった。この『JIN-仁-』は現代から歴史を遡る視点で描いており、ドラマの中では史実を織り交ぜて描いており、歴史を通して現代の生について問い直すドラマとして観ていた。

 浅草小塚原に葬られた刑死者は20数万人と言われているが、牢死者が何人いたのか、不明だ。囚人から記した物がないからかもしれない。牢内処刑場跡地には延命地蔵菩薩が祀られている。台座には山岡鉄舟の筆になる「為囚死群霊離苦徳脱」と刻まれ、刑死者の霊を弔っている。

Uraga0541 幕末の政変に人材を育て、大きな影響を与えた吉田松陰は、この小伝馬牢屋敷に2度収容された。1度目は安政元年(1854)、再航した下田沖の停泊中のぺりー艦隊に乗船、密航の企てが失敗して収監され、長州の野山獄送りになる。2度目の安政の大獄での収容で、ここ小伝馬町牢屋敷が最期の地となった。

 吉田松陰の刑死についてはウイキペディア百科事典では、『やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。生涯独身であった。015獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”』と記述されている。

この辞世の句碑が小伝馬町牢屋敷跡地の十思公園の中にある。

 斬首の執行者は手練れの者しかできなかった。そのため「山田浅衛門」に代々引き継がれ、7代目が吉田松陰、橋本佐内を斬首した人物として知られている。身分は浪人だが、他に「試し斬」りもあり、それなりの収入があったされている。斬首される囚人は役人に両手を後ろから抑えられ、土を高く盛った壇の上に坐わり、頭を突き出され斬首される。最後に坐わされる壇のことを「土壇場」と言った。後に引けない追い込まれた状況のこととして、今も使っている言葉だ。

 それにしても、吉田松陰はなぜ自ら「死」を選んだのだろうか?もし、仮に吉田松陰がペリー艦隊に乗船し、アメリカに渡航し、アメリカやヨーロッパを見聞して帰国していたならば、日本の幕末、明治維新はどうなっていたのだろうか。晩年の過激な攘夷論者ではなく、世界的な視野で日本を考察し、指針を掲げた思想家になっていたことは確実だ。それは、勝海舟、横井小楠より一段高いレベルでの思想家となっていたと思う。幕末徳川が進めていた近代化路線と折り合い、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄端ら共に新しい日本を築きあげたのではないか。薩長閥による戊申戦争、明治初期の民権運動の弾圧などの陰険な政策とは違った近代化を日本は歩んだと思えてならないだ…。 

                         《夢野銀次》

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