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皆川・宇都宮激戦の山城―都賀町深沢『布袋が岡城』

Photo 布袋が岡(ほていがおか)城は栃木市都賀町深沢にあり、別名深沢城とも云われている。築城は天慶(938頃)の昔、藤原秀郷が築いたとされるが、廃城となり、永正年間(1504頃)皆川成勝が再興されたと、島遼伍監修の『栃木の城』に記述されている。

  この地は皆川氏にとって、東北は宇都宮氏一族の西方城、北は佐野氏傘下の粟野城と西北の尻内城があり、西南には吹上城を経て皆川城につづく要の城になっていた。天正16年(1588)3月に『皆川正中禄』『都賀町史』『栃木の城』には宇都宮国綱・佐竹義重による赤Photo_13津川を挟んでの布袋が岡城の攻城と城を守る皆川広照との戦闘・落城が記述されている。

 『城跡は標高210メートルの山城で東西二丁三十間(約270メートル)、南北二十三間(約41メートル)、土塁を以って囲み、一方隆起して物見櫓のありし如き遺跡を存せれり』と栃木県誌に説明がある(都賀町史より)。城跡は私有地のため、東側より入ることができず、西の麓にある『花の木』事務所より頂上に登ることができた。頂上にある本曲輪の跡地のそばには中世の城の特徴でもある『磐座(いわくら)』の跡地あった。というより磐座がそのまま残っている状態だと私には見えた。

Photo_11本曲輪の周りには土塁が残っており、そこから西北から東北にかけて藪を通して眺めることができた。
 地図の東側には幾段かの腰曲輪(こしくるわ)が見られるが、残念ながら頂上から降りてこの曲輪を見ることができなかった。Photo_16
  布袋が岡城は南北朝から室町初期にかけて築城された山城の特徴を持っている。 本曲輪から南に尾根つづきの曲輪(平場)があり、堀切を用いて仕切り、曲輪を分けている。痩せ尾根式の山城築城法だ。尾根伝いを仕切る堀切や竪堀を見ることができた。Photo_14

 これより前の天正13年(1585)3月、皆川広照は佐野氏を含む小田原北条方に太平山から攻め込まれるなど激しい戦闘(草鞍山の戦い)の結果、北条方と和睦をした。徳川家康が佐竹義宣を仲介として北条氏政を説得し和睦させたとしている。家康にとり対秀吉への対抗措置として北関東の防御安定することを重点としてものと考えられている。広照と家康の関係は、家康が広照を信長への仲介したところから始まるといわれ、以後、親密で不思議な関係へと発展していく謎の多いところだと思える。

 小田原北条との和睦により皆川広照は小田原北条に占拠されていた布袋が岡城が返還された。このことにより粟野城方面にむけて拡張を進め、天正14年には宇都宮城を攻めたと記されている(都賀町史)。Photo_15                                    すでに天正13年(1585)には下野の南部の小山氏・壬生氏・皆川氏・佐野氏等の豪族は小田原北条氏の傘下となってしまっている。そのため宇都宮国綱は小田原北条に対して防御を固めるため、同年の9月に平城の宇都宮城から山城の多気山城に本拠を移している。この多気山城がこれ以降、慶長2年(1597)の宇都宮改易まで宇都宮国綱の本拠の城となっている。

 宇都宮国綱の対小田原北条への危機意識が天正16年3月の皆川広照・布袋が岡城への攻撃となる。かつて、大永3年(1523)川原田合戦。広照の父、皆川俊宗による元亀元年(1570)の宇都宮乗っ取り事件「皆川俊宗の乱」。その反撃としての元亀3年(1572)12月~翌年3月にかけての宇都宮・佐竹連合による皆川方10城への落城攻撃。天正13年8月、小倉川(現在の思川)と名が変わる「黄瀬川の合戦」と宇都宮と皆川の戦いは60年余りつづいてきた。ある時は味方、ある時は敵対関係など近親憎悪にも似た関係になっていた。017_2 そして、布袋が岡城が落城する天正16年(1588)3月の最後の攻城戦。

 『皆川正中禄』(考註・日向野徳久)によれば、寄せ手の宇都宮・佐竹勢九千騎、守る籠城の皆川勢は二千五百騎。西方城に後詰めを置いた宇都宮国綱は赤津川の東側ほとりにある神楽岡城から西方勢を先頭に二千五百騎。北の真名子から紀清両党三千騎。東の富張から佐竹義重三千騎が一斉に攻めるとの記述がある。とりわけ布袋が岡城と赤津川の間のある底なし田における戦闘は激しく、死人は山をなし、この血が滝川のような川原に流れだし川は血に染まった。このことから、この川を赤津川となったこと。さらに宇都宮、佐竹の連合軍は一気に布袋が岡城に攻め登り、一斉に火矢を打つ込み、城はたちまち火に包まれ落城したと『栃木の城』にも記述がされている。落城の後、小田原北条の支援があるとし、宇都宮勢は本城の皆川城を攻めることなく、撤退している。003_5
   戦国時代に下野は一つの国に結合することができなかった。このことが宇都宮と皆川の最後までの戦いとなっていってしまっている。宇都宮氏・小山氏と鎌倉以来の名門の豪族がいたにも関わらず。やがて古河公方・上杉・北条の攻防から関東支配をめぐり、下野一国の争いから秀吉と家康による天下覇権の流れとなってきていた。天正16年のこの『布袋が岡城攻防』は実際にあったかどうか、私としてはまだ確証を得ていない。しかし『皆川正中禄』を読み、皆川氏のような小国の領主が自立した領国にしていくためには、古河公方から上杉・宇都宮へ寄り、そして小田原北条の傘下になるなどして生き延びる方策を取らざるを得なかったことが分かる。

  この皆川正中禄は最期に徳川の家臣となっていく皆川氏の姿と戦国期の戦闘をよく描いている『軍記物』だが、登場してくる武将の名前が身近に感じられる。何故ならば、この布袋が岡城の城代館は自分の祖先の地でもあるからだ。史実とかけ離れて記述されている書物との指摘があるが、自分としては検証していくつもりだ。

                             《夢野銀次》

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