« 江戸小伝馬町牢屋敷跡―『吉田松陰』最期の地 | トップページ | パニック障害からの再生―映画『阿弥陀堂だより』 »

徳川家康による東国支配-宇都宮氏・結城氏の去就

  以前栃尾城見学の時、同行者のご婦人から聞かれた。「秀吉は何故、春日山から上杉景勝を会津に転封させたのかしら?」。その時は、秀吉の権力集中への政策の一環だろうと答えたことがあるが、それで良いのか、ずっと気になっていた。

Photo  下野の戦国末期から江戸初期の中で分らないことがいくつかある。
①400年続いた宇都宮氏の当主、国綱が慶長2年(1597)10月に秀吉により突然改易に処せられ備前岡山の宇喜多秀家に預かり、宇都宮氏が滅亡したこと。
②天正18年(1590)7月の小田原北条滅亡後に結城氏に家康の二男で秀吉の養子となっていた秀康が結城氏を継いだこと。
③家康の生存中、家康は皆川広照を絶対に許さなかったこと。大坂夏の陣に井伊家に陣借して参戦したにもかかわらず、どうしてなのか?
 11060883081_3 平成23年(2011)の10月に「中世関東武士の研究 下野宇都宮氏」が江田郁夫編者により戎光祥出版より発刊されている。下野宇都宮氏の歴史はそのまま東国武士の歴史でもあり、解明・課題点が多い。その中で、この書は今までの宇都宮氏研究の論点整理を、総論を含めて下野宇都宮氏について11人の著者で執筆されている大作書だ。第1部平安末期・鎌倉時代の宇都宮氏、第2部南北朝・室町時代の宇都宮氏、第3部戦国時代の宇都宮氏、第4部宇都宮氏の一族・家臣と、その時代情勢における宇都宮氏と「家中」「味方中」との関連での研究書となっている。

 この書の中で第3部にある江田郁夫執筆の「元亀期の宇都宮氏ー甲相同盟と宇都宮家中ー」と、市村高男執筆による「近世成立期東国社会の動向―結城朝勝の動向を中心として」の2点を関心深く拝読させて戴いた。

 元亀3年(1572)の正月、皆川俊宗による岡本宗慶を殺害して宇都宮城の占拠を「皆川俊宗の乱」と執筆者は名付け、俊宗の行動の背後に元亀2年甲相同盟により小田原北条氏による下野攻勢への対応として指摘をしている。親後北条方(皆川氏・壬生氏)対親上杉方(岡本宗慶)の宇都宮家中の主導権争いから、当主宇都宮広綱による味方中(佐竹・小山)と連携して皆川氏の攻城への攻略が古文書史料(『東州雑記』、『下野国旦那帳』、『佐竹文書』)などにて執筆されている。

 市村高男執筆による「近世成立期東国社会の動向」の中で、「豊臣秀吉の死後、徳川家康が政権の座を掌手したのはあくまでも歴史的結果であって、歴史的必然ではなかったとい点である」と執筆者は最後のまとめで指摘し、徳川家康による東国支配の究明課題の一つとしている。その動向の一環として結城朝勝のことを記述している。結城晴朝は結城氏の嫡子に宇都宮国綱の弟、朝勝を養継嗣として迎えていた。しかし、結城氏の系図から朝勝は抹殺され、晴朝の継嗣は家康の二男秀康となっている。その点について執筆者は天正18年(1590)の7月、秀吉による家康の関東転封の公式発表前に結城春朝と秀吉側とのやりとりに着目している。

Photo_2 著書の中で結城氏から秀吉への最初の使者として、これまでの多賀谷安芸守政弘ではなく、福井藩史『国事叢書』から水谷伊勢守勝俊の存在を究明し、そこから家康の関東転封をめぐり、結城氏の継嗣に秀康へとの画策があったことを指摘している。秀康が結城氏の継嗣になることは、秀吉とり豊臣政権による関東支配の基地として掌握できること。一方の家康にとっては、実子秀康が配置されるとすれば、関東における家康の地位が確固たるものになる。こうした思惑を背景に執筆者は家康と特別な関係である水谷勝俊を挙げている。どういう特別な関係なのか、自分にはわからないが、調べた範囲では結城氏の宿老であった水谷勝俊は関ヶ原の戦い以後は下館七万四千石の独立大名になっている。結城氏の存続を図るため、当主結城晴朝による秀康継嗣依頼という単純な構図ではなかったのだ。 秀康の結城氏継嗣は秀吉ではなく家康の画策として関東支配の一環としたとするならば、確かに頷ける着眼だ。秀康は福井松平氏の藩祖となり、松平春嶽を輩出するなど幕末明治維新を迎えるまでつづく。10年前、出張の帰り福井市歴史資料館を観て、初めて結城氏の系図であることを知った。

 Img_1204911_34151948_12
  慶長2年(1597)10月の宇都宮国綱改易の理由として、①浅野長政の次男長重の宇都宮氏入嗣を拒否したこと、②所領高の過少申告が浅野長政の検地によって発覚したこと、③石田三成、浅野長政の二人から影響を受ける微妙な立場に立ちながら、内部統制を実現しえず内紛を起こしたことなどがあげられている。執筆者の市村高男氏は豊臣政権内部の東国支配を巡って、強硬派=集権派(石田、増田)と宥和派=分権派(徳川、前田、伊達)の派閥争いの結果として宇都宮改易を捉えている。
執筆の中で、藤木久志氏の指摘、『石田、増田氏等が、氏郷の死後徳川氏に接近した蒲生氏をつぶし、奥羽支配の拠点として注目されていた会津へ上杉景勝(石田らと結んでいる)を加増転封することによって、景勝を基本とした奥羽支配体制を形成しつつ、徳川氏へのにらみをきかせることをめざした』と引用し、これに対して徳川派の巻き返し策を展開させている。浅野長政を前面に立て、『佐竹文書』から石田派による蒲生氏の改易攻勢に対して、徳川派が石田派の佐竹・宇都宮氏をつぶして蒲生氏をその跡に配置しようとしたことを挙げている。徳川派による石田派への攻勢は関東から石田派の大名を完全に一掃し、東国支配における徳川氏の地位をより強化することを意味することとしている。

  結果として佐竹氏の改易は石田三成により免れたが、宇都宮氏は改易・滅亡した。関ヶ原の戦いにおいては上杉氏と佐竹氏の連合が成立した。その橋渡しとなったのが、結城氏を追われ、宇都宮改易後には上杉の在番衆となっていた結城朝勝の動向を記述している。朝勝は白河城に陣を敷き、小山・宇都宮に在陣する徳川方の結城秀康らと対峙した。最後に戦国末~近世初頭、秀吉死後における徳川家康による政権奪取は歴史的必然ではなく歴史的結果として、その歴史的要因を解明していくことが東国における近世成立の筋道を明らかにしていく必要があると結んでいる。

 この書を読み、宇都宮氏の改易と結城氏の継嗣問題の背景など、ある程度分ったような気がする。しかし、まだまだ胸に落ちない部分があり、今後は栃木県史・宇都宮市史・結城市史などで記述されている通史を読んでいかないといけないと思えた。石田派の宇都宮氏が存続していたならば、関ヶ原の戦いはあったのだろうか?家康政権はできなかった…?と、また“ならば”を想い浮かべてしまう。

 皆川広照と徳川家康の関係については、広照が織田信長・北条氏康・豊臣秀吉との関係を結ぶ際に家康が間に立っていること、広照が最終的に徳川氏の傘下になっていることなどを踏まえ今後の研究課題としていくつもりだ。

 

                       《夢野銀次》

|

« 江戸小伝馬町牢屋敷跡―『吉田松陰』最期の地 | トップページ | パニック障害からの再生―映画『阿弥陀堂だより』 »

歴史・郷土史の書籍」カテゴリの記事

コメント

 結城家に秀康が養子として入る一連の流れに水谷雅俊が関連している件ですが、自分が調べたところではこんなバックボーンがあるようです。
 結城家の家老格にあった水谷氏は、主家とは別に徳川家康とよしみを通じ、天正10年に水谷正村が甥にあたる皆川広照と共に、家康の仲介により、信長と対面するため上京しましたが本能寺の変がおき、やむなく断念。しかし、このことにより、家康との関係は深まったようです。正村の弟である雅俊は外交で活躍しており、家康の重臣たちとひんぱんに文書のやりとりをしていたようです。
 この時期水谷氏は主家・結城家の同盟者である後北条との関係破棄を考えていたようで、それをけん制する後北条側の動きもあったようです。下館城下の薬師寺跡には「北条のスパイとして処刑された僧侶の墓碑」が残っており、後北条側が水谷氏の動性を観察していたことを窺われます。
 さらに落穂集には正村が「家康関東入りの際はわが主君(結城晴朝)をして、馬の口を取り、その案内役にいたしましょう」と家康に述べていたという記述もあります。
 結城家の安泰と自家の生き残りを家康にかけた水谷氏と、東国支配に礎に関東の名家とのむすびつきを求めた家康の目的はけっこう早い時期からむすびついていたのではないでしょうか?
 この後、水谷氏は関が原、大阪夏の陣などでもまるで徳川の譜代大名のように活躍します。さらに勝宗の時代には正式に譜代大名として認められたようです。

投稿: こうじ | 2011年12月12日 (月) 15時58分

こうじさんコメントありがとうございました。結城氏と家康の関係、水谷氏を通しての見解、大変参考になりました。下館市には一度行ってこようと思っています。薬師寺跡と合わせて『加波山事件』のことも気になるもので。

投稿: 銀次 | 2011年12月14日 (水) 06時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1233525/43285856

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康による東国支配-宇都宮氏・結城氏の去就:

« 江戸小伝馬町牢屋敷跡―『吉田松陰』最期の地 | トップページ | パニック障害からの再生―映画『阿弥陀堂だより』 »