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2012年1月

出流天狗・栃木宿の戦闘―長谷川伸『相楽総三とその同志』より

014  栃木市室町にある「うずま公園」の室町駐車場の中央に『西山謙之助供養塔』が建立されている。

  その場所は慶応3年(1867)12月11日の夕刻、薩摩下野糾合隊(出流天狗)と栃木陣屋ならびに関八州取締出役渋谷鷲郎率いる幕軍(農兵)との戦闘で西山謙之助らが討死にした出流天狗党の遺骸を埋めた地である。

  江戸期には斃馬(へいば)の捨て場と乞食小屋があった所でもある。今は有料駐車場になっているが、それ以前は栃木県下都賀出張所庁舎があった。日向野徳久著『栃木市の歴史』の中では昭和35年、この庁舎の職員が浄財を募り、供養碑を建立したことの記述がある。

  長谷川伸の『相楽総三とその013同志』(昭和18年刊)ではこう記述されている。

 「九ツの死体をセドの原の一つ穴へ棄て葬(とむら)ひにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴に投げ込むことを(栃木)宿のものは“ぼっこみ”といった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る。それをほうり込んだ處である。後代になってその場所に近く郡役所が建つので、地盛りのため、そこから要るだけの土を掘り取った。処が、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑の近くから、人の骨が出てきたので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、堀った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した所だけが中の島の如くなった。そこが、九人の戦死者を“ぼつこみ”(投げ込み)した地点である」

  現在も供養塔が建っているが、市の観光案内パンフには載っていない。その先のうずま川べりには馬頭供養碑が今も建立されている。

 栃木宿戦闘で出流天狗党の討死者は長谷川伸の書では9人としているが、実際は6人ではなかったのではないかと思えるが確証はない。それにしても長谷川伸の「相楽総三とその同志」は003_2凄い。読んでて背筋が寒くなってくるほどの作品だ。

   野口武彦は『江戸は燃えているか・赤報隊哀歌』の中で、『相楽総三とその同士』を「金字塔的な名作、今もって誰にも越えられない仕事である」とし、「多年にわたる史料蒐集の結晶であるこの大著は、主人公はじめ参加メンバーの伝記を丹念に掘り起こし、専門幕末史家の研究書でも参照されているくらいだ」と絶賛し、続けて「何よりも対象に深い愛情が向けられている。「自序」に『相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑された関東勤王浪士と、その同志でありまた同志であったことのある人々のために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を、「紙の記念碑」といい、「筆の香華」と私はいっている』とある一文に万感が籠められている」と惜しみなく絶賛をしている。

 その通りの作品だと思う。今回、昭和18年発刊の古くなった書物を初めて読んだ。それは小説というより歴史叙述書だった。
016  慶応3年(1876)11月下旬、薩摩藩邸を出立した竹内啓(ひらく)を隊長とした浪士一行は11月27日に栃木宿、脇本陣『旅籠押田屋』に投宿した。

 3・40人が千住の関を通過する名目として『島津藩主、夫人の出流山千手観世音の願ほどきの代参』としていた。12名の投宿を受けた押田屋はすぐさま200メートル先の足利藩栃木陣屋奉行の善野司に通報した。

  翌28日に鍋山村を目指す一行には密偵が付けれてた。薩摩藩邸糾合所では江戸周辺の三か所で争乱を起こし、討幕戦闘のきっかけを作る戦略が練られた。その1つが鍋山村出流山満願寺擧兵となった。

  千住の関を無事に通過するための願ほどき代参が大きな理由となって出流鍋山村が選定された。何故、願掛けが出流千手観音なのかと疑問があった。しかし、鍋山村を含む近辺の寺尾・梅沢・小曾戸・門沢等は鎌倉以来、島津一族であったことが分かり、江戸期においても鍋山近辺と薩摩島津家とは交流があったのではないか思うようになった。その史料はない。わたしの勝手な推測だ。

021  鍋山村に宿泊した翌日の11月29日の朝、11 人は出流山満願寺前にて『徳川幕府を討たずして皇政復古はならず攘夷を実行せずしては我が日本危うし』との討幕挙兵の声明文を読み上げた。

 一行に付いてきた村の人夫達は『これは4年前の水戸天狗党騒ぎの再来だ』と驚き、以後『出流天狗』と言われることになる。

  栃木到着前から別働隊による同志の募りで150人規模となってきた。こうなると服装・食糧・武器購入のための資金調達の動きを強めていくことになる。近隣住民からの強圧的な資金徴収の通報もあり、栃木陣屋奉行の善野司は関八州に討伐を要請した。

  資金調達が思うようにはかどらない。そのため高橋亘を頭に3人が鍋山村から栃木宿押田屋に止宿し、栃木陣屋に三千両の借用を迫る交渉を始めた。陣屋奉行善野司はこの栃木宿から出流天狗を追い払うことを第一義的に考え、討伐は幕府軍に任せることを念頭に、のらりくらりの談判応対し討伐準備を進めていた。

007  陣屋との談判が進まないため鍋山村本部の竹内啓らは国定忠治の子息、大谷刑部國次を道案内に西山謙之助・田中光次郎らを栃木宿へ差し向ける。

  12 月11日の夕刻、西山一行は乗馬にて幸来橋(念佛橋)の先端にある木戸に到着。閉まっている木戸の門扉を開けさせるところから栃木宿の戦闘がはじまるという長谷川伸『相楽総三と同志』。

  槍を振り回す乗馬の西山謙之助は鉄砲にて討死。その後は押田屋止宿組との戦闘となる。その描写は乗馬して槍をふるう西山に対して取り囲む捕り方の銃砲など随所に迫力ある描写で圧巻である。

  ただ、長谷川伸が史料とした館林藩士藤野金太郎近昌『野州岩舟山浪人追悼聞取書』では幸来橋の戦闘はなく、二組が押田屋で合流しての戦闘と記述がある。また黒崎家文書「慶応記事」(栃木市史記載)では幸来橋の戦闘の記述があり、4人の死亡があるが、間違って、捕り方の一人が討たれ死にされたとの記述がある。小説と史実の違いなのか分らないが、いずれにしても長谷川伸の戦闘描写は迫力があり凄い。

029   栃木陣屋奉行善野司は討伐にあたり、“出流天狗”は“浮浪の士”と位置付けをして、討伐を農兵(鉄砲)の関八州澁谷鷲郎部隊を主力にしている。町方に雨戸閉めさせる。要所に町の警備者(町兵・自警団)を待機させる。町年寄には防火対策を指示している。

  これらは4年前、元治元年(1864)6月6日の水戸天狗党・田中愿蔵による「栃木町焼打ち事件・愿蔵火事」を教訓にしての対策をしていたことが分かる。「愿蔵火事」の時に善野司は栃木陣屋を留守にしていたのだ。

  薩摩藩邸での糾合所会議で「愿蔵火事」における栃木町の住民の怒りを知っていたならば、出流鍋山村を選定しなかった筈だ。善野司の書き記した文書があれば、もっと正確なことが分かるかと思える。

  この栃木宿戦闘においてに高橋亘と大谷刑部は鍋山村に逃げることができたが、12月12日から13日の岩船山戦闘で出流天狗は壊滅する。

Kinchakusan011    栃木市の郊外に80メートルの小高い山、錦着山がある。

  山頂にある護国神社は初代県令鍋島貞幹が、明治12年(1879)に戊辰西南両役における戦死者を祀り、建立したもので燈台は日露戦争の勝利を記念して建てられた。周辺にたくさんあったという古墳塚を崩して錦着山を作ったとされている。わたしの小学生の頃の遠足地であり、当時は山の南側の崖に防空壕の残骸跡、2ツの穴があり遊んだ記憶がある。

 山頂社殿の脇、西側に西山謙之助の供養碑が建立されている。岐阜県美濃、久々利村から同所の千村兵右衛門に仕えた後、江戸に出て剣は齋藤彌九郎の道場、学は平田鐵胤の下で学んだ。

 004 西山が野州に出立する時に親に送った永訣の手紙「西山尚義遺書」は丸山梅夫(本名:丸山久成)により明治2年に刊行されたと「相楽総三とその同志」に記されている。

  あわせて錦着山頂社殿脇にある「西山謙之助供養碑」を建立したのが丸山梅夫と指摘している。「目で見る栃木市史」には供養碑の紹介はあるが、何時誰が建立したかの記載はない。

  「相楽総三とその同志」によれば、丸山梅夫は信州上田、房山村の大庄屋の生まれで義兄が薩摩糾合所浪士隊大監察の齋藤謙助。丸山梅夫は出流天狗潰走の後、赤報隊官軍先鋒、嚮導隊(きょうどうたい)で追分宿において上田藩に捕獲された。翌年、明治元年8月に釈放後、上田市で銀行家として町の発展に尽くした。

  幕末の時代のうねりの中で使い捨てされてきた勤王の志士、草莽の士などは変名や偽名が多いことから史実として明らかにしていく作業は困難を伴うし、大変なことだ。歴史に埋もれた幕末草莽の志士たち。その解明を続け、甦らせる。一つ一つやっていく以外にない分野だと改めて思う。

                              《夢野銀次》

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上州太田七福神―呑龍様と新田氏ゆかりの地

036 江戸時代七福神巡りは一気にメジャーな民間信仰として地位を築いた。その一説には徳川家康の天下統一は神仏の加護によるとし、その神仏とは長寿=寿老人、富財=大黒天、人望=福禄寿、正直=恵比寿、愛敬=弁財天、威光=毘沙門天、大量=布袋、を指している。これら七福神を拝せば、七福神の七つの福徳を体得できる。それも一年の始りにお参りするところから功徳が得られるということから七福神信仰が生まれたという。しかし、どうも家康が人心を鎮める行政の一環として大名・庶民に広めたからだという説があり、政治と神仏の結びつきが見えてしまい、覚めた気持ちもある。

039  群馬県上州太田市の『七福神』は寿老永福寺・太田市東金井町)、布袋尊さざえ堂・太田市東今泉)、福禄寿王厳寺・太田市東金井町)、大黒天受楽寺・太田市金山町 )、恵比寿長念寺・太田市本町)、毘沙門天金龍寺・太田市金山町 )、弁財天大光院・太田市金山町)となっており、新田一族ゆかりのお寺が多いのも特色だ。群馬県太田市は中島飛行機、富士重工、スバルの街としても広く全国に知られている。

002 

 曹源寺『さざえ堂』の本堂は寛政5年(1792)に建てられ、外見は二階建てに見えるが内は三階建てになっている。堂内を回廊式に回って歩くところから『さざえ堂』と言われている。堂内の回廊には、一階が秩父三十四観音、二階が坂東三十四観音、三階が西国三十三観音の計百札所の観音が祀られている。さざえ堂を一巡すれば百箇所の札所を巡ったことになる。

  『さざえ堂』の参道の踏石は西国・坂東・秩父百観音霊場からの御砂を埋めており、御砂踏参道を踏んで歩くことにより、百観音霊場を巡礼したのと同じ功徳が得られると案内パンフに記載されている。屋根瓦には新田氏の大中黒紋が施されている。『施無畏(せむい)』の額は掲げられていなかった。受付の住職に尋ねたら『?』だった。宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、『南ニ死ニソウナ人アレバイッテコワガラナクテモイイ』にあるように、死ぬ怖さ畏れを観音菩薩が心の中に現れ救うという、観音経の教えがある。これだけの規模の観音堂だから何故掲げないのか分からない。

019   金龍寺は新田家由良氏の菩提寺で、本堂の裏に新田家由良氏累代の墓所と正面高台に新田義貞の供養塔(太田市重要文化財)があるまた、一説には、金山城主であり、新田氏族であった岩松満純が、越前の慈眼寺を開いた天真自性を呼び、義貞追善のために建立したのが始まりといわれている。新田義貞の遺骸を越前の称念寺(福井県坂井市丸岡町)から、この金龍寺に運んで、改葬して大法要を行ったといわれているが、本当かどうか不明だ。

元弘三年(1333)5月8日、百五十騎で新田庄『生品神社』で鎌倉幕府北条氏討伐の旗挙げし、延元三年・建武五年(1338)閏7月に討死にするまで波乱の5年間。新田義貞はこの太田市新田庄に帰ることがなかった。そのことを偲び供養塔として観た方が無難だ。

71_2 灯明寺畷から藤島城に向かう途中の泥田で新田義貞は、《太平記》で楠正成をして、『宇都宮ハ坂東一ノ弓取リナリ』と驚嘆させた宇都宮家の一門、氏家重国の弓にて眉間を射られ討死にした。氏家重国は氏家一門からの分家の分家で、芽がでないことから奥羽州探題大崎家兼のもとに移っていた。新田義貞を討ち取った功により足利尊氏から美濃国石津郡高須、沢田、一の瀬の領地を得ることができた。10年以上前、出張の帰り、福井市にある藤島神社に参拝し、新田義貞の兜を観てきたことを思いだした。

044 大光院は慶長18年(1611)、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために、開かれた浄土宗のお寺。開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられた。本堂への山門には元和元年(1615)に建立された吉祥門(きっしょうもん)がある。この山門が上棟された日に大阪城が落城し、徳川方にとってめでたく記念すべきことであったので家康により吉祥門と名付けられたという。

Photo   大光院に入山した呑龍上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えた。

 しかし、一方では乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていた。そのため捨て子や間引きなどが横行していた。呑龍上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺 に受け入れ、寺の費用で養育した。このため、大光院と025_2いう寺院名より『子育て呑龍さんのお寺』として馴染み深いお寺として知れ渡っている。

 子供たちを養育した学堂跡の建物が本堂手前の左側にあった。若い住職が指さして示した建物は今にも崩れそうで、物置とも思えた。この建物が子供たち養育の学堂跡地だったならば、市の教育委員会の方で保存を考えるべきだと思う。

 子供のころに一度、呑龍さんにお参りに来ている。その時は参道のおみやげ店など活気があったような記憶がある。今回はシャッターの閉まっている参道になってしまっていたのが残念。今度太田市に来る時は、高山彦九郎記念館、高山神社、そして金山城を観る。

               《夢野銀次》

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太平山連祥院六角堂―水戸天狗党とウナギ

004_2   元治元年(1864)3月27日、筑波山にて天狗党と呼ばれる水戸藩尊王攘夷派67名が『尊王攘夷実行』を叫び蜂起した。4月3日に170人となった天狗党は日光を目指し下山した。しかし、宇都宮藩と協力呼びかけなど折衝する内、日光は盤石な防御となってしまった。そのため、一行は軍事的要点を備えた太平山を仮の根拠地として、関東の諸藩に働きをかけ、参加を促すことし、日光から太平山を目指した。
  太平山は栃木市内より西に車で15分の所に関東平野を一望する343メート
002_3ルの小高い山だが歴史ある山でもある。山の頂上付近には1200の石段を登った所に太平山神社がある。今から約二千年前の垂仁天皇時代に社が造られたという非常に古く、山岳信仰の霊場としても多くの信仰を集めていた。平安初期には第53代淳和天皇により『日・月・星』の御神徳を現す三座の神様をお祀りするため現在地に造営されたものだ。

 川島正雄著「蔵のまちとちぎと太平山-その歴史と自然と文学碑-」によれば天長4年(827)に入山を拒否されていた円仁(慈覚大師)は淳和天皇の勅額を奉じることで入山し、太平山神社本殿の手前下に寺院連祥院を創建したと記述している。神仏混合として信仰を集めてきたが、明治元年の神仏分離令により太平山における仏閣、寺院、別当所は破棄された。明治38年に有志者により京都の六角堂を模して連祥院本堂が現在の太平山神社山道入口に建立された。大平山全体が霊山となっているのではないかと思える。

046 『わたしのお祖母さんの話ですけど、この近辺にお嫁に来る時の花嫁衣裳につるの絵柄があった場合、そのつるの口ばしを糸で結んでしまうの。このつるはウナギを食べませんという意味で』と六角堂の巫女さんが話してくれた。連祥院の本尊は記憶力を拡大させてくれる『虚空菩薩』。虚空菩薩のお使いがウナギなのだ。そのため、この太平山近辺の人々はウナギを食べないという風習が根強く残っている。

 六角堂の向拝の鐘の上にウナギの彫刻がある。『全国でも珍しと言って、写真を撮っていく人が多いですよ』と住職が語ってくれた。

011  水戸天狗党は4月14日に太平山に到着し、山の中腹にある連祥院別当所を本陣とした。水戸斉昭公の神位を祭り、葵の幕を張りめぐらしすと共に大砲三門を備え、銃、槍等の武器を飾り立てた。山下の栃木口・富田口・皆川口には見張り木戸番所を設け、昼夜厳重に警備した。山内の寺院や謙信平の茶店などを宿坊とした。そして近辺の村々、富豪商家への軍資金の徴収を強圧的に進めた。

 天狗党の首将は水戸奉行の田丸稲之衛門だが実際の指揮は藤田東湖の4男、藤田小四郎23歳だった。 

014_2藤田東湖は「農民そのもの、下級武士を直視し、これらを養成組織化する」ことを観点としていたが、藤田小四郎ら幹部の挙兵には「農民のための世直し」という視点がなかったのではないかと思える。

 天狗党の解体、説得にきた水戸藩目付山田兵部共昌らは説得に応じないことから「筑波山に帰って天下に号令せよ」という策を与えた。天狗党は下山を決め、筑波山を目指すことを決める。天狗党への参加者は増加し、四百人の部隊となっていた。中には「四民一和」「農民の味方」「討幕」等で参加した者が多かったが水戸藩内部での決着をはかる方向にもなっていった。そのことが、6月6日の栃木町焼打事件『愿蔵火事』を生む要因にもなった。

035_2 6月2日に栃木町定願寺を本陣として水戸天狗党は筑波山を目指し、1月半滞陣した太平山、栃木町を去って行った。集めた軍資金は一万三千四百七十両だったという。

  天狗党が去った後に田中愿蔵80人の部隊が現れ、栃木陣屋との軍資金徴収のもつれから6月6日、栃木町の下町(室町)、中町(倭町)、上町(万町)の400戸を放火、全焼させてしまう「愿蔵火事」を引き起こす。栃木町の約半数以上の商家や家が焼け出された。徳川時代において、焼打ち放火事件としての火事では他に例がない。焼け出された住民は田中愿蔵一行を途中まで追いかけ、仇を討とうとした。栃木町の住民の怒りはこのうえなく浸透した。この恨みなのか、謙信平にある「水戸天狗党鎮魂碑」は南でもなく東でもなく西を向いている。西を向いている石碑はあまりないのではないか。そのことを茶店の主人が教えてくれた。Photo_4
『天狗党の石碑を訪ねてくる人は、どれが石碑か分からないので店(うち)に聞いてくるんですよ案内版を表示してくれと市にも頼んでいるんですけど、やってくれないんですよネ』と語ってくれた。

 ブログ『史跡訪問の日々』で、この石碑について『懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章 紀元二五四一年と刻まれ、明治十四年(1881)、この地を訪れた高鍋藩主秋月種樹が発起人となって建碑されたものである』と紹介されていた。日向野徳久著『栃木市の歴史』の中では、「明治のはじめ、秋月種樹が栃木町へ来遊、佐藤保之ほか15名の有志たちと太平山へのぼり、記念によせ書きをして石に刻んだ。《おもうむかし勤王の士 義旗をこの地にあげ 方今よりて無事 石に題する米元章》」と記述している。

001_3  六角堂で戴いたパンフレットに江戸期の太平山の絵図が載っていた。この山は石垣に囲まれた山城に見える。何よりも2メートル四方もある石垣が凄い。天狗党本陣跡の石垣を見ると戦闘対陣として本陣にしていたことがうかがえる。石垣は織豊時代の野面積みとなっている。天正13年(1585)に小田原北条が山田口から太平山に登り、山頂での戦闘で皆川方を破る戦があり、物見やぐら跡や眉嶮坂(びけんざか)という古戦場もあるが、いずれも案内表示板は出ていない。

 石垣が何時、誰がどのようにして作られたか調べていきたい。ひょっとして小田原北条が対宇都宮氏への防御として現在の石垣を作ったのかなと勝手な想像をしてしまう。寺院や別当所を建てるための石垣だが、戦闘における防御をおこなえるほどの構造だ。天正13年の戦火で寺院、神社は焼失して、史料はなくなってしまっていると神社関係者の人が言っていた。

026 『わたしの子供の頃は、今の六角堂の横にある茶店の引き水にもウナギがうじょうじょが出てきた。とにかくうなぎが一杯いたんだ。うなぎを捕ったら大人から、この罰当たりメと怒鳴られた』と茶店の主人は述懐する。

 川島正雄著の『蔵の街とちぎと太平山』の中で『虚空菩薩の信仰で栃木の人たちはウナギを食べませんでした。幕末の頃太平山にこもった天狗党員がしきりに食べたそうです。それで栃木町の人もウナギを食べるようになったといわれています』と紹介している。日向野徳久著の『栃木市の歴史』で同じ内容の記述がでてくる。

 栃木の町で初めてうなぎ料理を出したのは、今はない明治5年~10年開業の『ホテル鯉保』だったと坂本富士夫著「田舎記」によるとブログ『気ままに花あるき』で紹介されている。ウナギは水戸天狗党の「おみやげ」なのかな。ウナギは海から利根川、渡良瀬川、思川、うずま川、永野川を昇り、太平山の沢水を昇ってきていた。ウナギのあまりの多さに円仁は「虚空菩薩」を本尊とした連祥院を建立したのではないかなと勝手に思ったりもする。何よりも川の水が今よりもきれいだったことが言える。047
  太平山で滞陣中の5月17日に3人の天狗党員が公開で処刑された。宇都宮の遊女を誘拐したことで、太平山と栃木町の間を流れる永野川の二杉橋付近で二人が斬首、一人がムチ打ち刑(翌日死亡)であった。

 太平山山道の手前にある太平寺の角にその霊位塔がある。以前、ここに住んでいた人は訳の分らない病にかかり、この地を離れたという。太平寺がこの地を掘り起こしたら、丁髷と遺体が出てきた。そのため、霊位を建立したという。そのことで訳の分らない病が無くなったと土地の人から聞いた話しで、どこにも記載がなく、まだ太平寺にも確認はしていない。言われなければこの霊位塔があることを知らなかった。

 水戸天狗党と栃木町の関連した逸話はまだまだ出てくるよう気がする。

                            《夢野銀次》

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横山秀夫著『半落ち』―《50歳》人生の関所越え

41paw5ycbcl2 2003年の直木賞選考で致命的欠陥があるとて指摘され落選した横山秀夫著の『半落ち』を読んだ。しかし、その年の週刊文春推理小説ベストワンとなり、多くの読者を魅了した小説だ。因みに2011年の週刊文春推理小説ベストテンの10位が私の好きな今野敏の『隠蔽捜査4 転迷』だった。

 直木賞落選での指摘された致命的欠陥とは受刑者である骨髄移植ドナーは刑務所にいる間は登録も移植もできないという理由だった。しかし、主人公梶聡一郎は刑務所に入る前にドナーの登録をしており、すでに一回骨髄移植の提供をしている設定だった。登録者であるならば現実には可能だということが後年に分かってきた。指摘した林真理子がどういう調査や検証をして発言したのか物議をかもした小説でもある。ドナー登録者であることが、この小説の最も大きなキーワードだったからだ。

 6年前に14歳の一人息子を急性白血病で亡くし、その後にアルツハイマーに侵された妻に頼まれ、妻を扼殺した警察官、梶聡一郎は自首する。しかし、妻を扼殺した後の2日間の行動については黙秘をする。自殺しようとした痕跡があり、『人間50年』という遺書もあるが、空白の2日間については黙秘続ける。本人が新宿歌舞伎町に行ったことが分かり、県警トップの本部長は『セックス産業』との関係を想像し、死のうとして彷徨したことにしろと隠ぺいを取調官の強行犯指導官の志村和正に命ずる。2日間の空白をめぐり、警察内部、検察と警官の間の調書軋轢と取引、調書ねつぞうのスクープを追う記者、東京の実家で妻が認知症の父を介護、真実の究明を阻まれる裁判官、梶聡一郎の自殺防止を監視する定年間近かの刑務官とそれぞれの立場で上司などとの軋轢や上に行こうとする人間の内面を描きながら、最後にその理由が分かるというストリーだ。

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 梶が自首した時の年齢は50歳になったばかり。自殺しなかった理由として、後1年生きる。そして51歳になった時に自殺すると、取り調べを行った志村刑事は判断した。ドナー登録は20歳から50歳まで。51歳になった時に登録ができなくなるという仕組みになっている。6年前に骨髄移植がされていれば息子の生命が助かったとされる。そのため
梶は骨髄移植のドナー登録を行い、1回骨髄移植を行っていた。最後にドナーを受けた若者が志村刑事と共に刑務所にいる梶の前に現れる。空白の2日間、新宿のラーメン店で働くこの若者に会いに行ったのだ。会話はせず、働く若者の姿を見ただけだった。ドナー登録が切れる51歳になるまで、あと1年間生きる決断をしたことが分かる。

 私が以前勤めていた団体で会員の中で急性白血病で骨髄移植を求める事態になった。ドナーとの適合者は絶対的に少ないのが現状だ。幸いにドナーの提供を受けることができたが、残念ながら3年後に亡くなってしまっている。しかし、このことがきっかけでドナー登録を団体として会員に呼ぶかけるとりくみが始まり、今も続いる。

 この小説の中で裁判が始まる前の控室で裁判官が同僚の裁判官に話すセリフが胸に残った。裁判官は言う、『50歳は人生の関所。この年代の人間は自分のことは自分で決するというプライドが物凄く強いんですね。自殺も大層多いそうです。バブルが崩壊して仕事も人間関係も大変なうえに、突然リストラとか言われて、それでも家族や友人にも相談できず、一人悶々と悩み続けた挙句、事件や自殺に走ってしまう。今日の事件はアルツハイマーの介護問題が焦点でしょうが、しかしまあ、誰かに相談でも防げた事件だったかもしれないですね。そう思うと、まったく不憫です』。ドナーを受けた若者と会うことにより梶は50歳の人生の関所を越えることでこの小説は終わる。

 かつて職場の上司に言われた『50歳病-このまま自分はここで終わるのかと自問自答を行ない、転職等を考える最後の時期なんだよな』と。

 私が50歳を迎える49歳の時、職場の人間関係が悪化し、退職しようと動きだした。その時、妻が『お願い、我慢して』と頭を下げた。辞めなかった。50歳になった時、私のことを気が付いた上司が配置転勤を行い、幸いに仕事を続けることができた。48歳の時の年賀はがきには菜園をしていた関係で『大地に帰る準備をしています』と書いた。高校時代の先生から返事が来た。『大地に帰る準備ではないでしょう。大地と共に生きるんでしょう!』と叱責と励ましの年賀はがきだった。その時期、どこかで死も考えていたのを見抜かれた気がした。教師の言葉は凄いと、その時実感した。ありがたかった。私に生きる勇気を与えてくれた年賀はがきだったと、今でも大事に保管している。そして50歳の人生の関所を越えることができた。

Image4_2 映画『半落ち』は生命の絆をモチーフに描いている。ラスト、裁判所からの護送車の窓越しを通してドナーを受けた若者から『生きてください』とういう無言の会話は感動のシーンとして残った。じっくり観る映画の一つだと思う。ただ、この映画では、あと1年生きるという意味が、何故なのかがあいまいとなっている。血が繋がっていく生命の尊さを重視して描いている作品なのだ。

 骨髄移植適合者は何万人に一人と言われている。ドナー登録とりくみは理解と協力を広めていく必要がある。

                     《夢野銀次》

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