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出流天狗・栃木宿の戦闘―長谷川伸『相楽総三とその同志』より

014  栃木市室町にある「うずま公園」の室町駐車場の中央に『西山謙之助供養塔』が建立されている。

  その場所は慶応3年(1867)12月11日の夕刻、薩摩下野糾合隊(出流天狗)と栃木陣屋ならびに関八州取締出役渋谷鷲郎率いる幕軍(農兵)との戦闘で西山謙之助らが討死にした出流天狗党の遺骸を埋めた地である。

  江戸期には斃馬(へいば)の捨て場と乞食小屋があった所でもある。今は有料駐車場になっているが、それ以前は栃木県下都賀出張所庁舎があった。日向野徳久著『栃木市の歴史』の中では昭和35年、この庁舎の職員が浄財を募り、供養碑を建立したことの記述がある。

  長谷川伸の『相楽総三とその013同志』(昭和18年刊)ではこう記述されている。

 「九ツの死体をセドの原の一つ穴へ棄て葬(とむら)ひにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴に投げ込むことを(栃木)宿のものは“ぼっこみ”といった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る。それをほうり込んだ處である。後代になってその場所に近く郡役所が建つので、地盛りのため、そこから要るだけの土を掘り取った。処が、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑の近くから、人の骨が出てきたので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、堀った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した所だけが中の島の如くなった。そこが、九人の戦死者を“ぼつこみ”(投げ込み)した地点である」

  現在も供養塔が建っているが、市の観光案内パンフには載っていない。その先のうずま川べりには馬頭供養碑が今も建立されている。

 栃木宿戦闘で出流天狗党の討死者は長谷川伸の書では9人としているが、実際は6人ではなかったのではないかと思えるが確証はない。それにしても長谷川伸の「相楽総三とその同志」は003_2凄い。読んでて背筋が寒くなってくるほどの作品だ。

   野口武彦は『江戸は燃えているか・赤報隊哀歌』の中で、『相楽総三とその同士』を「金字塔的な名作、今もって誰にも越えられない仕事である」とし、「多年にわたる史料蒐集の結晶であるこの大著は、主人公はじめ参加メンバーの伝記を丹念に掘り起こし、専門幕末史家の研究書でも参照されているくらいだ」と絶賛し、続けて「何よりも対象に深い愛情が向けられている。「自序」に『相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑された関東勤王浪士と、その同志でありまた同志であったことのある人々のために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を、「紙の記念碑」といい、「筆の香華」と私はいっている』とある一文に万感が籠められている」と惜しみなく絶賛をしている。

 その通りの作品だと思う。今回、昭和18年発刊の古くなった書物を初めて読んだ。それは小説というより歴史叙述書だった。
016  慶応3年(1876)11月下旬、薩摩藩邸を出立した竹内啓(ひらく)を隊長とした浪士一行は11月27日に栃木宿、脇本陣『旅籠押田屋』に投宿した。

 3・40人が千住の関を通過する名目として『島津藩主、夫人の出流山千手観世音の願ほどきの代参』としていた。12名の投宿を受けた押田屋はすぐさま200メートル先の足利藩栃木陣屋奉行の善野司に通報した。

  翌28日に鍋山村を目指す一行には密偵が付けれてた。薩摩藩邸糾合所では江戸周辺の三か所で争乱を起こし、討幕戦闘のきっかけを作る戦略が練られた。その1つが鍋山村出流山満願寺擧兵となった。

  千住の関を無事に通過するための願ほどき代参が大きな理由となって出流鍋山村が選定された。何故、願掛けが出流千手観音なのかと疑問があった。しかし、鍋山村を含む近辺の寺尾・梅沢・小曾戸・門沢等は鎌倉以来、島津一族であったことが分かり、江戸期においても鍋山近辺と薩摩島津家とは交流があったのではないか思うようになった。その史料はない。わたしの勝手な推測だ。

021  鍋山村に宿泊した翌日の11月29日の朝、11 人は出流山満願寺前にて『徳川幕府を討たずして皇政復古はならず攘夷を実行せずしては我が日本危うし』との討幕挙兵の声明文を読み上げた。

 一行に付いてきた村の人夫達は『これは4年前の水戸天狗党騒ぎの再来だ』と驚き、以後『出流天狗』と言われることになる。

  栃木到着前から別働隊による同志の募りで150人規模となってきた。こうなると服装・食糧・武器購入のための資金調達の動きを強めていくことになる。近隣住民からの強圧的な資金徴収の通報もあり、栃木陣屋奉行の善野司は関八州に討伐を要請した。

  資金調達が思うようにはかどらない。そのため高橋亘を頭に3人が鍋山村から栃木宿押田屋に止宿し、栃木陣屋に三千両の借用を迫る交渉を始めた。陣屋奉行善野司はこの栃木宿から出流天狗を追い払うことを第一義的に考え、討伐は幕府軍に任せることを念頭に、のらりくらりの談判応対し討伐準備を進めていた。

007  陣屋との談判が進まないため鍋山村本部の竹内啓らは国定忠治の子息、大谷刑部國次を道案内に西山謙之助・田中光次郎らを栃木宿へ差し向ける。

  12 月11日の夕刻、西山一行は乗馬にて幸来橋(念佛橋)の先端にある木戸に到着。閉まっている木戸の門扉を開けさせるところから栃木宿の戦闘がはじまるという長谷川伸『相楽総三と同志』。

  槍を振り回す乗馬の西山謙之助は鉄砲にて討死。その後は押田屋止宿組との戦闘となる。その描写は乗馬して槍をふるう西山に対して取り囲む捕り方の銃砲など随所に迫力ある描写で圧巻である。

  ただ、長谷川伸が史料とした館林藩士藤野金太郎近昌『野州岩舟山浪人追悼聞取書』では幸来橋の戦闘はなく、二組が押田屋で合流しての戦闘と記述がある。また黒崎家文書「慶応記事」(栃木市史記載)では幸来橋の戦闘の記述があり、4人の死亡があるが、間違って、捕り方の一人が討たれ死にされたとの記述がある。小説と史実の違いなのか分らないが、いずれにしても長谷川伸の戦闘描写は迫力があり凄い。

029   栃木陣屋奉行善野司は討伐にあたり、“出流天狗”は“浮浪の士”と位置付けをして、討伐を農兵(鉄砲)の関八州澁谷鷲郎部隊を主力にしている。町方に雨戸閉めさせる。要所に町の警備者(町兵・自警団)を待機させる。町年寄には防火対策を指示している。

  これらは4年前、元治元年(1864)6月6日の水戸天狗党・田中愿蔵による「栃木町焼打ち事件・愿蔵火事」を教訓にしての対策をしていたことが分かる。「愿蔵火事」の時に善野司は栃木陣屋を留守にしていたのだ。

  薩摩藩邸での糾合所会議で「愿蔵火事」における栃木町の住民の怒りを知っていたならば、出流鍋山村を選定しなかった筈だ。善野司の書き記した文書があれば、もっと正確なことが分かるかと思える。

  この栃木宿戦闘においてに高橋亘と大谷刑部は鍋山村に逃げることができたが、12月12日から13日の岩船山戦闘で出流天狗は壊滅する。

Kinchakusan011    栃木市の郊外に80メートルの小高い山、錦着山がある。

  山頂にある護国神社は初代県令鍋島貞幹が、明治12年(1879)に戊辰西南両役における戦死者を祀り、建立したもので燈台は日露戦争の勝利を記念して建てられた。周辺にたくさんあったという古墳塚を崩して錦着山を作ったとされている。わたしの小学生の頃の遠足地であり、当時は山の南側の崖に防空壕の残骸跡、2ツの穴があり遊んだ記憶がある。

 山頂社殿の脇、西側に西山謙之助の供養碑が建立されている。岐阜県美濃、久々利村から同所の千村兵右衛門に仕えた後、江戸に出て剣は齋藤彌九郎の道場、学は平田鐵胤の下で学んだ。

 004 西山が野州に出立する時に親に送った永訣の手紙「西山尚義遺書」は丸山梅夫(本名:丸山久成)により明治2年に刊行されたと「相楽総三とその同志」に記されている。

  あわせて錦着山頂社殿脇にある「西山謙之助供養碑」を建立したのが丸山梅夫と指摘している。「目で見る栃木市史」には供養碑の紹介はあるが、何時誰が建立したかの記載はない。

  「相楽総三とその同志」によれば、丸山梅夫は信州上田、房山村の大庄屋の生まれで義兄が薩摩糾合所浪士隊大監察の齋藤謙助。丸山梅夫は出流天狗潰走の後、赤報隊官軍先鋒、嚮導隊(きょうどうたい)で追分宿において上田藩に捕獲された。翌年、明治元年8月に釈放後、上田市で銀行家として町の発展に尽くした。

  幕末の時代のうねりの中で使い捨てされてきた勤王の志士、草莽の士などは変名や偽名が多いことから史実として明らかにしていく作業は困難を伴うし、大変なことだ。歴史に埋もれた幕末草莽の志士たち。その解明を続け、甦らせる。一つ一つやっていく以外にない分野だと改めて思う。

                              《夢野銀次》

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コメント

銀次さん
初めまして Takaoと言います。
出流天狗党の話 とっても詳しく書いてあって面白かったです。
大きな時代の流れの中で掻き消された多くの人達、、、
勉強になりました(__)

投稿: Takao | 2015年3月19日 (木) 05時29分

Takaoさんコメントありがとう。
「千住の関を通過するため」と長谷川伸が書いていますが、「千住の関」の存在を確認できません。「浅草見附御門」だったのかと思えています。ただ、慶応3年の12月にかけて、薩摩藩が討幕戦闘開始に向けて仕掛けたものが多々あると思えます。明治の御代の時、歴史の中に埋もれさせました。それらを蘇らせていく研究者に感謝しています。(銀次)

投稿: 銀次 | 2015年3月20日 (金) 04時23分

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