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上州太田七福神―呑龍様と新田氏ゆかりの地

036 江戸時代七福神巡りは一気にメジャーな民間信仰として地位を築いた。その一説には徳川家康の天下統一は神仏の加護によるとし、その神仏とは長寿=寿老人、富財=大黒天、人望=福禄寿、正直=恵比寿、愛敬=弁財天、威光=毘沙門天、大量=布袋、を指している。これら七福神を拝せば、七福神の七つの福徳を体得できる。それも一年の始りにお参りするところから功徳が得られるということから七福神信仰が生まれたという。しかし、どうも家康が人心を鎮める行政の一環として大名・庶民に広めたからだという説があり、政治と神仏の結びつきが見えてしまい、覚めた気持ちもある。

039  群馬県上州太田市の『七福神』は寿老永福寺・太田市東金井町)、布袋尊さざえ堂・太田市東今泉)、福禄寿王厳寺・太田市東金井町)、大黒天受楽寺・太田市金山町 )、恵比寿長念寺・太田市本町)、毘沙門天金龍寺・太田市金山町 )、弁財天大光院・太田市金山町)となっており、新田一族ゆかりのお寺が多いのも特色だ。群馬県太田市は中島飛行機、富士重工、スバルの街としても広く全国に知られている。

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 曹源寺『さざえ堂』の本堂は寛政5年(1792)に建てられ、外見は二階建てに見えるが内は三階建てになっている。堂内を回廊式に回って歩くところから『さざえ堂』と言われている。堂内の回廊には、一階が秩父三十四観音、二階が坂東三十四観音、三階が西国三十三観音の計百札所の観音が祀られている。さざえ堂を一巡すれば百箇所の札所を巡ったことになる。

  『さざえ堂』の参道の踏石は西国・坂東・秩父百観音霊場からの御砂を埋めており、御砂踏参道を踏んで歩くことにより、百観音霊場を巡礼したのと同じ功徳が得られると案内パンフに記載されている。屋根瓦には新田氏の大中黒紋が施されている。『施無畏(せむい)』の額は掲げられていなかった。受付の住職に尋ねたら『?』だった。宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、『南ニ死ニソウナ人アレバイッテコワガラナクテモイイ』にあるように、死ぬ怖さ畏れを観音菩薩が心の中に現れ救うという、観音経の教えがある。これだけの規模の観音堂だから何故掲げないのか分からない。

019   金龍寺は新田家由良氏の菩提寺で、本堂の裏に新田家由良氏累代の墓所と正面高台に新田義貞の供養塔(太田市重要文化財)があるまた、一説には、金山城主であり、新田氏族であった岩松満純が、越前の慈眼寺を開いた天真自性を呼び、義貞追善のために建立したのが始まりといわれている。新田義貞の遺骸を越前の称念寺(福井県坂井市丸岡町)から、この金龍寺に運んで、改葬して大法要を行ったといわれているが、本当かどうか不明だ。

元弘三年(1333)5月8日、百五十騎で新田庄『生品神社』で鎌倉幕府北条氏討伐の旗挙げし、延元三年・建武五年(1338)閏7月に討死にするまで波乱の5年間。新田義貞はこの太田市新田庄に帰ることがなかった。そのことを偲び供養塔として観た方が無難だ。

71_2 灯明寺畷から藤島城に向かう途中の泥田で新田義貞は、《太平記》で楠正成をして、『宇都宮ハ坂東一ノ弓取リナリ』と驚嘆させた宇都宮家の一門、氏家重国の弓にて眉間を射られ討死にした。氏家重国は氏家一門からの分家の分家で、芽がでないことから奥羽州探題大崎家兼のもとに移っていた。新田義貞を討ち取った功により足利尊氏から美濃国石津郡高須、沢田、一の瀬の領地を得ることができた。10年以上前、出張の帰り、福井市にある藤島神社に参拝し、新田義貞の兜を観てきたことを思いだした。

044 大光院は慶長18年(1611)、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために、開かれた浄土宗のお寺。開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられた。本堂への山門には元和元年(1615)に建立された吉祥門(きっしょうもん)がある。この山門が上棟された日に大阪城が落城し、徳川方にとってめでたく記念すべきことであったので家康により吉祥門と名付けられたという。

Photo   大光院に入山した呑龍上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えた。

 しかし、一方では乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていた。そのため捨て子や間引きなどが横行していた。呑龍上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺 に受け入れ、寺の費用で養育した。このため、大光院と025_2いう寺院名より『子育て呑龍さんのお寺』として馴染み深いお寺として知れ渡っている。

 子供たちを養育した学堂跡の建物が本堂手前の左側にあった。若い住職が指さして示した建物は今にも崩れそうで、物置とも思えた。この建物が子供たち養育の学堂跡地だったならば、市の教育委員会の方で保存を考えるべきだと思う。

 子供のころに一度、呑龍さんにお参りに来ている。その時は参道のおみやげ店など活気があったような記憶がある。今回はシャッターの閉まっている参道になってしまっていたのが残念。今度太田市に来る時は、高山彦九郎記念館、高山神社、そして金山城を観る。

               《夢野銀次》

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