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太平山連祥院六角堂―水戸天狗党とウナギ

004_2   元治元年(1864)3月27日、筑波山にて天狗党と呼ばれる水戸藩尊王攘夷派67名が『尊王攘夷実行』を叫び蜂起した。4月3日に170人となった天狗党は日光を目指し下山した。しかし、宇都宮藩と協力呼びかけなど折衝する内、日光は盤石な防御となってしまった。そのため、一行は軍事的要点を備えた太平山を仮の根拠地として、関東の諸藩に働きをかけ、参加を促すことし、日光から太平山を目指した。
  太平山は栃木市内より西に車で15分の所に関東平野を一望する343メート
002_3ルの小高い山だが歴史ある山でもある。山の頂上付近には1200の石段を登った所に太平山神社がある。今から約二千年前の垂仁天皇時代に社が造られたという非常に古く、山岳信仰の霊場としても多くの信仰を集めていた。平安初期には第53代淳和天皇により『日・月・星』の御神徳を現す三座の神様をお祀りするため現在地に造営されたものだ。

 川島正雄著「蔵のまちとちぎと太平山-その歴史と自然と文学碑-」によれば天長4年(827)に入山を拒否されていた円仁(慈覚大師)は淳和天皇の勅額を奉じることで入山し、太平山神社本殿の手前下に寺院連祥院を創建したと記述している。神仏混合として信仰を集めてきたが、明治元年の神仏分離令により太平山における仏閣、寺院、別当所は破棄された。明治38年に有志者により京都の六角堂を模して連祥院本堂が現在の太平山神社山道入口に建立された。大平山全体が霊山となっているのではないかと思える。

046 『わたしのお祖母さんの話ですけど、この近辺にお嫁に来る時の花嫁衣裳につるの絵柄があった場合、そのつるの口ばしを糸で結んでしまうの。このつるはウナギを食べませんという意味で』と六角堂の巫女さんが話してくれた。連祥院の本尊は記憶力を拡大させてくれる『虚空菩薩』。虚空菩薩のお使いがウナギなのだ。そのため、この太平山近辺の人々はウナギを食べないという風習が根強く残っている。

 六角堂の向拝の鐘の上にウナギの彫刻がある。『全国でも珍しと言って、写真を撮っていく人が多いですよ』と住職が語ってくれた。

011  水戸天狗党は4月14日に太平山に到着し、山の中腹にある連祥院別当所を本陣とした。水戸斉昭公の神位を祭り、葵の幕を張りめぐらしすと共に大砲三門を備え、銃、槍等の武器を飾り立てた。山下の栃木口・富田口・皆川口には見張り木戸番所を設け、昼夜厳重に警備した。山内の寺院や謙信平の茶店などを宿坊とした。そして近辺の村々、富豪商家への軍資金の徴収を強圧的に進めた。

 天狗党の首将は水戸奉行の田丸稲之衛門だが実際の指揮は藤田東湖の4男、藤田小四郎23歳だった。 

014_2藤田東湖は「農民そのもの、下級武士を直視し、これらを養成組織化する」ことを観点としていたが、藤田小四郎ら幹部の挙兵には「農民のための世直し」という視点がなかったのではないかと思える。

 天狗党の解体、説得にきた水戸藩目付山田兵部共昌らは説得に応じないことから「筑波山に帰って天下に号令せよ」という策を与えた。天狗党は下山を決め、筑波山を目指すことを決める。天狗党への参加者は増加し、四百人の部隊となっていた。中には「四民一和」「農民の味方」「討幕」等で参加した者が多かったが水戸藩内部での決着をはかる方向にもなっていった。そのことが、6月6日の栃木町焼打事件『愿蔵火事』を生む要因にもなった。

035_2 6月2日に栃木町定願寺を本陣として水戸天狗党は筑波山を目指し、1月半滞陣した太平山、栃木町を去って行った。集めた軍資金は一万三千四百七十両だったという。

  天狗党が去った後に田中愿蔵80人の部隊が現れ、栃木陣屋との軍資金徴収のもつれから6月6日、栃木町の下町(室町)、中町(倭町)、上町(万町)の400戸を放火、全焼させてしまう「愿蔵火事」を引き起こす。栃木町の約半数以上の商家や家が焼け出された。徳川時代において、焼打ち放火事件としての火事では他に例がない。焼け出された住民は田中愿蔵一行を途中まで追いかけ、仇を討とうとした。栃木町の住民の怒りはこのうえなく浸透した。この恨みなのか、謙信平にある「水戸天狗党鎮魂碑」は南でもなく東でもなく西を向いている。西を向いている石碑はあまりないのではないか。そのことを茶店の主人が教えてくれた。Photo_4
『天狗党の石碑を訪ねてくる人は、どれが石碑か分からないので店(うち)に聞いてくるんですよ案内版を表示してくれと市にも頼んでいるんですけど、やってくれないんですよネ』と語ってくれた。

 ブログ『史跡訪問の日々』で、この石碑について『懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章 紀元二五四一年と刻まれ、明治十四年(1881)、この地を訪れた高鍋藩主秋月種樹が発起人となって建碑されたものである』と紹介されていた。日向野徳久著『栃木市の歴史』の中では、「明治のはじめ、秋月種樹が栃木町へ来遊、佐藤保之ほか15名の有志たちと太平山へのぼり、記念によせ書きをして石に刻んだ。《おもうむかし勤王の士 義旗をこの地にあげ 方今よりて無事 石に題する米元章》」と記述している。

001_3  六角堂で戴いたパンフレットに江戸期の太平山の絵図が載っていた。この山は石垣に囲まれた山城に見える。何よりも2メートル四方もある石垣が凄い。天狗党本陣跡の石垣を見ると戦闘対陣として本陣にしていたことがうかがえる。石垣は織豊時代の野面積みとなっている。天正13年(1585)に小田原北条が山田口から太平山に登り、山頂での戦闘で皆川方を破る戦があり、物見やぐら跡や眉嶮坂(びけんざか)という古戦場もあるが、いずれも案内表示板は出ていない。

 石垣が何時、誰がどのようにして作られたか調べていきたい。ひょっとして小田原北条が対宇都宮氏への防御として現在の石垣を作ったのかなと勝手な想像をしてしまう。寺院や別当所を建てるための石垣だが、戦闘における防御をおこなえるほどの構造だ。天正13年の戦火で寺院、神社は焼失して、史料はなくなってしまっていると神社関係者の人が言っていた。

026 『わたしの子供の頃は、今の六角堂の横にある茶店の引き水にもウナギがうじょうじょが出てきた。とにかくうなぎが一杯いたんだ。うなぎを捕ったら大人から、この罰当たりメと怒鳴られた』と茶店の主人は述懐する。

 川島正雄著の『蔵の街とちぎと太平山』の中で『虚空菩薩の信仰で栃木の人たちはウナギを食べませんでした。幕末の頃太平山にこもった天狗党員がしきりに食べたそうです。それで栃木町の人もウナギを食べるようになったといわれています』と紹介している。日向野徳久著の『栃木市の歴史』で同じ内容の記述がでてくる。

 栃木の町で初めてうなぎ料理を出したのは、今はない明治5年~10年開業の『ホテル鯉保』だったと坂本富士夫著「田舎記」によるとブログ『気ままに花あるき』で紹介されている。ウナギは水戸天狗党の「おみやげ」なのかな。ウナギは海から利根川、渡良瀬川、思川、うずま川、永野川を昇り、太平山の沢水を昇ってきていた。ウナギのあまりの多さに円仁は「虚空菩薩」を本尊とした連祥院を建立したのではないかなと勝手に思ったりもする。何よりも川の水が今よりもきれいだったことが言える。047
  太平山で滞陣中の5月17日に3人の天狗党員が公開で処刑された。宇都宮の遊女を誘拐したことで、太平山と栃木町の間を流れる永野川の二杉橋付近で二人が斬首、一人がムチ打ち刑(翌日死亡)であった。

 太平山山道の手前にある太平寺の角にその霊位塔がある。以前、ここに住んでいた人は訳の分らない病にかかり、この地を離れたという。太平寺がこの地を掘り起こしたら、丁髷と遺体が出てきた。そのため、霊位を建立したという。そのことで訳の分らない病が無くなったと土地の人から聞いた話しで、どこにも記載がなく、まだ太平寺にも確認はしていない。言われなければこの霊位塔があることを知らなかった。

 水戸天狗党と栃木町の関連した逸話はまだまだ出てくるよう気がする。

                            《夢野銀次》

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コメント

[東路の津登](1509年旅)
 柴屋軒宗長 著
「十六日、壬生より佐野へ帰り行く間に、大平とて山寺あり、般若寺と(も)云ふ、一宿して連歌あり、」

連祥院般若寺


投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月22日 (水) 00時24分

水戸天狗党と栃木町の関連した逸話の中に、西山ケンノスケという名前は出てきませんか?

故郷の家の近くに、彼が殺されて捨てられた池の跡がありました。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月22日 (水) 00時34分

太平山神社

「平安初期、第53代淳和天皇により『日・月・星』の御神徳を現す三座の神様をお祀りするため造営されたものだ。」

こういうのって、どれだけ信頼できるんですかね。
[神道大系]にある江戸時代の太平山神社の史料に、こんな事書いてあったかな。

投稿: 栃木市惣社町の住人 | 2012年2月22日 (水) 00時54分

西山ケンノスケのことは私のブログ「出流天狗・栃木宿の戦闘 長谷川伸『相楽総三とその同志』」に記載していますので、ご覧下さい。

投稿: 銀次 | 2012年2月22日 (水) 05時01分

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