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2012年2月

旅をして学ぶ・足跡の探究―高山彦九郎と記念館

008  平成24年(2012)5月22日の東京スカイツリー開業を控え東武鉄道は伊勢崎線の浅草-東武動物公園間を3月17日から「東武スカイツリーライン」という愛称を付けると発表している。その伊勢崎線太田駅の次の駅「細谷」から徒歩10分の所に「太田市立高山彦九郎記念館」がある。

  案内のネットには「高山彦九郎に対する再評価を含めて、彦九郎の旅の追体験や江戸時代中頃の人物交流の実態などを究明するため、平成8年5月3日に生誕地に隣接して開館した人物記念館である」と記載されている。

003   記念館入口には寛政元年(1789)10月3日~11月21日の「寛政江戸日記」の中で故郷を詠った歌碑『赤城山 真白に積もる雪なれば わが故郷ぞ家からめやも』が建立されている。その右隣には居宅跡と井戸跡がある。また、遺髪塚が記念館左脇に入った所にある。26歳の時の旅立つ際の遺髪が高山神社から記念館に保管が移されているが、20歳の時の遺髪がない。その遺髪が未調査ながらが、遺髪塚として祀られているのではないかと推測されている。

 戦前は尊王家として教科書に必ず載っていたという人物だが、戦後は全く忘れかけた人物。そういう私自身、吉村昭著『彦九郎山河』を読むまで寛政の三奇人(高山彦九郎・林子平・蒲生君平)の一人として、それも奇人のことを変人と思ってたりもしていた。「奇人とは変人と同義語ではなく、類い稀なすぐれた人という敬称」ということを今回知った次第だ。

Hikokuroufot1  延享(えんきょう)4年(1747)5月8日に、上野新田郡細谷村(太田市細谷)の豪農の次男に産まれた高山彦九郎は寛政5年(1793)6月27日、筑後国久留米(福岡県久留米市)の森嘉善(もりかぜん)宅にて『朽ち果てて身は土となり墓もなくも 心は国を守らんものを』と辞世を遺し、47歳で自刃した。

 13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに勤王の志を持ち、18歳の時に家を出て、27歳から各地を遊歴して「幕府の武家政治を排し、日本古来の朝廷を中心とした文治政治の理想」を説いていった。細井平洲・前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓などと多くの人々と交友し、膨大な旅日記を残した。吉村昭は『彦九郎山河』のあとがきで昭和52年に採算を度外視して出版された『高山彦九郎日記』全5巻が小説『彦九郎山河』を執筆する際の源の資料となり、絶賛している。 『彦九郎山河』では彦九郎が蝦夷を目指しながら見聞する『天明の飢饉』における津軽、南部藩の農民の惨状が鋭く描写されている。また彦九郎の自刃理由として『尊号事件』における公家処罰等の結末とあわせて、彦九郎が薩摩に入る際に関所で世話になった薩摩藩士が、彦九郎を世話した責任をとらされて切腹したことを聞き、彦九郎が自刃に進んでいくことを記述をしている。それも一説かもしれない。

009_2  それにしても、高山彦九郎は蝦夷と四国を除き膨大な旅をしている。小説では『好んで旅をするか、と問われたことが多く、それに対して、かれは答える。乱世には武芸者が武者修行をして歩いたが、それと同じように旅をして学識のある人たちと会い知識を深める。それは読書にまさる生きた学問なのだ』と記述がある。江戸時代の幕藩体制は分権支配であり、各藩まちまちの世界でもあった。学問を通しての交友、情報交換などネットワークを高山彦九郎が作り出そうとした世界なのかもしれないと『彦九郎山河』を読んで感想が残った。芭蕉など俳人としての旅ではなく、交友を通して学ぶことの旅は幕末の志士たちに行動として大きな影響を与えている。その影響の一端に吉田松陰が挙げられている。

 吉田松陰の号「松陰」は高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」の「松陰」からとの説がある。高山彦九郎記念館発行の「高山記念館会報4号」(平成11年12月25日発行」の中で中里吉伸前館長が高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」と吉田松陰の号としての「松陰」について検証し、吉田松陰が高山彦九郎に傾倒していったことを書簡を通して記述した論文の記載がある。私も吉田松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と、彦九郎の辞世「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との呼応は彦九郎の影響が極めて大きかったことを物語っていると思える。吉田松陰も旅をした。アメリカにも行こうとした。 

080_2  太田駅から900メートルの所にある天神山。その山頂に『高山神社』の社殿が鎮座している。明治12年に天神山中腹に社殿が造営され、昭和7年に現在地に遷座している。

  長い石段を昇ると社殿がひっそりと佇んで建っている。静かな社殿だ。学生が石段の昇り降りをしていた。運動部の学生だろう。天神山の後方には石垣で有名な山城、金山城がある。戦国期、後北条との攻防戦で、この小高い山は砦の役割をしたかもしれないと思えた。

084_3  社殿を昇る石段の右脇に歌碑が建っていた。文字が不明のため、内容を後で高山記念館に尋ねた。

  『われをわれと しろしめす そや 皇(すめろぎ)の玉のみこえの かかるうれしさ』と記されてあるとの答えだった。電話での問い合わせのため文字が間違っているかもしれない。光格天皇が高山彦九郎のことを知っていたことを聞き、その感激を著して詠ったものとされている。歌碑のそばに解説文等表示しておけば分かりやすいと思えたが、明治から昭和にかけての尊皇思想への配慮なのか。

 高山彦九郎の残した膨大な『旅日記』。読んではいないが歴史的な史料となると思える。そして高山彦九郎の目指した朝廷を中心とした文治政治は平和な政治であったこと。高山」彦九郎の思想と行動はまだまだ検証していく必要があると思えた。その意味から『高山彦九郎記念館』の設立は意義深いものと思える。

082  彦九郎が生きた18世紀後半は田沼意次から松平定信の「寛政の改革」と最も江戸期の熟した社会・文化が曲がり角に来た時期である。対外的にはロシア使節の到来、朝鮮使節来日の延期、鎖国令の整備、蝦夷対策、海防対策等の外患が生まれ、国内には天明の飢饉、浅間山の大噴火など自然災害への対応に対する幕府政治のいきずまりから内優としての「寛政の改革」が始まる。歌麿や写楽の文化の高揚と倹約令。そして、「御所造営問題」「尊号事件」「大政委任論」等と幕府と朝廷との関係の変化が生じ、幕末の大きな政変に向かう時代の変換点に位置付けされる。

   細井平洲、上杉鷹山、藤田幽谷等多くの公家、大名、儒学者、国学者、蘭学者などとの交流・交友のあった高山彦九郎の足跡を探究することは、当時の社会状況を映し出し、そのことが幕末・明治の日本の流れの一つの潮流が明らかになり、現代の私たちに新たな問いかけが生まれてくると確信できる。高山彦九郎の足跡を探求、検証をする作業を発信する役割が「高山彦九郎記念館」にあり、会誌発行、講演会活動を通して今以上の活動が求められているのではないかと思えた。

                               《夢野銀次》

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彷徨う母娘に何が見える―映画「八日目の蝉」

Mzihphfbung170x170751_2  昨年(平成23年)4月に公開された「八日目の蝉」をDVDで観た。悲しい映画だと感じた。主演の永作博美はブルーリボン・キネマ旬報主演女優賞を受賞した。因みにキネマ旬報ベストテンの5位。原作は読んでいないが直木賞作家の角田光代。監督が今一番乗っている成島出。脚本が奥寺佐渡子。

 愛人の赤ん坊を誘拐し、その赤ん坊に薫と名付けて疑似母娘として4年間逃避行をする野々宮希和子(永作博美)。実の両親の所に戻っても冷え冷えとした親子の関係となる秋山恵理菜(井上真央)。恵理菜は妻子ある男の子供を宿す。かつて施設(エンジェルホーム)で恵理菜と一緒だった安藤千草(小池栄子)が恵理菜の前に現れ、野々宮希和子が母娘として逃避行して過ごしたエンジェルホーム、小豆島に共に行く。映画は恵理菜の現在の生活と過去との姿を浮かび上がらせていく。

Sub3_large1_2  他人の赤ん坊を誘拐すること自体、許されない行為である。そのことを知りつつ、希和子は4歳まで成長してく薫(渡邉このみ)に愛情を注ぐ。母としての喜び噛みしめる姿は、よけい現在の恵理菜の姿が苦渋となって画面に浮かび上がってくる。「蝉は七日目に死ぬ。八日目まで生きた蝉は何を見る?」。その問いかけが恵理菜と千草の過去への旅を進めてく。

  小Osk2011070400081_4豆島の生活で母としての愛情を一杯に受ける薫。小豆島八十八か所霊場めぐりの洞窟。村芝居。二十四の瞳の小学校跡地。そして火で稲の虫を退治し豊作を願う行事「虫送り」が映し出される。

 「灯(とも)せ灯せ」と親子で声を掛けながら青々とした水田に火手(ほて)と呼ばれる松明をかざして歩くシーンは実に印象的な場面となってくる。

Osk2011070400091_3  昨年の7月9日、日本の棚田百選に選ばれている小豆島中山の中山千枚田一帯で「虫送り」が7年ぶりに復活したという。小豆島住民がこの映画「八日目の蝉」で多数のエキストラとして参加したことがきっかけとなっての再開だ。

  映画はこの「虫送り」の報道写真の中で希和子と薫が写っていた。希和子は捜査の手が伸びてくることを予感し、小豆島から出ようとする。

Sub4_large1_2  写真館で二人は写真を撮る。

 このシーンで自分のお袋を思い出した。お袋が亡くなる一年前、吉祥寺の自分のアパートで一週間暮らした。兄がお袋を車で迎えに来る前の日、お袋と一緒に井の頭公園やサンロードを二人で歩いた。写真館があった。「一緒に写真撮ろうかな」とその時思ったが、しなかった。今も後悔している。大人になってからはお袋と一緒の写真は無い。

  迎えに来た兄の車に乗る前にお袋は言った。『飯はゆっくり食べな。給料が安くとも二人ならやっていけるんだから早く結婚しな』と。お袋から受けた愛情、返せなかった。ある人は言う「5歳までで子供は親孝行したんだ」と。しかしそれは親子孝行をしなかった子供への慰めの言葉にすぎない。

Sub2_large1  訪れた写真館で5年前に希和子が写真を受け取りにきたことを知る恵理菜。映画のラストはその写真館から走り、倒れるように坐る恵理菜は千草に語る。

 『憎みたくなかったんだよ。お母さんのこともお父さんのことも。この島に戻りたかった。本当は戻りたかった。でもそんなこと考えちゃいけないと思っていた』『わたし働くよ。働いていろんなもの見せてあげるの。かわいい服を着させて、おいしいもの食べさせて、何にも心配いらないよっておしえてあげる。世界で一番好きだよと何度も言うよ』『わたし何でだろう。もうこの子が好きだって、まだ顔も見ていないのに、何でだろう...』。

  自分の幼いころの体験に蓋をしたままの生活から、しっかりと見据えて生活していこうとする恵理菜を描いて映画は終わる。『この娘はまだ何も食べていないのよ』と刑事に連行される永作博美の激号と写真館での薫に寄り添う演技は母の愛の表情として凄みを増していた。大人の身勝手な欲望から彷徨う恵理菜。そして産まれてくる子供も同じように苦しむことが予感される。恵理菜はこれで良いのだろうか?

 そうこの映画は私に問いかけてきていると思えた。

                           《夢野銀次》

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風は強く寒い―杏と猫が見える

008  『戦争中にな、勤労動員で新潟の農家からわしらの畑に手伝いに来ていてナ。その人らこっちは新潟より寒いと言ってただ。雪国のお人も関東の方が寒いってヨ』と近くの農家のばあ様がおっしゃっておりました。

  北関東の空っ風、赤城おろしの西北からの風は強く、寒い。だけど、雪国との比較はできない。雪国は雪がある。己の体は雪を見て、寒いと反応している。関東には雪がない。『暖かいんだ』と体は反応している。だけど寒い。雪国の人は寒く感じたのだろうナ。

 強い風の中『あんずの木』は去年より一回り大きくなったような気がする。こっちにきてから鉢植えから地べたに移し替えた。来年、再来年とさらに大きく伸びていくな。


001 猫はコンクリートの地面が大好きだ。

庭先にブロックを並べてみた。

005 

さっそくやり始めた。

ゴロンゴロンと背中をブロックに押し付ける。背中が気持ち良いのだ。

 ブロックで作ったたたき台。我が家のヒット作品だ。
 

007 庭先に出るとまず背中をゴロンゴロンをする。それから周辺を動き回る。

  アメリカのデラウエア大学のアルリッチ教授『窓の景色が外科手術後の患者に及ぼす影響』を調査した。窓から木が見える部屋の患者の方が退院が早く、精神的に安定し、弱い鎮静剤を使用する傾向があったと指摘している。内疾患を含め、入院するならば、木々の見える病室にしたいナ。

012 日本で一番、病院に行かない県が長野県。次が山梨県。減塩運動で味噌汁はうす味。同じ市町村に住み続ける。土地の野菜やその土地の旬のものを食べる。

我が家でできた野菜を食べていこう。

020  『夢野』もゴロンゴロンするが『銀太』ほど回数は少ない。

 毛並の違いなのかな。

ジャガイモ耕作の準備、そろそろ始めるか。

 それにしても風は強く吹き、寒い。山の向こうの新潟。大雪で大変だ。

                    《夢野銀次》

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