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旅をして学ぶ・足跡の探究―高山彦九郎と記念館

008  平成24年(2012)5月22日の東京スカイツリー開業を控え東武鉄道は伊勢崎線の浅草-東武動物公園間を3月17日から「東武スカイツリーライン」という愛称を付けると発表している。その伊勢崎線太田駅の次の駅「細谷」から徒歩10分の所に「太田市立高山彦九郎記念館」がある。

  案内のネットには「高山彦九郎に対する再評価を含めて、彦九郎の旅の追体験や江戸時代中頃の人物交流の実態などを究明するため、平成8年5月3日に生誕地に隣接して開館した人物記念館である」と記載されている。

003   記念館入口には寛政元年(1789)10月3日~11月21日の「寛政江戸日記」の中で故郷を詠った歌碑『赤城山 真白に積もる雪なれば わが故郷ぞ家からめやも』が建立されている。その右隣には居宅跡と井戸跡がある。また、遺髪塚が記念館左脇に入った所にある。26歳の時の旅立つ際の遺髪が高山神社から記念館に保管が移されているが、20歳の時の遺髪がない。その遺髪が未調査ながらが、遺髪塚として祀られているのではないかと推測されている。

 戦前は尊王家として教科書に必ず載っていたという人物だが、戦後は全く忘れかけた人物。そういう私自身、吉村昭著『彦九郎山河』を読むまで寛政の三奇人(高山彦九郎・林子平・蒲生君平)の一人として、それも奇人のことを変人と思ってたりもしていた。「奇人とは変人と同義語ではなく、類い稀なすぐれた人という敬称」ということを今回知った次第だ。

Hikokuroufot1  延享(えんきょう)4年(1747)5月8日に、上野新田郡細谷村(太田市細谷)の豪農の次男に産まれた高山彦九郎は寛政5年(1793)6月27日、筑後国久留米(福岡県久留米市)の森嘉善(もりかぜん)宅にて『朽ち果てて身は土となり墓もなくも 心は国を守らんものを』と辞世を遺し、47歳で自刃した。

 13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに勤王の志を持ち、18歳の時に家を出て、27歳から各地を遊歴して「幕府の武家政治を排し、日本古来の朝廷を中心とした文治政治の理想」を説いていった。細井平洲・前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓などと多くの人々と交友し、膨大な旅日記を残した。吉村昭は『彦九郎山河』のあとがきで昭和52年に採算を度外視して出版された『高山彦九郎日記』全5巻が小説『彦九郎山河』を執筆する際の源の資料となり、絶賛している。 『彦九郎山河』では彦九郎が蝦夷を目指しながら見聞する『天明の飢饉』における津軽、南部藩の農民の惨状が鋭く描写されている。また彦九郎の自刃理由として『尊号事件』における公家処罰等の結末とあわせて、彦九郎が薩摩に入る際に関所で世話になった薩摩藩士が、彦九郎を世話した責任をとらされて切腹したことを聞き、彦九郎が自刃に進んでいくことを記述をしている。それも一説かもしれない。

009_2  それにしても、高山彦九郎は蝦夷と四国を除き膨大な旅をしている。小説では『好んで旅をするか、と問われたことが多く、それに対して、かれは答える。乱世には武芸者が武者修行をして歩いたが、それと同じように旅をして学識のある人たちと会い知識を深める。それは読書にまさる生きた学問なのだ』と記述がある。江戸時代の幕藩体制は分権支配であり、各藩まちまちの世界でもあった。学問を通しての交友、情報交換などネットワークを高山彦九郎が作り出そうとした世界なのかもしれないと『彦九郎山河』を読んで感想が残った。芭蕉など俳人としての旅ではなく、交友を通して学ぶことの旅は幕末の志士たちに行動として大きな影響を与えている。その影響の一端に吉田松陰が挙げられている。

 吉田松陰の号「松陰」は高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」の「松陰」からとの説がある。高山彦九郎記念館発行の「高山記念館会報4号」(平成11年12月25日発行」の中で中里吉伸前館長が高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」と吉田松陰の号としての「松陰」について検証し、吉田松陰が高山彦九郎に傾倒していったことを書簡を通して記述した論文の記載がある。私も吉田松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と、彦九郎の辞世「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との呼応は彦九郎の影響が極めて大きかったことを物語っていると思える。吉田松陰も旅をした。アメリカにも行こうとした。 

080_2  太田駅から900メートルの所にある天神山。その山頂に『高山神社』の社殿が鎮座している。明治12年に天神山中腹に社殿が造営され、昭和7年に現在地に遷座している。

  長い石段を昇ると社殿がひっそりと佇んで建っている。静かな社殿だ。学生が石段の昇り降りをしていた。運動部の学生だろう。天神山の後方には石垣で有名な山城、金山城がある。戦国期、後北条との攻防戦で、この小高い山は砦の役割をしたかもしれないと思えた。

084_3  社殿を昇る石段の右脇に歌碑が建っていた。文字が不明のため、内容を後で高山記念館に尋ねた。

  『われをわれと しろしめす そや 皇(すめろぎ)の玉のみこえの かかるうれしさ』と記されてあるとの答えだった。電話での問い合わせのため文字が間違っているかもしれない。光格天皇が高山彦九郎のことを知っていたことを聞き、その感激を著して詠ったものとされている。歌碑のそばに解説文等表示しておけば分かりやすいと思えたが、明治から昭和にかけての尊皇思想への配慮なのか。

 高山彦九郎の残した膨大な『旅日記』。読んではいないが歴史的な史料となると思える。そして高山彦九郎の目指した朝廷を中心とした文治政治は平和な政治であったこと。高山」彦九郎の思想と行動はまだまだ検証していく必要があると思えた。その意味から『高山彦九郎記念館』の設立は意義深いものと思える。

082  彦九郎が生きた18世紀後半は田沼意次から松平定信の「寛政の改革」と最も江戸期の熟した社会・文化が曲がり角に来た時期である。対外的にはロシア使節の到来、朝鮮使節来日の延期、鎖国令の整備、蝦夷対策、海防対策等の外患が生まれ、国内には天明の飢饉、浅間山の大噴火など自然災害への対応に対する幕府政治のいきずまりから内優としての「寛政の改革」が始まる。歌麿や写楽の文化の高揚と倹約令。そして、「御所造営問題」「尊号事件」「大政委任論」等と幕府と朝廷との関係の変化が生じ、幕末の大きな政変に向かう時代の変換点に位置付けされる。

   細井平洲、上杉鷹山、藤田幽谷等多くの公家、大名、儒学者、国学者、蘭学者などとの交流・交友のあった高山彦九郎の足跡を探究することは、当時の社会状況を映し出し、そのことが幕末・明治の日本の流れの一つの潮流が明らかになり、現代の私たちに新たな問いかけが生まれてくると確信できる。高山彦九郎の足跡を探求、検証をする作業を発信する役割が「高山彦九郎記念館」にあり、会誌発行、講演会活動を通して今以上の活動が求められているのではないかと思えた。

                               《夢野銀次》

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