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2012年3月

様変わりした栃木市の景観―蔵の街づくり

028_2  一昨年(平成22年)の12月1日に栃木市大平町に転居してきた。44年間の東京での暮らしを定年で終了した。今度は故郷に帰り、野菜作りや城址訪問、そして日本史を勉強していきたいと思い帰郷を決めた。

  栃木市の街並みの景観はこの20年間で大きく変わっていた。大通りの商店街にあったアーケードや歩道橋、電柱が無くなっており、広い歩道と空が広く見える景観となっていた。かつての栃木市の街並みはごみごみとした印象が強く、狭苦しさを感じる街並みであったと記憶している。万町交番裏にあった実家は両親とともに亡くなっていたため、この20年間は栃木市の街を素通りしていた。今度の住まいが、かつての栃木市街の中ではなく、大平町という栃木市街と離れているため、この一年間一歩引いて栃木の市街を見ていた。そして、どこか過去の栃木市と違うと感じていた。その違いは街の景観が変わっていたことだと気が付いた。

019 街の景観が変わった歴史的経過が知りたくて栃木市教育委員会伝達推進室に行き、「栃木市蔵のまち整備経過」の沿革資料を戴いた。その資料には昭和38年(1963)うずま川に鯉3万匹を放流と最初に記述されていた。よって当時うずま川で魚釣りをしていた私らはできなくなり、当時の市長金子益太郎を恨みもした。ただ、金子市長は当時の栃木市を「陸の孤島」と呼び、道路整備に着手した市長でもあった。

 栃木の町は江戸期にはうずま川の舟運で江戸・日本橋と結び、日光例幣使街道では京都ともつながりがあり、昭024和初期まで商業で栄えたが、空襲もほとんどなく戦後は経済発展から忘れられ、高校の多い町でもあった。その栃木市が昭和63年(1988)に栃木県から「誇れるまち事業」の指定を受け、栃木市ではまちづくり委員会を設置し、「巴波川・蔵の街ルネッサンス」をテーマにした計画調査報告書を策定した。

030  この「まちづくり計画」では錦鯉が生息するうずま川を生かし、蔵などの歴史的建造物など多く存在する中心街の活性化を図るものとした。具体的には①アーケードおよび歩道橋の撤去、電線地中化、歩道の整備、蔵や店を覆う看板などの面かぶりの撤去など大通りの整備を行う。②歴史的資源整備として蔵等修景補助と融資制度を創設。③山車会館の建設や観光館開設などの核施設の整備を行う。④駐車場整備、蔵の広場の整備、綱手道を歴道化するという事業の内容であった。

 そして平成2年(1990)から歴史的町並み景観整備とうずま川綱手道の整備が開031_4始され、平成6年(1994)とちぎ山車会館の完成、平成9年(1997)とちぎ蔵の街観光館が完成していく。さらに平成12年(2000)から歴史的町並み景観形成地区に嘉右衛門町周辺地区を加え拡大していった。

 こうした事業により、「うずま川と歴史的町並み」として平成16年(2004)に公共の色彩賞環境色彩10選、平成17年(2005)手づくり郷土大賞、平成18年(2006)美しい日本の歴史的風土賞を次々と受賞し、ついには平成21年には都市景観大賞「美しいまちなみ大賞」として国土交通大臣賞を受賞するところまで来た。

033  幕末、栃木の町は「水戸天狗党愿蔵火事」を含め4回の大火に見舞われ、その時点から蔵作りが本格となり、見世(店)蔵と土蔵で120棟あると言う。

  大通りに面して見世蔵の向きは東側と西側では違う。西側の蔵の店先は大通りに平行しているが、東側の蔵の店先は北東の斜め向きとなっている。東側の店は男体山からの強い西風と西日を避けるために店先が斜めとなっているのだ。また、両側の店の軒先が短い。これは「例弊使一行」に庇から雨水があたらないための配慮だという。

032  大通りの見世蔵が建っている位置が当時のままだとすると、通りの中央に用水路が流れていたといえ、大変幅広い道路だったと今さらながら感じる。よく川越市の蔵づくりと比較される。「川越の蔵の方が重厚」と言われたら「栃木の蔵の前には広い歩道がある」と言い返せる。川越の蔵作りの通りは乗合バスが頻繁に行き交い、危ない。それにしても、アーケードや面かぶりを撤去する時、商店主の人、一応に賛成はしなかったのではないかと察せられる。まだ面かぶりを撤去しないお店も見受けられるしな…。

026  栃木市市街の北、万町交番を左に曲がり、すぐ右手には斜めの通りに日光例幣使街道嘉右衛門町地区がある。平成24年の3月、栃木市は嘉右衛門町地区を重要伝統的建造物郡保存地区と決め、文科省より選定されると聞いた。栃木市街の蔵作り街並みも申請する予定だが、高さの関係で嘉右衛門町が一足先に文科省より選定されるという。「栃木市、蔵の街」は嘉右衛門町保存地区と合わせて全国的な知名度に発展し、観光客増加の期待が持てることになった。

 福島県「大内宿」、埼玉県「川越市」、茨城県「真壁町」、千葉県「佐原市(現香取市)」と並ぶことになる。栃木県では初めての伝統的建築保存地区となる。小江戸サミットメンバーの川越市、佐原市と共同してのイベントも盛んになるだろう。

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  しかし、地方都市の宿命なのか、「シャッター商店街」もあることを見据えていく必要がある。観光アピールのみに力を注ぎ、地元の市民が栃木市街に来る施設が必要だ。それも高齢者だけではなく若者や家族連れの人達だ。映画などイベントが実施されているが、恒常的にくる施設が必要だ。 以前住んでいた所沢市の近くの川越市は蔵作りなど歴史的建造物以外にショッピングが楽しめる商店街があり、多くの若者や家族連れで賑わっていた。

 今回、栃木市役所の移転が「福田屋」跡地に決まった。市役所移転を含め、ショッピングが郊外ではなく、街の中で楽しめる事業計画を作り、観光客と地元の市民が共に行きかう街づくりを目指して欲しい。及ばずながら、私自身も何ができるか、考えていきます。

                        《夢野銀次》

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春はあけぼの―ジャガイモ苗の植え付け

023   ~春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。「清少納言・枕草子」より。

   我が家の庭先からの明け方。白い月の光の下に赤みを帯びた紫の空が見えた。

  岡崎義恵著『源氏物語の美』の中で『日本文芸の絵画性は、「枕草子」「源氏物語」においてほぼ完成したと思われる。平安時代は日本芸術における絵画性の確立した時代であるが、その中でも「枕草子」は絵画性を豊富に持った作品である。006_3清少納言は特に色彩をもってこの絵を文芸の中に描く天才であった。』と指摘している。

  春はあけぼの、紫だちたつ雲の前句の、すこしあかりては赤紫を指して、神秘性を持って映し出してくる。平安時代の書物の中で色の語彙を集計した宮島建夫『古典対照語彙集』では源氏物語と枕草子が『いろ』の語彙が圧倒的に多いとしている。

 一年前に購入した『小梅の苗木』、花が咲きました。小梅だけに小さな花びらでした。

  紅梅の苗木を今度は植えてみます。

003  「ジャガイモはお彼岸前に植える』ということで、3月14日にジャガイモ苗4キロを植えた。少し早かったかもしれないが、以前はもっと早く植えていた。

 霜がおりてこないことを祈ります。

 腰を屈んで植えたからか、2日後に両太ももの筋肉が痛くなってきた。

009  エンドウ豆の苗を植え、強い風対策のために西北側をビニールで風よけを作った。

  昨年は3月11日に植え、支柱を建ている時、あの大震災がおこった。ゆらゆらと長い時間揺れていたことを覚えている。復興は進まない。せめて復興については超党派で委員会を作り対応すべきだったと思える。「究極の環境破壊」の原発事故。対応した東電、管内閣、保安委員の方々の『ごまかし発言』。明るみ出るたびに、やっぱりなと思える。政府、政治家、原発当事者の発言は信用できなくなってくる。

010  前住居者が植えた「ビオラ」の花がバラバラに咲いてきた。妻が庭先に花壇を作り、一か所にまとめ植え替えをした。 

 紫のビオラの花が咲きました。

 

    《夢野銀次》

 

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船村徹『私の履歴書 歌は心でうたうもの』、高野公男・美空ひばり

G2008100723funamura_b1  ~思い 出したんだとさ 逢いたくなったんだとさ いくらすれても 女はおんな 男心にゃ 分るもんかと 沖の煙りを 見ながら ああ あの娘が泣いてる波止場~ 

『あの娘が泣いてる波止場』は作詞高野公男、作曲船村徹、歌は三橋美智也で昭和30年12月にキングレコードから発売された。時に船村徹23歳、高野公男25歳。二人にとり初めてのレコードだった。

51az3tpq5rl_sl500_aa300_1_4    「歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びからでたものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。日本の音楽教育は明治以来、西洋音楽至上主義の歴史を歩んできた。中でも町の片隅で黙々と生き人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑(さげす)む傾向さえある。私の作曲家人生はこうした風潮に対する反逆でもあった」と著者の船村徹は『私の履歴書 歌は心でうたうもの』(日本経済新聞社、平成14年発刊)のまえがきでこう書き出している。日本経済新聞の連載『私の履歴書』を一冊の本にまとめた書であり、日本の戦後歌謡曲史を解く本とも言える。

  船村徹が作曲家として世に出るまで26歳で亡くなる高野公男の辛苦の話。『別れの一本杉』の大ヒットによりキングレコードから日本コロムビアに移ってからの作曲活動、作詞家星野哲郎との出会い。そして不世出の歌手「美空ひばり」との戦い。村田英雄、北島三郎との関わりが綴られ、「演歌巡礼」「歌供養」への思いが記述されている。そして最終章では「歌は聴く者の心に響いてこそ歌であり、心に残ってこそ歌である」と結んでいる。

Takano1_3  ~泣けた 泣けた こらえきれずに 泣けたっけ あの娘と別れた哀しさに 山のかけすも鳴いていていた 一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ~ 『別れの一本杉』(作詞高野公男、歌春日八郎、昭和30年11月発売)

 「いまのような曲が爆発的に売れ、しかし信じられないような早さで忘れられるような時代ではなかった。一曲一曲が大事に切実に人々の心に届いた時代だった」。「最近の若い人たちの間で、はやる歌とういうのは、聴かせるものものではなく見せるものではないかということだ。聴こうとしても歌詞が意味不明。早すぎて耳に入ってこない。これはテレビという媒体を通して流される宿命なのだろうか」と船村徹は問いかけてくる。その通りだと私も思っている。

 船村徹の仕事場、栃木県今市市(現日光市)にある『楽想館』には高野公男が『遺書』として残した『男の友情』の歌詞が飾られ、親友高野公男と今も語り合っている。「高野はこう言った。『東京、東京と言ってるが、東京に出てきた人間はいつかきっとふるさとを思い出す。おれは茨城弁で作曲する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ。そうすれば古賀政男も西条八十もきっと抜ける』そしていまでも鮮明に覚えている高野の言葉がある。『きっと地方の時代が来る』。高野の詞は戦後復興の波にも乗れず、町の片隅で寂しさを抱えて生きる人々の気をとらえている」と亡き親友との絆を原点として作曲活動を行ってきたことを振り返る。

 ~遠い 遠い 思い出しても 遠い空 必ず東京へついたなら 便りおくれて言った娘 りんごのような 赤い頬っぺたのよ あの泪~

~呼んで 呼んで そっと月夜にゃ 呼んでみた 嫁にもゆかずにこの俺の 帰りひたすら待っている あの娘はいくつ とうに二十はよ 過ぎたろに~

  この歌を私が24歳、挫折感と孤独な生活の中で、夜、四畳半アパート一室の窓から故郷の方を見ながら口ずさんでいた。あの頃のことは今でも忘れていない。人生の分岐点になっていたからだ。

Hibari1_2  高野公男の死によって船村徹は荒れた生活を送った。にもかかわらず、昭和31年から昭和35年にかけてヒット曲を生み出した。美空ひばり『波止場だよお父つぁん』(昭和31年)、コロンビアローズ『どうせ拾った恋だもの』(昭和31年)、青木光一『柿の木坂の家』(昭和32年)、島倉千代子『東京だヨおっ母さん』(昭和33年)とすぐに歌詞が浮かんでくる歌でもある。とりわけ美空ひばりについては熱を帯びて記述している。

  「美空ひばり」との戦いの章で初めて「ひばり御殿」での出会い。栃木県今市市、関の沢出身の父加藤増吉の栃木訛りでのあいさつの後、美空ひばりとの「波止場だよお父つぁん」のレッスン。当時24歳の船村徹は19歳の美空ひばりのことを次のように記述している。

  「私はピアノを弾きながら『波止場だよお父つぁん』を歌った。次にひばりさんが歌った。それは驚くべき歌唱だった。彼女は読譜はそれほど達者ではなかった。だが、音符の上下動を目で追いながら、感覚的にメロディーのもたらす感情の起伏を読みとり、作詞家や作曲家が自分に何を求めているのかまで瞬時につかみ取ってしまうのだ」。

1309265593076161299111_9  「私はこの年下の小さな女を見ながら震えていた。年齢の差を超えて畏怖(いふ)の念を覚えた。素直に言えば、彼女の表現力は私の感性の先を行っていた。こんな歌手にどんな曲を書けばいいのか。少しでも手を抜けば歌唱で完膚なきまでにやりこめられるに違いない。ひばりというブラックホールに巻き込まれ、自滅するのではないかという恐怖心に似た思いが胸をかすめた。私にとって彼女との出会いは不世出の歌手『美空ひばり』との戦いの始まりだった」と畏れと作曲活動の戦いを記している。「歌手が作家の意図を超えて歌う。楽曲を作家の手から奪い取って自分のものにしてしまうことが極めて稀に存在する。美空ひばりという歌手がそうだった。私が知る唯一の例である」と記述している。

   作曲家という立場の人による「美空ひばり」について書かれたものは数少ない。「天才歌手」という言葉では片づけない船村徹らしい著しかただと思える。以後、「哀愁出船」「みだれ髪」までの逸話が本に記述されている。

800pxshinjuku_koma_studium_20091  平成20年(2008)12月に閉館した新宿コマ劇場で私が「美空ひばりショー」を観たのは何年前だったろう。仕事が早く終り、新宿歌舞伎町に立ち寄りをしたら「美空ひばりショー」がコマ劇場で演っていた。芝居は終わり歌謡ショーのみで最後尾の席だった。ショーが始まり、キンキンキラキラと派手な衣装の美空ひばりが舞台を回りながら歌いだした。「東京キッド」「悲しき口笛」「港町十三番地」などおなじみの曲が終わり、暗転。その後、一筋のスポットライトがピアノの前に座った美空ひばりを照らす。~一人酒場で飲む酒は~……。と「悲しい酒」を歌いだす。凄い。引き込まれる。劇場全体の観客をグーと手元に引き寄せ、すっと引き離す。その呼吸と間。最後尾の私の体が舞台に引き寄せられ、ある瞬間、とき放された感覚となり、スーと気持が静まり、やがて気持ちの高まりが起こり、心の広がりを感じた。歌謡ショーでここまでの心を動かし、観客の心を引き寄せる歌声。それが美空ひばりなのだと、その時思った。美空ひばりのステージ、観ていて良かったと今でも自負している。「俺は美空ひばりショーを生で観ているゾ」と自慢している。

 下野新聞社発行の「船村徹の世界」の中で、スポーツ新聞取締役小西良太郎が「古賀政男は日本の歌謡曲の開拓者。そして、船村徹は戦後歌謡曲普者の代表だ」と評価、位置付けをしている。しかし、最近の船村徹の作品は浮かんでこない。昨年暮れから、由紀さおりが1969年(昭和44年)の歌謡曲を世界にアピールしていることが「夜明けのスキャット」を通して報道されている。今一度、船村徹として「情歌」を含んだ曲で、「誰か」と前に進む曲を作ってくれることを願って止まない。

                             《夢野銀次》

 

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夫婦で登れる山城―上州新田・金山城

Photo   「群馬県太田市と栃木県足利市とがこんなに近いとは思わなかった」。東武伊勢崎線の電車の窓から金山城を見ながらそう思った。太田駅からタクシ―で金山城麓の金龍寺まで行く。そこからすぐの「金山城址ガイダンス施設」で案内パンフを戴き、南コースで頂上の本丸・実城(みじょう)・新田神社を目指し、急な斜面のハイキングコースの山道を一気に登った。山頂部の標高239メートル、比高差約170メートルの金山城は関東平野に突き出るような丘陵に築かれた戦国期の山城だ。また、関東七名城の一つとして数えられている。

 ※関東の七名城=唐沢山城(佐野市)、太田城(茨城県太田市)、厩橋城(前橋市)、宇都宮城、川越城、忍城(行田市)、金山城(群馬県太田市)。

Photo_2   太田市教育委員会は平成4年(1992)から金山城の発掘調査を始め、想像以上の石垣・石敷が多用されていることが分かって来た。そのため案内パンフレットでは、平成12年(2001)にかけての第一期整備事業において、金山城を「憩の場・歴史学習の場とすることを目的とし、皆に親しまれるよう、分かりやすい整備を目標に進めたとしている。その内容は金山城における『戦国時代の複雑な通路形態を元に戻す』ことを整備のコンセプト(構想)とし、数百年前の金山城の姿を可能な限り再現することにに努めたことの記述がある。Photo_3 さらに、『石の山城』としての特徴をイメージしていくため、段状に積み上げて高さを出す技法に基づいて、石垣を当時の高さまで完全復元したとしている。

  発掘調査は大手虎口につながる月の池南側の現地説明会の開催等を行う等、現在も続いている。

  本丸の実城から裏手にある当時の現存する石垣を見て、二の丸、三の丸、日の池、大手虎口、月の池を見ながら西尾根に続く整備された金山城内の通路の道を進む。Photo_18
   満面と水を湛えた日の池、月の池を見ると、古代より雨乞いの場でもあったことが分かる。 さらに大きな堀切、馬場曲輪、物見台、馬場下通路、竪堀、物見台下虎口、物見台下の堀切、西矢倉台等攻撃と防戦を想像しながら駐車場のある西城に出る。広い駐車場を通り過ぎ、見附出丸の土塁を見て、ハイキングコースに添って山を下り、金龍寺の裏手に出た。本当は逆コースで西城から尾根伝いに本丸・実城に向かうことが戦国時代の山城の複雑な通路を体験できることになるということが分かった。「金山城は整備され過ぎて、戦国時代の荒涼とした山城の感覚が味わえない」という話を聞くことがある。Photo_19
  奈良大学教授の城郭研究家の千田嘉博著の『戦国の城を歩く』の中で「城跡はそれ自体が謎にみちていて、ただ訪ねて歩き、痕跡をたしかめ、自然につつまれるだけで楽しいのです。(略)城の堀や土塁を見つけるよろこびの大きさ。そして堀底に降り、切岸(きりぎし)を登り、曲輪を歩き、土塁をたどって城のかたちを知り、そこに込められた古人のくふうを体感しつつ読み解いていく感動。城をただ訪ねるだけでなく、遺跡を読み解くことができれば、私たちは発見にまさる深いよろこびを無限に見だすことができます。なぜならば発見の喜びを自分で感じるだけでなく、数百年前に城を築き、守り、維持した直接会うことはできないPhoto_14人びとの努力や苦心を、城跡を通じて聞き、語り合うことができるからです。これは城跡を歩く人だけが味うことを許される特別な体験といってよいでしょう」と記述している。城址訪問を趣味として山城訪問者の気持ちを良く著している。

 ※切岸(きりぎし)=中世では石垣を基本的に用いないため、曲輪のまわりの斜面を急角度にカットした人口急斜面。

  だが、そのことだけでは一部の人の城址訪問者だけのことであり、多くの人が城址訪問、活用できる山城には繋がらないそのことを千田嘉博氏は去る2月25日に佐野市文化会館で開かれた『唐沢山城址国指定史跡化に向けて』の講演で、現在の城ブームにとして名古屋のPhoto_17イケメン武将や城のマスコットの登場など例に『城を楽しもう』という事例を挙げて、遺跡として城址を調べ城址を現代に活かす工夫の必要性を訴えた。

 とりわけ21世紀の城跡整備について『ベルギー・エーナム遺跡』ではAR(拡張現実)を遺跡整備に導入していることの紹介があった。具体的には遺跡のそばの三角点からIDを使用して復元した城が見えるということだ。建造物のない石垣や土塁の上にアイフォン等を使Photo_6用して櫓や塀が復元され、現在と当時の空間をつなげ、体感できる仕組みとだ述べていた。日本の城でAR(拡張現実)を試みている城として、名古屋城(愛知県)、松坂城(三重県)、高松城(香川県)、上ノ国勝山城(北海道)をあげていた。AR使用しての城跡を現代に活かし、体験ではなく『体感』できる城跡活用の考えなど同氏の今後の研究が楽しみであり、注目していきたい。

  整備されているが故に金山城をハイキングとして訪れ、楽しんでいる人が多いと感じた。それも高齢の夫婦。実城・本丸を目指す登りの時や頂上での昼食の時、西尾根伝いの下りの帰路、平日にも関わらず5組以上の夫婦のハイカーとすれ違った。いずれも高齢者と見受けたが、元気にお互い励ましあいながら山を登り降りをしていた。この光景はこれからの城址訪問の姿に重なって見えた。金山城は夫婦で登れる城であり、堀切、竪堀、虎口を見て、木橋、土橋など歩くことなど、これが山城だということを体験できる城跡だと思えた。

Photo_7  戦国期の山城城址訪問をする際、私は攻城と防衛戦、そして落城のイメージを想像して楽しむ。しかし、天正12年(1584)12月、北条氏による金山城の落城はどうも解せなくすっきりしていない。

  太田市『金山城ホームページ』には「天正12年(1584)小田原北条氏に金山城由良国繁とその弟で館林城主長尾顕長が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されましたが、二人の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡すこととなり、由良氏は桐生城に退きました。金山城には北条氏の家臣が配置されました」と記載されている。同じように小和田哲男監修『日本の名城・古城』、峰岸純夫・齋藤慎一編集『関東の名城を歩く北関東編』においても北条氏に国繁と顕長が拘束されての籠城戦で、二人の帰還を条件に城を明け渡したことになっている。

Photo_13   豊富な史料、古文書を基に書き上げた市村高男著『東国の戦国合戦』では「12月なかばに北条軍の金山・館林両城への攻撃が開始されると、由良・長尾両氏は北条氏の計略によって城を奪われ、講和して帰城の後、改めて金山・館林両城を明け渡し、由良氏は桐生城へ、長尾氏は足利城へ退去することを余儀なくされた」(「松田充雄氏所蔵文書」「阿久澤文書」「佐竹文書」)とあり、二人が北条方に拘束、幽閉されたことの記述がなく計略によって城を奪われたと記述されている。東国の戦国期末の「沼尻の合戦」(栃木県岩舟町、藤岡町辺り)に焦点をあてた齋藤慎一著『戦国時代の終焉』では、天正12年7月に北条と反北条(佐竹、宇都宮、結城氏等)と和解し、双方の対陣が解かれた。しかし、北条は沼尻の合戦の原因(反北条への翻意)を作った由良国繁の金山城と長尾顕長の館林城を8月に攻めたが、落とすことができなかった。(略)12月には由良・長尾攻めを再開する。上野国内に在陣していた北条氏照は12月10日には伊勢崎方面の備えを払い、敵方の藤岡城(栃木市藤岡町)に軍勢を向かわせている。伊勢崎方面の備えとは由良国繁の金山城を攻める拠点を指すことから、12月初旬には由良国繁の居城金山城は北条方に渡っていたことになる。沼尻の合戦に火を付けた当事者としては実にあっけない開城だった」と具体的な攻防戦、落城の記述は出てこない。市村高男氏の「北条氏の計略によって城を奪われた」のところがひっかかる。いずれ古文書を読んで自分なりに解明していきたいと思っている。

                                《夢野銀次》

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