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船村徹『私の履歴書 歌は心でうたうもの』、高野公男・美空ひばり

G2008100723funamura_b1  ~思い 出したんだとさ 逢いたくなったんだとさ いくらすれても 女はおんな 男心にゃ 分るもんかと 沖の煙りを 見ながら ああ あの娘が泣いてる波止場~ 

『あの娘が泣いてる波止場』は作詞高野公男、作曲船村徹、歌は三橋美智也で昭和30年12月にキングレコードから発売された。時に船村徹23歳、高野公男25歳。二人にとり初めてのレコードだった。

51az3tpq5rl_sl500_aa300_1_4    「歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びからでたものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。日本の音楽教育は明治以来、西洋音楽至上主義の歴史を歩んできた。中でも町の片隅で黙々と生き人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑(さげす)む傾向さえある。私の作曲家人生はこうした風潮に対する反逆でもあった」と著者の船村徹は『私の履歴書 歌は心でうたうもの』(日本経済新聞社、平成14年発刊)のまえがきでこう書き出している。日本経済新聞の連載『私の履歴書』を一冊の本にまとめた書であり、日本の戦後歌謡曲史を解く本とも言える。

  船村徹が作曲家として世に出るまで26歳で亡くなる高野公男の辛苦の話。『別れの一本杉』の大ヒットによりキングレコードから日本コロムビアに移ってからの作曲活動、作詞家星野哲郎との出会い。そして不世出の歌手「美空ひばり」との戦い。村田英雄、北島三郎との関わりが綴られ、「演歌巡礼」「歌供養」への思いが記述されている。そして最終章では「歌は聴く者の心に響いてこそ歌であり、心に残ってこそ歌である」と結んでいる。

Takano1_3  ~泣けた 泣けた こらえきれずに 泣けたっけ あの娘と別れた哀しさに 山のかけすも鳴いていていた 一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ~ 『別れの一本杉』(作詞高野公男、歌春日八郎、昭和30年11月発売)

 「いまのような曲が爆発的に売れ、しかし信じられないような早さで忘れられるような時代ではなかった。一曲一曲が大事に切実に人々の心に届いた時代だった」。「最近の若い人たちの間で、はやる歌とういうのは、聴かせるものものではなく見せるものではないかということだ。聴こうとしても歌詞が意味不明。早すぎて耳に入ってこない。これはテレビという媒体を通して流される宿命なのだろうか」と船村徹は問いかけてくる。その通りだと私も思っている。

 船村徹の仕事場、栃木県今市市(現日光市)にある『楽想館』には高野公男が『遺書』として残した『男の友情』の歌詞が飾られ、親友高野公男と今も語り合っている。「高野はこう言った。『東京、東京と言ってるが、東京に出てきた人間はいつかきっとふるさとを思い出す。おれは茨城弁で作曲する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ。そうすれば古賀政男も西条八十もきっと抜ける』そしていまでも鮮明に覚えている高野の言葉がある。『きっと地方の時代が来る』。高野の詞は戦後復興の波にも乗れず、町の片隅で寂しさを抱えて生きる人々の気をとらえている」と亡き親友との絆を原点として作曲活動を行ってきたことを振り返る。

 ~遠い 遠い 思い出しても 遠い空 必ず東京へついたなら 便りおくれて言った娘 りんごのような 赤い頬っぺたのよ あの泪~

~呼んで 呼んで そっと月夜にゃ 呼んでみた 嫁にもゆかずにこの俺の 帰りひたすら待っている あの娘はいくつ とうに二十はよ 過ぎたろに~

  この歌を私が24歳、挫折感と孤独な生活の中で、夜、四畳半アパート一室の窓から故郷の方を見ながら口ずさんでいた。あの頃のことは今でも忘れていない。人生の分岐点になっていたからだ。

Hibari1_2  高野公男の死によって船村徹は荒れた生活を送った。にもかかわらず、昭和31年から昭和35年にかけてヒット曲を生み出した。美空ひばり『波止場だよお父つぁん』(昭和31年)、コロンビアローズ『どうせ拾った恋だもの』(昭和31年)、青木光一『柿の木坂の家』(昭和32年)、島倉千代子『東京だヨおっ母さん』(昭和33年)とすぐに歌詞が浮かんでくる歌でもある。とりわけ美空ひばりについては熱を帯びて記述している。

  「美空ひばり」との戦いの章で初めて「ひばり御殿」での出会い。栃木県今市市、関の沢出身の父加藤増吉の栃木訛りでのあいさつの後、美空ひばりとの「波止場だよお父つぁん」のレッスン。当時24歳の船村徹は19歳の美空ひばりのことを次のように記述している。

  「私はピアノを弾きながら『波止場だよお父つぁん』を歌った。次にひばりさんが歌った。それは驚くべき歌唱だった。彼女は読譜はそれほど達者ではなかった。だが、音符の上下動を目で追いながら、感覚的にメロディーのもたらす感情の起伏を読みとり、作詞家や作曲家が自分に何を求めているのかまで瞬時につかみ取ってしまうのだ」。

1309265593076161299111_9  「私はこの年下の小さな女を見ながら震えていた。年齢の差を超えて畏怖(いふ)の念を覚えた。素直に言えば、彼女の表現力は私の感性の先を行っていた。こんな歌手にどんな曲を書けばいいのか。少しでも手を抜けば歌唱で完膚なきまでにやりこめられるに違いない。ひばりというブラックホールに巻き込まれ、自滅するのではないかという恐怖心に似た思いが胸をかすめた。私にとって彼女との出会いは不世出の歌手『美空ひばり』との戦いの始まりだった」と畏れと作曲活動の戦いを記している。「歌手が作家の意図を超えて歌う。楽曲を作家の手から奪い取って自分のものにしてしまうことが極めて稀に存在する。美空ひばりという歌手がそうだった。私が知る唯一の例である」と記述している。

   作曲家という立場の人による「美空ひばり」について書かれたものは数少ない。「天才歌手」という言葉では片づけない船村徹らしい著しかただと思える。以後、「哀愁出船」「みだれ髪」までの逸話が本に記述されている。

800pxshinjuku_koma_studium_20091  平成20年(2008)12月に閉館した新宿コマ劇場で私が「美空ひばりショー」を観たのは何年前だったろう。仕事が早く終り、新宿歌舞伎町に立ち寄りをしたら「美空ひばりショー」がコマ劇場で演っていた。芝居は終わり歌謡ショーのみで最後尾の席だった。ショーが始まり、キンキンキラキラと派手な衣装の美空ひばりが舞台を回りながら歌いだした。「東京キッド」「悲しき口笛」「港町十三番地」などおなじみの曲が終わり、暗転。その後、一筋のスポットライトがピアノの前に座った美空ひばりを照らす。~一人酒場で飲む酒は~……。と「悲しい酒」を歌いだす。凄い。引き込まれる。劇場全体の観客をグーと手元に引き寄せ、すっと引き離す。その呼吸と間。最後尾の私の体が舞台に引き寄せられ、ある瞬間、とき放された感覚となり、スーと気持が静まり、やがて気持ちの高まりが起こり、心の広がりを感じた。歌謡ショーでここまでの心を動かし、観客の心を引き寄せる歌声。それが美空ひばりなのだと、その時思った。美空ひばりのステージ、観ていて良かったと今でも自負している。「俺は美空ひばりショーを生で観ているゾ」と自慢している。

 下野新聞社発行の「船村徹の世界」の中で、スポーツ新聞取締役小西良太郎が「古賀政男は日本の歌謡曲の開拓者。そして、船村徹は戦後歌謡曲普者の代表だ」と評価、位置付けをしている。しかし、最近の船村徹の作品は浮かんでこない。昨年暮れから、由紀さおりが1969年(昭和44年)の歌謡曲を世界にアピールしていることが「夜明けのスキャット」を通して報道されている。今一度、船村徹として「情歌」を含んだ曲で、「誰か」と前に進む曲を作ってくれることを願って止まない。

                             《夢野銀次》

 

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コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 履歴書の書き方 | 2012年3月24日 (土) 16時14分

履歴書の書き方さんコメントありがとう。
是非、また遊びに来て下さいネ

投稿: 銀次 | 2012年3月25日 (日) 04時59分

「別れの一本杉」は、船村徹さんの数ある名曲の中でもダントツの名曲だと思います。まさに「歌は心でうたうもの」だと思います。

記事を私のブログに掲載させてもらいました。ご了承お願いします。

⇒ブログ「営業の良識を問う」
http://mondai-kaimei2011.blog.so-net.ne.jp/2012-11-07-1

投稿: クレーマー&クレーマー | 2012年11月 7日 (水) 08時37分

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