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夫婦で登れる山城―上州新田・金山城

Photo   「群馬県太田市と栃木県足利市とがこんなに近いとは思わなかった」。東武伊勢崎線の電車の窓から金山城を見ながらそう思った。太田駅からタクシ―で金山城麓の金龍寺まで行く。そこからすぐの「金山城址ガイダンス施設」で案内パンフを戴き、南コースで頂上の本丸・実城(みじょう)・新田神社を目指し、急な斜面のハイキングコースの山道を一気に登った。山頂部の標高239メートル、比高差約170メートルの金山城は関東平野に突き出るような丘陵に築かれた戦国期の山城だ。また、関東七名城の一つとして数えられている。

 ※関東の七名城=唐沢山城(佐野市)、太田城(茨城県太田市)、厩橋城(前橋市)、宇都宮城、川越城、忍城(行田市)、金山城(群馬県太田市)。

Photo_2   太田市教育委員会は平成4年(1992)から金山城の発掘調査を始め、想像以上の石垣・石敷が多用されていることが分かって来た。そのため案内パンフレットでは、平成12年(2001)にかけての第一期整備事業において、金山城を「憩の場・歴史学習の場とすることを目的とし、皆に親しまれるよう、分かりやすい整備を目標に進めたとしている。その内容は金山城における『戦国時代の複雑な通路形態を元に戻す』ことを整備のコンセプト(構想)とし、数百年前の金山城の姿を可能な限り再現することにに努めたことの記述がある。Photo_3 さらに、『石の山城』としての特徴をイメージしていくため、段状に積み上げて高さを出す技法に基づいて、石垣を当時の高さまで完全復元したとしている。

  発掘調査は大手虎口につながる月の池南側の現地説明会の開催等を行う等、現在も続いている。

  本丸の実城から裏手にある当時の現存する石垣を見て、二の丸、三の丸、日の池、大手虎口、月の池を見ながら西尾根に続く整備された金山城内の通路の道を進む。Photo_18
   満面と水を湛えた日の池、月の池を見ると、古代より雨乞いの場でもあったことが分かる。 さらに大きな堀切、馬場曲輪、物見台、馬場下通路、竪堀、物見台下虎口、物見台下の堀切、西矢倉台等攻撃と防戦を想像しながら駐車場のある西城に出る。広い駐車場を通り過ぎ、見附出丸の土塁を見て、ハイキングコースに添って山を下り、金龍寺の裏手に出た。本当は逆コースで西城から尾根伝いに本丸・実城に向かうことが戦国時代の山城の複雑な通路を体験できることになるということが分かった。「金山城は整備され過ぎて、戦国時代の荒涼とした山城の感覚が味わえない」という話を聞くことがある。Photo_19
  奈良大学教授の城郭研究家の千田嘉博著の『戦国の城を歩く』の中で「城跡はそれ自体が謎にみちていて、ただ訪ねて歩き、痕跡をたしかめ、自然につつまれるだけで楽しいのです。(略)城の堀や土塁を見つけるよろこびの大きさ。そして堀底に降り、切岸(きりぎし)を登り、曲輪を歩き、土塁をたどって城のかたちを知り、そこに込められた古人のくふうを体感しつつ読み解いていく感動。城をただ訪ねるだけでなく、遺跡を読み解くことができれば、私たちは発見にまさる深いよろこびを無限に見だすことができます。なぜならば発見の喜びを自分で感じるだけでなく、数百年前に城を築き、守り、維持した直接会うことはできないPhoto_14人びとの努力や苦心を、城跡を通じて聞き、語り合うことができるからです。これは城跡を歩く人だけが味うことを許される特別な体験といってよいでしょう」と記述している。城址訪問を趣味として山城訪問者の気持ちを良く著している。

 ※切岸(きりぎし)=中世では石垣を基本的に用いないため、曲輪のまわりの斜面を急角度にカットした人口急斜面。

  だが、そのことだけでは一部の人の城址訪問者だけのことであり、多くの人が城址訪問、活用できる山城には繋がらないそのことを千田嘉博氏は去る2月25日に佐野市文化会館で開かれた『唐沢山城址国指定史跡化に向けて』の講演で、現在の城ブームにとして名古屋のPhoto_17イケメン武将や城のマスコットの登場など例に『城を楽しもう』という事例を挙げて、遺跡として城址を調べ城址を現代に活かす工夫の必要性を訴えた。

 とりわけ21世紀の城跡整備について『ベルギー・エーナム遺跡』ではAR(拡張現実)を遺跡整備に導入していることの紹介があった。具体的には遺跡のそばの三角点からIDを使用して復元した城が見えるということだ。建造物のない石垣や土塁の上にアイフォン等を使Photo_6用して櫓や塀が復元され、現在と当時の空間をつなげ、体感できる仕組みとだ述べていた。日本の城でAR(拡張現実)を試みている城として、名古屋城(愛知県)、松坂城(三重県)、高松城(香川県)、上ノ国勝山城(北海道)をあげていた。AR使用しての城跡を現代に活かし、体験ではなく『体感』できる城跡活用の考えなど同氏の今後の研究が楽しみであり、注目していきたい。

  整備されているが故に金山城をハイキングとして訪れ、楽しんでいる人が多いと感じた。それも高齢の夫婦。実城・本丸を目指す登りの時や頂上での昼食の時、西尾根伝いの下りの帰路、平日にも関わらず5組以上の夫婦のハイカーとすれ違った。いずれも高齢者と見受けたが、元気にお互い励ましあいながら山を登り降りをしていた。この光景はこれからの城址訪問の姿に重なって見えた。金山城は夫婦で登れる城であり、堀切、竪堀、虎口を見て、木橋、土橋など歩くことなど、これが山城だということを体験できる城跡だと思えた。

Photo_7  戦国期の山城城址訪問をする際、私は攻城と防衛戦、そして落城のイメージを想像して楽しむ。しかし、天正12年(1584)12月、北条氏による金山城の落城はどうも解せなくすっきりしていない。

  太田市『金山城ホームページ』には「天正12年(1584)小田原北条氏に金山城由良国繁とその弟で館林城主長尾顕長が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されましたが、二人の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡すこととなり、由良氏は桐生城に退きました。金山城には北条氏の家臣が配置されました」と記載されている。同じように小和田哲男監修『日本の名城・古城』、峰岸純夫・齋藤慎一編集『関東の名城を歩く北関東編』においても北条氏に国繁と顕長が拘束されての籠城戦で、二人の帰還を条件に城を明け渡したことになっている。

Photo_13   豊富な史料、古文書を基に書き上げた市村高男著『東国の戦国合戦』では「12月なかばに北条軍の金山・館林両城への攻撃が開始されると、由良・長尾両氏は北条氏の計略によって城を奪われ、講和して帰城の後、改めて金山・館林両城を明け渡し、由良氏は桐生城へ、長尾氏は足利城へ退去することを余儀なくされた」(「松田充雄氏所蔵文書」「阿久澤文書」「佐竹文書」)とあり、二人が北条方に拘束、幽閉されたことの記述がなく計略によって城を奪われたと記述されている。東国の戦国期末の「沼尻の合戦」(栃木県岩舟町、藤岡町辺り)に焦点をあてた齋藤慎一著『戦国時代の終焉』では、天正12年7月に北条と反北条(佐竹、宇都宮、結城氏等)と和解し、双方の対陣が解かれた。しかし、北条は沼尻の合戦の原因(反北条への翻意)を作った由良国繁の金山城と長尾顕長の館林城を8月に攻めたが、落とすことができなかった。(略)12月には由良・長尾攻めを再開する。上野国内に在陣していた北条氏照は12月10日には伊勢崎方面の備えを払い、敵方の藤岡城(栃木市藤岡町)に軍勢を向かわせている。伊勢崎方面の備えとは由良国繁の金山城を攻める拠点を指すことから、12月初旬には由良国繁の居城金山城は北条方に渡っていたことになる。沼尻の合戦に火を付けた当事者としては実にあっけない開城だった」と具体的な攻防戦、落城の記述は出てこない。市村高男氏の「北条氏の計略によって城を奪われた」のところがひっかかる。いずれ古文書を読んで自分なりに解明していきたいと思っている。

                                《夢野銀次》

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