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2012年5月

葬列から告別式へ―勝田至編『日本葬制史』

51scfb0mbnl_ss500_1   「亡くなった〇〇さんの出棺が午後3時。門送りをしますので〇〇さん宅の前に午後2時45分に集まってください」。先日、町内の役員が私の家に伝えに来た。「門送り(かどおくり)」って何なのだろうか?今まで経験したことがなかった事だ。通夜・告別式を行なう斎場に向かう棺を自宅から送る際に近隣住民が見送る行事のことだった。喪主は出棺の際、集まった近隣住民にお見送りのお礼の挨拶をする。また葬儀が終了した後も近隣住民宅一軒々お礼の挨拶をして回る。この地域では葬列から斎場で行う告別式に変わってからもずっと行っている葬儀の一環だそうだ。ある地域では門送りをやめ、告別式だけ参加を決めている所もあるという。

 平成24年(2012)5月に吉川弘文館発刊のテーマ別通史シリーズ、勝田至編の「日本葬制史」を読んだ。裏表紙には『古来、人々は死者をどのように弔ってきたのか。死体が放置された平安京、棺桶が山積みされた江戸の寺院墓地など、各時代の様相は現代の常識と異なっていた。日本人の他界観と、「死」と向き合ってきた葬制の歴史を探る』との視点が書かれてある。執筆者は6人で「葬送から墓制の歴史をどうとらえるか」から始まり、1原始社会・2古代・3中世・4近世・5近現代の葬送と墓制について記述されている。

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  著書には古代から平安時代にかけて、一般民衆は風葬、つまり地上に死者を置いてそのまま帰るのが普通であったとし、平安京では京を流れる河川の河原が風葬地だった。朝廷は無秩序な葬送を禁止し、代わりの葬地を貞観13年(871)に指定したり、平安京の郊外の山野(蓮台野・あだし野)も葬地として使われるようになったことの記述が出てくる。また、京内の道路や空閑地にも遺体が遺棄されたとされていた。遺棄された遺体は犬に食われる。それを民間の「聖」が霊魂供養を行っており、現代人から異様にみえる遺棄葬である。しかし、平安時代においてはかなりの庶民がこうした葬制を採っていたとしている。風葬という葬送、初めて知った。墓地は近世になって増加していったのだ。

 近世、江戸期の葬制の中でゾクッとした箇所がある。西木浩一氏の「墓標なき墓地の光景」と形容する江戸下層民の埋葬実態を紹介している箇所だ。『新宿区の旧円応寺の様相の異なる2つの墓地の遺構。1つは墓道に沿って墓が一定のままで整然と並んでいる。もう一方はそうした整然さがまったくみられず、逆に埋葬遺構が幾重にも折り重なるように密集していた。そこは土葬とは言っても、さして深くない墓穴に棺桶を入れ、その上にちょいと土をかけた程度の埋葬していたところで、しかも新しい棺桶が以前埋められた古い棺桶を上から押し潰し、棺桶が小山のように積み重なっている区域。誰がどこに葬られているかわからない。我々の想像を絶する「墓標なき墓地の光景」の登場だ』と執筆者の木下光生奈良大教授が紹介しての記述がある箇所だ。

 4988003258788_1l1この「墓標なき墓地」に埋められたのは都市の下層民であることを西木氏が突き止めたとしている。一つは単身の日用者(日雇い単純労働者)ともう一つが裏店(うらだな)層とよばれる小規模町人たちだったとし、亡くなった場合には人宿が遺体を引き取り、人宿らの檀那寺に日用層は葬られた。この墓地を「投げ込み」の光景と紹介している。

 古今亭志ん生の落語「黄金餅」の世界と瓜二つだと思えた。江戸の貧乏裏長屋、一分金・二分銀を饅頭に包んで飲み込み亡くなる西念坊主。それを隣の壁から見ていた金兵衛が葬式を仕切って、金子を手に入れ饅頭屋として成功する話。樽の棺桶、長屋からの葬列、金兵衛の檀那寺、火葬場での噺。実にグロテスクな噺だが、志ん生の噺は茶目っ気を含んでおかしく明るい。そして、死者を乗り越えていく生命へのエネルギーをみなぎらしている語りとなっている。「黄金餅」は江戸のリアルな庶民の葬送をあらわした噺だと改めて思った。江戸期の下層庶民階層の生活実態、まだまだ学んでいく必要を感じた。

 
0041 5の近現代の葬送と墓制では明治維新による廃仏毀釈についての記述がある。明治維新で神道国教化を推進するため徳川の寺請制度により幕藩体制の一躍を担った寺院を無力化するために行なわれたこと。江戸期では神職といえども仏式の葬儀が行われ、神葬祭は認められなかったこと。明治6年(1873)に「火葬」は仏教的とみなされ禁止された。しかし2年たらずの明治8年(1875)に火葬禁止は解除された。葬儀は人民の情を抑制するものではなく、特に取り締まらくても行政上問題なしという理由だが、実際は禁止されても火葬は行われていたと記述されている。

10gou1_2  自宅から出棺した棺を囲み、幟、花飾りを歩いて寺院、火葬場に行く「葬列」は大正時代から廃止されていった。交通の便、火葬場までの歩く距離の長さ、霊柩車の出現があげられるが、何よりも参列者への引き出物の財政負担が大きかったとしている。仏式を排除すのを目的として告別式が生まれた。しかし、現在の告別式はいつの間にか洗練された宗教形式の葬儀に変わっていると指摘している。

 死者を地域の共同体から他界に送り出す葬列から死者に別れを告げる儀礼として告別式に変わった。かつての葬列での飾りは告別式の祭壇になっているとしている。

 4の近世の葬送と墓制で、抽象的な「先祖」を供養するのではなく、「親、夫や妻といった特定人物に対する追憶主義的供養」が江戸期の下層民はあったとする指摘。現在でも通用する供養の考えと思えた。

 冒頭の「門送り」。地域の集落(共同体)から送り出す「葬列」の流れとして今も続いている行事であることが分かった。それだけでもこの書物、読んだかいがあった。

                              《夢野銀次》

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市川崑『おとうと』-栃木・蔵の街かど映画祭

044 「普段の映画館と違う雰囲気で映画や蔵の街を楽しんでもらおう」と、5月19・20日に第5回目の『栃木・蔵の街かど映画祭』が開かれた。会場は栃木市内にある『見世蔵』や有形文化財の『栃木高校講堂』『岡田記念館』などを使用した14会場で30作品の映画が上映された。運営は市内の団体、商工会などを中心としており、チラシに記載されている協賛・協力20、参加運営団体12と地域をあげての規模の大きな映画祭となっている。地域活性化の意味から職員総出で会場受付等、栃木信用金庫が力を入れたり、東武鉄道における車両広告など協賛・協力の輪の広がりが見え、『やっているな』と感じた。

043  『蔵が伝える明日への想ひ』というキャッチフレーズ。蔵の内部のミニシアター。30席の会場内を見て、若い時、民家の店舗を借りて、私の最後の演出で仲間と芝居を上演した会場のことを思い出した。

  栃木市内にある見世蔵を活用しての映画上映。誰が考えたのか。関係者の一人に聞いたら「栃木市内で撮影の協力、エキストラをしているとちぎフイルム応援団ではなかったかな」と言っていた。

Pwfxiybj1  見世蔵会場の一つ『太田蔵』において昭和35年(1960)キネマ旬報ベストワンの市川崑監督『おとうと』を観た。映画初の「銀残し」とういう手法を使い、暗さと明るさの輝度差をつけた作品でもある。そのため岸恵子演じる姉「げん」の表情は眼と顔の色彩が異様なほど強度を増していた。

 結核で亡くなる放蕩のおとうと「碧郎(へきろう)」の若い川口浩、作家の父親の森雅之、リュウマチで手足が不自由で愚痴をこぼす継母の田中絹代。さらに懐かしい俳優、仲谷昇、岸田今日子、伊丹十三と演技派を揃えた作品になっている。

  ばらばらでいがみ合いを続ける家族。しかし、おとうと「碧郎」の死を迎える時、看取る家族は一つになっていく。

 

Otohto1_5 山田洋次監督「おとうと」は市川崑監督「おとうと」をまね、捧げる作品として作っている。病室のベットでリボンを結ぶ姉と弟。自分の父親も晩年がそうだったように厳格な父が柔和な父親になり、碧郎が神様に近づいたことを知る母親。そして放蕩なおとうとと多事多難な葛藤をしながら、最後まで看病する姉の「げん」の岸恵子。万引きに間違えられ怒るげん、おとうとにヒステリーで噛みつくげん。姉さんだなと感じた。大正時代の日本のどこか暗い家屋と明るい障子の光。茶の間で食事をするちゃぶ台。どれも丁寧にリアルに描いた作品だと改めて感じた。そしてラスト、貧血を起こした「げん」が立ち上がる。「お母さん休んでいて」と言いながらエプロンをして、ごみごみした看護婦の控え部屋から出ていくシーン。何気ないシーン。何気ない日常を写すのは「太平洋ひとりぼっち」のラスト、堀江青年役の石原裕次郎が浴槽から出ていき、残った「浴槽に残る垢の汚れ」と並ぶラストシーンを連想し、市川崑の世界だなと改めて感じた。

046  市川崑の「おとうと」、病院内の撮影は栃木市にある「栃木病院」で撮影されたと、ずっと以前に知人から聞いていた。そのため、今回の映画祭で上映されたのかなと思い、関係者に聞いてみた。しかし、撮影されたかどうかは分らないということだった。改めて知人に電話で聞いてみた。「間違いない。当時にニュ―スになった。また仲谷昇が岸恵子に言い寄る神社のシーンは第二公園だよ」と返事が返ってきた。栃木病院の外観の映像が出てくれば確信がもてるが、内部は忘れた。今度、風邪を引いたら、栃木病院に行き、内部を観てくるつもりだ。

051 帰り、途中の中田蔵では高校生が運営するシアターを見かけた。「満員」とういう垂れ幕があり、受付をする女子高校生の顔が誇らしげだった。上映作品は「書道ガールズ」。まだ観ていない映画だったことに気が付いた。

 この映画祭、全体の会場が14だがメイン会場が分からなかった。おそらくゲスト豊島圭介監督が来る「栃木高校講堂」だったのかもしれない。できればオープニングは栃木文化会館などで開き、誰でも知っている監督や山口智子などの女優が参加しての開催だったならば、さらに知名が広がる映画祭になるなと感じた。費用で一番かかるのは「上映権」だという。地域での街をあげての映画祭においては「上映権」を考慮することも映画界は必要でないかと思えた。

                            《夢野銀次》

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5月の風-夏野菜の植え付け

017 5月の風は家庭菜園の季節。「4月から5月にかけては身体を動かし、いじめる時期だ」と、今年もしみじみ感じた。

 夏野菜の定番「キュウリ、ナス、ピーマン、シシトウ、オクラ、インゲン」を二人で食べられるだけの苗を植えた。キュウリが4本と種を地下植えした。成長したら毎日の食卓、キュウリ攻めに遭うな。

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 4キロのジャガイモ、そろそろ花が咲き始めた。

 去年は6月後半から8月末までの朝の食事、ジャガイモだった。今年もそうなるのかな。

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 トマトの原産地は中南米だ。水が嫌い。

そのためトマトの上をビニールで覆うっている菜園を見かける。去年は肥料のビニール袋で屋根を作ってみたが根元が雨で濡れてしまった。今年はどうするかな?

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 昨年のゴーヤは縁側で緑のカーテンとしてやってみたがうまくいかなかった。

 地下植えではなくプランターだったからかもしれない。今年は最も悪いところの土を掘り起こし、畝を作ってみた。ここでうまくいったならば、次回から使える畑となれる。

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 所沢から移動してきた「つつじ」が咲き始めた。全部で5株。根元には一緒にきたドクダミが生えてきている。

                                  《夢野銀次》

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吹上藩と戊辰戦争安塚の戦い

015  正仙寺は栃木市吹上町の吹上中学校の隣にある。吹上中学校は皆川氏の支城跡に建っており、正仙寺も吹上城の一郭となっている。その正仙寺には吹上藩の藩士の墓と戊辰戦争安塚の戦いで戦死した藩兵4名の官修墳墓がある。

  吹上藩は天保13年(1842)に摂津有馬氏郁が領地替えで上総五井から移り立藩された。文久2年(1862)には12歳の有馬氏弘が継嗣し、二代にわたり明治4年(1871)版籍奉還で吹上県に変わるまでの、わずか30年間の吹上藩領地支配であった。

Photo_2  領地は一万石で半分が伊勢の国にあり、藩士は108名いたという。しかし、二代藩主氏弘の時には水戸天狗党栃木町焼打ち事件のかかわりや戊辰戦争への参戦、明治2年3月の斬奸事件と幕末から明治初期にかけて、激動の時代に向き合った藩でもあった。元々筑後久留米有馬家の分家であったが、徳川吉宗時代に譜代となり、江戸においては上・中・下屋敷を構えるなど格式の高い譜代藩だったいえる。現在では久留米有馬家は『有馬記念』の提唱者、15代当主有馬頼寧(よりやす)と直木賞・推理小説作家の16代当主の有馬頼義(よりちか)の名前で知られている。

036  吹上藩は戊辰戦争の際には、去就がなかなか決まらない下野において、中山道まで出向き、いち早く新政府軍に恭順を表明している。そして慶応4年(1868)4月22日、壬生町安塚姿川を挟んでの安塚の戦いに一小隊(60名)が新政府軍として参戦している。4月19日に壬生城に入り、河田佐久間率いる第二次宇都宮藩援軍に合流している。

  安塚の戦いは大鳥圭介率いる伝習隊を主力とした旧幕府軍が初めて負ける戦いとなり、下野における戊辰戦争のターニングポイントになっていると指摘されている。

034  慶応4年(1868)4月19日に土方歳三率いる旧幕府前軍は宇都宮城を攻略した。一方の大鳥圭介率いる旧幕府中軍は4月16日の小山の戦いで勝利し、壬生城を避け、栃木町から例幣使街道を通り鹿沼にて、前軍による宇都宮城攻略に落城を知り、20日宇都宮城に入った。ここで問題の軍議が開かれた。 宇都宮城では破壊され防御に不向き。孤立無援。補給線もなく守りきれないことでは一致した。しかし「所期の目的である日光山に籠るべき」との意見に対して、北上してきた新政府軍と「断固戦うべし」と繰り返す土方歳三と桑名藩隊長立鑑三郎らとが対立し、決着は翌日21日にずれ込んだ。この決着一日の差が新政府軍の安塚陣地構築の時間を与えことになった。

 大鳥圭介の所期の目的は徳川家の聖地日光山に籠り、関東の動静を見極める肚で、戦いを仕掛けるつもりはなかった。法治主義者の軍官僚であった圭介は、相手が発砲しないかぎり不戦を貫く心積りでいた。しかし、21日の軍議においては宇都宮城を攻略したことを受け止め、戦闘していく肚を固めた。そして、翌22日に壬生城めがけ攻撃を決めたとされている。なお、大鳥圭介は体調不良のため22日の安塚の戦いには出陣していなかった。

Img021_2 第一次宇都宮藩救援隊の香川敬三の壊滅を知った新政府軍は第二次援軍として隊長に鳥取藩河田佐久間を任命した。第二次救援隊は土佐藩・鳥取藩を主力として吹上・松本藩を加えた500名の強力な布陣とした。鳥取藩の中には新式ライフルを備えた伝説の農兵部隊松波六郎兵衛率いる松波隊や京都時代祭行列鼓笛隊隊のモデルともいわれている丹波国山国郡の農兵・山国隊もいた。さらに壬生雄琴神社神主黒川静馬の提唱で結成された民兵の利鎌(とがま)隊も加わった。河田佐久間率いる第二次新政府軍は4月20日に壬生城に入った。

042  宇都宮と壬生の中間点の安塚において、先に胸壁陣地を構築したのは新政府軍。姿川にかかる淀橋手前に松波隊。西側に土佐藩。ここに「磐裂根裂(いわさくね)神社」の亀塚古墳があり、陣地を構築をした。この神社は丘陵地帯となっており、淀橋から栃木街道にかけて見下ろす高台の地形となっている。松波隊の後方には松本藩と吹上藩。そして後方に鳥取藩を布陣とした。

  旧幕府軍、大鳥圭介が立てた作戦は安塚正面を攻撃部隊、安塚宿東から攻撃する部隊、遠く迂回して壬生城を攻撃する部隊の三つに分け、得意の包囲作戦であった。

058  慶応4年(1868)4月22日の早朝、風雨激しい中、姿川にかかる淀橋を超えての戦闘になった。新政府軍の側面をつく部隊が道を間違え、淀橋手前の幕田村に着き効果的な作戦にならなかった。しかし、それでも鶴翼の陣を引く旧幕府軍は栃木街道を壬生城に向けて優勢に戦闘を推し進めていった。

  壬生城にいた河田佐久間は新政府軍の苦戦を知り、予備隊をつれて安塚に急行した。ここから逆襲が始まった。河田は退却する兵に、抜刀して「退ク者ハ他藩トイエドモ死ヲ免(まぬか)レン」と叫んで押し返した(大獄浩良著「下野戊申戦争」より)。島遼伍著「北関東会津戊申戦争」によれば、河田の陣頭突撃により、戦況を一転し、突撃を受けた旧幕府軍」(伝習隊)は組織的な抵抗ができず、姿川に追いつめられ、陣地を奪い返した新政府軍に射的の的のように射殺されていった。旧幕府軍は西川田方面に退却した。新政府軍戦死者17名に対して旧幕軍の戦死者は70~80名、負傷者は100名近くにのぼり、伝習隊の2割を失う多大な敗北となったと記述している。

040_4   彰義隊上野戦争に加わった鳥取藩士河田佐久間は文久三年(1863)8月に京都本圀寺で藩重役3人を斬奸した22人の藩士の一人であり、幽閉されていた。鳥取藩主池田慶徳は水戸徳川斉昭の息子孝明天皇大和行幸に時期早々と進言したことから、「逆賊」と誤解されることになり、藩主の汚名は佐幕派の重臣にあるとし斬奸した事件の張本人。切腹ではなく、幽閉という寛大な措置であった(後日仇討へとつながるが)。

  幕府の長州再討をきっかけに河田佐久間は長州の厚遇を受け国事に奔走、鳥取藩に復帰し鳥羽伏見の戦いに鳥取藩は官に加わった。この参戦は藩主慶徳に了解を得ず、京都詰めの荒尾駿河守と河田佐久間の独断であったとされている。藩主慶徳は、弟の徳川慶善を敵側とすることは出来ず、板挟みとなり苦しみ、出来れば朝廷と幕府が融合する公武合体で国体を守るのがいいのではないかと思っていたのではと言われている。その後、鳥取藩は、倒幕へと藩論が一致し、江戸攻めの東征軍の一員として参戦したという経緯がある。

001_5 正仙寺境内に吹上藩士の墓と吹上藩斬奸事件墓碑がある

明治2年(1869)3月17日の早朝、吹上藩江戸上屋敷藩邸(日比谷公会堂の前あたり)に吹上藩の正義派9人が斬り込み、藩老3人を殺傷した。戊辰戦争における4人の戦死者の遺族への手当を3人の藩老が藩主を欺き横領したとしての殺傷した事件。吹上藩斬奸事件よ呼ばれている。斬りこんだ9人の内の8人は家名存続の切腹だったが、吹上村組頭鈴木政右衛門は平民のため斬首刑となった。8人という集団切腹は日本史最期の切腹と言われている。

 明治政府からは明治2年の6月に吹上藩に2000両の戊辰戦争恩賞金がでている。藩重臣が横領したという金はこれとは別なのか分らない。昨年(平成23年)7月9日に吹上まちづくり協議会で「吹上藩斬奸事件」の講座が開かれ、講師の大竹博氏よれば、この事件の史料がほとんどなく、事件の背景、動機など真意は不明だと述べた。

 「吹上斬奸事件」は安塚の戦いと連動していると思える。勝手な推測をするならば、藩の重臣を斬奸する行為は、安塚の戦いの隊長、河田佐久間が行った斬奸事件と同じ。おそらく安塚の戦闘を通して吹上藩士はそのことを知っており、影響を受けたのではないかと思える。さらに戦死した遺族への支払い金の横領は、平民で戦死した者へのお金でもあった。同時期、黒羽藩には各種各層に論功が行われ、軍夫に対しても5両から30両の下賜があったとされる。この吹上斬奸事件には農民鈴木政右衛門が加わっていることから、藩士より平民への慰労金が含まれていたと推察される。この事件から共に安塚で戦った藩士と農民のつながりが見えてくるのだ。

 戊辰戦争は武士同志の戦闘から草莽の士や農兵など出現により、身分を超えた政治権力闘争となっていった。その推移を注視していきたい。

〈参考資料〉

「北関東会津戊辰戦争」島 遼伍著、「下野の戊辰戦争」大獄浩良著、「戊辰戦争-慶応四年下野の戦場」栃木県立博物館、「近世栃木の城と陣屋」杉浦昭博著、「講座 吹上斬奸事件」吹上まちづくり協議会、「栃木市の歴史」日向野徳久著

               《夢野銀次》

 

 

 

 

 

 

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