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吹上藩と戊辰戦争安塚の戦い

015  正仙寺は栃木市吹上町の吹上中学校の隣にある。吹上中学校は皆川氏の支城跡に建っており、正仙寺も吹上城の一郭となっている。その正仙寺には吹上藩の藩士の墓と戊辰戦争安塚の戦いで戦死した藩兵4名の官修墳墓がある。

  吹上藩は天保13年(1842)に摂津有馬氏郁が領地替えで上総五井から移り立藩された。文久2年(1862)には12歳の有馬氏弘が継嗣し、二代にわたり明治4年(1871)版籍奉還で吹上県に変わるまでの、わずか30年間の吹上藩領地支配であった。

Photo_2  領地は一万石で半分が伊勢の国にあり、藩士は108名いたという。しかし、二代藩主氏弘の時には水戸天狗党栃木町焼打ち事件のかかわりや戊辰戦争への参戦、明治2年3月の斬奸事件と幕末から明治初期にかけて、激動の時代に向き合った藩でもあった。元々筑後久留米有馬家の分家であったが、徳川吉宗時代に譜代となり、江戸においては上・中・下屋敷を構えるなど格式の高い譜代藩だったいえる。現在では久留米有馬家は『有馬記念』の提唱者、15代当主有馬頼寧(よりやす)と直木賞・推理小説作家の16代当主の有馬頼義(よりちか)の名前で知られている。

036  吹上藩は戊辰戦争の際には、去就がなかなか決まらない下野において、中山道まで出向き、いち早く新政府軍に恭順を表明している。そして慶応4年(1868)4月22日、壬生町安塚姿川を挟んでの安塚の戦いに一小隊(60名)が新政府軍として参戦している。4月19日に壬生城に入り、河田佐久間率いる第二次宇都宮藩援軍に合流している。

  安塚の戦いは大鳥圭介率いる伝習隊を主力とした旧幕府軍が初めて負ける戦いとなり、下野における戊辰戦争のターニングポイントになっていると指摘されている。

034  慶応4年(1868)4月19日に土方歳三率いる旧幕府前軍は宇都宮城を攻略した。一方の大鳥圭介率いる旧幕府中軍は4月16日の小山の戦いで勝利し、壬生城を避け、栃木町から例幣使街道を通り鹿沼にて、前軍による宇都宮城攻略に落城を知り、20日宇都宮城に入った。ここで問題の軍議が開かれた。 宇都宮城では破壊され防御に不向き。孤立無援。補給線もなく守りきれないことでは一致した。しかし「所期の目的である日光山に籠るべき」との意見に対して、北上してきた新政府軍と「断固戦うべし」と繰り返す土方歳三と桑名藩隊長立鑑三郎らとが対立し、決着は翌日21日にずれ込んだ。この決着一日の差が新政府軍の安塚陣地構築の時間を与えことになった。

 大鳥圭介の所期の目的は徳川家の聖地日光山に籠り、関東の動静を見極める肚で、戦いを仕掛けるつもりはなかった。法治主義者の軍官僚であった圭介は、相手が発砲しないかぎり不戦を貫く心積りでいた。しかし、21日の軍議においては宇都宮城を攻略したことを受け止め、戦闘していく肚を固めた。そして、翌22日に壬生城めがけ攻撃を決めたとされている。なお、大鳥圭介は体調不良のため22日の安塚の戦いには出陣していなかった。

Img021_2 第一次宇都宮藩救援隊の香川敬三の壊滅を知った新政府軍は第二次援軍として隊長に鳥取藩河田佐久間を任命した。第二次救援隊は土佐藩・鳥取藩を主力として吹上・松本藩を加えた500名の強力な布陣とした。鳥取藩の中には新式ライフルを備えた伝説の農兵部隊松波六郎兵衛率いる松波隊や京都時代祭行列鼓笛隊隊のモデルともいわれている丹波国山国郡の農兵・山国隊もいた。さらに壬生雄琴神社神主黒川静馬の提唱で結成された民兵の利鎌(とがま)隊も加わった。河田佐久間率いる第二次新政府軍は4月20日に壬生城に入った。

042  宇都宮と壬生の中間点の安塚において、先に胸壁陣地を構築したのは新政府軍。姿川にかかる淀橋手前に松波隊。西側に土佐藩。ここに「磐裂根裂(いわさくね)神社」の亀塚古墳があり、陣地を構築をした。この神社は丘陵地帯となっており、淀橋から栃木街道にかけて見下ろす高台の地形となっている。松波隊の後方には松本藩と吹上藩。そして後方に鳥取藩を布陣とした。

  旧幕府軍、大鳥圭介が立てた作戦は安塚正面を攻撃部隊、安塚宿東から攻撃する部隊、遠く迂回して壬生城を攻撃する部隊の三つに分け、得意の包囲作戦であった。

058  慶応4年(1868)4月22日の早朝、風雨激しい中、姿川にかかる淀橋を超えての戦闘になった。新政府軍の側面をつく部隊が道を間違え、淀橋手前の幕田村に着き効果的な作戦にならなかった。しかし、それでも鶴翼の陣を引く旧幕府軍は栃木街道を壬生城に向けて優勢に戦闘を推し進めていった。

  壬生城にいた河田佐久間は新政府軍の苦戦を知り、予備隊をつれて安塚に急行した。ここから逆襲が始まった。河田は退却する兵に、抜刀して「退ク者ハ他藩トイエドモ死ヲ免(まぬか)レン」と叫んで押し返した(大獄浩良著「下野戊申戦争」より)。島遼伍著「北関東会津戊申戦争」によれば、河田の陣頭突撃により、戦況を一転し、突撃を受けた旧幕府軍」(伝習隊)は組織的な抵抗ができず、姿川に追いつめられ、陣地を奪い返した新政府軍に射的の的のように射殺されていった。旧幕府軍は西川田方面に退却した。新政府軍戦死者17名に対して旧幕軍の戦死者は70~80名、負傷者は100名近くにのぼり、伝習隊の2割を失う多大な敗北となったと記述している。

040_4   彰義隊上野戦争に加わった鳥取藩士河田佐久間は文久三年(1863)8月に京都本圀寺で藩重役3人を斬奸した22人の藩士の一人であり、幽閉されていた。鳥取藩主池田慶徳は水戸徳川斉昭の息子孝明天皇大和行幸に時期早々と進言したことから、「逆賊」と誤解されることになり、藩主の汚名は佐幕派の重臣にあるとし斬奸した事件の張本人。切腹ではなく、幽閉という寛大な措置であった(後日仇討へとつながるが)。

  幕府の長州再討をきっかけに河田佐久間は長州の厚遇を受け国事に奔走、鳥取藩に復帰し鳥羽伏見の戦いに鳥取藩は官に加わった。この参戦は藩主慶徳に了解を得ず、京都詰めの荒尾駿河守と河田佐久間の独断であったとされている。藩主慶徳は、弟の徳川慶善を敵側とすることは出来ず、板挟みとなり苦しみ、出来れば朝廷と幕府が融合する公武合体で国体を守るのがいいのではないかと思っていたのではと言われている。その後、鳥取藩は、倒幕へと藩論が一致し、江戸攻めの東征軍の一員として参戦したという経緯がある。

001_5 正仙寺境内に吹上藩士の墓と吹上藩斬奸事件墓碑がある

明治2年(1869)3月17日の早朝、吹上藩江戸上屋敷藩邸(日比谷公会堂の前あたり)に吹上藩の正義派9人が斬り込み、藩老3人を殺傷した。戊辰戦争における4人の戦死者の遺族への手当を3人の藩老が藩主を欺き横領したとしての殺傷した事件。吹上藩斬奸事件よ呼ばれている。斬りこんだ9人の内の8人は家名存続の切腹だったが、吹上村組頭鈴木政右衛門は平民のため斬首刑となった。8人という集団切腹は日本史最期の切腹と言われている。

 明治政府からは明治2年の6月に吹上藩に2000両の戊辰戦争恩賞金がでている。藩重臣が横領したという金はこれとは別なのか分らない。昨年(平成23年)7月9日に吹上まちづくり協議会で「吹上藩斬奸事件」の講座が開かれ、講師の大竹博氏よれば、この事件の史料がほとんどなく、事件の背景、動機など真意は不明だと述べた。

 「吹上斬奸事件」は安塚の戦いと連動していると思える。勝手な推測をするならば、藩の重臣を斬奸する行為は、安塚の戦いの隊長、河田佐久間が行った斬奸事件と同じ。おそらく安塚の戦闘を通して吹上藩士はそのことを知っており、影響を受けたのではないかと思える。さらに戦死した遺族への支払い金の横領は、平民で戦死した者へのお金でもあった。同時期、黒羽藩には各種各層に論功が行われ、軍夫に対しても5両から30両の下賜があったとされる。この吹上斬奸事件には農民鈴木政右衛門が加わっていることから、藩士より平民への慰労金が含まれていたと推察される。この事件から共に安塚で戦った藩士と農民のつながりが見えてくるのだ。

 戊辰戦争は武士同志の戦闘から草莽の士や農兵など出現により、身分を超えた政治権力闘争となっていった。その推移を注視していきたい。

〈参考資料〉

「北関東会津戊辰戦争」島 遼伍著、「下野の戊辰戦争」大獄浩良著、「戊辰戦争-慶応四年下野の戦場」栃木県立博物館、「近世栃木の城と陣屋」杉浦昭博著、「講座 吹上斬奸事件」吹上まちづくり協議会、「栃木市の歴史」日向野徳久著

               《夢野銀次》

 

 

 

 

 

 

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