« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »

2012年7月

栃木巴波川―渡し舟のあった本沢河岸跡

005_4 小山市の上泉と下川原田の境界を流れる巴波川にかかる橋、蛍橋がある。栃木市と藤岡町部屋河岸を結ぶ『日光裏道中』(部屋河岸通り)の寒川の手前にあたるこの「蛍橋」のところに本沢河岸跡がある。

 『本沢橋』として木橋が架かったのは大正11年(1922)。昭和2年(1927)4月にコンクリートの橋が架けられ『蛍橋』と名付けられた。橋が架けられるまでは渡し舟で両岸が連絡されていたという。

017 橋のたもとには江戸期から商いをしている『青木商店』がある。『自分が生まれた時に調度コンクリートの橋ができた。渡し舟のことは聴いたことがあるな。でももうなかったし見てねェ』と青木商店の御主人は語ってくれた。『昔はこんな高い堤防はなく、雨が多く降れば田んぼに川の水が入ってきたんだ。家は質屋もやっていたんだな。蔵には質草もあるし、横の塀と門構えの所で銀行もやっていたんだ』と往時の昔を語る。その先隣りには銘酒雄東の造り酒屋、『杉田酒造』がある。

009  巴波川の中で渡し舟があったことは知らなかった。小山市観光協会のネットでは『蛍橋』を紹介しているが渡し舟のことの記述はない。

昭和の初め、暗闇にホタルが渦を巻いて柱のように舞った蛍橋は中小学校から南へ100mの上泉と下河原田の境界でもある巴波川に架かっている。この地はかつて本沢河岸と呼ばれ、舟運が盛んだった。ホタルの名所にちなんで「蛍橋」と名づけられる。(略) 岸辺にヨシやアシが密生、柳やハンの木も茂り、ホタルがすむのに絶好の条件をそなえていた。

029昭和12年(1937)頃までホタル狩りも盛んで、3軒の料理屋は屋形船を出したという』(小山市観光協会)。 

 現在、蛍は飛んでいない。小学生向けに何とか蛍を飛ばそうと地元でも研鑽しているという。

 

032 ここ蛍橋(本沢橋)は日光例幣使道富田宿の手前を右折し、別名例幣使裏道中にでて榎本城下を過ぎ、日光裏道中(別名部屋河岸通り)と交わる地点に位置する。交通の要所であり、近在の物資の集積地になる。そのため巴波川舟運を活用するための本沢河岸があった。

 部屋河岸・新波河岸から栃木町に向けて遡航してくる都賀舟には糠、干鰯、塩、酢や油、小間物等が運ばれ、江戸には米、大豆、大麦等を運んだ。舟運は情報の伝達の速さをも加速させていった。 

022 蛍橋を渡り、料亭のあった家並みを過ぎ、巴波川の東岸を南に進むと左側に墓地がある。そこには「昭和のがんくつ王」と称された吉田石松翁の墓がある。ここに墓地があることを日向野徳久著「栃木の水路・うずま川編」で最近になって知った。

 大正13年8月13日の強盗殺人事件において拷問を受け、無期懲役で刑務した。入獄中、囚人ではないと主張、労務を拒否し53回の懲罰を受けたりもした。50歳にて始めて文字を習い、仮出所の後、手記を以って各方面に無実を訴えた。報道関係者の協力により偽証した犯人の行方を突き止め再審請求を行い、昭和38年2月28日に完全無罪の判決を受けた。

  『碑面』

  人権の神ここに眠る

    吉田石松之碑  

      吉田石松の文字は獄中手記より  

      翁之碑の文字は小林登裁判長筆  

                      青山与平

 私が中学3年の時、まだ焼失前の栃木市「明治座」で、ある劇団が「昭和のがくつ王」を上演したのを観た記憶がある。映画上映が終了した遅い時間での上演だった。舞台での「取り調べ」が今も印象に残っている。名もない職工が権力者の重圧に抵抗、自己の尊厳を守りぬいた人だった。

 吉田翁の墓から栃木県道153号と50号バイパスが交差する下川原田交差点陸橋が見えた。部屋河岸通り沿いには歴史の中で生き抜いた人々の足跡がまだまだあると思えてきた。

                            《夢野銀次》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »