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2012年8月

うずま川水運の中継積換河岸―部屋河岸・新波河岸

Photo 栃木市から栃木県道153号(栃木市ー野木町)の新波十字路を右折し藤岡町に向かう途中に「巴波橋(うずまばし)」が架かっている。この巴波橋上流200メートルあたりから渡良瀬(谷中)遊水地・渡良瀬川合流までへの流れを「新うずま川」と言われている。足尾銅山鉱毒事件が原因となっての新川である。もとはこの橋の200メートル上流から左岸・東南方へ流れて、部屋・新波(にっぱ)河岸へいたっていた。

 谷中遊水地最後の仕上げといえる大正3年(1914)から6年かけての河川改修でこの新川はできた。これにより300年続いた「うずま川舟運」は筏流しを除き幕を閉じた。

Photo_2  廃川となった旧うずま川は川幅9尺(2.7メートリ)を残し、河岸の遺構が約2㎞残っている。現在は雨水、農業用水の排水や一部生活排水と利用されているが、地元荒井那著の『巴波川・部屋河岸』の中で「江戸時代から明治時代にかけて部屋・新波河岸として栄えた面影が残る貴重な歴史的文化遺産である」とし「河川跡地は他に類をみない遺構である」と力説している。

 両岸の部屋・新波河岸はうずま川舟運の中継積換河岸として江戸期から明治期にかけて賑わいをみせていた。

 うずま川の水運は元和3年(1617)家康の霊枢を久能山から日光山へ改葬した前後から始ったとされている。栃木河岸から江戸への廻米、鍋山石炭、江戸中期頃からは菜種、明治期には麻ひも等商品作物を部屋河岸・新波河岸まで小船(部賀舟・全長13.5m)で運び、同所で大船(高瀬船)に積換え、渡良瀬川、利根川関宿を経て江戸方面へ送った。江戸方面からの荷物も大船でこの両河岸まで送られ、小船に積み換えて栃木河岸まで運んだ。大船から小船に、小船から大船へと積換えの中継河岸として部屋・新波河岸があったのだ。

Photo_7  栃木河岸から部屋河岸までの全長19.25㎞のうずま川について「下野一国」(慶安4年、1651)では栃木から部屋河岸迄 水幅10間(約18m)、水深2尺~3尺(約60~90cm)とあり、部屋から栃木まで水深が浅く、底の扁平な吃水の浅い舟しか遡航できなかった。それでも部賀舟で米50~120俵(中型高瀬船で500俵)を運ぶことができた。

 しかしうずま川の舟運は沿岸12か村との争いは絶えなかった。部屋河岸から栃木河岸まで小型船を綱引き人足が引いて遡航していくため田圃の荒らしや下掛け水車の堰による遡航停止などがあった。そのためうずま川舟運は3月から8月までは原則できなかった。しかし、明治に入り12か村の領主古河藩が明治維新による衰退と明治政府産業推進により念願の1年間舟運が可能となった。粟野・足尾道が開かれると足尾の銅が栃木河岸に運ばれ、明治10年(1877)汽船が新波河岸まで入ってくるようになり隆盛を極めた。だが明治18年東北本線、同21年両毛線の鉄道が敷かれることにより舟運は衰亡を辿っていくことになった。

Photo_9 日向野徳久著『栃木の水路 母なるうずま』の中で部屋河岸のことをこう記述している「船が往来していたころは積換河岸として栄えた部屋河岸のまわりに料亭兼宿屋3軒、湯屋1軒があったほか、カラス貝・菅笠・菱の実等販売する店が軒を並べていたし、巴波橋の南の十字路のところには明治30年(1897)6月資本金13万円を以って部屋銀行が創立され、栃木町の塩元売捌善野喜平は部屋へ塩倉庫を建設した。これは塩元売捌業とともに大川注次郎にひきつがれ戦後まで存在した。とくに通運丸の発着所になってからは新波河岸にも団子屋や料亭兼宿屋が出来、料亭には酌婦が何人もいて嬌声が絶えなかった」。

Photo_10 荒井那著『巴波川』書の中に「明治35年頃の部屋河岸と新巴波川計画図」が載っていた。この地図を基に巴波橋手前を左に曲がり、部屋河岸通りを歩いてみた。まず右手に銀行と郵便局跡と裏には役場跡(痕跡はない)、やがて左側に消防小屋と研修所。ここが警察跡地となる。この裏側が白石、山中河岸跡。川岸まで降りてみた。川水は干されていたが、そこから先の河川から江戸が見えたような気がした。元の通りに戻り、右側の道を曲がり下って左に行くと裁判所跡地(現研修所)がある。さらに通りに戻り、旅籠跡と思わせる家並みを見ながら歩いた。跡地の標識がないため、地図を見比べての私の憶測だが、地図には当時の役場・銀行・郵便・裁判所・旅籠・船泊り・湯屋等の記載がある。今もある観音堂や八幡宮を起点としながら河岸跡や部屋河岸通りの家並み沿いを歩くと昔日の面影が浮かんでくるような気がした。

Photo_11 部屋河岸通りを突き進んでいくと誉田別命(ホムタワケノミコト)を祀る「部屋八幡宮」が鎮座している。境内に石段で降りると(階段を降りる神社はめずらしい)明治38年奉納の鳥居、天明8年(1788)狛犬一対、拝殿前の銀杏の大木、天明5年(1785)と刻まれている石灯篭一対や力石、芭蕉句碑等がある。また 拝殿内には相撲番付表の板番付もあるという。 八幡宮前の東側には旧うずま川が流れおり、木々が覆っている。川水を見ることてはできないが、舟運盛なころより、村の鎮守の杜であったことが偲ばれるPhoto_5囲気が漂っている。

 拝殿右側に楕円形の栃木市藤岡町有形文化財「力石」が奉納されてある。江戸中期から明治期にかけて神社の祭りの際には力自慢をきそう競技が行われていた。昔の農村での米俵を担ぐことから力くらべとして生まれたという。重さは55貫(206㎏)~13貫(48.7㎏)となっており、左から6番目の力石が30貫(112.5㎏)で一番多く使用されたという。これは船頭として見習い採用試験が30貫目の力石だったという(荒井那著「巴波川」より)。同書には葛生正吾さんから、力石の担ぎ方の記述紹介が記載されている。引用させていただく。①石は楕円形、卵型であり、鋭角を上にしてかつぐ。②荒縄(親指の太さ)を一寸五勺(50cm)位のものを、石の中間より下方に巻き、両手に巻き付けて持ち上げる。(麻縄はすべる)。③両脇に石を荒縄を使い持ちあげ乗せる。 石に上半身を出来るだけ寄せて石と身体を一体化し、一気に持ち上げる(バカ力を出すことだという)。④上胸部に石が当たり、肩に乗せることが難しい。⑤上半身裸のため汗で滑り、持ち上げ難く、又持ち上げても、勢いで肩から後ろへ落ちる事もしばしばであった。⑥石の重量は16~18貫位であった(米一俵16貫)石は持ち上げる事が難しく、「コツ」を取得する事が大変であった。⑦「力石」は重いものでPhoto_2
55貫のものもあり、話によると、30貫以上は船乗りしか上げられないだろうとの事である。重い石は河岸関係者の奉納である。⑧練習は農閑期の夜、数人の同好者で八幡宮、圓城寺等で行った。⑨江戸、明治時代は祭典行事などで、地元、船関係者で盛大な競技会が行われたことだろう。

 「春なれや 名もな起(き) 山の朝霞」はせを翁(芭蕉)。「野ざらし紀行」の一句を俳句愛好家の人達が文政4年(1821)石碑にして建立されている。栃木県歴史文化研究会会報『歴文だより』新井敦史氏によれば、栃木県には74基(全国2780基)の芭蕉句碑があるとしている。この句碑もその内の一つではないかと思える。荒々しい水運生活地域での句碑。何故か風情を感じた。

 かつての家屋遺跡は残されていないが、旧うずま川を挟んでの部屋河岸通り沿いの街並み、現代にもっと語り継ぐものがあるように思えた。それがなんなのか? 

 水運と情報伝達の中に当時の文化遺跡の流れを探っていくのも一つ方法かもしれないと思えた。

(参考文献)

 荒井那著『巴波川 部屋河岸』(下野新聞社平成19年5月発)

 日向野徳久著『栃木の水路 母なるうずま』(栃木県文化協会昭和54年12月)

                                   《夢野銀次》

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