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2012年9月

鬼怒川水運遡航終点の河岸―阿久津河岸

Photo  今年の5月に東京スカイツリー展望台がオープンする際に隅田川から見るスカイツリーがよくテレビに映しだされていた。隅田川、両国川下の清洲橋手前に小名木川が注いでいる。。小名木川は塩運搬用として行徳を結ぶ運河として造られたが、江戸期における舟運を担った川でもある。文禄3年(1598)から寛永6年(1639)にかけて行なった利根川東遷事業において隅田川から小名木川―船堀川(新川)―中川船番所―江戸川―利根川(関宿)―鬼怒川と繋げた。利根川を江戸湾から銚子へと水流を替えることにより、湿地帯の江戸を水害から守ることや年貢米や消費を支えるための水上交通網の確立を目指したためだ。

  阿久津河岸(現在の栃木県さくら市上阿久津)は奥州道中(宇都宮ー白河)の鬼怒川渡河点に位置し、鬼怒川水運の遡航終点であった。そのため慶長年間(1596~1614)から明治末に至る300年間、水陸両路の交通の要所として異常な発展をとげたと氏家町史に記述されている。

Photo_2   米は江戸期の経済の中心であり、江戸幕府体制を支えるシンボルであった。そのため年貢としての廻米の輸送は重要だった。鬼怒川舟運は小鵜飼船(こうかいせん)という長さ七間半~八間(13.6m~14.5m)、幅五尺五寸~六尺五寸(1.7m~2m)の船が活躍した。会津・二本松・白河等奥州南部から陸送されてきた米や紅花、漆などの特産物が阿久津河岸から船積みされて鬼怒川を下って江戸に向かった。また客船も出ていたという。

  氏家町史には維新後、黒羽藩知事大関増勤が阿久津河岸から船で下って東京に行く日程の記載が出ている。8月15日払暁黒羽城を発し、16日阿久津河岸を五ツ(午前8時)出船七ツ(午後4時)久保田河岸着泊。17日久保田を日の出立八ツ(午後2時)関宿…川口明七ツ(午前4時)着、18日川口朝出立、五ツ半頃(午前9時)両国着となっており昼3日を要したとしている。飛脚便で6日~7日だったことから相当の速さだなと思える。ここに記載していた川口という地名が分からなかった。しかし川口朝出立となっていることから中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に「中川船番所」があることから、ここで記述している川口とは中川口のことを云っていると解釈した。

Photo_19  氏家町史の中に明治初年代の阿久津河岸略図が載っていた。略図の上の部分が鬼怒川。宇都宮から続いている奥州道が鬼怒川を渡河して、左に行き右折し、真っ直ぐ下り、さらに左に曲がり氏家宿に向かっている。現在の栃木県道125号(白沢街道)の鬼怒川に架かる阿久津大橋は奥州道渡河地の右側となる。阿久津大橋から左先の土手下に大杉神社(写真参照)が今もある。しかし歩いて近く行ってみたら社は朽ちかけていた。

Photo_20 「かつての阿久津河岸の賑わいは軒を並べる旅人宿、馬宿や倉庫が建ち並び、諸国の取引商売も盛んで、茶屋・料亭からの弦歌のさんざめも河岸の景気を反映している。」と氏家町史に書かれている。同書には明治初年代の上阿久津村村勢では回漕問屋3、旅籠屋17、船頭93艘、船持55人、小鵜飼船119艘、戸数160戸、人口742人とある。「栃木の水路」には明治期の阿久津河岸の規模として河岸敷地3998坪、倉庫4棟、土蔵3階建、石蔵構造不明、河岸帳場1棟、納屋27棟(延べ727坪)と記載されている。

 Photo_7  略図を基に真中を通る江戸通り河岸町を歩いてみた。そういえば、松尾芭蕉もここ奥州道を歩いたのかと思い浮かべた。

 江戸通り河岸町には浮島地蔵、船魂神社、金比羅神社、大杉神社と水運の守り神を祀る社が今もある。しかし、かつて鬼怒川から船魂神社前の榎の木沼を通り、奥州道の下を抜けて鬼怒川に注いでいた運河は今はない。

  船魂神社の境内は船の形をしており、船の舳先にあたる位置に社殿が建立されており、右隣には金比羅神社も隣座している。

Photo_9   「栃木の水路」には天明3年(1783)完成したといわれる船魂神社のご神殿の写真が記載されている。四面の彫刻が施され、彩色されている立派なものである。河岸問屋若目田家の守護神として慶長15年(1610)とも、寛永年間(1624~1643)とも建立されたと言われる。河岸の繁栄と水上での安全を願う河岸問屋や船持人、船頭などの信仰が厚く、参拝者が跡を絶たなかったという。祭日の縁日(陰暦3月13日と9月13日)には、この日だけ船頭も河岸に船をとめ、航行の無事を祈ったという。

Photo_11   境内には「嘉永二己酉年九月九日吉辰 阿久津河岸惣舟持中」と刻まれた手洗石がある。「さらに弘化二年乙巳三月立」刻まれた石灯籠が建っている。その基石には「右側には右江戸道、左側に奥州道、裏側に此方河岸通」と刻まれている。道標は向かい合って見るのではなく、道標を自分の背中にして、右と左を見ると教えてもらったことがある。

 この境内に向かって左側後方が河岸問屋の若目田家の倉庫が連なり、鬼怒川に繋がる河岸となっていた。境内から道をはさみ南側を見る。沼地はないが、鬱蒼と茂る中に稲荷の鳥居と古い倉庫を見ることができた。「ここが若目田家の本邸跡地かな」と思った。江戸期から明治7年まで阿久津河岸問屋は若目田家の独占であった。「栃木の水路」では若目田家は宇都宮氏の家臣であったが、慶長2年(1597)の主家宇都宮氏の滅亡により、若目田久右衛門(道安)が上阿久津に帰農し、慶長11年(1606)に阿久津河岸を開設したという。

Photo_13  若目田家は上阿久津村の草分け百姓として大庄屋と河岸問屋を兼ねていた。明治中頃の記録によれば河岸の敷地は3998坪という広大な面積を有していたとの記述がある。

  江戸通りから奥州道を歩いてみたが道幅を除き、繁栄した河岸の面影はどこにもなかった。それでも「栃木の水路」には今なお御牡鹿屋、南部屋、福島屋、岩城屋、会津屋など廻米や諸物資の輸送から生まれたと思われる屋号や、綿屋、絹屋、大黒屋等小売商や旅籠屋などに従事したと思われる屋号が数多く残っており、かつての繁栄をうかがうことができるとの記述があった。そのことを期待して歩いたが、やはり残ってはいなかった。

01_2   映画「鉄道員(ぽっぽや)」の中で、娘雪子(広末涼子)と父親で駅長の乙松(高倉健)との会話のシーンが想い浮かぶ。「幌舞線なくなっちゃんですね。なくなるとどうなるの?」「なくなるのさ…」「駅や線路は?この建物も?」「なくなるのさ」「なくなるって」「あっという間に…、原野に戻るさ」「原野…」「鉄道ができる前の原野に戻る。鉄道があったことも忘れられちまうべな」「寂しい?」「寂しい…。後悔はしてねえよ。はあ…、どうする事もできねだけだ」「思い出が残る。楽しかった思い出が…」。ここで「あっという間になくなるのさ、後悔はしてねえよ」と気負わずに言い切る高倉健の姿は愚直なまで生きてきた日本人の男の人生を描いていた。阿久津河岸近くの喜連川と氏家駅を結んでいた人車鉄道の跡地も何も残っていない。

  明治末から大正にかけて阿久津河岸は幕を閉じた。慶長以降からの長い歴史の阿久津河岸は自然消滅した。それでも鬼怒川は今も滔々(とうとう)と利根川に向けて流れ続けている。そのことを噛みしめ、自分に納得する人生を歩んでいきたいと今さらながら思えたのだ。

 参考文献資料

「氏家町史上巻」

「栃木の水路・2章みちのくと江戸を結ぶ鬼怒川舟運」

 手塚良徳著、栃木県文化協会、昭和54年12月20日発行。

                                   《夢野銀次》

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地域をともに創る『協働』-栃木県の基本姿勢

6397760845_a6bc7ff8c1_z1 栃木県のNPO団体は約2000団体。その内NPO法人は530団体(全国ではNPO法人数46,000団体)ある。

 一般にNPOの活動は民間の立場で社会的なサービスを提供したり、社会問題を解決するために活動する団体を言う。具体的には地域の高齢者への食事を作って届ける(保健・医療・福祉)、子どもの虐待を防ぐ(子どもの健全育成)、地域の人々の居場所づくりを行う(まちづくり)等があげられて」いる。

 昨年11月に開催された『とちぎ県民協働フェスタ』は今年も11月13日( 火)に栃木県庁舎内で開かれる。NPOや各種団体の活動紹介を通して社会貢献活動への参加を高める場としている。

6397760967_82d93b8346_z1_2 栃木県では昨年より平成27年度にかけて「新とちぎ元気プラン」という安心・成長・環境をともにつくる計画の施策を始めている。その基本姿勢として「多様な主体が協働・創造する“とちぎ”」としている。従来の「行政のみが“公(おおやけ)”を担う」という発想から脱却し、「新たな〝公(おおやけ)”を拓く」という考えで県民、NPO、企業、行政などが連携・協力し、協働で創造することを力点としているのが特徴だ。

Ikiru41_3 都道府県の窓口担当者の目線は上から見ている。行政職員との話の底流には「公平の原則」「特定団体への利益排除」などが横たわっていることを感じてきた。「ともに街づくりをしましょう」と要望しても、行政側は「前例がない」「議員からのお話ならお聞きしましょう」と答える。「この人達、地域のことを考えているのかしら」と半分あきらめて呟いた人もいた。

 しかし、地方分権から行政サービスの見直しが始まり、さらに公共的な課題にとりくむNPOの増加により、公共の担い手が行政だけではないことが明らかになってきた。

 栃木県ではNPO・企業・行政がそれぞれの立場から課題を一緒に考え、解決にむけ目的を実現するため一緒に行動する考えを打ち出している。この基本姿勢を「協働」と位置付けている。(参考・とちぎの協働スタートブック)

Ikiru31 市職員として30年以上務めた市民課長の生きざまを描いた名作、黒澤明監督作品『生きる』(昭和27年度作品)を思い浮かべる。公園で亡くなった市民課長(志村喬)の通夜の席で語る市職員達。『忙しい、しかし俺たちは何もしてはいけないのだ。新しいことをやろうとしてはいけないのだ』と。公園作りを目指し、縦割り行政機構の垣根を一つ一つ取り払っていく市民課長の姿勢。志村喬の凄まじい演技はまさに『生きる』ことを示していた。

 石原東京都知事がある時言った。『都の職員は三(さん)ずだ。一つは休まず。二つは遅刻せず。そして三つめは仕事せずだ』。決まったことしか仕事をしない地方公務員を言い当てている。職員が多忙なのか事務が煩雑なのか分らない。しかし、私が今まで会ってきた職員の中で「住民のため新しく何かをやろう」と気概を持った人は何人いたろうか?

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 栃木県が打ち出している「協働」。住民と直に接している市町村の職員。その人たちは住民へのサービスを職務としている。「もっとこうすれば」「あの団体と相談して進めれば問題の解決につながる」。しかし、そこには「協働」とういう考えではなく、「行政に協力をしてもらうようお願いする」という上からの姿勢、思考がある。まずその思考を払拭していくことが必要だと思える。

 栃木県の提起する「協働」を進めるために行政職員、NPO、企業関連者を含めた中で、新たな公の担い手を育成していく場。それが「とちぎ県民協働フェスタ」だと思い、今年の11月13日(火)に栃木県庁に行ってみよう。

                                   《夢野銀次》

(追記)『生きる』のポスターには元市職員の小田切みきと志村喬が共にブランコに乗っているが、このシーンは映画にはない。おもちゃのウサギを見せながら『課長さんも何か作ってみたら』と若い小田切みきは言う。その時、課長は主婦達からの要望のあった公園を作る決心する。『生きる』決断をする。バックにはハッピバースデーの合唱が流れ渡る。感動のシーンだ。公園は二人によってできたことを意味しているのかナ。

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