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2012年10月

固い防御の城-氏家「勝山城」

Photo_14  勝山城は栃木県さくら市氏家(旧氏家町)、JR氏家駅から南へ約2キロの鬼怒川の東岸にある。この勝山城を起点とした宝積寺段丘は鬼怒川左岸に展開し、高根沢町から茨城県下館市までに及ぶ広大な平面が発達している。

 勝山城の城郭は最北端丘陵上にある。城の西側は断崖となり、鬼怒川の川床から10メートルの比高がある。南北420メートル、東西370メートルの鬼怒川の段丘面を天然の要害にした典型的な崖端城(がいだんじょう)となっている。

Katuyama11 略図の本丸左、西側は鬼怒川に面した絶壁で天然の要害となり、略図上の二の丸北郭の本丸側は丘陵先端部を利用して直角状の土塁と空堀をめぐらしている。さらにこの二の丸北郭の北側に北郭と区分する土塁と空堀がある。土塁の高さは城外から2.3メートル、城内から1.5メートルと低いが二重堀と土塁になっており、外側の堀は東に下って、そのまま二の丸東郭に続く通路になっている。

 大手口には平成5年には発掘調査に基づいた橋が復元されている。

Photo_15 大手口は土塁を外側に張り出して櫓台を備えた「横矢掛け」となっている。大手口に入る橋は直線ではなく斜めに建っている。張り出た土塁に面しているため敵が橋を渡り本丸に侵入する時、この土塁・櫓から弓を放てる作りとなっている。この橋の作りを筋交い橋と言い、逆井城の橋と同じ作りとなっている。

 本丸南西部に鍵状の搦め手口(裏口)があり土塁の「折」を見ることが出来る。本丸西側の土塁と堀を経て鬼怒川の絶壁となっている。鬼怒川を見下ろすことになる。ここの本丸西側の堀、昭和50年に土塁が削平され堀が埋められた。さらに削平された所に6層のレジャー施設としての天守閣、その他結婚式場が建てられ勝山城史跡が破壊されていった。

Photo_17 しかし、昭和54年本丸跡のレジャー施設が停止した際に、氏家町として勝山城史跡保存と再建に本格的に乗り出した。本丸跡を取得し発掘調査を重ね、西側の堀の再構築、大手口橋の建設を行い、平成4年5月には博物館「ミュ-ジアム氏家」(現在のさくら市ミュージアム-荒井寛方記念館)を建設する所まできた。民間から公有地として史跡保存への移行は大変なことである。掘り返された本丸西側の土塁と堀は他の堀に比べて綺麗に整地されている。

 大手口前の二の丸東郭は敷地が広い。恐らく出陣前に勢ぞろいする場所だったのかもしれない。さらにその東、二の丸の外堀(今の勝山城公園入り口前の通り)があったが、明治17年に県令三島通庸により陸羽国道に埋められた。勝山城史跡破壊の最初の人である。

Photo_19 勝山城築城の通説では「下野国誌」では宇都宮三代目の領主、宇都宮朝綱が祖父宗円のゆかりの地、勝山の霊場に3男の公頼を送り城を築いたとされている。しかし、近年では「銅版曼荼羅」に「橘公頼」と刻まれていたことから、「今宮祭祀録」から橘氏の系譜を引き継ぎ、宇都宮朝綱の妹との縁組で婿となったのが橘公頼だったのではないかと長嶋元重氏が「勝山城の興亡とその時代」で指摘している。

 長嶋元重によれば、氏家氏の始祖氏家公頼から3代か4代までは今の氏家小学校がある御前城を居城としていて、南北朝動乱のころ、この勝山城に移ってきたと述べている。その理由として鎌倉期と南北朝から戦国期にかけて城の縄張り、構造がまったく違う様相を示しているからだとしている。

Photo_18 当初の武士の館・城は屋敷に堀を廻らし、土塁を備え役所の部分として住んだ所が中心だった。しかし、鎌倉後期から南北朝期の激動の時代を迎え、一重の土塁・堀を二重にしたり、四方形の土塁に「折れ」を加えたり防備を固める城郭へと変化してきていた。天然の地形を利用し、攻めにくいところを選び、防備に有利な地点を選び城を築くようになってきた。氏家4代目の氏家公宗がこの勝山城を築城したとしている。

 勝山城は南北朝期には宇都宮氏綱・芳賀禅可によって南朝の北畠親房の八木岡城や益子城、飛山城攻撃など下野攻略と戦い、さらには足利尊氏・直義兄弟による「観応の擾乱」の戦闘を経て芳賀氏が勝山城の城主となり戦国期を迎える。その間に芳賀氏により強固な防御の城にしたことが推測できる。

Photo_20 宇都宮氏・芳賀氏は宇都宮城を中心とした外枠の城として、壬生城・上三川城・飛山城・勝山城等を配置して、下野の領主(皆川氏・那須氏・小山氏)と戦っている。

 那須氏との攻防では喜連川丘陵を境として勝山城を中心に阿久津城、高根沢城を配していた。拠点としての勝山城はたび重なる攻防の中、落城しなかったとされている。

 二の丸北郭の二重堀と土塁は那須氏との攻防の際に固い防御の役目をしたのかと勝手に推測する。飛山城にも二重堀・土塁があるという。今度行ってみよう。それのしても河川の断崖を活用しての崖端城、多くあるな。思川沿いの小山祇園城、鷲城、鬼怒川沿いの飛山城と勝山城、群馬の利根川沿いの沼田城、名胡桃城等々。

Photo_20 司馬遼太郎の「関ヶ原」の中に桑名城主氏家行広がでてくる。行広は東西の軍にはつかず中立を表明した。しかし関ヶ原の戦い後に改易され、大阪夏の陣で荻野道喜の名で参陣し、秀頼に殉じて自刃している。父は美濃三人衆の一人氏家友国(または直元、卜全)。その祖先は氏家三代経朝の弟仲綱の三男で越中に移住した重定で、その子重国が新田義貞の首級を捕ったことで美濃に入り、名をはせている。

 全国の氏家の名のルーツが、この勝山城にある。

《参考資料》

ミュージアム氏家作成「勝山城~氏家氏栄光の時代~」

氏家町史」

                                 《夢野銀次》

 

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紅葉-日光戦場ケ原・小田代原を歩く

Photo 「紅葉の戦場ケ原をみんなにみせたいんだ」と仲間の発案で10月22日、日光の戦場ケ原に行ってきた。その言いだしっぺの奴、後の段取り他の者に任せルンルンと参加してきた。

 しかし、前日に熊4匹が出たため戦場ケ原の中央は通行止めとなっていた。

 そのため、コースは湯滝から小田代原を通り赤沼に行くコースに変更となった。

Photo_13  滝の上から流れ落ちる激流は圧巻だ。コースはこの『湯滝』から始まった。もっとも赤沼の県営駐車場に車を停め乗合バスを利用して「湯滝」にいくことになっていた。しかし、駐車場は満杯で入れない。「月曜日なのに。これがシーズンというものかな」と嘆く。その先の三本松の駐車場に車を停めて、バスを待つ。しかし来ない。よって2.2キロを湯滝に向けて歩いた。車がひっきりなしに行き交う。交通量の激しい奥日光だ。

Photo_5 それでも「湯滝」は迫力のある滝だと恐れ入った感があった。

 「湯滝」から「湯川」に沿ったコースで戦場ケ原にむけて歩く。

 紅葉は少し終わっていたが、所々紅く染まったていた。

Photo_8
 奥日光は何年ぶりかな…。

 確か作新学院が甲子園で春夏連続優勝した年の春、観光バスの中で野球実況中継を聞いた記憶がある。昭和37年ということになる。その時は「いろは坂」を下っていた記憶がある。

 「いろは坂」は「第2いろは坂」が開通しており、昇り下りが別々になっていたこと、今回初めて知った。

Photo_12 奥日光は「竜頭の滝」まで見ていた。

それから先の戦場ケ原や湯滝は初めて見る、歩く世界だった。仲間との昼食弁当、それぞれ持参した「おかず」を美味しくいただいた。

 

 

 

 歩きながら熊の出没も心配したが、「熊の鈴」を持参した仲間もいた。できるだけその人の後ろ歩いた。

 銃を担いだ猟友会メンバー10人ともすれちがった。

Photo_10 

 小田代原を眺めながら「小学校の頃のように写生したいな」と思い浮かべた。絵を画く時間、デジカメでの一瞬ではない自分の時間、世界だ。

 

 10年前従兄の「クツヤノケンチャン」から戦場ケ原をスケッチしたハガキを受けた。文面には「一歩引いて見ている」と私のことを書いていた。そのケンチャン、学校の教諭をやめて何処かへいなくなった。好きな絵を画きながら、山の彼方で暮らしていることと思っている。

来て良かった。歩いて良かったナ。見て良かったネ。

                                《夢野銀次》

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なだらか喜連川丘陵―早乙女坂古戦場

Photo  早乙女坂古戦場跡地の「弥五郎殿」は栃木県さくら市氏家から喜連川に向けて国道293号を直進し、喜連川丘陵前の右カーブの道を右折せず、直線して旧道(奥州道)の坂道を昇る。日帰り温泉の「早乙女温泉」の手前の右側に早乙女坂古戦場の標識と石段がある。石段を昇ると宇都宮氏20代領主尚綱の供養塔を祀る祠が建っている。

  このなだらかな喜連川丘陵地帯にて天文18年(1549)9月27日辰の刻(午前8時―10時)に宇都宮尚綱二千騎と那須高資参百騎との合戦が行われた。時期については『関八州古戦禄』では天文15年(1546)となっているが、『下野国誌』引用から天文18年説が定説になっているという(氏家町史)。いずれにしても合戦の時期が数説あるということは、一回限りの衝突ではなく数回に渡って行われたことになる。

Photo_2 下野の三大豪族(宇都宮氏・小山氏・那須氏)の一つ那須氏は上那須、下那須と分裂していた。永正13年(1516)に烏山城主下那須の資房によって統合されることにより、那須氏の下野中央への進出が進む。一方の宇都宮氏においても一族重臣芳賀氏との内訌を抱えながらも勝山城を中心に那須氏への防御を強化していた。

  早乙女坂の合戦の原因として氏家町史では①古河公方足利晴氏の命で宇都宮勢が攻撃を仕掛けた、②宇都宮氏の領土野心、③那須勢の宇都宮領土内への侵入、④宇都宮尚綱に殺害された芳賀高経の養子、高照のため那須氏の挙兵と数説を氏家町史に記載され、合わせて宇都宮氏の内紛が利害関係を結びつけ合って、領土進攻と考えられると記述されている。

Photo_3  合戦は勝山城から出撃した宇都宮尚綱を中心に同族・配下の諸氏や氏家郷の郷士を含めた宇都宮軍二千騎に対して那須軍は参百騎と圧倒的な差で宇都宮勢が優位を占めていた。

  那須勢方の伊王野氏の家臣、鮎ケ瀬弥五郎実光により宇都宮総大将尚綱は射殺され形勢は大逆転し、那須軍の勝利となった。統制が乱れ戦意を失いない敗走する宇都宮勢の中で笠間幹綱の手の満川民部丞が加勢人として敗走したのでは面目がたたないとして踏み留まり、追手の那須勢と戦い、戦死した。『一人当千の侍なりと敵も味方も感心せり』と関八州古戦録に記載されている。那須高資は鮎ケ瀬弥五郎に宇都宮勢を敗走させた戦功として感状と太刀と銭10貫文を与えた。鮎ケ瀬弥五郎はその10貫文の賞金で尚綱討ち死の早乙女坂に五輪塔を建てて敵将の菩提を供養した(氏家町史)。

105  早乙女坂古戦場跡地は『弥五郎殿』と言われている。また石段の右側に松尾弥五郎標柱が建っている。昭和3年に建てられたこの石標の裏面に「敗走する宇都宮勢の中で加勢人の松尾弥五郎が踏み留まって奮戦激闘し、壮烈な戦死を遂げた。合戦後、宇都宮氏は松尾弥五郎博垣の忠死を供養するため永楽銭10貫文を掛けて五輪塔を建立し墳墓とした。それからこの場所を“十貫塚”と呼び、早乙女坂を“弥五郎坂”と改称した」と確認をしなかったが『喜連川町誌』から引用して記述しているという。しかし、松尾弥五郎は架空人物であり、敵地に宇都宮氏が供養塔を建てる筈がない。明治44年編纂の喜連川町誌では早乙女坂合戦の史料を『塩谷記』のみの引用したため誤解を招いたと氏家町史で記述されている。しかし、難病平癒の神とされ民間信仰が盛んになったため「弥五郎殿」と呼ばれるようになったとしている。

  このためなのか「弥五郎坂」はさくら市観光ガイドの載っていない。当初、国道沿いにあると思い早乙女坂を上り、喜連川町に出てしまった。早乙女坂にあるお店に聞いても分らないという返事。古戦場訪問をあきらめ早乙女温泉に入っていくつもりで旧道を昇って行ったら「早乙女坂古戦場の標識」を偶然に見つけた次第。

  五輪塔祠から見る喜連川丘陵はなだらかな斜面となっている。その先に氏家郷が見えて、眺めがよい。那須氏をこの穀倉地帯が欲しかったのかなと思えた。

                              《夢野銀次》

 

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