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なだらか喜連川丘陵―早乙女坂古戦場

Photo  早乙女坂古戦場跡地の「弥五郎殿」は栃木県さくら市氏家から喜連川に向けて国道293号を直進し、喜連川丘陵前の右カーブの道を右折せず、直線して旧道(奥州道)の坂道を昇る。日帰り温泉の「早乙女温泉」の手前の右側に早乙女坂古戦場の標識と石段がある。石段を昇ると宇都宮氏20代領主尚綱の供養塔を祀る祠が建っている。

  このなだらかな喜連川丘陵地帯にて天文18年(1549)9月27日辰の刻(午前8時―10時)に宇都宮尚綱二千騎と那須高資参百騎との合戦が行われた。時期については『関八州古戦禄』では天文15年(1546)となっているが、『下野国誌』引用から天文18年説が定説になっているという(氏家町史)。いずれにしても合戦の時期が数説あるということは、一回限りの衝突ではなく数回に渡って行われたことになる。

Photo_2 下野の三大豪族(宇都宮氏・小山氏・那須氏)の一つ那須氏は上那須、下那須と分裂していた。永正13年(1516)に烏山城主下那須の資房によって統合されることにより、那須氏の下野中央への進出が進む。一方の宇都宮氏においても一族重臣芳賀氏との内訌を抱えながらも勝山城を中心に那須氏への防御を強化していた。

  早乙女坂の合戦の原因として氏家町史では①古河公方足利晴氏の命で宇都宮勢が攻撃を仕掛けた、②宇都宮氏の領土野心、③那須勢の宇都宮領土内への侵入、④宇都宮尚綱に殺害された芳賀高経の養子、高照のため那須氏の挙兵と数説を氏家町史に記載され、合わせて宇都宮氏の内紛が利害関係を結びつけ合って、領土進攻と考えられると記述されている。

Photo_3  合戦は勝山城から出撃した宇都宮尚綱を中心に同族・配下の諸氏や氏家郷の郷士を含めた宇都宮軍二千騎に対して那須軍は参百騎と圧倒的な差で宇都宮勢が優位を占めていた。

  那須勢方の伊王野氏の家臣、鮎ケ瀬弥五郎実光により宇都宮総大将尚綱は射殺され形勢は大逆転し、那須軍の勝利となった。統制が乱れ戦意を失いない敗走する宇都宮勢の中で笠間幹綱の手の満川民部丞が加勢人として敗走したのでは面目がたたないとして踏み留まり、追手の那須勢と戦い、戦死した。『一人当千の侍なりと敵も味方も感心せり』と関八州古戦録に記載されている。那須高資は鮎ケ瀬弥五郎に宇都宮勢を敗走させた戦功として感状と太刀と銭10貫文を与えた。鮎ケ瀬弥五郎はその10貫文の賞金で尚綱討ち死の早乙女坂に五輪塔を建てて敵将の菩提を供養した(氏家町史)。

105  早乙女坂古戦場跡地は『弥五郎殿』と言われている。また石段の右側に松尾弥五郎標柱が建っている。昭和3年に建てられたこの石標の裏面に「敗走する宇都宮勢の中で加勢人の松尾弥五郎が踏み留まって奮戦激闘し、壮烈な戦死を遂げた。合戦後、宇都宮氏は松尾弥五郎博垣の忠死を供養するため永楽銭10貫文を掛けて五輪塔を建立し墳墓とした。それからこの場所を“十貫塚”と呼び、早乙女坂を“弥五郎坂”と改称した」と確認をしなかったが『喜連川町誌』から引用して記述しているという。しかし、松尾弥五郎は架空人物であり、敵地に宇都宮氏が供養塔を建てる筈がない。明治44年編纂の喜連川町誌では早乙女坂合戦の史料を『塩谷記』のみの引用したため誤解を招いたと氏家町史で記述されている。しかし、難病平癒の神とされ民間信仰が盛んになったため「弥五郎殿」と呼ばれるようになったとしている。

  このためなのか「弥五郎坂」はさくら市観光ガイドの載っていない。当初、国道沿いにあると思い早乙女坂を上り、喜連川町に出てしまった。早乙女坂にあるお店に聞いても分らないという返事。古戦場訪問をあきらめ早乙女温泉に入っていくつもりで旧道を昇って行ったら「早乙女坂古戦場の標識」を偶然に見つけた次第。

  五輪塔祠から見る喜連川丘陵はなだらかな斜面となっている。その先に氏家郷が見えて、眺めがよい。那須氏をこの穀倉地帯が欲しかったのかなと思えた。

                              《夢野銀次》

 

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