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固い防御の城-氏家「勝山城」

Photo_14  勝山城は栃木県さくら市氏家(旧氏家町)、JR氏家駅から南へ約2キロの鬼怒川の東岸にある。この勝山城を起点とした宝積寺段丘は鬼怒川左岸に展開し、高根沢町から茨城県下館市までに及ぶ広大な平面が発達している。

 勝山城の城郭は最北端丘陵上にある。城の西側は断崖となり、鬼怒川の川床から10メートルの比高がある。南北420メートル、東西370メートルの鬼怒川の段丘面を天然の要害にした典型的な崖端城(がいだんじょう)となっている。

Katuyama11 略図の本丸左、西側は鬼怒川に面した絶壁で天然の要害となり、略図上の二の丸北郭の本丸側は丘陵先端部を利用して直角状の土塁と空堀をめぐらしている。さらにこの二の丸北郭の北側に北郭と区分する土塁と空堀がある。土塁の高さは城外から2.3メートル、城内から1.5メートルと低いが二重堀と土塁になっており、外側の堀は東に下って、そのまま二の丸東郭に続く通路になっている。

 大手口には平成5年には発掘調査に基づいた橋が復元されている。

Photo_15 大手口は土塁を外側に張り出して櫓台を備えた「横矢掛け」となっている。大手口に入る橋は直線ではなく斜めに建っている。張り出た土塁に面しているため敵が橋を渡り本丸に侵入する時、この土塁・櫓から弓を放てる作りとなっている。この橋の作りを筋交い橋と言い、逆井城の橋と同じ作りとなっている。

 本丸南西部に鍵状の搦め手口(裏口)があり土塁の「折」を見ることが出来る。本丸西側の土塁と堀を経て鬼怒川の絶壁となっている。鬼怒川を見下ろすことになる。ここの本丸西側の堀、昭和50年に土塁が削平され堀が埋められた。さらに削平された所に6層のレジャー施設としての天守閣、その他結婚式場が建てられ勝山城史跡が破壊されていった。

Photo_17 しかし、昭和54年本丸跡のレジャー施設が停止した際に、氏家町として勝山城史跡保存と再建に本格的に乗り出した。本丸跡を取得し発掘調査を重ね、西側の堀の再構築、大手口橋の建設を行い、平成4年5月には博物館「ミュ-ジアム氏家」(現在のさくら市ミュージアム-荒井寛方記念館)を建設する所まできた。民間から公有地として史跡保存への移行は大変なことである。掘り返された本丸西側の土塁と堀は他の堀に比べて綺麗に整地されている。

 大手口前の二の丸東郭は敷地が広い。恐らく出陣前に勢ぞろいする場所だったのかもしれない。さらにその東、二の丸の外堀(今の勝山城公園入り口前の通り)があったが、明治17年に県令三島通庸により陸羽国道に埋められた。勝山城史跡破壊の最初の人である。

Photo_19 勝山城築城の通説では「下野国誌」では宇都宮三代目の領主、宇都宮朝綱が祖父宗円のゆかりの地、勝山の霊場に3男の公頼を送り城を築いたとされている。しかし、近年では「銅版曼荼羅」に「橘公頼」と刻まれていたことから、「今宮祭祀録」から橘氏の系譜を引き継ぎ、宇都宮朝綱の妹との縁組で婿となったのが橘公頼だったのではないかと長嶋元重氏が「勝山城の興亡とその時代」で指摘している。

 長嶋元重によれば、氏家氏の始祖氏家公頼から3代か4代までは今の氏家小学校がある御前城を居城としていて、南北朝動乱のころ、この勝山城に移ってきたと述べている。その理由として鎌倉期と南北朝から戦国期にかけて城の縄張り、構造がまったく違う様相を示しているからだとしている。

Photo_18 当初の武士の館・城は屋敷に堀を廻らし、土塁を備え役所の部分として住んだ所が中心だった。しかし、鎌倉後期から南北朝期の激動の時代を迎え、一重の土塁・堀を二重にしたり、四方形の土塁に「折れ」を加えたり防備を固める城郭へと変化してきていた。天然の地形を利用し、攻めにくいところを選び、防備に有利な地点を選び城を築くようになってきた。氏家4代目の氏家公宗がこの勝山城を築城したとしている。

 勝山城は南北朝期には宇都宮氏綱・芳賀禅可によって南朝の北畠親房の八木岡城や益子城、飛山城攻撃など下野攻略と戦い、さらには足利尊氏・直義兄弟による「観応の擾乱」の戦闘を経て芳賀氏が勝山城の城主となり戦国期を迎える。その間に芳賀氏により強固な防御の城にしたことが推測できる。

Photo_20 宇都宮氏・芳賀氏は宇都宮城を中心とした外枠の城として、壬生城・上三川城・飛山城・勝山城等を配置して、下野の領主(皆川氏・那須氏・小山氏)と戦っている。

 那須氏との攻防では喜連川丘陵を境として勝山城を中心に阿久津城、高根沢城を配していた。拠点としての勝山城はたび重なる攻防の中、落城しなかったとされている。

 二の丸北郭の二重堀と土塁は那須氏との攻防の際に固い防御の役目をしたのかと勝手に推測する。飛山城にも二重堀・土塁があるという。今度行ってみよう。それのしても河川の断崖を活用しての崖端城、多くあるな。思川沿いの小山祇園城、鷲城、鬼怒川沿いの飛山城と勝山城、群馬の利根川沿いの沼田城、名胡桃城等々。

Photo_20 司馬遼太郎の「関ヶ原」の中に桑名城主氏家行広がでてくる。行広は東西の軍にはつかず中立を表明した。しかし関ヶ原の戦い後に改易され、大阪夏の陣で荻野道喜の名で参陣し、秀頼に殉じて自刃している。父は美濃三人衆の一人氏家友国(または直元、卜全)。その祖先は氏家三代経朝の弟仲綱の三男で越中に移住した重定で、その子重国が新田義貞の首級を捕ったことで美濃に入り、名をはせている。

 全国の氏家の名のルーツが、この勝山城にある。

《参考資料》

ミュージアム氏家作成「勝山城~氏家氏栄光の時代~」

氏家町史」

                                 《夢野銀次》

 

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