« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »

2012年11月

ガス給湯器-地下水には弱い

P_kyu_look011_2  先日、北側の壁に設置してあるガス給湯器から水がたれているのを見つけた。急いでLPガス供給会社に連絡し、来て診てもらった。

ガス会社の人が言いました。「給湯器の中にある熱交換器に針ぐらいの穴が開いています。修理会社に連絡し、お宅と修理会社とで修理日や部品と修理代については話しあってください。当社は紹介ということになります」と言った。

 2年前、築11年中古住宅を購入する際、この給湯器を新しく購入した。その契約内容は10年契約で購入費用25万円をそのガス会社が供給するLPガスを使用して償却する無料購入方式。但し、10年未満途中解約の場合、残存価格をガス会社に支払う内容だった。

 
 たった2年での故障なので、補償はないのかと聞いたところ「お宅様の場合、地下水(井戸水)なので対象外なのです」と答え、さらに「この熱交換器は銅版でできているため、地下水に含まれている鉄分に銅は弱いため、すぐに故障しやすいのです」と言ってきた。「新規購入設置の際、一切そういうことは提示していなかったのではないか」と少しムカッとした。

 修理会社と連絡がとれ、3日後に来てガス給湯器の中の熱交換器を取り替え修理を済ませてくれた。修理会社の言うには「ガス給湯器が地下水に弱いことを大抵のガス会社はお客さんに言いませんね。ある会社では地下水のお宅にはガス給湯器を販売しないし、販売してもメンテナンスなど責任をもたいとはっきり言ってますネ。お宅の場合、よく水がたれていることを見つけましたネ。早く見つけたため大きな修理には至らなかったんですよ。この熱交換器を取り替えても、1年~2年で劣化します。1年過ぎたら、注意してガス給湯器を見ていた方がよいですよ」とのアドバイスを受けた。ガス交換器が地下水に弱いことをガス会社から言われていなかったためか、今回は取り替えた熱交換器代はサービス無料にして、出張修理手間代だけにしてくれた。

Gas_top01_041 現在、ほとんどの住宅に公営水道が敷かれている。引っ越しする際に地下水であることを承知していたが、あまり深く考えなかった。仲介した不動産屋は共同して水道管を引くことを勧められたことを思い出した。

  住宅界では床暖房や太陽光を活用しての省エネ住宅が推進されている。しかし、地下水の家では『難しいですね』とその修理会社の人は言った。さらには、購入する際、ガス会社の対応、なんでもガスを使用してもらう考えで、地下水に弱い、故障しやすいことを言わない契約方法は消費者の選択権を奪うことになる。地下水では故障しやすいが利便性を考え購入するとか、地下水でも可能だが音がうるさいけど石油給湯器にするとか、選択検討することを奪っているからだ。こうしたやり方は「いずれ消費者からバッシングを受けるかもしれませんネ」と言って、帰っていった。

 10年間、修理しながら現在のガス給湯器をだましだましで使っていくのか? 残存価格を支払ってガス会社との契約を解除して石油給湯器(20万~30万円)に切り替えるか? 100メートル先に通っている公営水道の本管から自費で給水管を引くか(約200万~300万円)?…。 

 公営水道で生活してきた自分にとり、今回のことで地下水の問題点やリスク等、今改めて提示され、考えさせられてきた。

                            《夢野銀次》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宇都宮八幡山「蒲生神社」-横綱土俵入り

Photo_2 宇都宮県庁の裏にある八幡山。その裾野に蒲生君平を祀る蒲生神社が大正15年に建立されている。

 江戸後期の儒学者・蒲生君平は林子平、高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」(優れた人)で有名でもある。徳川光圀が着手して水戸藩が編纂され続けていた『大日本史』の補完として志(誌・記録・資料)の撰述を進行した。志の中の『山稜志』を文化5年(1808)に出版した。天皇陵の荒廃を嘆き、各地の天皇陵を調査し、山稜の廃城を聖代の一大欠陥として、山稜を後世に残すため出版したと言われている。

Gamou1また『山稜志』の中で『前方後円墳』という名称を初めて使用したことでも有名でもある。前方後円墳の形が牛車に類似していることを指摘しているという。

 蒲生君平の『山稜志』は幕末の宇都宮藩の危機を救った。文久2年(1862)の「坂下門外の変」において大橋訥菴(おおはしとつあん)を始め藩士が安藤信正暗殺に関与されたとして宇都宮藩は窮地にたたされた。しかし、家老の間瀬(戸田)忠至(ただゆき)と中老県信絹(あがたのぶつぐ)は『山稜志』に基づいた御陵修復事業を進めることで幕府の追及をかわした。さらに2年後ので元治元年(1864)の天狗党事件における宇都宮藩の対応の悪さが幕府の怒りを買い、宇都宮藩の領地縮小、藩主戸田家の領地替えなどの命がくだされたが、御陵修復の功績が認められ罰が解かれた。君平の思想が宇都宮藩を救ったといえると、読売新聞まちなか支局で記述されている。

Photo_3 本殿前の右側に初代横綱とされている明石志賀之助の石像と顕彰碑が建てられている。

 石像は平成19年4月に宇都宮の「歴史文化を伝承する市民の会」が日本相撲協会提供の錦絵をもとの実物大(身長221㎝、体重225㎏)の石像を制作し、奉納したと、かたわらの由緒書きに記載されている。その石像の横に「日下開山初代横綱明石志賀之助碑」という顕彰碑が建てられている。深川富岡八幡宮境内に横綱力士碑を建てた12代横綱・陣幕久四朗によるとされている。この顕彰碑は明治33年に宇都宮城本丸の武徳殿わきに建てられていたものが、宇都宮空襲で荒れ果て、土中に埋まっていたのを、市の相撲協会の手で昭和26年に蒲生神社のこの地に移されたと『探訪栃木の名力士』(板橋雄三郎・青柳文男共著・下野新聞社発行)に記述されている。

Photo_4 どうして明石志賀之助の顕彰碑が宇都宮城から蒲生神社に移されたのか?蒲生神社と明石志賀之助とが直接結びつくものは見当たらない。蒲生神社の創建は大正15年。蒲生君平の活躍した年代は18世紀後半。明石志賀之助が大関となり「日下開山」(ひのしたかいざん、天下一の力士)として怪力をたたえられ、徳川家光が称号を与えたのが寛永元年(1624)である。

 蒲生神社の表参道に石の大鳥居がある。神社創建の大正15年に栃木県藤岡町出身の第27代横綱栃木山守也Photo_5が奉納したものである。また境内には土俵が設置しされており、かつては相撲大会が盛んに行なわれていたという。

 『探訪栃木の名力士』では顕彰碑が蒲生神社に移されたのは昭和26年の12月初旬。除幕式には境内の土俵において第41代横綱千代の山が太刀持ち大関栃錦を従え土俵入りを行っていると記述されている。栃木山の養子となった栃錦は第44代横綱を経て栃木山が起こした春日野部屋を継承していく。さらに千代の山と同郷(北海道松前郡福島町)の第58代横綱千代の富士もまた引退前にこの境内にて土俵入りを行っている。

 栃木山による大鳥居の奉納こそが、相撲との縁があるとして、明石志賀之助顕彰碑の移地に結びついていったのだ。そして、蒲生神社には継承者によって横綱の土俵入りが行われている歴史を改めて感じる神社だ。

Photo_6 蒲生神社の裏手には宇都宮タワーが建っている「八幡山公園」がある。

 慶応4年(1868)の4月3日、3万人に膨れ上がった世直し農民一揆勢が八幡山に集結した。一揆勢は宇都宮城下になだれ込もうとしたが、塙田村に待機していた藩兵の銃撃を浴びて白沢宿へ北進、もう一手は鹿沼宿へと分れた。しかし宇都宮藩の容赦ない発砲にあい、死者をだしながら勢力を弱めていったとされている。

Photo_7 徳川幕府崩壊により不安定な権力機構の中、領地に帰る大名藩士の運搬による度重なる助郷と賃銭不払いへの不満、物価引下げ、貧民救済や質地・質物の即時返還などを要求した野州の世直し一揆。安塚村(壬生町)の磐裂根(いわさくね)神社から発生したと言われている世直し一揆勢は4月2日に藩役人の説得を拒否し、雀宮宿本陣や西川田村郷村取締役宅を打ちこわし、4月3日に宇都宮城下、八幡山へと集合していった。藩兵の銃により一揆勢は鎮圧された。しかし、宇都宮藩はこの世直し一揆鎮圧に大きな力を注いだ結果、4月19日土方歳三率いる旧幕府軍によって宇都宮城の落城に直面することになってしまった。

 八幡山宇都宮タワーの展望台から12階建ての宇都宮市役所庁舎を見ることができる。庁舎は領主がいた宇都宮城二の丸跡に建っている。一揆に参加した農民たちは宇都宮城をどういう思いで見たのだろうか。八幡山公園の中にば戊辰・野州世直し一揆の歴史表示標は建っていない。わずかに宇都宮タワーの前に樹齢300年の「クスノキ」が立っており、3万人の一揆勢農民の姿を見ていたと思えた。

                           《夢野銀次》

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »