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宇都宮八幡山「蒲生神社」-横綱土俵入り

Photo_2 宇都宮県庁の裏にある八幡山。その裾野に蒲生君平を祀る蒲生神社が大正15年に建立されている。

 江戸後期の儒学者・蒲生君平は林子平、高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」(優れた人)で有名でもある。徳川光圀が着手して水戸藩が編纂され続けていた『大日本史』の補完として志(誌・記録・資料)の撰述を進行した。志の中の『山稜志』を文化5年(1808)に出版した。天皇陵の荒廃を嘆き、各地の天皇陵を調査し、山稜の廃城を聖代の一大欠陥として、山稜を後世に残すため出版したと言われている。

Gamou1また『山稜志』の中で『前方後円墳』という名称を初めて使用したことでも有名でもある。前方後円墳の形が牛車に類似していることを指摘しているという。

 蒲生君平の『山稜志』は幕末の宇都宮藩の危機を救った。文久2年(1862)の「坂下門外の変」において大橋訥菴(おおはしとつあん)を始め藩士が安藤信正暗殺に関与されたとして宇都宮藩は窮地にたたされた。しかし、家老の間瀬(戸田)忠至(ただゆき)と中老県信絹(あがたのぶつぐ)は『山稜志』に基づいた御陵修復事業を進めることで幕府の追及をかわした。さらに2年後ので元治元年(1864)の天狗党事件における宇都宮藩の対応の悪さが幕府の怒りを買い、宇都宮藩の領地縮小、藩主戸田家の領地替えなどの命がくだされたが、御陵修復の功績が認められ罰が解かれた。君平の思想が宇都宮藩を救ったといえると、読売新聞まちなか支局で記述されている。

Photo_3 本殿前の右側に初代横綱とされている明石志賀之助の石像と顕彰碑が建てられている。

 石像は平成19年4月に宇都宮の「歴史文化を伝承する市民の会」が日本相撲協会提供の錦絵をもとの実物大(身長221㎝、体重225㎏)の石像を制作し、奉納したと、かたわらの由緒書きに記載されている。その石像の横に「日下開山初代横綱明石志賀之助碑」という顕彰碑が建てられている。深川富岡八幡宮境内に横綱力士碑を建てた12代横綱・陣幕久四朗によるとされている。この顕彰碑は明治33年に宇都宮城本丸の武徳殿わきに建てられていたものが、宇都宮空襲で荒れ果て、土中に埋まっていたのを、市の相撲協会の手で昭和26年に蒲生神社のこの地に移されたと『探訪栃木の名力士』(板橋雄三郎・青柳文男共著・下野新聞社発行)に記述されている。

Photo_4 どうして明石志賀之助の顕彰碑が宇都宮城から蒲生神社に移されたのか?蒲生神社と明石志賀之助とが直接結びつくものは見当たらない。蒲生神社の創建は大正15年。蒲生君平の活躍した年代は18世紀後半。明石志賀之助が大関となり「日下開山」(ひのしたかいざん、天下一の力士)として怪力をたたえられ、徳川家光が称号を与えたのが寛永元年(1624)である。

 蒲生神社の表参道に石の大鳥居がある。神社創建の大正15年に栃木県藤岡町出身の第27代横綱栃木山守也Photo_5が奉納したものである。また境内には土俵が設置しされており、かつては相撲大会が盛んに行なわれていたという。

 『探訪栃木の名力士』では顕彰碑が蒲生神社に移されたのは昭和26年の12月初旬。除幕式には境内の土俵において第41代横綱千代の山が太刀持ち大関栃錦を従え土俵入りを行っていると記述されている。栃木山の養子となった栃錦は第44代横綱を経て栃木山が起こした春日野部屋を継承していく。さらに千代の山と同郷(北海道松前郡福島町)の第58代横綱千代の富士もまた引退前にこの境内にて土俵入りを行っている。

 栃木山による大鳥居の奉納こそが、相撲との縁があるとして、明石志賀之助顕彰碑の移地に結びついていったのだ。そして、蒲生神社には継承者によって横綱の土俵入りが行われている歴史を改めて感じる神社だ。

Photo_6 蒲生神社の裏手には宇都宮タワーが建っている「八幡山公園」がある。

 慶応4年(1868)の4月3日、3万人に膨れ上がった世直し農民一揆勢が八幡山に集結した。一揆勢は宇都宮城下になだれ込もうとしたが、塙田村に待機していた藩兵の銃撃を浴びて白沢宿へ北進、もう一手は鹿沼宿へと分れた。しかし宇都宮藩の容赦ない発砲にあい、死者をだしながら勢力を弱めていったとされている。

Photo_7 徳川幕府崩壊により不安定な権力機構の中、領地に帰る大名藩士の運搬による度重なる助郷と賃銭不払いへの不満、物価引下げ、貧民救済や質地・質物の即時返還などを要求した野州の世直し一揆。安塚村(壬生町)の磐裂根(いわさくね)神社から発生したと言われている世直し一揆勢は4月2日に藩役人の説得を拒否し、雀宮宿本陣や西川田村郷村取締役宅を打ちこわし、4月3日に宇都宮城下、八幡山へと集合していった。藩兵の銃により一揆勢は鎮圧された。しかし、宇都宮藩はこの世直し一揆鎮圧に大きな力を注いだ結果、4月19日土方歳三率いる旧幕府軍によって宇都宮城の落城に直面することになってしまった。

 八幡山宇都宮タワーの展望台から12階建ての宇都宮市役所庁舎を見ることができる。庁舎は領主がいた宇都宮城二の丸跡に建っている。一揆に参加した農民たちは宇都宮城をどういう思いで見たのだろうか。八幡山公園の中にば戊辰・野州世直し一揆の歴史表示標は建っていない。わずかに宇都宮タワーの前に樹齢300年の「クスノキ」が立っており、3万人の一揆勢農民の姿を見ていたと思えた。

                           《夢野銀次》

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